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おはなし



「たまきちにお願いがあります」
たまきちて。誰だ。というか、そもそも、新城さんのお願いに付き合ってろくなことがあった試しがない。しかも、「町田侑哉」じゃなくて「立川環生」に頼む時は、尚更。一応、町田くんに何のご用ですか?とかわいこぶって聞き直してみたのだけれど、中原新くんのお友だちの立川環生くんに用があるんですけど受付こちらで合ってます?とご丁寧に問いかけ直されただけだった。逃げ場なし。
「なんすか?」
「中原くんの生存確認と健康維持に付き合ってください」
「……はい?」

新城さんは、泊まりで一週間、海外撮影。いいなあ、俺もそういう、お金と時間をかけても構わないとされるレベルの俳優になりたい。しかも、自宅をそんなに長く空けたくない、とごねて、かなり期間を短縮してもらっての一週間らしい。なんせ、あの大御所監督から直々に、こいつが主演じゃないと撮らない、と指名されたもんだから、そのぐらいの我儘言ってもいいでしょ、と新城さんは悪びれていなかった。そういうところ、流石だなあと思うし、素直にすごいと尊敬できるし、憧れる。俺も、オファーはじわじわ増えてるけど、新城さんほど引っ張りだこじゃない。俺の後続の特撮俳優に一人すごいのがいて、そいつは今じゃ毎日のようにテレビで顔を見る。俺もそうなりたかったな。そうなるつもりで、そうなってやる!って、今頑張ってるけど。
だから、その一週間、毎日じゃなくて俺の都合がつく日だけ、一日でもいいから、中原さんの顔を見に行ってくれないか、と。「そりゃまあね?いつでも見てるしいつでも聞いてるけど、こっちから声をかけるには電話とかする必要があるわけじゃない。でもさほら、電話って出るかどうかの選択権が中原くん側にあるから、もしも万が一出ない選択をされたら、ていうかそうなる予感しかしないけど、とにかくそうなると俺からは打つ手がなくなってしまうわけでしょ?しかも海外だからそうそう帰れないしさ、中原くんってば変な時にタイミング悪く変な弱り方してそのままマイナス思考を爆発させかねないから、だからなんていうかなー、一人で置いてくのがもう心配でしょうがないわけよ!」なんて、長々と説明されて、お願い、と手を合わせられて、頷かないで切り捨てることは、俺にはできなかった。スケジュールを合わせられそうなのは、新城さんが行ってから一日後と、五日後。一日後なんか、全然まだ元気なんじゃないかと思うけど、毎回嬉しそうな顔で俺のお土産を受け取ってくれる中原さんが思い浮かんで、友達に会いにいくだけだから、と行くことにした。
ちなみに、今日出国予定の新城さんと俺の最後の会話は、
「中原くんと仲良くしてもいいけど一線越えるなら俺が帰ってきてからにしてね」
「越えねーよ!」
だった。身も蓋もない。

次の日。雑誌の撮影が入っていて、中原さんに連絡を取れたのは夕方だった。前もって、今日行くことは伝えてある。今日行った様子で、2回目の約束をしようかな、と思って。今仕事終わりました、なにか買って行きましょうか、とメッセージを飛ばせば、だいじょぶ、と親指を立てたアヒルのスタンプが返ってきた。実はこれ、新城さんが主演演った映画の、原作の人気キャラクターなのである。以前気づいて、そうですよね!と何の考えもなく指摘したところ、真っ赤になって黙り込まれたのをよく覚えている。しばらくの沈黙の後、新城には言うなよ、と眉を下げて恥ずかしそうに言われたので、これは俺と中原さんの秘密だ。新城さん相手でこのスタンプは絶対に使わないらしい。確かに新城さんからも、中原くんってばいっつもデフォルトで入ってるスタンプしか送ってきてくんないの、しかもクマとウサギが喧嘩してるやつばっかり!と口を尖らされたことがあるので、今のところこの秘密は守られたままだ。
