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君に望まれたのは永遠の命と誉れ




平気だった。マジかよ。気絶している人身御供の彼を抱いたアンちゃんと、よれよれのおじさんと、教祖の息子、って取り合わせ、かなり不審だと思うんだけど、真っ白な礼装から私服に着替えた溝口くんが、「遠くから来てくれたお友達で、ちょっとお散歩に行ってきますね」と受付的な人に告げると、なにも反論はなく、行ってらっしゃい、とゆっくり頭を下げられただけだった。何か仕込まれた?とアンちゃんに確認したけれど、どうもなにも仕込まれていないらしい。警備が下手なのか、必ずここに戻ってくるという自信があるのか。
事務所に戻って、こがねいっちに連絡をとる。溝口優吾くんを無事確保したよ、と告げれば、すぐに電話は切れた。そう遠くないうちに、二人で話ができることと思う。逃げないでここにいてね、誰かに連絡を取るのもなし、と約束すれば、はい、はい、とにこにこ頷いた溝口くんは、誰が来るんだろう、と楽しみにしているようだった。まるで、バラエティ番組でも見ているくらいの軽さだ。自分がどれだけ探しまわられていたのかも、心配されていたのかも、想われていたのかも、知らない態度。かなりの温度差がある。こがねいっち、傷つかないかな。あの感じだと、彼、話を聞くだけ聞いて、「でもみんなの為に帰らなくっちゃ。探してくれてありがとう」とかってにこにこして、すっと帰りそうだけど。
まあ、二人の話は二人の話だ。アンちゃんが抱いて離さない、名前もわからない彼について、調べなければならない。アンちゃんが最も懸念しているのは、自分のような存在を再び作り上げようとしたならば、というところであって、それが現実だったら、彼女はここからいなくなるだろう。自分を作った人たちを、今まで俺が宥めていたから見過ごして来た人たちを、壊しに行くのだ。それは、俺は、嫌だなあ。
「……わーお」
「いたそー。あの儀式の前にも、痛いことされてたんだねえ」
彼の服を脱がせれば、変色したものも多々ある痣と、治りかけの切り傷と、擦り傷と、注射の跡と火傷の跡が残っていた。新しいものが割と多い。今日でいよいよ最後だったんだろう、あのまま放っておいたら本当に、用済み御免であっさり殺されていたに違いない。罪を背負って召し上げられてくれてありがとう、というクソみたいな感謝と共に死体を葬送される、そんな未来を防げて、良かった。彼の出元を知るまで警戒モードらしいアンちゃんが、下着まで剥がしてじろじろ見るので、女の子でしょ!と窘めれば、ちょっと表情が和らいだ。
一応先程、溝口くんにも彼のことは聞いたのだけれど、「人身御供を天に送ったら、新しい御供を連れて来てくれるおじさんたちがいるんです。その子が誰なのか、俺は知りません」だそうで。人攫いとか人身売買とか、そういう裏事情に詳しいアンちゃんに、心当たりは?と聞けば、うーむ、と難しい顔をしていた。いっぱいあるよお、だって。こわい。
全裸に剥かれて眺め回されても、彼は目を覚まさなかった。というより、よくよく観察してみれば、息が浅い。診て貰った方がいいのかね、なんてアンちゃんに話して、アンちゃんは渋ったけれど、お医者さんを呼んだ。腕のいい医者だ、きちんと診察してくれるだろう。
そんなこんなしているうちに、勢いよく事務所の扉が開いた音がした。人身御供だった彼に布団をかけて、入り方の方を覗けば、息を切らして汗だくの、こがねいっちがいた。
「あ、こがねいっち」
「早かったねー」
「……感謝する。悪かった。金は払う。溝口はどこにいる」
「この奥の応接室に、」
「話がある。しばらく入ってこないでくれ」
「い、るよ……」
