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No one matters but you





んん、んぐ、と呻く声がする。自分の声だ。社員証を見せられて、完全に油断して、車に乗ってしまった俺がいけないのか。きつく目隠しをされて、口にテープを貼られて、手首と足首もぐるぐる巻きにされた。どうしよう。どうしたらいい。だらだらと汗が滴り落ちて、時折車が揺れるたびに、必要以上に肩を揺らしてしまう。このまま死ぬのかな。俺、なんで、なんにもしてないのに。とっくに涙が止まらなくなってるけど、目隠しが冷たくなっていくだけだった。こわい。無言になった運転席の男は、本当に春日井という男なのだろうか。そもそもその人を見たこともないし、そういえばどうして家の場所を知ってたんだろう。がたん、と車が揺れて、曲がったのか、ずるずると体が傾ぐ。拘束された時点で後部座席に放り投げられた体が、ドアにごつりと当たって止まった。荷物みたいだ。心臓が止まったら、ただの荷物になるのかもしれない。鼻水と汗でぐずぐずの顔をどうにかしたくて、シートに顔を擦り付ける。助けて、だれか、新城、助けて。後ろ手にぐるぐる巻きにされた手首を捻ると、ズボンの後ろのポケットに入れていた携帯に手が触れた。なんとかして連絡を、と思って。
でも、この人が、新城になにかしようとしている人なら。新城がもし万が一助けに来てしまったら、この人の思う壺なのかもしれない。ぱ、と携帯から指が外れる。前にも、中野さんだって新城に会いたくて俺のことを囮にしたじゃないか。多分、俺はそういうことに使いやすいのだ。ひょろっちくて喧嘩弱くてびびりだから、そのくせ新城は俺のことを大切にしようとするから。この人が新城になにかしようとしているなら、俺は何としてもそれを止めなければならない。ちょっとぐらい痛い思いしても、怪我しても、死んでも。だって、今新城は忙しくて、邪魔しちゃいけないから、俺はこの人を新城に会わせちゃいけない。恐怖で霞む頭の中で、ずっと、それだけを唱え続けていた。助けて、なんて思っちゃいけない。自分でなんとかしなくちゃ。新城の邪魔だけは、したくない。俺は、俺が、一人で、どうにかすればいい話だ。
「ついたぞー」
のんびりした声と、扉の開く音。抱えられて、雨の降る中どこかへ持っていかれた。一応じたばたしてみたけれど、一回「わっ!」て大声を出されて、普通に怖くて、抵抗する気持ちはどろどろと溶けて雨に流されていった。
体に打ち付けていた雨が止んだ。室内に入ったのか、外の空気と違うのが分かった。目も口も塞がれていると他の感覚が鋭敏になるのだと、新城に教えてもらった。思っていたよりもそおっと床に降ろされて、びくびくしている俺の背を、男の手が撫でた。悲鳴を漏らした俺に、そんな声出すなよ、と男が柔らかく告げる。
「ずうっと見てたのに。かなしいよ。お前だって俺のこと、好きなんだろ?」
「ふ、っふ、ぅ……?」
「ゴミ捨て場で、俺ゴミ漁りに行ったのに、扉開けてくれた。わざとぶつかりに行ったのに、謝ってくれた。プレゼントも、受け取ってくれただろ?中に入れなかったから郵便受けに入れちゃったけど、次の日見に行ったら空になってたから、すごく嬉しかったよ。今朝なんか、駅からお前の家のすぐ近くまでの道も教えてくれた。嫌いだったら、そんなことしないよな?嬉しい。お前も俺のこと好きなんだーって思ったら、もう我慢できなくてさ」
「っ……!?」
うれしいなあ、とのんびり告げられて、ここ数日の出来事がフラッシュバックする。そんなようなことがあった、気がする。日常生活を滞りなく送ることに一生懸命で、全部見過ごしてしまっていたけれど。休みの日になると外に出てきてくれないから、会えなくてさみしいんだ。そう続けられて、お前に会うために外に出たことは今までに一度もない、と頭の中でちかちか文字が光った気がした。