車を駐車場に入れて、お土産に買ってきたパンを抱える。前にバラエティ出た時、景品になってて美味しかったお店のやつ。中原さん、苦手なものとかあったかな。そういえばそういう話はしたことがなかった。インターホンで鍵を開けてもらって、コンシェルジュ、だっけ、お姉さんに笑顔で頭を下げて、エレベーターに乗り込む。この家に来たことは何回かあるけれど、他の住人に出会ったことは一度もない。
「こんばんは!おじゃまします」
「おー、なにそれ」
「パンっす!」
「町田のおすすめ美味いから」
楽しみだ、と笑った中原さんは、普段通りに見えた。俺のこと、町田と呼ぶ時の中原さんだ。環生と呼ばれる時となにが違うのか今度聞いてみたい。どちらにしろ、友人であることには変わりないと思うのだけれど。
リビングに入ると、なおー、と変な鳴き声がして、警戒されてるっぽかった。中原さんの方に俊敏に走って行った影に、中原さんが話しかけてる。
「ぶち、町田だよ」
「ぶちちゃん、お久しぶりっす!」
「10分もしたら思い出すだろ」
「避けられると毎回傷つくんすよねー」
「新城なんかただいまの度にタックルされて噛まれてるぞ」
「……嫌われてるんすかね?」
「嫌われてるんだろうな」
中原さんの言う通り、10分かそこらで、声を思い出したのか匂いを思い出したのか、ぶちちゃんは俺の膝の上に飛び乗って来てくれた。ふわふわの身体を撫でると、くるくると喉が鳴って、気持ち良さそう。晩飯食べました?と聞けば、まだ、とのことだったので、試しに誘ってみた。
「どこか食べに行きません?」
「え、でも、俺と一緒じゃ、迷惑だろ」
「なにがすか?」
「……ほら、ファンの人とか?いるんじゃないの。俺みたいのといても、あれだし」
「ファンの人は、俺しか見てねーすよ!それに中原さんといるとこ、見られて恥ずかしいもんじゃないでしょ」
「恥ずかしいだろ、無職ヒモ男……」
「無職ヒモ男って外からはわかんないんで平気じゃないすかね」
「……そうだけど」
でも、パンも買って来てくれたし、今日お前が来ることは新城も知ってたからなんか作り置きして行ってくれたし、とまだ言い訳している中原さんに、パンは明日の朝食べればいいし余ったら冷凍庫に突っ込んとけば当分持つ、作り置きしてくれたのは有り難いけどそれは中原さんが食べてください、と一つずつ可能性を潰していけば、最後にもう一度重ねるように、困った顔で呟かれた。
「……俺と一緒で嫌じゃないのか」
「卑屈!行きたいっつってんのはこっちなんすけど!」
外なんて久しぶりに出る、とおろおろしていた中原さんが着替えている間、ぶちちゃんと一緒に待つ。外出るの、久しぶりなんだ。俺が前に服見るのに誘った時も、すごい楽しみにしてたらしいし、人が多い店の前を通った時には、はああ、と気圧されていた。俺と初めて会った日のしばらく前まで、普通に大学出て働いてたって聞いたけど、なんかあったのかなあ。なんかあったんだろうなあ、いろいろ。人の目を気にしてしまうようなことが。有り体な言い方をするなら、外に出たいと積極的には思わないトラウマのようなものが。着替えをしているはずの中原さんが呼ぶ声がして、はあい、と返事をしたものの、もう一度呼ばれたので、そっちに行く。ぶちちゃんの方が素早くて、1回目の呼び声で走って行った。町田、って呼んだんすよ!ぶち、って呼んでねーでしょ!とぶちちゃんを抱き上げると、不満そうに逃げられた。
「町田……」
「はいはい?」
「……何着て行ったらいい……?」
「なんでもいいすよ」
「スーツ……」
