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おはなし



「……覚えてる?」
ん、と聞き返せば、波の音に紛れて、小さく笑った声が聞こえた。俺たちが腰掛けているのは海岸と道路の境目のコンクリートで、伏見の足元はぷらぷらと揺れていた。俺の爪先が砂を蹴って、それに対抗するように足をばたばたしたせいで、伏見のサンダルは結局飛んでった。片足だけ裸足。ぼうっとそれを見ていると、ざらついた砂交じりの風が吹いて、真っ黒な髪を揺らす。べたべたするから嫌だ、と嫌悪たっぷりに睨めつけられた数年前を思い出しつつ、覚えてるよ、と返せば、にんまり笑われた。その顔はあんまり変わってない。
「そうだよなあ、小野寺が俺のことで忘れることなんかひとっつもないもん、あるわけない、そうでしょ」
「……本人がそれ言う?」
「あは」
困ったみたいに眉を下げて笑うのは、心の底から楽しい時。くつくつ震えて、さっきコンビニで買った缶の安いお酒を煽った伏見が、もう片方のサンダルも放り脱いで、砂浜に立った。まだちょっと熱い、とその場で地団駄踏んで、子どもみたいにふわふわと、海の方へと歩いていく。沈みかけの夕日と、凪ぐ波の音。斜めに掛けてたカメラを構えたら、一瞬振り返りかけた伏見が、くるりと回ってまた背中を向けた。よく分かってらっしゃる。
前も、こんな写真を撮ったなあ。そう思い返すと、むず痒い記憶ごと掘り返すようで、恥ずかしくてたまらなくなるのだけれど。



高校三年生の夏だった。受験生、真っ只中。この先の進路のことを考えると、伏見のように勉学に真面目に励み、希望校に合格できるようベストを尽くすのが、真っ当なのだろう。しかし残念なことに、俺は頭が悪かった。うん、要するに、飽きた。伏見と同じ大学、行きたいに決まってる。落ちたりしたらお先真っ暗、それこそ地獄だ。けど、飽きたもんは飽きた。志望校に余裕で足をかけている伏見は、俺の勉強を時たま見てくれるけれど、結構な確率で溜息ついて放り出される。がんばってる、けど、これじゃ足りないってのも、分かる。でも飽きた。もう勉強したくない。伏見は息抜きに弓を引いているようだけれど、俺は今弓を番えても、むしろそっちに全振りしてしまうので、恐らく息抜きにはならない。息抜きっていうのは、楽しいことでしょ。そう、だから。
「デートをしたいです」
「合格したらな」
「……デートを……」
「大学に、合格、したらな」
「あう、う、痛い」
言葉の区切りで、ペンを額に当てられて、目を閉じる。今日は伏見が勉強を見てくれる日だ。うちの母に頼み込まれたらしい。お兄ちゃん馬鹿だから!もうほんと伏見くんがいないと望みゼロだから!助けると思って!その日の夜ご飯は目玉焼き乗せたハンバーグにしてあげるからお願い!と先日頼み込んでいるのを見たし、伏見がハンバーグにつられてこくこく頷いたのも見た。実の母親にそこまで馬鹿だと思われていたのか、というショックと、自分と同じ大学に入学しようとがんばっている恋人の勉強を、ハンバーグに釣られないと見てくれない伏見にも若干落ち込んだ。頭は悪いけど、勉強した分、ちゃんと分かるようになってると思ってたんだけどなあ。
「……海とか、行きたい……」
「べたべたするから嫌だ」
「俺そんなしないよ」
「潮風だ馬鹿。行くなら一人で行け」
「ゔ」
べしり、とトドメの一発が飛んできて、逆さから俺の参考書を覗き込んでいる伏見が、でもこの辺はもう出来るようになってるな、と少し満足そうな声で言った。え、そうなの。自分じゃわからない。
「数学は他よりマシなんじゃない。合格ラインにぎりぎり、ってぐらいには取れてきてる。もうちょっとだな」
「すごい、俺」
「すごいすごい。よくがんばった」