まずい。思い違いだ。新城になにかしようとして俺に手を出している人じゃない。純粋に俺狙いのやばいやつだ。中原くんは変な奴に絡まれやすいんだから、と困り顔で笑った新城の顔が思い浮かんで、その通りだよ、と今更思う。さっき携帯に手が届いたうちに、緊急電話で新城に発信を残しておけばよかった。なんだって変なこと考えてやめちゃったんだ、馬鹿、俺は馬鹿だ、誰か助けてくれ。
「俺も好きだよ。両思いだ。嬉しいよ、中原」
「ん″ー!んぐ、っん、ゔ」
「中原も嬉しい?そっかあ」
嬉しくない、嬉しくない!本格的に身の危険を感じて暴れ出した俺の姿が、歓喜で踊っているようにでも見えるのか、男は心底嬉しそうな声で俺の体を撫でさすり始めた。やばい、これはやばい、俺はこの後どうなるかを知っている。10年ちょっと前の、最悪の三日間が頭を過って、呼吸が浅くなっていく。縛られて、転がされて、その後に待っているのは、おじさんにされたことだ。なにも考えるな、思考を閉じろ、と必死になっているのに、遥か昔に仕込まれた身体は現金で、じわじわと拓いていく。好きだよ、好きだよ、と体を舐めるように、男の手が這いずり回る。ごぷ、と上がって来た胃液に、最低の味がした。極度の緊張からか、フラッシュバックの興奮からか、火が燻っているように熱くなっていく身体は、あとひと押しで燃え上がりそうだった。助けて、嫌だ、もうこんなの嫌だ。硬い指先に、息が上がる。ずっと見てたって、男は本当に同じ会社の人間で、俺は気づかないうちにずっとストーカーされていたんだろうか。嫌悪しか感じない頭と、歓喜を表そうとする体が、ぐちゃぐちゃで、訳がわからなかった。泣きじゃくる俺に、大好きだよ、と吐いた男が、耳元で息をついた。殺しきれなかった吐き気がするほど甘い声に、男の声が上擦るのが分かって、雨と汗でぐちゃぐちゃのスーツのボタンが、一つ外されたのが分かって。もう嫌だ。死にたい。なんでこんなことばっかり、俺ばっかりいつも。もういっそ、全部捨てて喘げたら幸せなんだろうか。でも、でもなあ。
真っ暗な視界の中で、ぐちゃぐちゃのオムライスを嬉しそうな顔で食べる新城の顔が思い浮かんだ。ごめん。もう多分あの家には帰れない。

どのぐらいの時間が経ったか、分からない。全部投げ捨てて、早く終わることだけを待って閉じこもっていた俺を、男が急にどさりと手放した。思い切り打った肩に呻いて、やっと人間らしい扱いに戻った気がした。男の荒い呼吸の隙間に、からん、ぺたり、と音が混じった。からん、ぺたり、からん、ぺたり。何かを引きずりながら歩いているらしいそれに、今叫んだら通りすがりの誰かが気づいてくれるだろうか、と思ったけれど、喉はいかれてて声なんか出なかった。それに、外は土砂降りだ。俺の声なんか届きゃしないだろう。通り過ぎてしまう足音を聞きながら、男はどうして俺を膝から落としたのだろうと、
落としたの、だろう、と。
「……中原くん、みーっけぇ」
からん、ぺたり。近づいてくる足音と、聞き慣れた上機嫌な鼻歌。たすけて、たすけて、しんじょう、と叫んだつもりが、潰れた喉じゃ酷い声しか出なかったし、口はテープで塞がれていて言葉にはならなかった。それでも、きっと、聞こえているだろうから。
「それ、うちのペット。ごめんねー、迷子になっちゃった?保護感謝でーす」
「……だ、ぇ、っしん、新城出流……?」
「お!知ってた?変装とかしてくるべきだったかなー、写真撮ってもいいよ?特別大サービスだからね!」
気の抜けた男の声と、きゃらきゃらとはしゃいでいる新城の声。ああ、まずい、この声色の時は駄目な時だ、あの新城が、本当に本気で怒っている時だ。剣崎さんを殴った時が、そうだった。直前まで思いっきりふざけて、扉を足で蹴り開けて、楽しそうに笑って、いきなりぶち切れて握り拳を叩き込んだのだ。自分の置かれた状況は最早どうだっていい。唖然としているであろう男に、早く逃げろ、殺されるぞ、と教えてやりたくて暴れだした俺に、低い声が刺さった。
「……えー?中原くん、まさかその人とお楽しみ中だったー?」
「っん″ぐ、っんん、ん」
「だよねー!いやー、今ちょっとどきっとしちゃった!まさか、庇ったりしないよね?」