「どんなとこに飯食いに行くつもりすか!?俺そんな金持ってない!」
「俺もない」
「なんでもいーんすよ!ちょっと見して!あ、このブランド俺好きなんすよー、昔の限定品ですよね!今もう売ってないやつ」
「あ、ああ、それは、大学生の時に買った古いので」
「これ着てください」
「……これえ……?」
俺が家に遊びに来る時は、ぶかぶかのTシャツに緩いスウェット姿を見ることのほうが多いから、外に出る格好をしている中原さんは俺の中ではレアだ。これでいいのか、と戸惑う中原さんには、黒のサルエルに俺が着て欲しいと頼んだシャツ、ちょっとぱっとしなかったからその辺に引っかかってた帽子を被せてみた。これは新城のやつだから、と帽子を取ろうとした中原さんを押さえれば、いやだー、と抵抗したものの、非力なのですぐぜえぜえ言って力尽きた。
「中原さん、若返りましたよ!」
「若返らんでいい……」
「さ!行きましょ!ぶちちゃん、お留守番よろしく!」
「な、なに、どこ行くんだ、財布、携帯」
「ここの近くに、美味しいイタリアンができたんすよー」

「うまかった」
「ね。新城さんにも教えたげてくださいね」
「うん……ありがとう」
「写真撮って送っちゃおー」
店内は賑わっていて、俺のことを知ってくれている人も何人かいて、握手したり、ちょっとお話ししたりした。中原さんはずっと縮こまってたけど、彼について言及する人は誰もいなかったので、途中から少しずつ気が緩んだようだった。写真はやめてねってマネージャーさんに言われてて、とお願いしたけど、隠し撮りはされてると思う。しゃーない。店を出てマンションに戻る道すがら、新城さんに送るように自撮りをしようとしたら、中原さんが恥ずかしがって逃げた。ので、追いかけて捕まえた。
「写真は嫌だ!」
「なんで!新城さん喜びますよ!」
「じゃあ帽子とる!」
「それを被ってるから送るんでしょうが!」
「だからやだっつってるだろ!」
写真は撮ったし送った。時差とかあるはずだけど、新城さんからはマッハで返信がきた。大喜び。
次に来られる日のことを中原さんに教えて、来ても良いすか、と聞けば、いいけどなんでだ、暇なのか?と不思議そうな顔をされた。暇ではない。しかし、新城さんに監視を頼まれたからとは言えない。新城さんがいない間じゃないと中原さんだけとは会えないから、と我ながら苦しい理由をつければ、怒ってるのと困ってるのの間みたいな顔の中原さんが、耳まで赤くなって言った。
「……お前、そういうこと、誰でも彼でも言ってると、ろくな目に遭わないぞ」
「なんすか?」
「たらし男」
「ええ!?そんなつもりじゃねえんすけど!女の子にはもっと上手に口説きます!」
「そうじゃねーよ!」
ばいばい、と手を振った中原さんがまだ赤さの引かない頰で、「また来てくれるの、待ってるから」と小さく付け足したのの方が、そういうこと誰でも彼でも言わないほうがいいと思うんすよ、俺は。

四日後。今日はオフの日だ。だから中原さんのところに行けるんだけど、今度出るバラエティのアンケートを書いたり、家の掃除をしたり、掃除してたら興が乗ってきて布団にレイコップをかけたりしていたら、いつのまにか昼過ぎだった。やべ。俺の時間感覚が適当なことを知っている中原さんからは、暇になったら来ればいいよ、どうせずっとうちにいるし、と言われている。明日の撮影早いから、早く行ってゆっくりして、夜には帰ってこないと。今日も夜ご飯どこかに食べに行っちゃおうかなあ、とスマホで気になっていたお店を検索しながら、服を選ぶ。外は雨だ。車だから特に関係ないけど。今から行きますね、と連絡すると、既読はついたけど返事がこなかった。スタンプすらこないのは珍しい。忙しいのかな?
