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ここで死ね




「小金井くんは、わがままなんだね」
「……は?」
「ん?」
「……はあ?」
「んー?」
脊髄で物を言うのをやめて欲しい。何を言ったかもう既に忘れたらしい溝口が、わはー、涼しい風だ、と窓から吹き込んだ風に歓喜の声を上げた。適当に生きるな、と思わなくもないが、適当になんとなく、しがらみを捨てて自由に生きてほしいのも事実なので、もうどうでもいいか。
前科が付こうが、日常生活を送れるのならば、文句はない。かなりの情状酌量によって減刑された、溝口曰く「されてしまった」ので、結果として溝口が受けた刑期はそこまで長期に渡るものではなく、緩くなっていた脳味噌を改善する薬と、任命された管理官による保護観察で、外に出られることになった。そうは言っても、長くはないが、短くもなかった。殺人罪の最短懲役期間が五年、というところからも鑑みてほしい。しかし、人々が騒ぎ立てなくなるには十分な時間だった、とは思う。それに、溝口の頭が大分良くなった。薬のおかげか、大学生までの間に得た一般知識を取り戻したのか、知らないけど。あとは、お互い歳をとった。二十代、ぎりぎり。もう三十代と言っても差し支えはない。事実だから。
「……エアコンを買え、って、何回も言ってる気がする」
「えー、いいよ。案外涼しいし、冬もなんとかなってる」
都心から車で数時間の、片田舎。小金井くんが近くにいたら頼っちゃうから、と溝口が決めた仕事先と住まいだった。頼られても構わなかったのだけれど、引き止めることはしなかった。お金が貯まったら小金井くんを養ってあげるから!とも言われていたし、別に会えないわけじゃないし、人の多いところだとどうしたって、昔のことを掘り起こそうとする奴の存在が否定しきれない。全てから守ってやることはできないんだから。また壊すぐらいなら、少し距離が離れることくらい、なんだというのだろう。そよそよと伸びた髪の毛を風に靡かせていた溝口が、思い出したかのようにぱっと振り向いた。
「あ!ねえ、小金井くん」
「あ?」
「俺、おみあいする」
「……おみ……」
「あい。お見合い」
「は!?」
「えっへへ、形だけね」
なんでも、働いている工場で良くしてくれる先輩が、娘と食事だけでもしてくれないか、と頼んできたそうで。結婚とは縁もない、しかし親の自分にとっては可愛い娘だ、と頼み込まれ、別にお付き合いするかしないかの強制権は全くなく、ただ顔を合わせるだけ、と。そう溝口はへらへら言ったけれど、確実に流されるだろ。あれよあれよと流される未来が見える。未だに薬漬けの現実を知って、前科を知って、それでも構わないと結婚に漕ぎ着けてくれる相手ならば、相当の胆力だけれど。
「いいだろー」
「……いいか?」
「よくない?女の子だよ」
「……俺、彼女いたし」
「は!」
「いや、こないだ別れたけど……」
「あわわ……お、おとな……」
「同い年だ」

そんなこんなで一か月。別れたはずの彼女がしつこく寄りを戻そうと家に通い詰めていて、そろそろ疲れも見え隠れして、もうそれでこの女の気が済むならもう一度付き合うぐらい何ともない気がしてきたのが、数日前のこと。別れる原因も、親に挨拶なんて行く気もさらさらない俺と、左手の薬指に指輪をはめたいがために焦っている女の、行き違いが原因だったので、恐らく、長続きはしない。また私を選んでくれて嬉しい、今度は貴方の気持ちもきちんと考えたい、二人でこの先を作っていきましょう、と幸せそうに言われて、この先とは一体どの先のことだ、とうっかり口をついてしまい、彼女の顔が凍った。けど、俺を手放すつもりはないらしい。俺のどこがそんなにいいんだ。