千切れても構わない覚悟でぶんぶん首を横に振った俺に、そんなわけないよねー!と笑った新城の言葉に被って、がしゃん、と硝子が叩き割れる音がした。からん、の音の出所はきっと、新城が引きずっていた何らかの長物だ。びゅうびゅうと風が吹き込む音と、雨が床を打つ音。目が見えないから、どこに新城がいるかも分からないし、男がまだ俺の隣にいるのかも分からない。ただ、吹き込んできた風のおかげで、鬱屈として淀んだ空気がなくなったのは確かだった。どろどろの身体を引きずって、無理やり起きようとした俺に、新城が柔らかく告げる。
「中原くん、もう大丈夫だよ。ちょっと待っててね、すぐ終わらせるから」
なにをだ。そう聞きたかったけれど、新城はもうなにも言ってくれなかった。男の引き攣った声と、こっちで話そうか、ねえ、と嫌に優しい新城の声を最後に、なにも聞こえなくなった。

「ナカハラ」
「っ!?」
「酷い格好ですね。かわいそうに、痛かったでしょう」
「っぃぎ、ぇっ、っ……!?」
「今全部取りますから。待ってくださいね」
無理やり剥がされたテープに、ぶち、と口の端が切れる音がした。突然かけられた声と暖かな手に、跳ね上がって驚いてしまった。目隠しを取られて、薄明かりに目が慣れず、ちかちかする。水棹さん、だ。新城に連れてこられたんだろうか。夢見心地でぼんやりしていたものの、足のテープを切るカッターが目に入って、咄嗟に枯れた悲鳴をあげれば、ゲロ臭いですけど吐いたんですか?と率直に言われて、毒気を抜かれた気分になった。
「水です。服……はないので、私のジャケットでもいいですか?」
「……ぁ、ぃがと、ござい、ます……」
「いえ。もうすぐ人が来ます。これから、必要な筋を通さずにナカハラを保護します。目が覚めた時には病院です。警察のお世話にはなりません」
犯人は逃げました、未解決の迷宮入り事件に貴方は巻き込まれました、いいですね?
そう、噛んで含めるように言われて、頷く。新城は、どこに行ったんだろう。そもそも、どうして俺がこんな目に遭っていることが分かったんだろう。水棹さんをここに連れて来た理由。保護。警察。病院。新城に会いたい。ぼろ、と溢れた涙に、水棹さんが俺の頰を撫でた。
「……目が溶けますよ。おやすみなさい、ナカハラ」

白い天井。ぴ、ぴ、と規則的になる機械の音。病院、保護、と頭の中が少しずつ元に戻って、這いずり回る手の感覚が蘇って、喉の奥から嫌悪の塊がせり上がってくる。あ、きもちわる、
「おはよう。中原くん」
ぎゅう、と握られた、右手。憑き物が落ちたように、嘔吐感は掻き消えた。暖かな手を目線で辿れば、へらり、といつも通りに笑う、新城がいた。久し振りに見た気がする。
「……おはよ……」
「痛いとこない?先生呼ぶ?お腹空いてない?気持ち悪くない?」
「ぅお、ぉ、待っ、なに、近、なに」
「中原くん」
「は、はい」
ベッドに乗り上げて俺の頰を両手で挟んだ新城が、万年笑顔を崩して、泣きそうな顔をした。泣かなかったのが奇跡なぐらい、辛くて、悲しくて、余程怖い目に遭った後の顔だった。まばたきもできずにそれを見つめていると、浅く呼吸をした新城が、聞き取れるぎりぎりの声で囁いた。
「……心配したんだからね。怖かった。すごい腹立った。もうなんか、よく覚えてないけど、ねえ、中原くん……」
「うん」
「……あ、俺、殺してないからね!」
にこっ、とあげられた顔はいつも通りで、泣けばいいのに、と心の何処かで思った。
今更隠すのはフェアじゃないから、聞きたいことがあったら全部聞いて、と言われた。まず、どうしてあの場所に助けに来られたのか。はいこれ、と家の鍵を見せられて、GPSって知ってる?と問いかけられた。頷けば、これがそれです、と鍵、もとい鍵のぶら下がっているリングを向けられて、ぱかりと口を開ける。それ、お前が俺にくれたやつじゃねえか。そうだよ?じゃない。悪びれろ。どんな思考回路だ。そのおかげで助かった以上、文句は言えないけれど。ちなみに、とキーリングの飾りをひっくり返された。こんなのついてたっけ?
