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おはなし



「なにかあったら、すぐ帰ってくるから」
「なんにもない、なんにもない!こーちゃんは心配性なんだから!ねっ、海ちゃん」
「ねー!さちえ!」
うみ、つよいから!と力こぶを作って見せびらかしてきた海に、航介がとっても微妙な顔をしている。昨日の夜になって「やっぱりうみもいくう……」とめそめそされたのが応えているらしい。連れて行けないことはないが、連れて行くと大変面倒くさい。今はすっかり元気になって、いってらっしゃー!と手を振ってくれちゃってるから、大丈夫だと思うけど。
らしくもなく、二人してスーツ。別に何かあって謝罪に行くとかそう言うわけではなく、じゃあカチコミに行くのかと言われるとそういうわけでもない。航介がスーツ着ると完全に、やんのかワレ!いてこますぞ!って感じだけど。そっと窺った隣の航介はタイミング良く、悪く?首をごきりと回したので、余計怖い。なんでこんな格好で海を預けておでかけかって、中学の時にお世話になった先生のなんかのお祝いに、お呼ばれされたのだ。なんかのお祝い、の、なんか、がなになのかはよく分かっていない。そもそもなんでお呼ばれしたのかも分かっていない始末なもので。
中学二年生の時、俺の家庭的な事情で一悶着あった俺たちだけれど、大人には関係のない自分たちの話だと思っていたのはつい最近までで、当然といえば当然に、義務教育中のお子ちゃまが、大人の目をかいくぐってあれだけ派手な喧嘩を出来るわけがないのだ。あの子に任せてみましょう、しばらく様子を見ましょう、と泳がせてくれたのは、当時の担任だったらしい。そういうことは、大人になってから知った。お祝いの招待状が来た時に、みわことやちよが口を揃えて「あんたたち散々お世話になったじゃないの」と言うのでよくよく聞いてみたら判明した、程度に最近知った衝撃の事実である。だから、そんないろいろを知られている相手に、いやいや俺ら実は子どもいましてね、なんてまさか口が裂けても言えないし、その場に数人は確実に同席しているであろう中学の同級生たちを混乱の渦に陥れたくない。だから海は連れていけないのである。
「たくさん来るかな」
「……どうだろうな。上京した奴も多いだろうし」
「当也みたいに?」
「そうな」
「あの人、実家に顔を出すって概念、最近薄れてない?やっちゃん泣いてるよ」
「泣いてねえよ。やちよの奴、自分から行くようになったじゃねえか」
「だけどもさあ、来て欲しくない?たまには帰って来て欲しいじゃない?会いたくない?」
「いや別に」
「強がらなくったっていいんだぞ、おい!」
「や、本当に別に、会いたくもなんともない」
「……そういうとこほんとドライだよね……付き合いは親並みの長さのくせにさ……」
「元気に生きてるって、時々有馬から連絡が来るし。別に、上手くやってるならそれで」
「そうだねえ。忙しいのかもしれないし」
そんなこんな、ちんたら話しながら、歩く。会場であるお高いホテルまで、自転車で乗り付ける訳にもいかないし、お酒が出ることが分かっていて車でも行けないし、じゃあタクシーを呼べばいいか、と楽をしたい気持ちはあるが、残念ながら我が家の家計はかつかつである。海にカプリコを我慢させておいて、そのお金で俺たちがタクシーに乗るのは、どうかと思う。別に歩くのが苦なわけでもないし。帰りはタクシー乗ろっかねえ、なんて話しながら足を進める。
「でも、どのぐらい来るんだろう。思ってるよりちょっとしか来なかったらどうする?」
「ていうかそもそも、自分が担任した生徒全員は呼ばないだろ。数が多すぎる」
「じゃあ何基準で俺ら呼ばれたんだと思う?」
「……手がかかった」
「問題児だったっけ」
「全然」
「自分で言う?」
「少なくとも俺は違う」
「俺も違うし。品行方正だし!」