中原さんの家に向かう途中、雨がどんどん強くなって来た。こりゃ外に食べに行くのも大変だな、と思いながら車を走らせる。マンションの駐車場が地下で助かった。運良くほぼ濡れずに辿り着いたインターホンの前で、部屋番号を押す。かたりとマイクが外された音に、口を開く。
「こんにちは!町田っす!」
『……入っていいよ』
「はい!」
ういーん、と自動ドアが開く。元気なさそうな声だった。今日は雨がすごかったから、お土産用意できなかったな。こないだ買って行ったパン、どれがおいしかったか聞いて、今度それと同じものを買ってこよう。今日はなんにもないから、そうだな、お掃除でもお手伝いしようかな。そんなことを考えていたら、なんかちょっと楽しくて、部屋の前に着くまで浮き足がちに歩く。ピンポンを押すと、鍵の開く音。
「おっじゃましまー、す」
「おー。雨すごいな」
「あ、はい」
「……?」
「……中原さん?」
「あ?」
「……あ、や、なんでもないす……」
入れよ、と身を引かれて、はい、と答える。笑顔が凍るのが自分でも分かった。新城さんにお願いされたのは、生存確認と、健康維持。後ろに関して、俺は失敗した。
「……中原さん、すげークマ」
「んー?そうかな」
「寝てます?」
「寝てるよ。寝なきゃ死んじゃうだろ」
「ご飯は?」
「食ってる。新城みたいなこと言うんだな、お前」
「なに食べてるんですか?」
「……てきとーに」
「ぶちちゃんは?」
「いるよ。ぶち、環生が来たぞ」
ああ。俺のことを、環生、と呼ぶ中原さんだ。なお、と低く鳴いたぶちちゃんが、俺を避けるように中原さんに擦り寄った。うまくそれを避けた中原さんが、なんか飲むか、と台所へ行った。目の下のクマと、掠れた声。どろんとした瞳と、煙草の匂い。たった数日でここまで変わるか、と疑わしくなるほど、四日前の彼とは別人みたいだった。コーヒーがある、あと冷たいお茶も、と振り向かれて、そのまま倒れる未来が見えた気がして、ぞっとした。
「お茶で、あの、俺やるんで」
「は?お客さんだろ、なに言ってんだよ……」
「中原さん、座りましょ?ねっ」
「なんだよ。どうした」
掴んだ手首は冷たくて細くて、素直に、嫌だった。なんなんだ、と嫌そうな声を上げながらも俺に押されるがままソファーに座った中原さんが、なにかあるのか、と俺を見た。なにもないけど、なにもないのにそんなんなっちゃう中原さんが、ただ心配なだけで。今更やっと新城さんが言った「心配」の意味が分かった。多分、中原さんは、新城さんがいなくちゃだめなんだ。ご飯だって、食べてるって言ったけど、新城さんの作り置きにも限界はあるし、一人で外に出て何か食べに行く中原さんは想像できない。このマンションの下にはコンビニがついてるけど、コンビニのご飯でもいいから三食きちんと取ってるとは思えない。お茶をいれるために台所をざっくり見回したところ、ゴミ捨てはしてるっぽいけど、掃除はしてないみたい。いろいろ覗いちゃ悪いとは思ったけど、トイレ借りますから!と脱衣所の方を覗きに行って、洗濯機いっぱいの洗濯物を発見した。毎日着替えはしてる、ってことでいいのかな。カモフラージュにトイレの水を流して戻ると、目を伏せてぶちちゃんを撫でていた中原さんが、顔を上げた。よく考えたら、この部屋、電気も付いてない。雨が降りしきる外からの明かりだけじゃ、薄暗いのに。
「ばたばたして。腹でも痛い?」
「いえ……中原さん、あの……」
「んー?」
「……なに、してましたか?」
「なにって」
「あ、や、今日雨だし?暇してたかなーって、俺もっと早く来たら良かったすね!」
「うーん、別に。一人、慣れてるし」
嘘つき。そんなわけないのに。嘘をつくなら、もっと信じられる嘘をついて欲しい。そうじゃないと、ただ痛々しいだけだ。テレビ見たり、ゲームしたり、携帯いじったり、昼寝したりしてると、一日って終わるよ。そう薄く答えた中原さんに、それは一日を終わらせるための手段だろう、と思う。俺に気づいたぶちちゃんが、のそのそとこっちに来る。ソファーに座った俺の腿の上で丸くなったぶちちゃんを見た中原さんが、すい、と目線を逸らして、ちょっと待ってて、と窓の方へ近づく。