あ、嬉しい、今の。自分のことのように頰を緩めた伏見が、その可愛い顔のまま、「で、このクソみたいな点数の英語は何?」と模試の結果を握っていたので、背筋が凍った。それ隠してたのに、なんで持ってんの。
「まあ、一個ずつできるようになってるだけ、いいのか」
「……英語がんばったら、デートして」
「えー……俺、お前のモチベーションになるつもり、さらさら無いんだけど……」
「伏見は俺の勉強見たらハンバーグ食べれるのに、俺はがんばってもなんもないのって、ずるいじゃんかさあ!」
「がんばったら、俺とのキャンパスライフを手に入れられるじゃん。ねっ」
「もっと近くの目標がほしい!」
「欲まみれだな、お前は……」
半笑いで引き気味の伏見が、まあでもそっちのがやる気は出るよなあ、と頬杖をついた。あの時もあの時もそうだった、と過去の俺を振り返られて、がくがく頷く。そう、長期的に動けるタイプじゃないの、ちっちゃくてもいいから短いスパンのご褒美が欲しいの、例えば一つ頑張ったら一回デートとか!夏休みだしさ!そう熱く語れば、夏休みだけど一応学校はあるぞ、と口を挟まれて、次の言葉に詰まった。知ってるけど。追加授業、というか、塾みたいな感じで教室を解放して、先生が勉強を見てくれるようになってるのは、百も承知だ。行く日は事前に申し出ておく必要があるので、俺も申し込んである。でも、全日参加じゃないし。伏見なんかほとんど行かないじゃん、余裕だからって。
「デート!」
「駅前のゲーセンならいいよ」
「違う!遠く!」
「道場?」
「海に行きたい!」
「だから嫌だって」
「見るだけだから!水着とか着ないから!」
「えー……」
「あっ、じゃあ、あの、海の近くの水族館行こう?ねっ、夏休みだから花火見れるって、こないだ電車に貼ってあったし」
「……水族館ねえ……」
どこかに行くこと自体は、了承してくれたらしい。けど、一日使って出かけるのはちょっと、って感じ。英語頑張るから!と半ば土下座のように頼み込んで、嫌々ながらも取り付けた、久し振りのお出かけ。楽しみで楽しみで、その場で跳ね上がってテーブルの上の麦茶を零して、伏見がめっちゃ怒った。



「必死すぎて途中から俺笑ってたの、気づかなかっただろ」
「こっちは必死だからねえ……」
「あーあ。小野寺にあの時の熱はもうなくなった。俺に慣れてしまった」
そんなこともないのだけれど。ぱちゃぱちゃと水に足をつけながら笑う伏見に、そう正直に言うのも癪で、そうだね、慣れちゃったよ、と嘘をついた。むっとした伏見が、俺に向かって水を蹴ってくる。やめて、カメラあるんだから。
「うるさい。あっち行け、大人ぶりやがって」
「うわ、つべた、伏見だって子どもぶってるくせに」
「いいだろ、別に。素直にはしゃぐことの大切さを知ったんだ」
「……そっちのが俺は好きだよ」
「だって、小野寺はずっと子どもじゃん」
「そうじゃなくて……んー、自分がそうするのが、じゃなくて。伏見がそうしてるのが」
ぱしゃ、と音が止まって、自分の思い違いに気づいたらしい伏見が、じわじわと赤くなった。好意を伝えられて素直に赤くなるのも、大人になってから。高校生の伏見だったら、俺の好きを信用していなかったから、鼻で笑って終わりだった。笑うなや、とまた水をかけられて、堪えきれずに笑った。
酔っ払ってもいないくせに、ふらふらと揺れる足取り。わざとだ、と思いながらも、支えに行ってしまう自分がいて、いつまで経っても手のひらの上で踊らされるがまま。しっかり歩いてよ、と手を取った俺に満足そうな笑みを浮かべた伏見は、あの時は外で手だって握れなかったくせになあ、と茶化してきた。
「……しょうがないだろ、二人きりでデートなんて、滅多に無かったんだから」
「かわいかったなー、あの時のお前は」
「う、うるさい」
「照れてる。今は全然かわいくない」
「もう!」
「あははっ」
夕暮れで紅く染まる頬。素直に、正直に、好きなものに好きだと言えるようになった彼は、酷く儚げに見えた。