「品行方正って、着ぐるみ着たまま原チャで営業先に突っ込んだ挙句にスリップして自分は無傷で可哀想な原チャだけ爆発させるような奴のこと?」
「航介性格悪くない?」
到着。はあ、と溜息をついた航介が、一応緊張しているのか、とんとん、と後ろのポケットを叩くのが見えた。そこに入っているのは、あの日に俺が航介に渡した、通話専用の青い携帯。俺たちのお守りだ。それがあれば、大丈夫。今日なんか、二人一緒だしね。
「なに言われんのかなあ」
「やばくなったら逃げようぜ」
「俺のが走るの遅いんだから引っ張ってよね」

終わりました。
なんていうか、なんか、なんのお祝いだったかというと、「要約:本を出すので買ってください」だったんだけど。呼ばれた基準は、肩書きだったらしい。俺は多分、市役所の職員で、且つ町興し振興に力を入れている課の所属で、外に出る機会も多いから。航介は、町の売りの一つでもある市場に店を構えている家の息子、要するに先々を見通して考えれば家族営業のその会社では扱い的には次期社長だから。当たり前のことなのだけれど、改めてそう位付けされると、そんなわけじゃないんですけどね、と思わなくもない。中学時代の朧げな記憶に微かに残る先生の面影を残したおじさんは、周りの人たちからも先生先生と持て囃され、とっても長いご挨拶をしてくれた。そういうことにこれまで縁のない俺たち二人は、ほとんどの時間、口をぽかんと開けて過ごしていた次第であります。
「……野球選手いたね」
「いたなあ……」
「サインもらっとけばよかったかな……でも、テレビで見たことあるけど、名前覚えてないんだよな……」
「握手して写真撮ってたお医者さんも、本出してるって言ってた。偉い人ばっかりだったんだな」
「俺たちってば、場違い!」
「ああ」
「……まあ、理由があるとするなら、地域のことも大切に思う優しい人っていうレッテル張りが欲しくて、名簿に俺たちみたいな地元生まれ地元育ちの特産品の名前が欲しかったんでしょうけども……」
「あー……」
そして、なんで俺たちが、ホテルの裏手で、ぼーっと突っ立ってんのかって、答えは簡単。傘が無いから。
知り合いなんてほとんどいない会場の中、壁の花、花というほど絢爛ではないけれど、慣用句的に壁の花、になっていた俺たちの耳に、ぱたりと水音が聞こえた。気のせいかな、とお互い思って、ビュッフェ形式だったのをいいことに人を縫ってあれもこれもと取り分けてきては食べて、飲んで、また食べて。気づいた頃には、歓談していた他の人たちの耳にも、水音、もとい雨音が届くくらいになっていた。もともと雨の予報はなく、突発的な豪雨であるらしい。がらがらと鳴り響く空と、ぴかりと光っては落ちる雷と、大粒の雨。お開きになった後、タクシー乗り場は列になった。とっても偉い人たちはみんな車を呼びつけて、ちゅうぐらいに偉い人はタクシーの列に並んで、まあちょっとぐらいは偉い人は、ホテルで傘を買うか、貸出用のそれを使うか、自前の傘をさして、それぞれ帰った。傘はほとんど意味を成さずに撓んでいた。俺たちは、どうしようか、どうしようね、と話している間に、タクシーラッシュも乗り遅れ、傘の貸し出しも販売もすっからかんになり、濡れて帰る以外の選択肢をじわじわと減らされているところ。
「こりゃあかんやで」
「あかんやで……」
「……ほんとにどうする?走る?」
「走る。海が待ってる、」
ぴこん、と鳴った携帯をほぼ反射で見れば、さちえから連絡が来ていた。「海ちゃん寝ちゃったから、明日の朝までにお迎えに来られたらそれでいいからね。二人も疲れてるでしょうし、大雨だから、気をつけて!」だ、そうだ。うさぎさんのかわいいスタンプと、海の寝顔の写真ともに送られて来たそれを見て、二人顔を見合わせる。
「……待って、た、はずだし」
「んにゃー、どうかなー……幸せの絶頂って顔で寝てるぞ、こいつ……」
「……どうする?」
