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おはなし



かわいそうに、かわいそうに。
そんな声に囲まれながら、まともに混ざることと、かみさまを信じないことと、真っ当に生活することを、求められた。普段通りとなにが違うのかはよく分からなかったけれど、分からないなりに愛想良くしていたら、勤勉である、真面目である、模範である、と判を押されて、自由な時間をもらえることになった。どうしたらそうなるのか、それは羨ましがられることなのか、とか、そういう難しいことは、よく分からないままだ。でも、自由になったところで、かみさまをなくした自分には、行く場所がないことは、分かった。ここから出ても、俺はきっとなにもできないし、なににもなれない。だったら、檻の中にいさせてくれた方が、ましなんじゃないのかなあ。檻という程に監獄めいてはいないし、衣食住は保障されているし、行き場がなくなる不安もない。仮初めの自由が近づくごとに、やっぱりそんなのいらないです、と言いたくてたまらなくなった。
「だから、かりしゃくほー?やめてくださいって、お願いすることにしようかなって、」
「遊園地に連れて行ってやる」
「えっ!遊園地?ほんと?」
「ああ」
「ほんとのほんと?俺行ったことないよ、お話で聞いたことしかない、小金井くん、ほんとに連れてってくれる?」
「仮釈放で外に出てきたらな」
「うん!」
はあ、と溜息をついてこめかみを押さえた、唯一の友人であり頻繁に面会に来てくれる彼に、首を傾げた。あの遊園地とかいう楽しそうなところ、俺なんかには一生縁がないと思ってたとこに連れてってくれるなんて、小金井くんはやっぱり優しい。行き場が無いのは困り物だが、遊園地の誘惑には勝てない。仕方がない、仮釈放が終わったら、もう外には出たくないとお話しすることにしよう。そうすることにするよ、と小金井くんに嬉々として語れば、益々深い溜息をついた彼は、厚い硝子に手を当てた。はいたっち。こっちからも手を当てれば、違う、と呆れた目をされる。なあに。
「……面倒は見てやるから、早くちゃんと出てこい」
「でも、小金井くん。俺一人じゃ、ふつうに混ざれない」
「だから面倒見てやるって言ってるだろ。覚えはいいんだから、頑張れ」
「うーん……」
「……ドーナツを買ってやる」
「どーなつ」
「好きなだけゲームセンターで遊んでいい」
「げーむせんたー!」
「眠くなったら寝て、好きな時に飯が食える。風呂にも入れる。それが「普通」だよ。混ざれるだろ?」
「みんなそんな贅沢してるの?すごい」
「……「普通」は土なんか食べないんだ」
「おいしいよ」
「……お前がどうして一般人に紛れてたのか、今更、本当に不思議だよ……」
そうだろうか。みんなの真似っこをしていただけなのだけれど。
自分の普通は、みんなの普通ではない。おまじないのようにそう唱えながら、遊園地を楽しみにしているうちに、仮釈放の日が来た。全部が引っくり返ったあの日から、もう何年が経ったんだろう。いまいち、その感覚も掴みきれていない。まめに様子を見に来てくれたのは、終ぞ小金井くんだけだったなあ。同じかみさまを信じていた人たちは、誰も来なかった。みんなきっと、忙しいんだ。
じーじー、蝉が鳴く暑い日だった。ここに初めて来た時から、そもそも自分の荷物なんて持ってなかったので、持たされたちっちゃいリュックだけ背負って、外に出た。あつい。ちょっとぶかぶかのスニーカーと、緩いからベルトで締め上げてる貰い物のズボン。外に出たはいいけど、どこに行けば、と当て所なく空を見上げたところ、大きな入道雲が見えた。綺麗だなあ。
「……なにしてるんだ」
「あ。小金井くん」
「歩き方でも忘れたのか」
「ううん。雲が大きいの、見てた」
「うん……?」