「とっ、まっ、飛び降りないでくださいよ!」
「は?」
煙草吸いたいんだけど。呆れた顔でそう言われて、焦りに焦った俺を少し笑った中原さんに、ちょっと安心した。まだ、笑ってくれる。ていうか、俺の前で普通に煙草吸うんだ。新城さんには秘密、なことを新城さんは知ってるみたいだったけど。試しに、煙草吸うんですね、と声をかければ、吸うよ、あいつに言うなよ、と窓の外から返事が聞こえた。吹き込んだ風に、カーテンがふわふわと舞う。左手に引っ掛けた一本が、ちりちりと燃える。ぶちちゃんがいるので、俺は立てない。ベランダの柵に背中を預ける中原さんは、そのまま仰け反ったら落ちそうで、ひやひやする。
「煙草嫌だった?」
「あ、そういうわけじゃ。俺も時々、吸いますし」
「そうなんだ。へー、環生吸うんだ……」
「なんすか」
「……イメージない。みんなのヒーローは煙草なんか吸っちゃだめだろ」
「あー、特撮やってる間は出てる俳優全員、煙草とかお酒とか女絡みとか、オールNGすけどね。終わったら別に、まあ」
「ふーん」
とっても全然めちゃくちゃに興味なさそう。ここにいるのは俺じゃなくても良さそう。なんならぶちちゃんでも良さそう。なんだかそれはすごく腹が立って、むしゃくしゃした。俺の気持ちを察したのか、ぶちちゃんがぴょこりと飛び降りて、中原さんが着てるのを見たことあるジャージに潜り込んで、静かになった。ずかずかと中原さんの隣に立てば、雨だぞ、とだけ言われた。うるせー、知っとるわ。
「一本ください」
「やだわ」
「なんでっすか!ケチ!」
「未来ある若者を早死にさせるわけには」
「寄越せっつってんの!」
「俺のだ。やらねーよ」
「中原さんのケチ!不健康!」
「はいはい」
「ああ!もう!」
引ったくってやろうと手を伸ばす。あー、と腑抜けた声が上がって、彼の左手から煙草が落ちた。遠くの地面に落ちていくそれを追いかけるように、俺から逃げるように、体を動かした中原さんの手首を掴んで、ベランダの柵に押し付ける。薄い身体。乾いた唇。仰け反ったら落ちる、と思っていたのに、それをさせているのは自分だ。俺に手首を捉えられている彼は、爪先だけ床につけて、頭はベランダの外にあった。ぱたりと額に降ってきた雨に、少し嫌そうな顔をした中原さんが、俺を見る。
「なにすんだ」
「……新城さんに連絡とりました?」
「取ってない。なんで?仕事なんだから、邪魔しちゃだめだろ」
「連絡すればいいじゃないですか。新城さん喜びますよ」
「だから」
「我慢してんのって、そんっなかっこいいんすか!?寂しいなら、寂しいって言えばいいじゃないすか!一人で全部抱えないで、俺だって呼んでくれたらいつだって来るし、新城さんはそういうことを俺に任せてくれたのに、中原さんのせいだ!」
「……お前のせいじゃないよ。我慢すんの、かっこいいだろ」
みんなの邪魔をしないことくらいしか俺にはできないんだよ。そう、淡々と言われて、中原さんの顔に降る雨に、こういう時には泣かないんだな、とぼんやり思った。新城さんがいない時の彼は、感情のスイッチが切れているのかもしれない。俺に向かって、あんなに怒ってくれたのに。そんな貴方が自分を友人だと思ってくれたことが、誇らしくてたまらなかったのに。
細い手首を離して、中原さんの足がきちんと床につくまで、支える。痛かっただろー、と、怒った口調で怒らずに零した中原さんに、その場にへたり込んだ。俺の頭を撫でて、頰をなぞって、ぺたりと遠ざかった足音。中原さんの左手は、煙草の匂いがした。
「環生。おいで」
「いやです……帰ります」
「帰んなよ。来たばっかだろ」
「我儘無職ヒモ男……」
「融合させるな。惨めだから」
おいでおいで、と手招かれて、中原さんの座るソファーに戻る。隣に座ると、引っ張られて膝に頭を乗せられた。よーしよし。猫にするように撫でられて、そういうことはぶちちゃんにしたらどうですか、と細く告げる。雨の音がうるさい。かりかりと顎の下を撫でられて、くすぐったかった。しばらく俺を撫で回して満足したらしい中原さんが、やっと口を開く。
「新城は、新しいペットだって環生をくれたんだけど」