英語は、ものすごくがんばった。落第点だった俺が、みるみる及第点に近づいて行くので、本当は出来たんじゃないのか、と兄には胡乱な目で見られた。違う。目標があると頑張れる、と言う話だ。伏見も若干引いてた。やればできるんだから最初からやれよ、とも言われた。最初からできてたらこんな思いはしない。
無事、英語で伏見の提示したラインを越すことができたので、デート決行となった。マジで破茶滅茶に喜んだし、行く日が決まった時は寝れないぐらいわくわくしたし、数日かけて服を選んだ。何時に集合して、何時にここについて、とタイムスケジュールを組む俺に、ガキか?と伏見が見下し切った目を向けてきた。それだけ楽しみなんだよ、だって久し振りのデートだもん。
「……うーん……」
かっこいい服を選んだ、つもり。濃い緑のシャツと、好きなバンドのTシャツ。薄い青のジーパンと、こないだ買ったサンダル。でも、うーん。雑誌とかテレビとか見て研究したけど、普段よりはマシかなあ。リビングの全身鏡の前で唸ってる俺に、母が「なに着たって同じよ!お兄ちゃんでかいんだから!邪魔!」と洗濯物を抱えて突っ込んできた。邪魔でごめんなさい。あと、カメラを持っていくことにした。兄ちゃんが、新しいのを買ってもう使わないからって譲ってくれた、少し古い型の一眼レフ。使い勝手がまだ分からないところもあるけれど、せっかくだし、写真に残せたらいいなあって思ったのだ。
待ち合わせ場所は、いつも使ってる最寄駅。お昼ご飯は食べてから集まろう、となって、ちょうど暑さのピークの時間に待ち合わせることになってしまった。暑くて歩くのだるいから迎えに来い、と伏見は言ったけれど、こう、待ち合わせするのもデートっぽいじゃん。絶対遅刻しないように早めについて、そわそわしながら待つ。この付近一帯で、一番そわそわしている自信がある。変じゃないかなあ、やっぱり普段着ないシャツなんかやめたらよかったかな、と自分を見下ろして、サンダルをぱたぱたさせながら待っていたら、待ち合わせの時間を2分ぐらい過ぎた頃、伏見が来た。だぼついたTシャツと、ガウチョ。雑誌で見て、俺にはこういうのは着れないけど、伏見には似合いそうだね、なんて話した感じのやつだ。伏見はその時ガン無視だったけど、寄せてくれたのなら、覚えててくれたのかな。そしたら、嬉しい。
「ぁ、おっ、おはよ!」
「暑い。コンビニ行ってくる」
「えっ、うん、俺も行く!」
思いっきり声裏返ったけど、伏見はしれっと俺の横を通り抜けてコンビニへ行ってしまった。ついて行った先、涼しい店内をぐるりと回って買ったのは、冷たい飲み物と、アイス。汗とかかいてなさそうに見える普段通りの伏見が「もう溶ける」とアイスに手を伸ばしたので、俺も一緒に買った。冷たくておいしい。しゃくしゃくとみかん味のアイスを齧っていると、棒は手が汚れるから嫌だと吸って飲むアイスを選んだ伏見が、じっと見ていた。食べる?と聞けば、嫌そうな顔。
「いらん」
「おいひいよ」
「いらない」
「そっかあ」
「……電車来るけど」
食べながらじゃ乗れないので、急いで食べ切ったら、頭がきーんとした。伏見も同じく食べ切らなきゃいけないんじゃないかと思ったら、いつのまにかもう袋はぺったんこになっていた。早い。よっぽど暑かったか、よっぽどお腹が空いていたか、どっちだろう。
しばらく電車に揺られて、乗り換えて、また電車に揺られて、窓の外の景色が変わっていく。もっと文句を言われるかと思ったけど、案外静かな伏見は、じいっと窓の外を見ていた。ほぼ無言。俺より肌が白いなあ、とか、睫毛が長いなあ、とか、髪の毛がふわふわだなあ、とか、ぼんやり思ってるうちに、到着した。ぼんやりしすぎて、通り過ぎるところだった。頭茹だってんのか?と伏見には嘲笑されたけれど。
「ついたねっ」
「暑い」
「んーと、水族館は、あっちだって。行こ!」