「どうしよっかね」
どうする?から先に進まないのは、走って帰る以外の選択肢はもはや無いに等しいのだけれどそれをやろうと断言する勇気が、お互いないからである。いや、タクシー呼べないわけじゃないし、と迷っている自分がいる。ここから走って帰るなら、全力ダッシュでぶっ通しは無理にしろ、うちまでなら何とかなる。さちえの家まではちょっと厳しいかもしれない。海も寝ていることだし、うちまで何とか帰って、明日の朝海が起きだす頃に迎えに行くのが、最善策だ。このまま海を迎えに行っても、寝ているから抱えて帰らなければならないわけで、この大雨の中それは厳しい。じゃあ父さんの車を借りて送るかって、それだったらうちに一旦帰れば自家用車があるんだからそれで迎えに行けばいいじゃないか。口には出さないだけで、二人ともそんなことは分かっていて、だけども、うーん、って感じ。うーん、の効果音が正しく当てはまるポーズで今の俺は固まっていると思う。しとしと、ぱたぱた、程度なら走って帰るけど、今の雨の量、どざざざざ!だからなあ。こんなん滝じゃん。
「……家まで競争な」
「は?」
「ハンデやるから。10秒待つから」
「えっ……えっ、そういう感じで走るの?ガチじゃん」
「いーち」
「うわ話聞かなっ!ゴリラ!あいたー!」
「にーい」
蹴られた、し、その勢いで雨の中に出てしまったので、もう仕方がないから走る。ぺたぺたと足音がする。びっちょびちょだわ。眼鏡が邪魔なので外して、胸ポケットにしまった。この雨じゃあ、かけてたってかけてなくたっておんなじだろう。靴の中が水でぐじょぐじょになるのが、なんだか久しぶりで、裸足で走ったら気持ちよさそうだなあ、とちょっと楽しくなる。べったりと肌にくっついたスーツを穿つ雨の中、航介はちゃんと追いかけて来てくれるんだろうか、と振り向いて、悲鳴をあげた。
「ぎゃあああ!?ひっ、こわ、怖い!」
「なにちんたら走ってんだよ!」
「殺人鬼みたい!こわい!」
「あ!?なんだって!?」
「殴り殺さないで!」
「ああ!?」
どこへ消えたの、10秒のハンデ。ぴたりと追走してくる航介は、恐怖に叫び散らしながら逃げる俺からしたら、全く息切れしていないようにすら見える。体力オバケ。真剣に走りすぎて顔が怖い。マジで怖い。例えばこの世界がホラーちっくな映画だったなら、捕まったが最後、殴り殺される未来が見える。頭陀袋に入れられて捨てられちゃう!もしくは暗転明けの次のシーンで俺のお葬式が開かれちゃう!
雨の音もあるし、走っているのもあるし、多分航介に俺の声は聞こえていないのだ。だから大変にガラが悪い大声で何度も聞き返されているのだけれど、聞こえねえよ!と間を更に詰められた時には流石に声も出なかった。おい、同い年として言わせてもらうけど、お前もうそろそろおっさんへのカウントダウンが始まる頃合いだろ。なんでまだ加速できるんだよ、おかしいだろ、へばれよ!ぜひゅ、かひゅ、と自分の喉からはやばい音がしているというのに。血の味がする。やばい。もう走れないけれど、ここまで加速してしまうと自分の意思で緩やかに止まることもできやしない。きっと、足がもつれてすっ転ぶ。見慣れた道を走る足は、一歩一歩に感覚があるというよりは、惰性に任せて回転しているだけ、に近い。ひいひいと乱れきった呼吸の隙間に、いつかこける、いつか、なんて、脳味噌の中で危険信号の赤いランプがぴかぴかして、曲がり角を曲がって家が見えた途端に、安心から気が抜けたのか、ただ単純に道が悪くて滑ったのか、がくんと右足首が変な方にへし折れたのが分かった。
「あっやべ」
「ああ″!?」
ぎにゃああ、と潰れた悲鳴を上げて崩折れかけた俺のベルトを、恐るべき反射神経でひっ掴んだ航介が、泥濘む地面に思いっきりスリップ痕を残しながら、無理やり止まった。
「ぉお″ぇえっ」
「ぁいって!」
「ぃ……いだいぃ……まじでいったい……」