暑いから、と言って聞かない女は、露出の激しい部屋着のまま、チャイムの鳴った玄関にぱたぱたと歩んで行った。安アパートなので、外と中で会話ができるインターホンなんてものはない。宅急便かなにかか、と耳をそばだてて、飛び起きた。
「ぁえ、と、こがねいくん、いますか……」
「……清?いるけど、」
「お話があって、ええと……」
「……あんた誰?」
「溝口、」
「あっ、小金井くん」
女を押しのけて狭い玄関口に立てば、溝口はいやに大荷物で、疲れ切った顔をしていた。それでもへらりと笑った彼は、ごめんね、突然、と呼吸と同じように謝って、ぎゅうとリュックの肩紐を握り直した。言葉をかける直前、ちょっと!と女が俺を押し返してきて、怒りを露わにした。
「なんなのよ!この人誰!友達?」
「ああ。邪魔だから、どこか行っててくれ」
「は……はあ!?なに、それっ、私の家なんだけど!」
「俺の家だ。お前が勝手に泊まり込んでるだけだろう」
「清なに言ってんの!?一緒に暮らしてくれるって言ったじゃん、この先、」
「この先はもうない。今終わった」
「は……」
「とりあえず、出てってくれ。準備する時間はやるから、とりあえずそのはしたない服をどうにかしろ」
ぶるぶると震える女に、謝る気にはなれなかった。溝口が、俺と女を見比べておどおどと、ごめんなさい、帰るから、ごめん、と零して踵を返そうとするので、手首を掴んで止めた。いたい、と声が聞こえた気がしたけれど、それは無視した。
「あんたはっ、いっつもそう!そうやって、私には何も話してくれないし、私のことは全部後回しにする!」
「最初から先頭にいないだけだ。なあ、俺はこいつに話があるんだよ。別に今すぐここを引き払えって言ってるわけじゃない、今はちょっと席を外して欲しいってだけだ。新しい家が見つかるまでは住んでてくれて構わないから」
「っどういうこと!?最初から、私のことなんかどうでも良かったって!?」
「そうだ。どうでも良くない人間なんか、ほとんどいないから」
「ご、っごめ、帰るから、あの、本当にごめんなさい、いたい、こがねいくん、っ小金井くんごめん、離して」
「うるさい!」
「ぁい、った」
「……………」
ぱしり、と。頰を張る音がした。ずっと小声で謝っていた溝口が、声を上げて俺と自分に話しかけたのが気に食わなかった女が、その手を振り上げて、振り下ろした音だ。びっくりしたように目を丸くした溝口が、ぽかりと口を開けて女を見た。女の口が再び開く前に、それ以上聞く意味もないと思ったので、溝口を中に引っ張り込んで女を突き飛ばした。
「あ、っ!?」
「うあ、」
玄関扉を閉めて、鍵をかける。チェーンも閉める。ばんばんと扉を叩いては喚く音がうるさかったので、扉に付いた郵便受けから、警察を呼ばれるぞ、と囁けば、静かになった。溝口の手首を離して、女の携帯と財布と羽織る物を、玄関の横、台所の格子付きの窓から差し出してやれば、呆然としゃがみこんでいた彼女が、見上げるのが見えた。どうして、と涙を零されて、後でまた説明するけどもう二度と寄りは戻さないし出来るだけ早くここを出て行ってくれ、と端的に告げれば、ふらりと立ち上がった彼女は歩いて行った。もうここには来ない、そうだ。荷物は、実家にでも送り返しておくか。何故かうちに女の実家から仕送りが届いたことがあるので、住所を控えておいて良かった。
「溝口。どうした」
「……こ、がねいくん」
「なんだ」
「ごめん、俺、やっぱだめだった、どこ行ってもだめだ、ここも来ちゃだめだったよね、あの人怒ってた、ごめんなさい……」
「……お前、何も悪いことしてないだろ」
「したよ、した、いっぱいした……もうやだ、もう、うぅ」
