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へとへとで終電帰りの自分と




年に数回こうなることは分かっているので、もうすぐテストだから忙しくなる、夜ご飯は待っててくれなくていいし、なんなら先に寝てていい、と断ってある。有馬も有馬で仕事があるので、明日は大事な会議だから先に寝る!ほんとごめん!と連絡が入っている日もあったし、今日の夜ご飯は期間限定の牛丼を食べたがとても美味かったので今度是非食べていただきたい!と嬉々として報告された日もあったし、飯は作れなかった!と焦げたチャーハンの写真をドヤ顔で見せられた日もあった。テストが近くなればなるほど、教える側であるこちらも忙しくなるわけで、直前という言葉が相応しい今日は、ついに終電帰宅だった。疲れ切ってハイになった頭は、こんなに遅くなるのは一年ぶりくらいかもしれない、とぼんやり思い返して、自分の口がぼんやり空いているのが電車の窓に写っているのが見えて、ぱちりと唇を閉じた。うん、多分、というか確実に、疲れている。
「……ただ、ぃ……」
あ、寝てた。リビングの電気が付いていたから起きているのかと思ってただいまの挨拶を途中までしたのだけれど、ソファーで大口開けてぐうすか寝ている有馬を見て、言葉が尻切れ蜻蛉に飛んでいく。待っててくれようとしたのが嬉しくて、だったらここで起こしてしまうのは間違いだと思う。
リビング側の電気を消して、台所の電気をつける。これで、ソファーの場所は薄暗くなる。俺に有馬を運ぶことはできないから、せめてもの妥協案である。お湯を少しだけ沸かして、帰りにコンビニで買ってきたカップスープと、おにぎり。明日の朝ご飯ぐらいは、一緒に食べられるかな。ばたばたしてて、ほんの数言しか会話できない朝もあった。もそもそと冷たいお米を頬張りながら、俺のせいで有馬をソファーで寝かせている、なのに俺はこのままだと普通にベッドで寝ることになる、それは不平等だし不公平だ、と罪悪感の塊に襲われた。今日は床で寝よう。どうせ数時間後には起きるんだから。
ぼうっとする頭でシャワーを浴びて、髪を乾かして、ぼんやり明日のタスクを考える。優先順位の高いものから片付けなければならないのは分かっているけれど、こうもぼんやりしていては、間違えそうだ。隣のデスクの越谷先生がやってる、紙に書いて貼っとくのを、俺も実践した方がいいかもしれない。一番上から順番に、見てわかるのは、きっととってもやりやすい。例えば、頭から水を垂らしながらリビングに戻ると有馬がびっくりするから、今の優先順位の一番は、髪の毛をちゃんと乾かすこと、とか。ごお、とドライヤーから出てきた温風に、目が閉じる。あったかい風を瞼を閉じたまま受けると、一気に眠気が押し寄せてくるのはどうしてなんだろう。俺だけなのか、人類はそういう風にできているのか。歯磨きをして、うがいもして、あとは寝るだけ。
「……ぁ、」
「……おかえり」
「ご、めん。起こした?」
「……んーん……起きたかった……」
ぼんやりと、寝ぼけた声。こっちを見て相好を崩した有馬が、おかえりい、ともう一度繰り返した。ただいま、と返して、続けざまに謝る。俺が遅くなって、リビングで寝てしまったせいで、体が痛くなってたりしないだろうか。寝違えたり、疲れが取れなくて明日に響いたりしたら、俺は。
「へーきへーき。もう寝る?」
「うん……」
「んー、俺も。寝よ?」
お前のせいで目が覚めてしまったじゃないか、なんて詰るような相手ではないことを知っていて、でも多分俺はきっと、文句を言って欲しかったのかもしれなかった。甘やかされると、張り詰めている糸が、切れそうで。それは一度切れたら、もう当分は頑張りたくなくなってしまうから。明日も明後日もまだ忙しいから、休みなんてまだ先だから、その優しさに甘えたが最後「疲れた」と口にしてしまいそうで。
「あ、俺、あの、持ち帰りの仕事があって」
「えー……?」
「先に寝てて。起こしてごめん、本当に」
「それはいいけどさ、弁当」
「おやすみ。ごめん、後でちゃんと寝るから」
「弁当?」