「これ盗聴器」
「……ば……馬鹿か……?」
「これはちょっと前にGPSのメンテナンスと一緒につけた。安くしてくれるっていうから」
「安く……そっか、うん、そうだよな、安くないと……はは……」
「中原くんよく家の中で鍵無くすじゃない?あれ俺がパクってるだけだから」
「はあ!?」
だってメンテナンスに出さないと位置がずれたら大変だし、じゃない。かわいこぶるな。GPSだけでは、当然ながら位置しか分からない。なかなか帰ってこない俺に、立ち往生してるなら迎えに行こうと位置情報を検索した新城は、変な場所に俺がいることを知り、盗聴器にはくぐもった音しか届かないことを確認し、明らかに異常事態だと自己判断して水棹さんに連絡を取った、と。そこでどうして水棹さんが出てくるんだ、普通は警察に連絡をするだろう。そう問いかければ、微妙そうな顔をされた。本人のいない場所で言うのもなんだけれど、なんて前置き。
「あの人の家、アウトレイジだから」
「あ……あうとれいじ……」
「ヤクザ。全国展開」
「は……!?」
「警察沙汰にしたくなかったの。中原くんはきっと、また、こう、いろいろ事情聴取とかあったら気持ちが傷つくと思って、できるだけ内々に手を回したかったと言うか、うん。……俺一人じゃ、そんなことできないし」
らしくもなくぼそぼそと、本当に俺を思っての行動だったらしく、だから武蔵ちゃんには悪いことをした、と締めくくった新城が、おどおど俺を見た。まともな手段で助けろ、人に迷惑をかけるな、とでも怒られると思っているのだろうか。そこまで考えられていて、どこに怒ればいいんだ。
新城はあの人になにをしたんだ、と最後に聞けば、それは、うーん、それはねえ、と言い澱まれた。別に、口にできないほど残虐なことをしたなら聞きたくない。珍しく心の底から怒ってたのは声色で分かったし。最後は武蔵ちゃんのお友だちがお迎えに来たからお任せしたよ、と話をうまく逸らされて、とりあえず頷いておいた。深く聞かない。聞きたくない。
「そうだ。あとお前、硝子割ったろ。弁償したのか」
「……えっ、そこ?」
「何で割ったんだ」
「え、鉄パイプ……落ちてたから……じゃなくて、そこなの?弁償?しないよ!?」

すぐに家に帰れた。怪我が治ったわけじゃないから、包帯とガーゼだらけだけど。そもそもあの病院自体、入院用ではないらしく、俺はてっきり近所の一番大きい病院とかにいるのかと思っていたんだけど、全然違った。出てから知ったけれど、ビルの一角だった。これが所謂闇医者…とちょっとぞっとした始末だ。
新城は家に着いてすぐ、俺に紙を一枚渡した。お仕事辞めてね。そう短く告げられて、どうして、とも聞けなかったし、いやだ、とも言えなかった。辞表を書け、と言外に強請られていることなんて、わかってた。だけど、泣かないこいつがあんな泣き出しそうな声で「心配した」「怖かった」と絞り出すのを、真正面で聞いてしまったから。もう新城にそんな思いはさせたくなくて、だったらそのために自分に何ができるのか、と考えた結果だ。外に出るのが怖くなったのも、あるけれど。
それから数日家で休んで、会社に連絡した時には「突然の病気で仕事を続けていられなくなった」ということになっていた。新城が手を回したのか、水棹さんもしくはそのお友だちがやったのかは、分からない。急なことで、と謝る俺を温かく受け入れ、早く良くなるといい、と目に涙まで浮かべてくれた上司が、しかしまあ、と声を落としたのが聞こえた。
「春日井くんも、緊急手術で入院だろう?若い子ほど頑張りすぎてしまうのかね。辛い思いをさせていたなら、本当に申し訳ない」
「……か、すがいさん、も、なんですか」
「ああ。知り合いだったかい?第二営業部の春日井くんも、倒れて運ばれたとかで、君と同じくらいの時期からお休みしていてね。彼はもう会社には顔は出せないらしい」
「本人が、それっ、本人が言ってました!?」
「あ、ああ。一昨日電話でね、医師診断書と一緒に辞表も届いたよ。お見舞いに行こうにも、面会謝絶でね」
「い、……」