いいからこっち、と引かれた先には車が停まっていた。あの、と後ろから声をかけられた気がして振り向く、前に、小金井くんが俺を車に押し込んだ。誰かいたよ、と運転席に乗り込む彼に声を掛けたけれど、ああいうのは相手にしなくていい、とつっけんどんに言われた。しょうがないので、発車してしまった車の、後ろの窓から見る。カメラ持ってる。知ってる、ああいう人たち、俺のこと「かわいそう」にする人たちだ。インタビューとかゆって、たくさんお話しして、俺からいろんなことを聞いて、「かわいそう」なことを世の中の人たちに伝える人。
「お話してあげなくちゃいけなかったんじゃないのかな」
「もうほっとかれてもいい頃だろ。熱りも冷め切ってる」
「そうなの?」
「とっくのとうに、判決も降りて、処罰も決まってて、その中途の仮釈放なんだぞ。もういいだろ」
「ふうん」
「適当に返事するな」
あ、ばれた。運転席の小金井くんの顔は見えない。怒ってる?と聞けば、怒ってない、と返ってきた。じゃあいっか。

なんでも食べていい、とメニューを開かれて、俺だって外食ぐらいしたことあるんだからね、そんなこと小金井くんだって知ってるでしょ、子ども扱いしないでよ、と鼻高々に偉ぶったけれど、久方振りに食べる豪華なお肉は涙が出るほど美味しかった。食べ方がきたない、と小金井くんがあまく笑って、おいしいな、と俺の気持ちと一緒のことを言葉にしてくれた。うん、おいしい。恥も外聞も掻き捨てるならば、外の世界で張りぼての普通を着飾らなくて良くなってしまった時点で俺は、かみさまのために死ぬのだとカウントダウンが始まった時から、すっかり子どもに戻ってしまったのだ。幼い頃はずっとお腹が空いていたし、自分の体はぺたぺたと汚なかった。その扱いに戻されて、世間一般から隔絶されて、たった数ヶ月で全て忘れて。野生動物みたいにがふがふ頬張る俺に、小金井くんはちょっと悲しそうな顔をした。そんな顔しないで。君のせいであったことは、一つたりとも無いんだから。
「小金井くん、俺、お金もらったよ」
「取っとけばいい」
「なにに使ったらいいのか分からないよ」
「……いつか、使う時が来るよ。お祝いだと思って、世話焼かせてくれ」
「なんのお祝い?」
「久しぶりの外、祝い」
ご飯のお金を払ってくれた小金井くんは、仮釈放の数日間はここでゆっくりするといい、と素敵なホテルに案内してくれた。豪華な部屋じゃなくて悪いな、と鍵を渡されたのは、シングルルーム。小金井くんはどうするの?と聞けば、俺は自分の家に帰る、と不可解そうな顔をされた。一緒にいてくれないの?と口を突いた言葉に、自分でもびっくりした。小金井くんも目を丸くしていた。おかしいなあ。寂しがりやになったつもりも、甘えたがりになったつもりも、なかったのに。
「シングルしかとってない。ここに男二人は無理だろ」
「うん……」
「俺の家は汚いからダメだ」
「きちんとしないとだめだよ……」
「呆然としながら正論を吐くな」
「一人になるのは久し振りなんだ」
「だろうな」
なにかあったらここに掛けろ、と携帯の番号を渡されて、朝ご飯はここに何時までに食べに行くこと、困ったらこの番号にかければフロントに繋がること、と親切丁寧に教えてくれた。こくこくと頷きながら聞いたけれど、あんまり頭には入らなくて。
「昼前に、迎えにくる。遊園地に行きたいんだろう」
「えっ!やったあ!」
はっきりと聞こえたのは、明日一緒にいられる口約束だった。

あなたのせいで、あなたのせいで、と誰かが泣いていた。俺のことではないのだろうなあ、とぼんやり思いながら、泣き声を聞く。あなたのせいで、なにも知らない人が命を落とした。あなたのせいで、寄る辺のない信仰心は悪意に身を変えてしまった。あなたが、かみさまにその身を捧げることに疑問を感じなかったから。どうしてあなたはいつだってそうなの。外の世界を知っていたなら、誰かに縋ることができたでしょう。混ざる「ふり」ではなくて、友人と手を取り合って心から笑いたいと、そう願ったことは本当に無かったの?