「……は?」
「環生だから、タマだな。ぶちの仲間」
「……………」
恐る恐る中原さんの顔を見上げた。そうじゃないのか?と問いかけられて、感情のない死んだ目に、声が出なかった。「立川環生をあげる」は、そういうことだったわけだ。呼び名の使い分けは、人間の友達か、猫に近い何かか、の違いだった。ぶちちゃんにもしょっちゅう話しかけてる中原さんだから、猫のぶちちゃんを猫扱いしないで一緒に住んでる相手として尊重している彼だから、気づけなかった。町田侑哉は人間の友達で、立川環生は猫的な何か。頭がおかしい。狂ってる。それを決めて俺を中原さんに渡した新城さんが、冗談のつもりだったか本気だったか分からないけど、なにも疑わずに受け入れてしまった中原さんは、確実におかしい。にゃあお、と鳴いた声がして、布の隙間からぶちちゃんが俺を見ていた。
「……中原さん」
「ん?」
あ、喋っては、くれるんだ。何を言っていいか分からなくて、お腹が空きましたね、と特に空腹でもないのに言えば、お前いつも腹減ってんな、と呆れられた。腹が減ったなら猫缶を食えとか言われなくて良かった。一つずつ、安心を拾っていく。環生のままで、環生だから、中原さんにできることがあるかもしれない。ざあざあと降りしきる雨の音に負けないように、口を開いた。
「中原さん」
「なに」
「俺、なにに見えてますか……?」
「環生は環生だよ」
それはきっと、俺がずっと、誰でもいいから誰かに、言って欲しかった言葉だった。

それから。
「帰っちゃうのか?」
「……………」
「……?」
「……そういうところなんじゃないすか?」
駄目なところは。
なんてやりとりがその日の夜にあり、俺は中原さんの家に泊まった。寝室は恐ろしいほどぐちゃぐちゃだったので、片付けさせてもらった。散らばっている殆どの服が新城さんのものらしい。中原さんからの自白だ。次の日の朝、そこから仕事に行って、心配だったから中原さんの家に寄ったら、また帰れなくなった。前日夜のやりとり、再び。流される自分も自分だが、だからそういうところだよ!中原新!と叫び散らす新城さんが思い浮かんで、分かります、と深く頷いた。
新城さんが帰って来るのは、昼過ぎの飛行機。お出迎えに行かないんですか、と中原さんに聞けば、一人で行くのは怖い、だそうで。俺もその時間は仕事だから付き合うのは無理そうだと話せば、しゅんとされた。ものすごく後ろ髪を引かれる。家で待ってるから大丈夫だと気を遣ってへらへらされたのもかなり心に来た。しかし仕事は仕事だ。周りの人に迷惑をかけるわけには行かない。それに、自分だって絶対ものにしたい仕事でもあるのだ。新城さんと初めて共演した刑事ドラマ、映画化で続編が決まってて、シーズン2もほぼ内定してるんだけど、それのスピンオフを、俺主演で撮ってくれることになったのだ。動画配信サイトの限定公開で、俺のキャラクターを気に入ってくれた人も多かったからこそ成立した企画。俺も楽しみだし、ファンの人も楽しみにしてくれてる。絶対、良いものにしたい。次につなげたい。そりゃ、中原さんを置いていくのは気がひけるけどさ。
今度は新城さんも一緒にまたあのイタリアンに食べに行きましょうね、と約束して、玄関口で手を振る中原さんとさよならした。寂しそう。寂しい、とは最後まで言わなかったけれど。車を出して、信号待ちをしている間に後ろを確認したら、ベランダで煙草に火をつけた中原さんの姿が目に入った。きっとあれが最後の一本だ。新城が帰って来るまでに風呂入って片付けしてみんな無かったことにしないと、って昨日の夜言ってたから。
「おはようございます!お願いします!」
「あ。町田くん」
「っす!今日はよろしくおねが、」
今日の撮影ねえ、中止になっちゃったんだよ。ごめんね。企画自体中止になったから、今後お願いしてたところもみんな撮影できなくなったんだ。ごめんね。せっかく来てもらったのに。また機会があったら、よろしく頼むよ。
「……ぇ」
「町田くん?」
「……ぇあ、はい、ぁ、そうすか、そ、うですか……」