生きてる、と口を吐きそうになって、ぱっと手で抑えた。よかった。生きてる。てっきりばらばらにされて海の藻屑になってしまったかと。だから、春日井という男は、俺が気づいていなかっただけで確かにこの会社にいて、俺のことをずっと見ていて、自分で言うのも気味が悪いが、俺のことが好きで好きでたまらなかったのだ。そういえば、ゴミ漁ったとか言ってたな。この職場の給料だけであのマンションに住むのは無理だ。まさか、別の場所に住んでるのに、ゴミ捨てのふりしてあのダストステーションまで来て、俺が捨てたゴミ袋を漁っていたのか。それに、プレゼント。郵便受けに入っていた変な袋が、まさかそれか?ゴミを漁って、部屋番号を知ったのだとして、あの中にはなにが入っていたのだろう。ぞっと、背中が総毛立った。何も考えず何も知らずにひょこひょこ車に乗った自分も自分だが、そこまでする相手も相手だ。
かくて、俺は無職になった。明日職場に挨拶に行く、と新城に教えたら、お金はこんなにあるから中原くんは本当にちゃんと仕事辞めてね、と駄目押しで通帳を見せられた。視覚が狂ったのかと思った。ゼロが多すぎやしないか。なんだそれ。子どもがふざけて書いた作り物のお金みたいな額じゃないか。流されないでよ、引き止められないでよ、なんなら俺も着いて行こうか、とにじり寄ってくる新城に、それだけはやめてくれと頼み込んだのだ。新城出流に囲われるから仕事辞めます、なんて話、メディアの格好の餌だろうが。
その日の夜、水棹さんが来た。体の具合を聞かれて、特に問題ないと答えた。傷は痛むし、気持ち悪い感覚が残っていないといえば嘘になるけれど、大丈夫。
「そうですか。ナカハラがそう言うなら信じます」
「新城は?」
「新城さんはプリンを食べていたので楽屋に置いて来ました」
「プリンを……」
「ナカハラには私の分をあげましょう」
はい、と渡されたので、ありがたく貰う。おいしい。コーヒーを一口飲んだ水棹さんの、新城さんが帰って来る前に言っておきたいのですけれど、との前置きに、プリンに向けていた顔を上げる。真っ直ぐな目からは、感情が読み取れなかった。
「ナカハラ。新城さんは、大嘘吐きです。あの人はずっと貴方を囲うことを考えていました。けれど、貴方は正攻法では仕事を辞めるなんて有り得ない。新城さんは、嘘吐きで、狡猾で、財力があって、根回しができる、完全犯罪向きの人間です。貴方に仕事を辞めさせるために、自分一人のものにするために、全て作り上げて法螺を吹いているのかもしれません」
「……え」
「貴方を泣かせるためなら労力を厭わないことを私は知っています。寝取られ趣味にも目覚めたのかもしれないし、警察が来ると嘘がばれるからそうはできなかったのかもしれない。現に貴方はずっと目隠しをされていて、いつから新城さんがいたのか知りませんね」
「……待っ、え?待って、水棹さん」
「と、言えと、新城さんに言われました。貴方がどっちを信じるかは自由です。全部嘘だったと思って安寧に身を委ねてもいいですし、自分が変質者を寄せ集めやすい体質だというのを認めてもいいです。お任せします。どちらかが嘘で、どちらかが本当です」
新城さんに、言えと言われたので、私は言いました。そう最後に付け加えて、水棹さんは出て行った。コーヒーはほとんど残っていた。

「たっだいまー、中原くん!ぶちにゃんもただいった!なんでこの子は毎回タックルするかなあ!」
「……おかえり」
「うん、夜ご飯作るね!」
「……新城?」
「んー?」
「……………」
「なになに?おかえりのチュー?」
どっちでもいいか。どっちにしろ、俺はもう、新城があの時言った通り、ペットみたいなもんなんだから。せめて、それならそれらしく、新城が笑って過ごせるように、彼のもので有りたい。家事ぐらいは練習しよう、まずはオムライスから。
期待にお応えして首に手を回しながら、少し笑えた。もっと早く、こうしてればよかった。


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