「日陰歩きたい」
「……あんまないよ……」
「潮風がうざい」
とかなんとかつらつら言う割に、ちゃんとついてきてくれる。同い年くらいの女の子と男の子の二人組が、手を繋いで寄り添って海に向かうのを見て、俺も伏見と手を繋ぎたいな、と思ったけど、想像だけでどきどきしてしまったからやめた。もっと暗くなってからにしよう。明るいうちは、まっすぐ顔を見れなくなってしまうから。断られるのが怖いとか、どうせ嫌がられるだろうとか、そんなことは分かり切ってるけど、今みたいに前後斜めじゃなく、隣同士で手を繋ぐ距離に近づくことが、想像なのに心臓が煩いぐらい鳴り響いて、どんどん頭がぐらぐらしていく。黙り込んだ俺に、伏見がぱたぱたと早足になって、斜め前に立って顔を覗き込まれた。ふ、とちょっと笑って。
「変な顔」



足が濡れてしまったので、乾くまで待って、それから砂を落として帰ることにした。流せるものも無ければ、拭くものもないので。さっき座っていた場所まで戻って、鼻歌交じりに足をぱたつかせている伏見に問うた。
「あの時、本当に嫌だったの?」
「ん?なにが」
「海なんて来たくなくて、水族館も嫌だった?俺がうるさいから、ついて来てくれただけ?」
「んー……遠出は楽しみだった、けど、海が嫌だったのはほんと」
「……タイムマシンがあったら、海はやめろって高三の俺に言うのに……」
「水族館は好きだけど」
「ほんと?」
「今更嘘なんかつかないって」
ふにゃ、と笑った伏見が、行く電車の中はすっごい楽しかったのは覚えてるよ、と続けた。あの無言、楽しみの無言だったんだ。ぶつくさと文句を言っていたのが本気の文句だったというのも同時に分かってしまい、微妙なところだけれど。
「カメラさあ」
「これ?」
「カメラなんて、なんで持って来てるんだろうとは、思った。あの時の俺、それ聞いた?」
「ううん。聞かれなかった」
「だよなあ。じゃあやっぱ、そこまで心許してなかったんだな」
「……さっきから明かされる事実、地味にショックなんですけど……」
「そうかね」
見せてよ、と手を伸ばされて、カメラを渡す。電子機器に強い伏見は、ぽちぽちとボタンを弄り、胡乱な目で「これは消します」といくつか消去を食らった。そんな変な写真あったかな。しかしながら、自分の価値をよく分かっている伏見からして、許せない自分がそこにいたのだろう。俺は伏見ならなんだっていいので、そこの差異には気づけない。すいませんでした。
ピントの合わせ方ぐらいしか教えていないと思うんだけど、こうやるの?とカメラを構えて覗き込む姿はそれなりに様になっていて、この写真を撮りたいとカメラを構えようとして、無いことに気づいた。すごい恥ずかしい。取り繕うように、貸してあげるから撮ってみて、と偉そうな口をきいてみたけれど、伏見は首を横に振った。
「俺は、撮ってる人を見る側だから」
「……撮られる側じゃなくて?」
「そう。お前が嬉しそうにカメラ構えてるところ、の真似、をするとこうなります」
「ええ……俺、結構格好付いてんじゃん……」
「自画自賛すんな、ばか」
伏見譲りです。



水族館に着いて、涼しい館内に一呼吸置いて、しばらくゆっくり見て回った。夏休みということもあり、人は多かった。背の高くない伏見は少し不満げに眉を寄せていたけれど、流されてはぐれるのも嫌なようで、ちょろちょろと器用に俺の近くをキープしてくれたのが、むずがゆくて嬉しかった。特に急ぐ用事も無し、順番をのんびり待ちながら、水槽の前で二人して無言で泳ぐきらめきに見惚れた。俺はどちらかというと、伏見の目に映るきらきらを見ていたけれど。残しておきたい、と思って覗いたレンズ越しの伏見は、やっぱりとてもきれいなものに見えて、何度かシャッターを切ったけれど、タイミングを計ってぷいとそっぽを向かれてしまうので、思ったようには行かなかった。自分のこと大好きじゃん、黙って撮られてくれたらいいのに、と言ったけれど、嫌そうな顔をされるだけ。仕方がないから、水槽の写真を撮った。伏見が割とゆっくり見て回る性質だったのもあって、自分でも満足いくまで写真が撮れて、楽しかった。