へたりと座り込んで丸くなってしまった溝口にリュックを下ろさせながら、どうしたんだ、と出来るだけ柔らかく問いかけ続ける。聞きながらリュックを漁ったけれど、薬はちゃんと持って来ているようだった。まともな話はできそうだ。
「……俺が、父さんを刺したことも、かみさまの、神様を信じてたことも、全部みんな知ってて、俺のこと変だって、おかしいって、出てけって、ゆった」
「……そうか」
「仲良くなった女の子も、こわいって。俺に優しくしてくれた先輩も、裏切り者の嘘つきだって。大家さんにも、早く出てけって言われて、外、出るとみんな、こっち見て嫌な顔して、だから出てきて、俺、逃げてきたのに、こがねいくんとこも、小金井くんに、めいわく、迷惑ばっか、かけて」
「うん」
「あのひと、追っかけて。俺、出てくから、どっか行くから、追いかけてあげて、ね、小金井くん」
「嫌だ」
「だめだよ、だめ、俺だめなんだ、ごめんなさい、違う、こがねいくん、こがねいくん……」
「うん。ここにいるよ」
「いないでいい、追いかけて、あの人のこと。俺に優しくしないで、小金井くん、ごめん、ごめんなさい、俺のせい、ごめんなさい、っ」
「いいよ。大丈夫、溝口のせいじゃない。神様はいないし、誰も見てないから」
隣にいる、と話を懇々と聞き続けている間に、騒ぎ疲れたのか、そもそもにして限界だったのか、ぱたりと口を閉じた溝口は土下座みたいな体勢で寝息を立て始めた。仰向けに起こして、布団の上に転がす。自分のせいで、ごめんなさい、と何度も繰り返していたけれど、今回のこの件に限っては溝口のせいであることは何一つ存在しないのだ。だって、先輩とやらの目につくように、溝口の悪評が書かれた昔の雑誌を放り出したのは、俺だ。減刑に値する程生育に問題があったと世間的にも認識されていたとて、生きとし生ける全てが彼を許すわけではない。火には油、罪は罪。溝口優吾は紛れもなく殺人犯であり、それは彼の残忍な意思に法って行われたものである、と持て囃し恐怖を煽りたかった者も存在したのだ。娘にも大家にも、そういう内容の記事を、見えるようにばら撒いた。どこまでも閉鎖的で、中で回り出した毒は直ぐに全てに行き渡るのが、田舎らしい。そんなゴシップに踊らされずに、彼は彼なりにがんばっている、とそれでも言えるような相手ならば、彼の保護観察を譲り渡したのに。所詮そんなものだったのだ。人を傷つけたことがある人間だからと、信用できない、溝口のことを何も分かってやろうとしない、その程度の相手にこれ以上割く時間はない。こいつを追い出したことを、いずれ後悔すればいい。試してやったのに、チャンスをあげたのに、勿体無い。溝口優吾は、受け入れれば馴染むのに、朱に交われば赤くなれるのに、周りが弾くから、いつまで経ってもふらふらと浮いたままだ。周りを試しては弾かせているのは、自分だけれど。
もう二度とあの場所に溝口が戻ることはないのだろう。お金を貯めるんだ、と言っていた。リュックの奥底に仕舞われた預金通帳には、成人男性としては心許無いものの、分かりやすい言い方をすれば「社会生活不適合者」の彼にしては相当頑張った額が入っているようで、目の下のクマが、絶望と諦観を色濃く映していた。
なにもしなくたっていい。昔のことは全部忘れて、自由に我儘に、笑って生きていてくれればそれでいい。そう思うのに、それはどうしようもなく本心なのに、自分以外とそうすることが日に日に許せなくなっていく。俺はきっとこいつに、独り立ちなんて、しないでほしいんだろうな。未練がましく震えた溝口の携帯に表示された女の名前に、そっとそれを水へ落とした。真っ暗になる画面に、人を殺したような気分だった。

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