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おはなし




「明日はどこに行こうか」
荒れ果てた世界で、そう問われる夢を見た。これはきっと夢だと分かる、曖昧な泡沫。轟々と風が吹き抜け、砂嵐が舞う。傷んだ金色が舞うように吹かれて、振り向きもしない彼の顔は見えず、背中だけがぼんやりと霞んでいく。まって、と手を伸ばすことすら叶わず、上げようとした手はどろどろと蕩けていた。骨も残さず、ぺたりと零れ落ちる指先。まるで昔から軟体生物だったみたいなふりして、自己の存在を消し去っていく。触ることすら叶わないのは。声を掛けることすら、許されないのは。
罪を犯したのはお前だと後ろ指をさされているようで、どこかの内臓が軋んだ。
「、は」
ぜえ、ぜえ。荒い呼吸に辺りを見回して、自分か、と気づいた頃には、全身が汗だくだった。見慣れた自分の部屋。緩く差し込む月明かり。深夜3時。嫌な夢を見た、と思うことはできても、どんな夢だったか思い出せはしないのだ。夢なんて、そんなもの。見た夢の内容を遺しておくと、頭がおかしくなるとか、言うじゃないか。忘れてしまうのがきっと正解なのだ。普段から俺がそうしているように。
しばらくぼおっと惚けていたけれど、嫌に喉が渇いて、なにか飲もうと布団を抜け出す。べたり、喉の中同士が張り付いているような、嫌な感覚。棉の上を歩いているような、覚束ない奇妙な足取りで、キッチンまで辿り着いた。いやに遠かった、気がする。冷蔵庫を開ける。
「……………」
閉じた。冷蔵庫にあってはならないものがあった。もう一度念の為に確認して、それを取り出す。左手首から先。節くれだったその手は、どこか覚えのあるような、誰のものでもないような、不思議な感覚だった。綺麗とは言い難い。指先はがさついているし、ささくれがある。けれど、嫌いではなかった。動かないその左手をぐるぐると観察して、取り敢えず当初の目的を達成しようと、お茶を汲んだ。リビングのテーブルの上に手を置いて、対面する。その手は、動かない。沈黙を続ける左手の甲を、自分の右の人差し指でなぞりながら、これを落としてしまった人は困っていやしないだろうか、と他人事に思った。
ころりと裏返して、手のひらを上に。手相、なんて分からないけれど。よくよく観察すれば、掌の真ん中に、爪の跡があった。強く強く握り締めた時に出来る傷だ。俺は、それを知っている。お人好しの幼馴染と、連絡も取り合わないぐらい酷い子どもじみた喧嘩をすると、彼の手にはこの跡ができる。いざとなったら俺なんて捩伏せられるくせに、激昂して怒鳴り散らすことも出来るくせに、言いたいことを我慢して、握り拳に全部呑み込ませて、血が出るまで喰い縛って、それで、俺と彼の間は拗れていく。相手のことを慮らずに、言いたいことを全部言い合えたら、どれだけ楽だろう。そんな明け透けな世界、気持ちが悪いけれど。
では、これは幼馴染の左手なのだろうか。しかし、そうと断定する要因がない。指輪をしているとか、消えない傷があるとか、そういうわけでもないもので。恋人同士のように、指を組んで誰かさんの左手と手を繋いでいると、ぴくりと指に力が通ったのが分かった。体から離れたことに、気がついたのだろうか。緩やかに指を曲げ伸ばしして、息を吹き返した左手は、ゆっくりと俺の腕を伝って、上がってくる。いやにひやりとした手だった。もう、死んでしまっているのかもしれなかった。首筋にかかった左手に、このまま俺も死ぬのだろうか、と気づく。いやだなあ。なにか成し遂げたいことがあるわけではないけれど、もう少し、楽しいままでいたい。
「……ねえ。やめようよ」
掠れた声だった。自分の声帯から発せられたくせに、他人のものみたいな声だった。懇願に近いそれを受けて、左手はぽろりと力を失い、首から離れた。今度こそ冷え切ってしまったその手に、ごめんね、と謝った。君のために、君一人のためだけに、生きられたら良かったのに、俺はそうはなれない。たったひとつの大切を、そうであると認めることは、依怙地で意地っ張りで子どもで、一人になることが大嫌いな人間には、難しい選択なのだ。
冷たく固いなにかになってしまった左手は、かわいそうなので、指を繋いで連れていくことにした。俺の体温が少しでも移って、暖まってくれたらいい。自分の部屋に戻ろう。それで、布団を被って、誰かさんの左手と一緒に眠ろう。朝になったら、夢は終わる。そういうものだ。そういう風に、世の中ってものはできている。
だから、部屋に早く帰りたかったのに、いくら歩いても自分の部屋は見えてこなかった。知らない扉ばかりを通り過ぎて、進む。知らない声の嘲笑と、知らない声の誘い文句。冷たい左手は、依然何も言わなくて、腹が立った。そっちがその気ならこっちだって、と適当な扉を開けて、真っ暗闇に呑み込まれそうになって、慌てて逃げた。一人は怖い、一人は寂しい、一人は嫌だ。何度時計を見ても針が進まなかった頃を思い出して、胃の奥が冷えた。誰か、誰か、誰でもいいから、誰か。
誰でもいいならば、と声が聞こえた気がして、振り返る。ばらばらと、ぬめったなにかが伸びてきて、絡め取られそうになって、悲鳴をあげた。声を上げるな、抵抗するな、黙って言うことを聞け、と言葉が降ってきて、膝が折れそうになる。べたべたとなすりつけられる、人肌のぬくもりを残す気持ち悪いぐちゃぐちゃに、たすけて、と左手に縋った。もしかしたら、これだけは守らなくちゃ、と抱え込んだ、の間違いかもしれなかった。だんまりを決め込んでいた左手は、俺が泣きそうになった頃、ようやく元気を取り戻して、流れ星みたいに駆け抜けて、周りのどろどろをぶっ飛ばして、自分もぼろぼろになって帰ってきた。血が出てる。痛かったね、とそれを拭えば、またくたりと動かなくなってしまった。
ああ、あれは、自分の部屋の扉だ。開けようとドアノブに手をかけて、中から聞こえた嬌声に弾かれた。また、知らない声。左手をぶら下げたまま、どこへ行けばいいかも分からずに、扉の前にへたり込んだ。眠りたいのに。疲れたのに。ぼんやりと、煙草の匂いがした。きっと中の人たちが吸っているんだろう。そのまま燃えてしまえ、と心の何処かで思って、背を付けた扉が熱くなった。灰になるまで、そのまま燃え続けてしまえばいい。察されていても、本当にあったことを包み隠さず全ては、知られたくない。ぼろぼろの左手が、応えるように、俺の指を握った。
真っ暗闇が近づいてくる。早く、朝にならないかな。早く、早く。

「……すげえ顔」
「……おはよう……」
引き気味の、傷んだ金色。魘されていた、と続いた言葉に、心配だったのか、様子を見にきてくれたのか、と問いかければ、微妙な顔をされた。体調でも悪いのか、と額に当てられた、左手。細かい傷があって、節くれだっていて、ささくれがあった。冷たいそれに、目を細める。
それも多分、夢だった。


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