「……悪い……」
冗談抜きで本当に痛かったので、結構きつめの嘔吐き声が出たけれど、転んで全身泥まみれの傷だらけになるより全然マシだ。びたん、と自宅の玄関扉に叩きつけられるように止まった航介と、反動で叩きつけられた俺。一瞬止まった呼吸に、じわじわと、痛みと音が戻ってくる。ぜえぜえと航介が吐く息と、どしゃどしゃと打ち付ける雨の音と、だくだくうるさいのは自分の心臓の音だ。転ぶと思って助けようとしたけど結果的に強めに突き飛ばすだけになってしまった、申し訳ない、恨みがあるわけじゃ無い、という意味の言葉を、ぐちゃぐちゃの語順のまま、荒い呼吸の途中途中で航介が挟む。
「も、いいよお、そ、それより、おもい、はなれて」
「あ、悪い」
「ぐえ」
航介と玄関扉で俺を挟み潰そうとしていたのには、気づいていなかったらしい。勢い付けて止まったから、しょうがない。鍵を開けてくれた航介に、足は平気か、怪我はないか、と心配されて、引きずって転ぶのを止めてくれたのと、過剰に付きすぎた勢いを無理にでも殺してくれたので、助かった、と素直に答えた。痛いところはない。もとい、痛みが残りそうなところはない。伊達に何度も怪我してないもんで。受け身上手と褒めてくれ。
「あー」
「ああ……」
「……脱いでから中に入るのと、後で全部掃除するの、どっちがいい?」
「脱げ」
「はい」
ぐっちゃぐっちゃのびっしゃびしゃ。髪の毛からびたびた雫が垂れまくってる辺りで察してほしい。なんだって走って帰ってきちゃったんだかなあ、と今更ながらに思いながらボタンを外して、隣を見る。はああ、とでかい溜息をつきながら、ネクタイを抜き、手首のボタンから緩めて時計を外し、上から服を着崩して、ベルトを外し出したところまで見て、ふへ、と笑い声が漏れてしまった。我慢できなかった。いや、だって、おかしくて。
「お前だって同じようなもんだからな」
「いやっ、ごめ、っだって、いひっ、ひっひっひっ」
「悪魔みたいな笑い方すんな」
「玄関口で服脱いでる!大の大人が!」
「風邪引くぞ」
「いぶしっ」
「ほら見ろ」
くしゃみが出た。思ったよりも寒い。パンツは人道的配慮によって守られ、水浸しになったスーツとシャツは、雨臭くなるので一応干して、後日クリーニング行きとなった。いい年した大人が二人でパンツ一丁で家の中をうろうろしている事実が、もう相当におかしい。濡れたスーツをまとめて洗濯機の上に引っ掛けにいった航介が、海が出しっぱなしにしていたらしいミニカーを踏んだらしく、ぎゃあ、と悲壮な声を上げて滑ったのが見えた。大笑いした、ら、思いっきり頭を叩かれた。海ちゃんが見てないからって暴力的だぞ!
「いぃ、ったあ!」
「うるせ」
「はー。お風呂入ろうよ」
「先に入れよ」
「一緒のが早いじゃん」
「……は?」
「インとアウトを微妙に被らせればいい。航介がシャワー終わった辺りで俺がシャワーを浴びに入る、航介はその時点で湯船、俺のシャワーが終わったら航介は出る、俺が湯船」
「そうか……いや……そういう問題か……?」
「このままだと風邪を引きますので」
ぶるりと背を震わせた航介に、ほらね、と早くも鼻声になりかけの自分を指差せば、成る程と納得してくれたらしい。ゴーサインを出せば、パンツ一丁の航介が風呂場へ消えた。俺は寒いので寝巻きのパーカーだけ羽織った。お湯を張るのと航介のシャワーを並行して、航介がシャワーを浴びている間に俺は海の出しっ放したおもちゃを片付ける。棚の下とかソファーの裏とか、海は雑なので、そんな細かいところまで見ちゃいないのだ。だから、先ほどのように、股が裂ける角度で転びそうになる羽目になる。こないだも、俺が海のクレヨン踏んづけて折ったら、海が泣きギレしたし。
「いいぞ」
「早くない?」
「シャワーだけだからな」
「烏の行水」
「うるせ」