「しにそーな顔だったねえ、こがねいっち」
「……心配で心配でたまらない人の顔だよ、あれは」

しばらくして、両方ともある程度の決着がついた。まず、こがねいっちの方から。
「ありがとうございましたー」
「……ん?あれ?帰るの?」
「うーん、いいえ。小金井くんが遊びに行こうって、しばらくお家にも泊めてくれるって言うので、家に連絡したんです」
「はあ」
「そしたら、いいですって!てーじさん、俺、友達と遊ぶの久しぶりなんです。だから、楽しくって、えへへ」
ありがとうございます、とにっこにこで頭を下げた溝口くんを見下ろすこがねいっちの目が怖かったけれど、もう二人のことは二人のことなので、ほっとこう。なにかあったら、その時はその時だ。あの場所から溝口くんをただで浚えるとは到底思えないし、こがねいっちも聡いから、そんなこと分かってるだろうけど。お金もちゃんと払ってくれたし。
次、身元不明の彼。来て貰った医者にいろいろ診て貰ったところ、血液中のなんたらかんたらの濃度がどうたら、と難しい話までされたが、よく分からなかったので聞き流した。アンちゃんが分かるから平気。外傷は跡が残るものではないこと、後遺症になるレベルの怪我はないこと、が分かれば充分だった。目を覚まさない理由も、薬を仕込まれていたかららしい。血液中のなんたらっていうのがそれで分かるんだってさ。死体になった時におかしなものが検出されたら怪しまれるから、体外に抜けて行く薬物しか使われていないようだけれど、抜けきるまではしばらく白痴になるだろうとのことだった。およそ自分の自己紹介ができるようになるまで回復するのはしばらく先、ということだ。確かに、息をしているのかどうかすら危うい彼は、時折生きることを思い出したかのように薄眼を開けていたけれど、すぐに意識を手放してしまっていた。酷いことをするもんだ。
そして、運がいいことに、身元不明の彼について、こがねいっちが知っていたのだ。手掛かり程度のものだったけど。二人が事務所を出て行く前に、この人も拾って来ちゃったんだけど知らない?と駄目元で聞いたところ、不思議そうな顔をしたこがねいっちが、ああ、と声を上げた。
「三上大嘉、だったか。知り合いの知り合い、程度の認識だが、他人ではない」
「その知り合いさんに彼のこと聞いたら分かるかな?」
「分かるんじゃないか。小学校が一緒だったと言っていた、大学時代に再会して、……ああ、こいつだ」
「名前控えさせてもらってもいいかな」
「構わない。なんなら連絡を取ろうか?」
「いやいや、自分たちでやるさ。俺たち、探偵だからね」
「……そうか。腕が良いことは、俺も知っている」
そう言って、こがねいっちは少し表情を和らげた。ちょっと嬉しかった。
そして、数日が経ち、無関係なところ巻き込んで申し訳ないが、お知り合いさんのことをいろいろ調べ上げさせてもらった。当の彼は、今現在俺の後ろに座っている。現在地はファミレスである。アンちゃんが接触を図るみたいだけれど、わざわざここを指定された理由がわからんなあ、とコーヒーを啜っていたら、きゃぴきゃぴのかわいい声が聞こえて来た。
「あー!いずるんじゃん!小学校ぶり!ひさしぶりー!」
「ぁ、えっ、え?だ、誰?」
「あたしだよお、仲田あやめ!同じクラスだったじゃん!」
「あやめ……あー、あやめ……ちゃん」
「あはー、忘れてたなー!」
「覚えてる、覚えてます、あはは」
ぶー、ってなるとこだった。席同士の仕切りがわりに立ってるガラスに映るアンちゃんは、ファミレスの制服を着ている。それが着たかっただけだな!絶対そうだ!小学校時代の友人に成るならここじゃなくても良かったはずだ!そういえば前にご飯食べた時、「かわいい〜♡」って言ってたし!