伏見が気に入って離れなかったのは、深海魚のコーナーだった。照明は落とされ気味で薄暗くて、人があまりいなくて、静か。けれど、水槽の中で確かに息衝く命があって、1秒が1分になりそうな時間の流れの中で、伏見はぼおっとそれを見つめていた。俺も隣で同じように見ていたけれど、暗いし静かだし、眠たくなった。フラッシュ禁止、と書いてあるここでは、カメラは出すことも躊躇われた。何の気なしに、水槽を見ているというより伏見を見ている俺のことなんて、とっくに気づいているとは思うけれど、伏見は何も言わずにただ無言で水槽の前に立ち続けた。なにを思っていたのかは、分からない。透明な海老みたいなのがかわいくて、これかわいいね、と指差して振り返ったけれど、伏見はぼおっと大きい魚を見ていた。かわいいかわいくない、きれいきたない、の判断基準ではなさそうだ。
ショーも見た。小腹が空いて、カメの形のメロンパンも食べた。かめろんぱん、と読み上げて普段より幼く笑った伏見は、すごくかわいかった。秒で仏頂面に戻ったけど。
「あ、ちょっと涼しい」
「……帰ろ」
「えっ、まって、ちょっとだけ見て回ろうよ、ちょっとだけ、お願い」
花火まで待とうかとも思ったのに、伏見がとっとと退場口に向かってしまったので、またの機会ということで。水族館を出たら、夕暮れが近づく空の色が広がっていて、まだ青いうちに帰りたくはなくて、嫌々な伏見を引き止めた。海には行かない、潮風は嫌いだ、ときっぱり言われて、譲歩して、海岸が見える道沿いを歩くことにはなった。本当なら海岸を歩きたかった、んだけどなあ。
サーフボードを抱えた人が歩いていく。露出の高い、半ば水着のような服を着た女の人が笑いあっている。日が落ちていくにつれて、大人の世界に迷い込んでしまったような気になって、酷く急き立てられた。まだ早い、と誰でもない誰かに言われているようで、後ろをついてくる伏見を何度も振り返って確認しては、うざったがられた。歩みの速度を緩めて隣を歩こうとした俺を、何故か追い抜かした伏見は、しれっと前を行ってしまう。どうして隣を歩いてくれないんだ。もやもやしたまま、でももう少し一緒に過ごしたいのは確かで、まだ帰りたくなんかなくて、少しずつ辺りは赤くなっていく。不意に伏見が、海の方に顔を向けて、指差した。
「あ。あれ」
「え?」
「なんだろう」
「えっ、え、どこ行くの!」
ぱた、と段差を降りてしまった伏見は、まっすぐに海へと向かっていく。嫌だって言ったのはそっちじゃんか、と思ったけれど、置いて行かれる恐怖が勝って、待ってよお、と不甲斐ない声で追いかけた。細い道を抜けて、橋だかなんだか分かんないところを渡って、どんどん波音が近づいていく。道路を抜けた先には、真っ赤な夕焼けと、何処までも広い海があった。息を呑む。なーんだ、と残念そうな声を上げた伏見が、ざり、と砂交じりの階段に踵を擦った。
「行っちゃった。船みたいな、なんかよく分かんないのがいたのに」
「……ネッシーみたいな?」
「それは湖だろ」
伏見は決して、砂浜の方には降りようとしなかった。ざあざあと寄せては返す波の音に紛れて響く楽しげな声に、眉を顰めていた。潮風に髪を煽られて、くしゃくしゃと片手で掻き回す。きゃあきゃあとはしゃぐ声がする度に、不満そうな顔が濃くなっていく。海が嫌いなんだろうか、と思った。それとも、浮かれてはしゃいで楽しそうな人が嫌いなのだろうか。ふわふわと風になびいて伏見の服がはためいて、ちかりと夕陽が目を射った。ぽそりと吐かれた言葉を、聞き返す。何か大事なことを言ったんじゃないかと思って、息急き切って。
「え!?」