髪の毛が湯船に浸からないようになのか、ぴよんと跳ね上がって結ばれている。だはー、と心地よさげな息を吐いているところに年齢を感じる。着替え持ってきたの?と聞けば、忘れた、と端的に返されて、洗い上がりの寝巻きとパンツを出してくる。さくちゃんってば、なんて気がきく!ぽいぽいと服を脱いでシャワーを出して。
誤算があった。俺がシャワーを浴びる時間と航介が湯船に浸かる時間をイコールで考えていたのだけれど、航介は体と頭を洗うのが海の世話のおかげで破茶滅茶に早い代わりに、湯船であったまる時間は長めに取りたいタイプだった。しかし、どんなに引き伸ばしたところで、俺のシャワータイムはそんなに長くない。いくらセクシーにサービスしても、もう何にも出ない。シャワーを浴び終わってしまって、何もしないで航介入りの湯船を見つめているのも、なんだかそれはもう、どちらに対しての拷問だか不明だ。結果として。
「狭い」
「踏んでる」
「俺はみ出てるんだからね!航介が早く出てくれれば済むんだよ!」
「踏んでんだよ」
「いって!蹴り上げんな!さくちゃんの柔肌に傷が付いちゃうでしょうが!」
「元から傷だらけだろうが」
それはそうだけど、だからといって、傷を増やしてもいいというわけではない。海と二人ならいざ知らず、航介と俺じゃあ、どう頑張っても半分ずつしか入浴できない。ていうか、半分どころか、航介が退いてくれないので俺はその上に乗り上げるような形で、お湯に浸かれているのは足ぐらいのもんだ。どけ!どかない!どいてよ!どかねえよ!の押し問答を繰り広げた挙句、膝を抱えて縮こまり隣り合わせになれば何とかなることが分かった。向かい合わせで足を絡め合うよりはマシだ。
「……………」
「……なんか喋ってよ」
「……あと1分で上がる」
「はー!?あんだけ言い合わせといて結局先に上がんのかよ!航介のばか!」
「うるせえ」
「がぼごぼぼ」

死ぬかと思いました。頭にタオルを乗せてぽかぽかしている航介が、ドライヤーが終わった俺の方をぱっと見た。なにか言いたいことでもあるのかと口を開けば、航介が何か言うよりも先に、航介の腹が喋った。
ぐう。
「……お腹空いたの?」
「……すいた」
「あんなに食べたのに?」
「すいた」
「……なにかあるかな……」
「キムチ鍋の素があった」
「正気?」
冷蔵庫を指さされ、いや今から鍋はどう考えても無いし無理、と首を振った。そうだろうか…と航介は微妙そうな顔だった。いやあ、どう考えても、無いでしょ。あんだけ食べたのに、と言おうとして、自分も若干の空腹を覚えていることを感じて、口を噤んだ。走ったからかな。でもキムチ鍋は無い。美味しいけど。
なんか作ったらいいじゃない、と冷蔵庫を開ける。ご飯があるし、卵もあるし、と指差して、面倒そうな顔の航介が、俺の肩越しに手を伸ばした。作ってくれるなら俺の分もよろしく。そう甘えてみたら、げえ、って顔された上に、手が引っ込んだ。ちえっ、じゃあ作るよ。大して料理得意でもないけれど。
ご飯を深めのお皿に移して、チーズとマヨネーズと胡椒、卵を一つ乗っけて爪楊枝でぷすりと穴開けて、チン。カルボナーラ風、丼もどき。湯気を立てるそれに、航介は満足げだった。
「ん。これ美味いやつ」
「好き?いただきまーす」
「いただきます」
キムチ鍋の素をかけてもいいんだよ、と一応口添えしたら、別に辛いものが食べたかったわけでは…ともごもごしていた。でも半分ぐらい食べ進めたところでタバスコぶちまけてた。食べたかったんじゃん、辛いもの。もしかしたら、そんな話をしていたから食べたくなっちゃったのかもしれないけど。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。待ってろ」
「ん?」
「ん」
「うん、あっ!なに!隠しアイス!?」
「隠しアイス」
「ヒュー!」