いずるん、とアンちゃんが呼ぶ、曖昧な笑みを浮かべている青年。新城出流、と言ったか。調べて行くうちに、彼についてはいろいろ分かったけれど、割愛する。こないだ映画の予告見たよお、俳優さんになったのなんか知らなかったんだから、と興奮仕切りの様子で騒ぐアンちゃんに、しーっ!声が大きい!と新城くんはあわあわしている。ブレイク寸前、といったところか、まだ騒がれることに慣れていないらしい。困ったように辺りを見回した彼は、それでも、知っててくれてありがとうね、と頰を緩めた。良い子だ。ファンサービスの精神をよく分かっている。
「なんでファミレスでご飯?やっぱり、忙しいの?」
「ううん。今待ち合わせしてるところで、もうすぐ恋人が来るんだ」
「そうなんだー!きゃー!」
「だから声が大きいってばっ、しーっ!」
「あっ、ごめえん……そーだ、こないだ、小学校の時の同窓会があってえ、連絡取れた人だけで集まったんだけどねえ」
「へえ。俺連絡来なかった」
「だって誰もいずるんの連絡先知らなかったんだもーん。教えてよ」
「いいよ。ラインでいい?はい」
「わはー、芸能人とライン交換だー」
「悪用しないでね」
「しないしない!あっ、それで、いずるんの映画の話にもなってさあ。三上くんがびっくりしてたよお」
「……上大岡ちゃんが?」
表情は見えないが、声のトーンからして、頰が引きつっていそうだ。仲良しじゃなかったっけえ?と問いかけたアンちゃんに、なかよし、なかよしねえ、とぶつぶつ呟いた彼は、少し逡巡して、仲良しだね、と言葉を返した。嘘だ。俺でもわかる。普通の会話に見せかけて、アンちゃんはかなり突っ込んで探りを入れている。上大岡ちゃんのこと好きなの、と疑わしげな声を上げた新城くんに、誰にも言わないでよお!とアンちゃんがはしゃいだ。深く息を吐いた新城くんが、割と本気のトーンで告げる。
「やめた方がいいよ。あの人、何考えてるかほんっと分かんないから」
「ええー?」
「覚えてないの?いじめられてた子を助けるために、いじめっ子の子に酷いこと突然言ったりとか。上大岡ちゃんならやるだろうなって思ったけど、まさかほんとにそんなことするとは思ってなかったし、変なんだよ、あの人。怖いから、好きにならない方がいいよ」
「でもお」
「あやめちゃんかわいいから、ね?」
「……ええー?」
アンちゃんがでれでれしはじめた。新城くんがぺろりと食べられる前に撤退しよう。俺が席を立てば、ちらりとこっちを見たアンちゃんが、あ!他のお客さんとこにも行かなきゃ!とファミレス店員の設定を思い出した。また連絡するねえ、とうきうきで彼と別れたアンちゃんが、着替えて裏口から出てきたのと合流する。
「……アンちゃん」
「えっへへー、かわいいねー、いずるん!また会いたいなあ、寝取ったら恋人ちゃん怒るかなあ」
「女の子でしょ!もお!はしたないこと言わないの!」
「あっ、そおだあ!恋人ちゃんもアンちゃんが抱いたらいいかなあ?」
「猛禽の目をやめなさい!こら!」
「てーちゃんも混ざる?」
「まざっ、ま……混ざっていいの……?」
「あは、いいよお」

三上大嘉くん。イデアで調べがついたので、アンちゃんのような人工物ではないことははっきりした。アンちゃんはまずそれにほっとして、「パパ達はもうアンちゃんみたいなのを作ることをやめてくれたんだねえ」と零した。やめたというか、完成品がアンちゃんしかいないだけで、試してはいるかもしれないけどね。まあ、それを突っ込みだしたらきりが無い。いろいろ調べて、現実問題彼と知り合いだった新城くんの話も加味して考えるに。
「おーちゃんは、天然物のアンちゃんなんだねえ」
「そうだね。他人からの視点でしか自分の立ち位置を定められない、だから、変な奴と言われれば変な奴になるしかないし、従順な生贄を望まれればそうなる」