そんな言葉で、俺の仕事は掻き消えた。理由、そういえば、頭真っ白になっちゃって、聞いてなかったや。マネージャーに謝られたけれど、彼が悪いわけでもない。じゃあスタッフさんが悪いのかって、そういうわけでもない。自分が悪いわけでもない、と、思いたい。今月の中でかなり幅をきかせてたはずが一瞬でぶっ飛んだ予定に、ふらふらと楽屋へ足を運ぶ。楽屋に行く前にとりあえず取り急ぎ、と挨拶に行って、良かったのかもしれない。楽屋で準備万端にしてから中止の事実を知ったら、もっとダメージ食らってたかも。それに、楽屋が用意されてるってことは、直前まで決行するつもりだったってことだし。理由、ちゃんと聞いとけば良かったなあ。凍りついて機能停止しかけた頭が、少しずつ動き出す。そういうこともある。仕方ない。けど、仕方なくても、悔しい。企画中止、かあ。じわじわと込み上げてくる感情の塊を、一度だけ強く足を踏み鳴らして、逃したつもりになった。
「町田さん、入っていいですか」
「ぁ、すい、ません。あの、俺、帰ります」
「違うんです。ごめんなさい、自分がきちんと連絡していたら」
「謝らないでください、あの、……俺、次の仕事は、がんばりますから……」
マネージャーさんがもう一度謝りに来て、帰りますから、一人で帰れますから、と急いで荷物をまとめた。顔が熱くて、涙が出そうだった。俺がぼんやりしていて聞いていなかった、企画中止の理由は、主演女優が今朝当て逃げをしたことだった。そんなことで、俺の仕事。せっかく、必死になって挑んだオーディションで勝ち取った役だったのに。みんなが楽しみにしてくれてたのに。これをがんばって、評判が上がったら、新城さんたちが出る映画だって、きっともっと話題になって、みんなで笑えたかもしれないのに。車に向かう足がどんどん早くなって、最後には走っていた。一人になるまで、我慢しなくちゃだめだ。泣くのも、怒るのも、全部。
我慢するの、かっこいいだろ。そう言って俺を撫でた手がフラッシュバックして、ハンドルを切る。ああ、かっこいいよ。けど、それはすごく悲しいことだ。少なくとも俺はそう思う。だから俺は、我慢したくない。だから。
「……忘れ物?」
ここにとんぼ返りしてしまったのは、甘やかしてもらうためだ。シャワーを浴びていたところなのか、目を丸くして、ぱたぱたと髪から雫を滴らせながら玄関を開けた中原さんに、飛びついた。
「うわ!なに!重っ、なんだよ!」
「中原さん、おれ、うう、俺」
「なに、泣いて、どうした?誰かにいじめられたのか」
「呼んでください、」
俺の名前を呼んでください。そう、縋りながら叫べば、戸惑いながらも俺の頭に手を乗せた中原さんは、口を開いた。
「……たまき。泣いてもいいよ」

「というわけで、仕事飛びました。お金ください、金持ちさん」
「せめて新城さんと呼べよ」
現在地、新城さんと中原さんの家。中原さんは寝てる。新城さんと俺で、お酒引っ掛けながら報告会中である。
あれから、ぐずぐずだった俺をなんとか宥めてくれた中原さんは、新城が帰ってくるのを一緒に待っててくれるか、と俺に気を遣って言ってくれて、それならばと俺は中原さんを空港へ連れ出した。じっとしていたくなかった、というのもある。ロビーは嫌だ、新城に迷惑だ、と小さく零した中原さんを尊重して、駐車場で待つことにした。車を停めてある位置は、新城さんのマネージャーさんに聞いた。新城さんには秘密にして、びっくりさせたくて。
『……な、ぇ、なかはらくん?』
『……環生が、連れて来てくれて……』
自動ドアが開いて、車の方を見た新城さんは、中原さんが車の横に立っているのを見て、唖然と口を開けて、立ち止まってしまった。後ろからマネージャーさんにどつかれている。こっちもこっちで、とんちんかんなことを言う中原さんに、他に言うことあるでしょうが、と脇を突つく。やめろやめろ、と身をよじった中原さんの横にいる俺に気づいた新城さんが、こっちに声をかけてくれようとするので、いいから早く行けと中原さんの背中を突き飛ばす。押されるがまま、とたとたと数歩駆けた中原さんが、新城さんの真ん前にたどり着いて、押された勢いのまま、言葉を零した。
『ぉ、おかえり、っ』