ぽい、と放られたアイスの袋に、諸手を上げて喜ぶ。さっき航介が言いかけて腹の音にかき消されたのは、「アイスあるけど食うか?」だったらしい。海の居ぬ間にアイス。イエーイ。しかも、バニラアイスにチョコレートのかかってる、俺の好きなやつ。いつもだったら何本も入ってる箱アイスだけど、今日のこれは袋。一本単価。高級感が違いますなあ。
昔は、とはいっても海がいなかった頃だからほんの数年前は、こんなこともよくしてた。高校生の頃は当也もいたりいなかったりしたけど、その後も、どっちかの家でだらだらして、帰るタイミングを逃して深夜帯突入、台所にこそこそ忍び込んで夜食を盗み食べ、いつのまにか寝てて、気づいたら朝。あ、仕事!違う、今日休みか!なんてことがざらにあった。航介は律儀なので、次の日に仕事がある日はそういうことはしないし、必然的に俺もそうなる。数年しか経っていないはずなのに、遥か昔のような、たった昨日のことのような。静かな部屋の中に、かちこちと秒針の音だけが響いて、でも別に嫌な気分はしなかった。静かなの、あんまり好きじゃあないけど、今は心地いい。アイスを食べきった航介が、ゴミを捨てて戻ってきたので、あの、と咄嗟に口をついた。
「あ?」
「よふっ、あー、このまま、夜更かし、しちゃおうぜ……?」
「……なんだその喋り方」
ふっと噴き出した航介が、踵を返す。めっちゃ噛んだし。かっこわる。しかしながら、夜更かしのお誘いはわざわざ口に出すと案外勇気がいること、なんてこと初めて知った。だって、このまま終わりにするのは、何となく嫌だったのだ。明日になったらいつも通り、海がいるのは幸せで、大好きで、楽しいけれど、二人だけでこんなことできるのなんて、滅多なことじゃない。夜遅くに四食目のご飯食べちゃったり。こっそりアイスに手を出しちゃったり。お風呂で騒いだり。こんな時間なのに、眠たくなかったり。戻ってこない航介に、どこ行ったの?と首を伸ばせば、がたりと大きめの音がした。
「なに?」
「海がいるからって、我慢してたから、こういう時ぐらいいいだろ」
「ゲーム」
「仕舞い込んでたんだけどな」
「いいねー!なにやる?マリパ?」
「そんなぬるいのやるか。これだろ」
「げええ、航介が俺を蜂の巣にするゲームじゃんか、それ」
「そうだっけ。そうでもない」
「そうだったよ!」
航介が抱えて持ってきた大きい籠には、ゲームの本体とコントローラーとソフトがきちんと仕舞われていた。海が小さい間はせめて、と航介が大好きなはずのゲームを我慢してるのは知ってたし、それを知らんぷりして俺がやるのもおかしいから、ここ何年か新しくでたやつは一切触ってない。けど、新しめのものはもちろん、中学生の頃からやってた古いソフトのリメイク版もあって、これこれ!と手に取っては盛り上がった。俺はロールプレイングが好きだから、プレイ時間が異常なほどさんざんやり込んだっけ。パズルゲーム系は、当也に誰も勝てなかった。これをやろう、と航介がパッケージを振っているのは、三人で対戦してた時も航介一強だったFPS。いいけどあとでこれもやろうよ、と古き良き格ゲーを出せば、にっこにこだった。音符が周りに浮かんでそう。

気づいた時には、朝5時だった。航介が体を起こしたのに引き摺られて俺の頭が落ちた、んだと思う。ごちん、なんて音で目が覚めたから。
「……おはよ……」
「……はよ」
「……航介、おでこに跡ついてる」
「お前もだよ……」
海を迎えに行くまでに、この跡が消えてくれてたらいいなあ。かっこつかないじゃない。二人して夜更かしにはしゃいで、机に突っ伏して寝て、おでことほっぺにそれぞれ跡つけてるなんて。
ちなみに、海には何故か「さくちゃんとこーちゃんとでたのしいことしたー!」「うみいいこしてたのに!まってたのにー!」とブチ切れられ、今度は海も一緒に楽しいことをする、という約束をした。勘がいいなあ、野生の勘かな。


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