「パパが知ったら、この子欲しがりそー。アンちゃんとこの子の子どもとか」
「うわー、やめてよ、天災じゃん」
「丁度いいターゲットがいないかなーって人攫いさんが探してたところに、ぴったりバッドタイミングで、おーちゃんが通りかかっちゃったのかなあ。望まれるとそうならざるを得ないから、おーちゃんは非の打ち所のない人身御供になったわけでしょ?」
「そうだね」
「アンちゃんは、そう在れって作られたから、自分の意思で成り代わる先を選べるけど、おーちゃんは、自分じゃ選択できないんだね」
それってちょっと、かわいそう。アンちゃんのがおねいさんだから、面倒見てあげたい。彼の髪を撫でながらそう零したアンちゃんが、だめえ?と俺を仰ぎ見るので、ほっとくわけにはいかないでしょう、と彼女の頭に手を置いた。彼のことを洗ったが、身寄りが見当たらなかったのだ。意識が戻っても、この子には行く宛がない。むしろそもそも、人身御供というキャラ立ても俺たちが奪ってしまったので、設定を作ってあげないとこの子は全くの真っさらになってしまう。ふ、と意識を浮き上がらせた彼が、薄く目を開けて、ぼんやりと宙を眺めた。もうすぐ、ちゃんとお話出来るようになったら、いっぱいかわいがってあげるからね。
「ね、おおかみちゃん」
「えー!なにそれ、かわいー!」

「たいへんだ、てーちゃん」
「今俺おおかみちゃんの髪の毛をつやつやにしてるから……」
「てーちゃん!大変なの!聞いて!」
「痛い、はげちゃう」
未だ眠りこけている時間の方が長いおおかみちゃんの髪の毛にトリートメントを施してあげていた手を止める。最近ちょっとおしゃべりできるようになってきたんだ。設定の付与には余念無く、俺のことを大好きでいてくれ、俺を甘やかしてくれ、ロリ幼馴染のような存在であってくれ、スキンシップは窘めつつも受け入れてくれ、と刷り込み中である。ぼんやりしながらそれを聞いているおおかみちゃんは、眠りに落ちる寸前、「ここにいて」と俺の手を握ってくれるようになった。いるから、ちゃんと戻っておいで、と声をかければ、安心したように眠るのだ。かわいかろう。
なにをそんなに焦っているの、とアンちゃんに問いかければ、マシンガンのような勢いで説明された。喋らなくていいことまで喋ってない?
「あのねアンちゃんね、こないだの宗教のとこの信者さんの男の人一人色事で手懐けて飼ってるんだけどね、あっどうやったかっていうと気持ちいいことをご褒美にして課題を達成しないとご褒美あげないって躾け方なんだけど、アンちゃんそれパパにされてすごい嫌だったからそのパパは殺しちゃったんだけど、それでねその男の人から連絡が来てね、みぞぐちゆーごくんが帰って来たんだってゆっててね、一緒に知らん男も引っ立てられてきたんだって、みぞぐちゆーごくんも帰って来たくて帰って来た感じじゃなくて見つかっちゃったみたいな感じで、多分それってこがねいっちだよね、こがねいっち捕まっちゃったんだよねえ!?」
「そうかもね」
「助けに行かなきゃ!アンちゃん、あんなところにみぞぐちゆーごくん帰って欲しくないし、こがねいっちには笑ってほしい!」
「うん。てーちゃんもそう思う」
「おーちゃん寝ててね!アンちゃん、さくっとやってくるから!」
「待ってアンちゃん!一人で行ったらさくっと殺っちゃうでしょ!俺も行く!」
「あぶないからだめ!」
「だめじゃない!行く!」
「そんなことしたらもうちゅーしてあげないから!」
「えっ嘘、うぐぅ……それは……ぐぅ……」
「おーちゃんとここにいるんだよ!」
「……でもアンちゃん口にちゅーしてくんないしな……」
「うぐ」
「……やっぱ行くわ」
「てーちゃんのばか!」
「馬鹿でいい。アンちゃん、殺さないで解決しなさい」