顔は見れなかった。だってこれは、ただの我儘だから。有馬は俺のことを思ってもう寝ようと言ってくれてるけど、俺はそれに甘えちゃいけない気がして、これは明日も頑張るために必要だから。仕方ないんだ、と頭の中で言い訳をして、明日を今日の続きにするために、自分の勝手なエゴで、有馬の優しさを断った。最初からぐちゃぐちゃだった脳味噌が、ぱちんと弾け飛んで、ばらばらになる感覚。大丈夫。まだ頑張れる。忙しくなくなったら、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、おはようって柔らかく言えるようにする。だから、それができない今だけは、別々に過ごすことを許して。
強く背中を押せば、怪訝そうな顔で、それでも押されてくれた。このまま有馬を寝室まで押し込んで、扉を閉めてしまおう。今日は俺はベッドには行かないから、明日の朝になったらお前が起きるよりも早く家を出て行く。ここに帰ってくると、甘えたくなってしまう。甘やかしてくれと、縋りたくなってしまう。忙しい期間だってそう長くないんだから、付き合わせて夜遅くまで起こしたり、いらない気を遣わせてしまうぐらいなら、俺はここにいない方がいい。なんとなく、自分が自分の頭の中で勝手に負の連鎖を引き起こしているのは分かったけれど、一度マイナスのスイッチが入った思考は、もう止まらなかった。
「おやすみ、有馬」
「……仕事終わるまで起きてるから」
「いいよ、寝てて……」
「起きてるから。弁当、ちゃんと寝ないから、俺が寝かしつける」
そのつもりで待ってた、まあ寝ちゃったけど、とばつが悪そうに頰をかいた有馬が、じゃあがんばってな!と俺の手を握った。嘘なのに。嘘だって、ばれてるのに。嘘つきって怒ってもいいのに。なかなか離されない手を、こっちから振り払うことができなかった。黙った俺に、繋いだままの手を引っ張って、ベッドに座らせた有馬が、にこにこしながらこっちを見ている。怒ったり、詰ったり、してくれたらいいのに。どうしてそんな顔で俺を見るんだろう。そんな顔を向けられるほど、価値ある人間じゃあないのに。
「……今寝たら、明日起きれない気がする」
「気のせいだろ」
「ずうっと、昨日の続きだったのに、今日でそれが終わっちゃったら、俺、明日からどうやってがんばれば」
「頑張れる頑張れる。お前、去年の今頃も今と同じみたいになってたけど、一年間がんばって今日まで来れたわけだし」
「そ、……そうだっけ……?」
「そう。有馬くんは学習したのです。弁当は息抜きが一人じゃできないと」
「……ありまくんて……」
「息抜き、ガス抜き?休むことってどっち?」
「……ありまくん……」
「何笑ってんの?俺聞いてんだけど」
がんばりやさん、と俺の頭を軽く叩くように撫でた有馬が、ぱっと立ち上がってリビングの方へ消えた。急に寒くなって、寂しくなって、ぎりぎりで張って持ちこたえていた糸が、勢いよくぶっ千切れた音が聞こえた。ありまあ、と情けない自分の声がして、ぱっと口を手で押さえる。なんだ今の。いい歳して、恥ずかしい。なあに、と甘く返す有馬がいる方の電気が暗くなって、なんだ、電気を消しに行ったのか、と少し安心する。じゃあもう俺は寝るしかなくて、仕事があるなんて嘘は見抜かれているわけで。もし本当に仕事があったらどうしてくれたんだろう。そしたらきっと俺の態度が違ったんだろうなあ。
「はい。あまいの」
「……もう歯磨きした……」
「いいじゃん!1日で全部の歯が虫歯になったりしねえよ!」
そこまでの心配はしていない。ホットミルクの入ったマグカップを渡されて、一口飲んで、甘すぎる、と眉が寄った。甘いのは好、嫌いではないけれど、これは甘すぎる。どう?どう?と褒美を待つ犬のような目を向けられて、おいしいよ、と返したけれど。
「おやすみ。とんとんしてやろうな」
「いい……しなくていい……」
「子守唄も歌ってやるからな、お兄ちゃんが」
「ほんといい……」

気づいたら朝だった。時計を見て、遅刻!はしないにしても授業が始まるまでに準備が終わらない!と跳ね起きて、はっと隣の存在を思い出して振り向く。
「あっごめ、いない!」
「……朝から超元気じゃん……」
「あ、えっ……あ、おはよ……」
「おはよ。ここ三年ぐらいで一番でかい声、今出たんじゃない?」
うけるー、とからから笑った有馬が出してくれた朝ごはんは、焦げたトーストと、濃いめのコーヒーだった。どこからどう見ても焦げてるのにどうしてこうも満面の笑みなんだろうか。コーヒーも「漆黒」という文字が相応しいぐらい黒い。意識が覚醒しすぎてラリりそうだ。
びっくりするほどおいしかった。



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