そう延々と泣く声は、呪詛のようだった。影のように蹲るのは、幼い自分。俺のことだった。ごめんね、俺のことじゃない、なんて思ってしまって。あなたのせいで。うん、そうだ、俺のせいで。そうだ、全部、きっとそうだ。あの子が死んだのも、彼が怪我をしたのも、捜索願を出されたまま家族の元に帰れず神様に召し上げられた人がいるのも。だって、俺だって、それが「わるいこと」だなんて知らなかった。「わるいこと」っていうのは、かみさまの悪口を言ったり、禊の邪魔をしたり、そういうことを言うのだ。痛いって言ったりとか、怖いって言ったりとか、そういう、俺個人としての感情は、かみさまの前では必要ない。痛くなんかない、これは誉だ、お前にしか与えられない罪なんだ、と、流れる血が増えていく。小金井くんをあの時あの場でかみさまに捧げられていたのならば、俺はかみさまの御許に登れずとも、彼まで地獄に引きずりこむことはなかったのだろうなあ、なんて今更、未練がましく、かみさまなんていないと知った後でも、思ってしまう。かみさまは遥かなる高みから、おれたちを、見ていらっしゃるから。禁忌の門を開けて、開けたっきり進むことができなかった俺のことは、もうきっと掬い上げてくださらない。お前のせいで。きちんとやれば、みんなは幸せになれたかもしれないのに。そう、鈍色を携えたあの日の自分が叫ぶ。かみさまがいると思いたかった自分は、まだ悲鳴を上げ続けている。ともだちなんかじゃない、あいつなんか助けなければみんなは幸せになれたのに、大事な時にちゃんとできなかったお前のせいでみんなが不幸だ、地獄堕ちだ、と。
かみさま、かみさま、ぼくは命を奪いました、この命をお許しください。ぼくのことは許さなくていいから。そう、幼い自分が祈る。そこにはなにもいないのに。誰も許してなんてくれないのに。死んだものは蘇らないのに。その猫はお腹が空いていただけなのに。よくやったね、とその肩を抱く鈍色は、お前にはこれはもうできないことだ、と俺を責めた。だって、君たちは知らないかもしれないけど、かみさまなんていないんだよ。小金井くんが教えてくれた。俺はずっと間違ってて、父さんもずっと間違ってて、みんなも間違い続けていた。かみさまなんて、いないんだ。俺のしてたことは、普通じゃなかったんだよ。ご飯は毎日三回食べるもの。お風呂には毎日入るもの。血を流すことは痛いこと。隷属の証に体を開かなくても相手との信頼関係は築けるし、痛みに泣き叫ぶ幼い子を抱いて慰めながら甚振る光景は狂っている。たくさんたくさん、教えてもらった。
「だから、かみさまなんか、いないんだよ。」
一人きりの部屋の隅、いるはずのない何かに向かって、繰り返し繰り返し、そう呟いた。いない、いない、いない。もうなにも聞こえない。自分に何度も言い聞かせる。大丈夫、誰も見ていないし、誰もいないよ。お医者さんも言ってたじゃないか。さわれないものはいないんですよ、って。ほら、これは触れない。これも、触れない。宙空に手を彷徨わせながら、これもいない、これもいない、と部屋の中をふらふらして、疲れて眠たくなったから、ベッドに横になった。
明日の遊園地、たのしみだなあ。

宣言通り、お昼過ぎに小金井くんが来てくれた。朝ごはんを食べに行くのを忘れたのも、お風呂に入ることを忘れたのも、ばれた。
「ごめんなさい……」
「……いいか、夏っていうのは、汗をかくものなんだ。しかもなんでこの部屋、冷房ついてないんだ」
「……自分で切った」
「蒸し風呂の中で飯抜き汗だくは、命に関わってくるからやめたほうがいい」
「はい……」
「……別に怒ってない。覚えたならいいんだ」
言い淀んでもごもごしている俺に気を遣った小金井くんが、風呂入ってる間に飯を頼んどいてやるから、とエアコンの電源を入れた。ほんとは、ごうごうと風を吐き出す音が怖くて、静かな部屋にそればかりが渦巻くようで、半狂乱にになりかけながら部屋の中の全てのスイッチを押したら、エアコンも換気も電気も消えてしまっただけなのだけれど。確かに、廊下の方が涼しい。風呂に入るんだから服を脱げ、と俺を脱衣所に押し込んだ小金井くんが、びくりと跳ね上がった俺に手を止めた。
「ぁ、いた」
「……いた?」
「……………」
「……痛い?」
「……けがした」
「誰か来たのか」
「き、来てないよ、一人で転んで、ぶつけちゃって」
「……夜、寝たよな?」
「うん!」
「……………」
「……う、うそじゃないよ……」
「……………」
「ちょっとだけ寝たもん、ほんとに……」
「……………」
ぽんぽん、と頭に乗せられた手に、泣きそうになった。お風呂に入るなら服を脱がなくちゃ、ともそもそ脱ぎ出した俺に、小金井くんが歩き去る音がする。お風呂場は、少し涼しい。ぺたり、と鳴る裸足の足音に、床が蕩けて歪んだ気がした。
優しくしてもらった経験が少ないんですね、とお医者さんは俺をかわいそうがった。優しく、されたこと、無いのかなあ。あると思うんだけど、小金井くんの大きい手に甘やかされたくなってしまうのは、そういうことをされた経験が少ないからなのかもしれない。彼すらもいなくなったら、俺にはほんとうに、何にもなくなってしまうんだろうから、それは怖くて、嫌で、
「おい」
「きゃああ!?」
「全裸でぼーっとするな。シャワーを浴びろ、全身洗え。悪いけど、俺割と潔癖だから」
「ひっ、ひ、っ、なんで、あけ、開けるの!」
「水音がしなかったから」
「えーと、えっと、あ!のぞきま!」
「お前の裸なんて散々写真で見た」
「えっ」
叫んだものの、ずかずか風呂場に入ってきた小金井くんは、シャワーを全開にして俺に微温湯をぶちまけて、また出て行った。怒ってる、わけじゃない。彼なりにふざけてるのは分かる。俺に昔を振り返って欲しくないのも分かる。でも優しくした後にこれってどうなの、俺はペットじゃないんだぞ!