「……てーちゃんの前で、こわいアンちゃんになりたくないもん……」
しおしおと髪の毛をへこたれさせたアンちゃんが、がんばる、怒っちゃってもてーちゃんがいてくれたらアンちゃんはがんばれる、と拳を握った。彼女を追い立てる過去の敵をいくら手にかけようと構わないけれど、そうでないところで人を殺めて欲しくない。アンデッドエネミーの名を持つ彼女に、敵であって欲しくない。俺のわがままに、付き合ってくれてありがとう。

俺を小脇に抱える勢いで、たのもお!と白い建物の中に飛び込んだアンちゃんは、千切っては投げ千切っては投げ、暴力沙汰に慣れていない一般の信者さんは悲鳴をあげて逃げ出す始末だった。完全に地図が頭に入っているらしく、アンちゃんは迷いなく進んで行く。祀りごとの部屋まで辿り着くと、いきなり入って不審者だと思われて二人が危ない目にあったらいけない、と深呼吸をし、すうと目の色を消した。あ、やべ、見失う。
「アンちゃん?」
「……、彼処、畏み申し上げます」
「アンちゃん待って、どこにいるの。なんか言ってからにして、急に混じらないで」
「……てーちゃん、静かにしてて。アンちゃんが隠してあげる。声出さなければ、ばれないから。ね」
「あ、いた」
急に化けられると見失うのだ。しかも、この人に成り代わると事前に伝えられているならまだしも、その場に合う人間の最適解に突然成り代わって混ざられると、流石の俺でもアンちゃんがどこにいるのか分からなくなる。見失わないうちに、アンちゃんの小指を握って、これはアンちゃん、と唱える。忘れちゃうからね。
部屋の中に入れば、以前と同じく真白のままだった。信者が囲む中、前に立つのは中肉中背の男。この前も儀式を仕切っていた、司祭だ。隣に、悄然、といった様子の溝口くんが立ち尽くしているところを見ると、多分あれがお父さんで間違い無いんだろう。おおかみちゃんが座らされていた場所に、縛られて転がされているのは、予想通りといえば予想通り、こがねいっちだった。こがねいっち、締まらないなあ、親しくなるために渾名で呼んでたけど、もう彼は依頼主ではないのだし、小金井くんと呼ぼう。
荒事はアンちゃんの方が得意だ。この場面で、俺一人暴れたところで、誰も助けることはできない。けれど、この空間の中で全てを食い尽くし思うがままにできるのは、俺の身を隠す麗しの殺戮兵器なので、俺はアンちゃんに従うしかない。アンちゃんが「静かにしてて」と言った以上、何があっても俺は声を上げるわけにはいかないのだ。今にも飛び出しそうになっていても、それを押し殺すしかない。大人だから、そういう分別はつけなきゃいけない。良いように持って行くために、刀を抜くタイミングは図らなければならない。そんなこと全部分かってるけど、大切な人を助けるために俺たちに頼ってきた依頼主が嬲られ床に転がされているのも、友達と遊ぶのは久しぶりなんだと笑った何も知らない生贄が青い顔をしてその友人を見下ろしているのも、見てはいられなかった。結局、飛び出しかけて、それをしっかり読んでいたアンちゃんに口を手で覆われ肩を外され、悲鳴も出せずに激痛にもがく羽目になった。いい大人なのに泣いちゃった。
この男は我らが贄を世俗に放ち、下々の享楽に耽らせ、神を欺いた愚か者である。そう朗々と響いた低い声に、信者たちが首を垂れる。ゆっくりと彼に近づいた教祖は、ここではじめて父らしく、我が息子に触れた汚らわしい家畜が、と嫌悪感を剥き出しにして、彼の頭を踏みつけた。声も上げず、されるがままの小金井くんが、乱れた髪の隙間からじいっと溝口くんを見ていた。礼装に身を包んだ溝口くんは、がくがくと震えながら、時折膝を折りそうになりながらも、逃げ出さずにそこで立っていた。