「……だから、喉乾いた。自販で飲み物買ってきて」
「……俺が?」
「そう」
「一緒に……」
「行くわけないじゃん」
「ここで待っててくれる?」
「どっか行って欲しいの」
ぶんぶん、首を横に振って、駆け出した。好き嫌いの多い伏見だけど、最近お気に入りのものぐらいは、過ごした時間の長さのおかげで、知ってる。あの、柑橘系の紅茶、さっぱりしてて冷たいやつ。一つ目にはそれがなくて、隣の自販機に駆け込んだ。あった。ちゃりちゃりと小銭を入れて、自分の分と伏見の分と、二つ買って走って戻る。大人びたあの場所に、一人にしたくなくって。
ばたばたと戻ったくせに、声をかけられなかった。さっきと同じ場所に、ゆるゆらと服と髪を風に舞わせながら立ち尽くす伏見に、何も言えなかった。ただ、熱に浮かされるみたいな気持ちで、レンズを覗いた。紺の混ざる夕暮れ。人混みから遠く、一人ぼっち。海には、美しい悪魔がいるのだと、小さい頃に童話で知った。人を海底へ引きずりこむ、麗しい悪魔。きっとこれはそういうものなのだろう、と思った。たった一枚だけ、撮った写真。被写体の顔も写っていなければ、なにを撮りたかったのかすら、自分以外には分からない。きっと、これは、誰にも見せることはないのだろう。見せてはいけない。自分だけのものにしていたい、しなくてはいけない。
どれだけ固まっていたのか、カメラを構えていたこっちには気づいていないらしく、俺が駆けて行った方を訝しげな顔で振り向いた伏見に、我に帰った。しばらく惚けていたのかもしれない。走って戻った俺に、なにしてたの、とつっけんどんに聞いた伏見が、手渡したペットボトルに機嫌をよくした。ああ、これで正解だったらしい。
「帰ろ」
「……うん」
「満足?」
「……うーん……」
「付き合ってやったのに」
「……ありがとう」
「もっと感謝しろ」
平然と軽口を叩く伏見が、すたすたと、海岸から離れて行く。まるで何かの線が引いてあるみたいに、立ち入ろうとしなかったのは、どうしてなんだろう。理由は、俺なんかには分かるわけもない。



帰り道。ふと思い出して、聞いてみた。
「なんで海岸入らなかったの?」
「……散々遊んだじゃん」
「や、今日じゃなくて、高校生の時」
「砂が靴に着くのが嫌だったから」
「……は」
「足が汚れるのが嫌だったから、でも可」
「……え、マジでそんな理由……?」
「そう」
「……俺、めっちゃ悩んで……超考えて……あの時……」
「うける。なに深読みしてんの?」
「あの頃の伏見相手に深読みしなかったことないからね!?自分の思わせぶりをもっと分かっててよ!」
「罪な男だからなあ」
「深読み損だよ!」
「勝手に深読んだのはそっちじゃんか……」
呆れ顔。でもちょっと可笑しそうな目尻。馬鹿にされている。素直にならなかったのはそっちだし、お互いものすごい空回りと遠回りと道草と行き違いを繰り返した末の今があるとは言わずとも分かり切っているので、まあそうかも、と伏見は頷いた。分かってくれればよろしい。
「思わせぶって生きてきたんだからしょうがなくない?」
「……魔性」
「よくそんな難しい言葉知ってましたねえ」
「やめて!撫でないで!」
人がいないのをいいことに全力でふざけてけたけた笑っている伏見に腹が立って腰を引き寄せれば、ぴ、と人差し指を立てられた。面食らってそれに目を向ければ、にんまり笑って。
「待て」
「……はああ……」
「よし、って言うまでだめだぞ」
「……咄嗟に待つのがほんと嫌……」
「俺の躾の賜物だから」
家に帰ったら、足を洗って、今日撮った写真を見返して、お腹が空いてたらちょっと夜食でも食べて、お風呂に入って眠ろう。高校三年生の自分じゃあ想像もできない「大人の生活」に、少し笑えた。



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