潔癖なんだ、知らなかったなあ、きたない俺の手をよく取ったもんだなあ、とぼんやり思い返しながら、言われた通りに全身洗った。べろんと垂れ下がる髪の毛をぶるぶる振るって水を切れば、ご親切にバスタオルが分かりやすいところにかけ直されていた。髪の毛伸びちゃったなあ。だから暑いのかな。お風呂から出たら、ルームサービスが届いていた。サンドイッチ。がっつき癖が抜けなくて、ぼろぼろこぼしながら食べる俺に、誰も取らないぞ、と当たり前のことを言った小金井くんが、髪の毛を乾かして、結わいてくれた。
「ありがとー」
「どういたしまして」
「写真で見たってどういうこと?」
「捜査資料として上がってきた。いろんな検査の結果とかと一緒に」
「俺、そんな写真撮られてたっけ」
「精神鑑定の判断基準に、虐待の有無と怪我の状態も鑑みられたんだよ」
「へえー」
「どこぶつけたんだ?」
「ここ」
「……跡になってない」
よかった、とぶつけたところを軽く叩いた小金井くんが、早くしないと夕方になるぞ、って俺を急かした。そうだ、遊園地。

約束通りに、ドーナツを買ってくれた。手と口がぺたぺたになったけど、小金井くんは別に怒らなかった。あと、あんまり暑いから、かき氷も食べさせてくれた。ジェットコースターに乗って、メリーゴーランドに乗って、ゴーカートに乗って、お化け屋敷に入った。ゲームセンターで好きなだけゲームもした。閉園時間ぎりぎりまで遊んで、最後に風船も買ってくれた。子ども扱いされてる気もするけど、子ども扱い程度がきっと、俺にはちょうどいいんだと思う。だって、みんなしたことないことばっかりで、嬉しかったから。
ホテルに戻ってきて、昨日と同じ部屋の入り口まで送ってくれた小金井くんが、それじゃあ、明日も様子は見にきてやるから、どこか行きたいところがあれば考えておいてもいい、とお別れの言葉を口にしようとする。
「こがねいくん」
「なんだ」
「ありがと」
「……明日はちゃんと朝ご飯食べに行けよ」
「わかんない」
「分かんなくない。飯はきちんと食え」
「一人だと、いろんなものがそこら中にいるから、おっぱらうので大変なんだよ」
「……お前、薬ちゃんと持ってきたのか?」
「え?」
「安定剤が出されてるだろ。寝る前に飲んでるんだよな?」
「うん、飲んでる飲んでる、あんてーざいね、うん、小金井くん?」
入り口の鍵を閉めて、チェーンを閉めて、俺をベッドに突き飛ばした小金井くんが、数少ない俺の荷物が入っているリュックをざかざかと逆さまにした。着替えが何枚かと、なけなしのお金。せっかく買ってもらった風船、紐をリュックに結んでおいたのに、小金井くんが乱暴するから、ほどけて天井に飛んでってしまった。あー、と手を伸ばしてそれを掴もうとする俺の手を、小金井くんが掴んだ。
「昨日、薬飲んでないだろ」
「のんだ、ちゃんと飲んだよ、ほんとだよ」
「袋が入ってない。嘘つくな」
「うそついてない!やだ、怖い、離して」
「嘘つきはこうだぞ」
「やだ!叩かないで!もう痛いのはやだ!」
「……溝口。俺はこっちだ」
「え?」
振り向いたら、小金井くんがいた。今目の前で怒ってたのが小金井くんだと思ったんだけど、じゃああれは誰だったんだろう。俺の手を掴んだのは誰だ。きょろきょろしている俺に、ここには俺とお前しかいない、と小金井くんが淡々と告げた。ううん、もう一人いたよ。俺の手、掴んだもん。精神安定剤、知ってるよ、変なスイッチが入ると脳味噌がどっかに飛んでっちゃう俺のこと、ちゃんと人間にしてくれるお薬でしょう。いちにちひとつずつ、青い袋に入ってるの。飲んだら、空っぽは赤い袋に入れる。昨日は、うーん、昨日はちょっと忘れちゃったかもしれないけど、刑務所にいた時は、寝る前にちゃんとそれを飲むのを、誰かが見張ってた。俺、自分でもちゃんとできるから、大丈夫だねって言ってもらえたの。だから大丈夫だよ。小金井くんに一生懸命そうやって説明したけど、こくこく頷くだけで、なにも言ってくれなかった。なんか言ってよ。もしかして、耳が溶けちゃったのかもしれない。俺も、よく溶ける夢を見るから。