ただいま、と中原さんを抱え上げた新城さんの笑顔ったら、なにが最優秀主演男優賞の最有力候補だ、ただの若い男じゃないか、って感じだった。真っ赤っかになってされるがままの中原さんが、糸が切れたのかなんなのか、降ろされると同時に腰を抜かして立てなくなり、パニックでぼろぼろ泣くので、車に積み込むのが大変だった。いっぱい笑った。まるでそこが天国みたいだった。
それから、家まで帰って来て、マネージャーさんと少しだけ打ち合わせをした新城さんが、俺へのお礼にとデリバリーをいくつか頼んでくれて、そのままの流れでお帰りなさいパーティーになった。俺は邪魔だろうと思って、途中何回か帰ろうとしたんだけど、中原さんが帰してくれなかった。今日も泊まっていけばいい、と蕩けた声で言われて、「今日、も?」と新城さんがホラー映画みたいな角度で首を捻ったのが一番怖かった。そして、そんなこんなしてるうちに中原さんが寝てしまい、その横でぶちちゃんが丸くなり、今日あったことを俺が新城さんに報告している次第である。
「そっかー。スピンオフ、なくなっちゃったんだね」
「でも、余島さん、スピンオフのヒロインってことだったんで。映画とか、シーズン2の方には影響ないだろうって、さっき連絡きました。だから、無くなったのはスピンオフだけで」
「町田くんの話だったのに。見たかったなあ」
「……みんなが楽しみにしてるのは、ほら、メインは、新城さんと中野さんのバディーじゃないすか。俺は、」
「俺は、なに?」
「……俺は……」
「悔しがっていいのに。あの女のせいで、ぐらい言っても、君なら許されると思うよ?少なくとも俺個人としては、町田くんのキャラクターのスピンオフが見たかったし。なんならここで寝てるこの人なんか、発表があった段階でスピンオフ配信してくれるサイトに勝手に登録してた」
「ええ!?」
「そうだよ?観たい人って、そんなもんだよ。現に、スピンオフの話が出てから、あの配信サイト、登録者数うなぎ登りだしね」
「……できなくて、申し訳ない……」
「大丈夫大丈夫。脚本組み直してやればいいじゃないの」
「え、でも、無くなったんですよ、企画中止って」
「今回はね」
またの機会があったら、って監督に言われたんだろ?そしたら、それはそういうことだよ。君のことをポイ捨てなんて、勿体無さ過ぎて誰もしない。そう、当然のように言われて、中原さんに拭ってもらって我慢し切ったはずの涙が、また溢れた。泣くなよ少年、と俺の頭を紙の筒で叩いた新城さんが、それをそのまま俺に渡した。
「ぅゔ、なんすか、ごれ」
「台本。今日まで撮ってたやつの演出家さんの来季のドラマ。あげる」
「おーでぃしょんすか……?」
「主演」
「しゅえ……主演!?」
「あげる」
「なんで!?」
「俺もらったんだけど、この時期もう仕事入ってんの。一番近い撮影で、早められるならできるだけ早く、もう来週からとかでも撮り始めたいって。良い人いない?って言われたから君の名前を出したら、これ渡して呼んでみて、だって」
「ぇ、え、っ、え、ドラマすか」
「連ドラ。水10」
「ひっ、俺そんな枠やったことない!」
「面白いストーリーだよ。主人公は旅人、人間より長生きな生き物で、いろんな時代と国を旅してる。一話完結、でも一時間で収まりきるような話じゃないから、補完編もつけたいって」
「待っ、俺、スケジュール見ないと」
「飛んだんだろ?仕事」
「そ、……そうだった……」
「ちなみに、補完は動画配信。君がやるはずだった、スピンオフを流す予定だったサイト」
「……………」
「ファンの人も喜ぶ。君は仕事が増える。俺も町田くんならこの役をあげたい。どう?」
「……やりだいぇす……」
「泣くなって。中原くんか、君は」

「で?今日「も」っていうのは、どういうことなの?」
「うわ覚えてた……」
「一線を越えてしまったの!?俺がいるときにしてっつったのに!?」
「越えてねーよ!俺と中原さんのことなんだと思ってんすか!?」
「子犬のじゃれあい……」
「……ああ、子犬の……こいぬの、じゃれあい……!?」

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