「薬、減って無いじゃないか」
「あるもん。持ってきたもん、ちゃんと」
「拗ねるな。無い、って言ってない。減ってない、って言ってるんだ」
「ちゃんとここにしまった!持ってきた!」
「うん。ちゃんとあるよ。ほら、今日の分はちゃんと飲まないと」
「やだ!もう今日はおしまいがいい、やだ、帰って、こがねいくん。ばいばいして?」
「わがまま言うな。ちゃんとしないと、後から辛くなるのは自分だろう」
「わがままっ、わがままは、小金井くんにだけだもん!」
「ありがとうな。口を開けろ」
「ぎー!」
「痛い、噛むな、引っ掻くな、正気に戻れ。目がラリってる」

風船が割れる夢を見て、目が覚めた。せっかく結んでもらった髪の毛は解けていて、部屋の中には、小さい俺も、変なもやもやも、いつも何処かから見ている目玉も、いなかった。薄暗い部屋の中、窓際がぼんやり明るくて、そっちに手を伸ばす。カーテンの向こう側に、夜空の中で、小さいライトと、小金井くんがなにかしているのが見えた。俺、また、迷惑かけた。
「ごめんなさい……」
「……甘く見てた」
「……ごめんなさい……」
「お前、暴れられるんだな」
「……明日からはちゃんとするから……」
「薬、無理矢理飲ませた。悪かったな」
「……………」
「面倒見るって言ったのに、任せすぎてた。ごめんな」
「……怒ってよお……」
「怒らないよ」
楽しくって、まるで昔に戻ったみたいで、だからお薬を飲むのを忘れちゃったんだ。そう言い訳する俺に、大丈夫だと彼は言った。だいじょぶくないよ。手の甲に、思いっきり引っ掻いた跡が残ってる。きっと俺がやったんだ。小金井くんは、怒らないから。俺のこと、ゆるしてくれるから。
なにを書いていたのか見せてもらった。俺の保護観察記録だって。俺はお薬飲むの忘れちゃって小金井くんに怪我させましたってちゃんと書いて、とお願いしたけれど、なんか難しい書き方でよく分からなかった。でもきっと小金井くんは、自分がちゃんと見てなかったからこうなりました、って書くんだと思う。丸いテーブルは、蝋燭のような揺らめく灯りでぼんやりと明るい。夜空には星もなく、ただじわじわと蒸し暑かった。眠たくないの、と小金井くんに聞けば、寝る場所がない、と答えられた。ベッド使っていいよ。
「いい」
「俺、ちょっと寝た」
「たくさん寝ろ」
「こうかんこしよう」
「しない。一人が嫌なら、寝かしつけてやるから。ちゃんと寝て、明日になったら全部忘れていいから」
忘れていいはず、ないのに。少しずつ、少しずつ、全部が遠くなって、かみさまがいた頃の自分は、今の自分とは切り離されていく。それは「普通」に近づくことで、嬉しいはずなのに、足元から全部が崩れ落ちてばらばらになるような、恐怖も伴っていた。だから、大丈夫だと、代わりに全部覚えているからと、俺を赦すきみに、ずっと、ずうっと、縋ってしまうのだ。
まるで、あたらしいかみさまになったみたいに。

最終日。今日の夕方には、房にただいまを言わなければならない。暑苦しい、と髪の毛をまた結んでくれた小金井くんに、そうだ、と思い出して告げる。
「もう出てこない。から、安心して」
「……なんですぐ、そういうことを言うんだ。努力しろ」
「だって、小金井くんに迷惑かけてばっかりだった。もしまた模範とか言って、外に出られるまでが早まったとしても、またわるいことして捕まえてもらう。そしたら、俺はずうっと見張っててもらえるし、小金井くんには今まで通り面会で会える!」
「じゃあ、お前が釈放されたら、悪いことをして逮捕される前に、俺がお前を捕まえればいいんだな」
「ふんだ。絶対わるいことしてやるんだから」
「例えば?」
「……たと……たとえば……?たとえば……アイスをいっぱい食べるとか……」
「それじゃあ逮捕はされない」
「う……」
「考えておくんだな。「普通」の悪いことが、どんなことなのか」
「教えてよ!小金井くんのけち!」
「犯罪教唆したなんて知れたらまた罰則食らうだろ。嫌だよ」
「次外に出てくる時あってもっ、小金井くんには助けてもらわないからね!」
「じゃあ二度と外には出られないな」
「ね、願ったり叶ったりだ!」
「俺が監視許可の判子を押せばお前なんかいつでも引っ張り出せるんだってことを覚えとけ」
「押すな!」
「でも、出てきてほしいんだから、仕方ないだろ」
一緒にドーナツを食べたり、一緒に遊園地で遊んだり、したい。お前が一人で、もしかしたら他に友達ができたらその人と、そういうことをできるようになるまでは、一緒にいたい。そう目を細められて、わがままだ、と返した。俺よりずっと、小金井くんはわがままだ。こんな俺に、幸せになれと言う。脳味噌が溶けてどっかに流れてしまって、うっかりするとすぐ、いないものが見えたり、他の人にはわからない何かに向かって喋ったり、得体の知れない何かに捕まって怯えたり、そんな俺に「幸せになってほしい」と。君の言う幸せがなにか、まだ俺には分からないけれど、きっとそれは俺が自分で思う自分自身の幸せではないような気も、している。けど、他でもない小金井くんが、そう言うならなあ。俺は、そうならなくちゃいけないなかな。
でも、なんかそれは、ちょっと、癪だな。
「……こがねいくん」
「なんだ」
「……俺、ひとつ、やりたいことできた」
「ん?」
「小金井くんの面倒を、見れるようになる。お世話する。やしなう。小金井くんを、俺が」
きょと、と目を丸くした小金井くんは、可笑しそうに笑って、やりたいことが見つかって良かったじゃないか、と俺の頭を撫でた。養われるようになるまでは養ってやる、と半ば笑いながら続けられて、そうしろ!と踏ん反り返った。なんかおかしい気がするけど、まあいっか。
自分の幸せを自分で決められるのならば、俺のことを助けてくれたこの人のことを、今度は俺が支えたいと思ったのだ。どうして小金井くんが俺なんかをゆるすのか、俺のことをすくいあげてくれるのか、俺みたいなのに幸せになってほしいのか、は分かんないけど。でも、いつか遠い未来で、小金井くんに、ありがとー!と言ってもらえることが、当面の目標である。
「それだったらやっぱり出所しないとな」
「……うーん……それはちょっと……」
「なんだよ。そこは、そうだね!がんばる!って言えよ」
「がんばれない……」
「どうしてそうなんだ。がんばれ」
「小金井くん、手伝ってくれる?」
「ああ。できることなら」





……俺に社会復帰を手伝ってもらっている時点で、俺を養いお世話して面倒を見る、という最終到達点からはがんがん遠ざかっていくのだけれど、溝口はそこに気づいているんだろうか。脳味噌が溶けているので、恐らくは気づいていない。どうしようもないなあ。
精神安定剤を毎晩飲む必要があることは知っていた。看守側からの引き継ぎ事項に、そこだけはきちんと目をかけてやってくれ、としっかり記載もされていた。だから俺は要するに、わざと無視をしたのだ。処罰覚悟の上で作為的に、溝口が薬を飲んだかどうか確認せずに、明日の約束をするだけして、扉を閉めた。こわれる彼が見てみたかった。自分ではそうは思えないらしいけれど、溝口は放っておけば「普通」「一般人」に紛れてしまう。彼の異常を知りたかった。文面ではなく、自分の体験として。
薬を半ば無理矢理飲ませる寸前、ちゃんとできなかった、かみさまは見てるのに、と啜り泣きが聞こえた。だから、俺の言葉に半狂乱になって噛み付いたり引っ掻いたり叩いたりしてくる彼を押さえつけながら、何度も何度も、耳元で吐いた。
かみさまなんか、どこにもいないんだ、と。



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