こうなるなんて、きっと溝口くんは思いもよらなかったのだ。幼い頃から、信者のために身を切れと、人のために生きることこそが至上であると、そう教えられて、それが正しいと信じてきた。自分も罪をその身のうちに溜め込んだ末に、浄化して地獄に落ちるのだと、そうすることで他の皆が神の御許へ昇れるのだと、教えられてきた。溝口くんにとって、自分は尽くす側の人間であって、何かされるに値する存在ではなかったのだ。だから、小金井くんに庇われている理由が、分からない。自分のために危険を呈して、逃げることすら叶わなくなった今この瞬間ですら、瞬きもせずにいっそ鋭過ぎる眼光で睨まれていることも。それを告げずにただ黙って、たった数日でも友人として自分を自由にし、一緒にいてくれたことも。大切にされる、ということが、人の為に生きよと育てられた彼には分からない。きっと、今やっとそれを理解しようとしているのだ。自分を想った友人の、死に物狂いの誘拐劇を、犯人の殺害という手段で決着するその場面で、ようやく。
「優吾。来なさい」
「……、」
「優吾」
「……は、ぃ、父様」
「お前には外の世界を許してきた。世俗の穢れをその身に背負うためだ。お前が大きな罪を負うことで、皆が救われる。そうだね?」
「……はい……」
「こんな屑に唆される為ではない。この男は、我らが神を一度裏切った。報復のつもりか、浅知恵を」
「……ぇ、……?」
「迫害者だ。神の教えを跳ね除けた、悪魔め。神子に手を出そうなどと、無礼千万にも程がある。皮を剥いだら泥が溢れてくるだろうよ」
「……こがねいくん、そうなの……?」
かみさまは、信じなくちゃいけないんだよ。そう零した溝口くんは、自分の零した言葉に縛られているようだった。その通り、良い子だ、と太い指で頭を撫でられた溝口くんが、ぐらぐらと揺らいで行く。信じなくちゃいけないのはどうして、と、彼の根本をへし折る疑問が湧き上がったのが目に見えるようだった。この宗教に育てられた彼が、誰より知っている。穢れを孕んだものには、どのような施しを与えてやるべきなのか。
教祖の元に、白い布で顔を隠した信者が、何かを捧げ持ってきた。肘から先ぐらいの長さはある、大振りの刃。人を傷つけるための道具だ。それを捧げ持った教祖が、溝口くんに、手渡した。
「優吾、お前がやりなさい。悪魔殺しは善業だが、友に手をかけることは悪業だ。出来ることならば、お前には罪を背負わせたい。召し上げられる瞬間まで、皆の罪を被ってもらいたいのだ。悪魔に刃を振るえば、其の者が泥を被るかもしれない。皆の為に、できるね」
「……父様、待って」
「できるね?」
「……………」
「こう、するんだ。早くしないと、痛い思いをするのは彼だぞ」
どつり、と重い音を立てて、小金井くんの太腿に、刃が突き立てられた。抜かれたそれは、血に塗れていて、幸い大きな血管は避けたのか、それでもじわじわと赤色が広がっていく。声も上げなかった小金井くんは、ひくりと肩を震わせた。握らされた鈍色の刃物は、細い溝口くんの手に余るようで鋒がふらふらと揺れている。座りなさい、と肩を押されて、どたりと膝を折った溝口くんが、自分の目の前に転がる友人を見下ろす。ぐるぐると落ち着きなく惑う目は、今にも眼球が零れ落ちそうなくらい見開かれていた。アンちゃんに、ぐ、と押さえつけられてはじめて、また飛び出そうとしていたのか、と気づく。アンちゃんはどうして止めないの。このままじゃあ、溝口くんも小金井くんも、辛いだけだ。そう問いかけることもできずに彼女の顔を見遣れば、柔らかな頰には大粒の涙が流れていた。まばたきもせず、はらはらと流れ落ちる雫は、まるで宝石のようで。場違いにも、美しいと思ってしまった。世界の敵であるように作られた彼女が、他人の為に心を痛めて、涙を流すことができるようになるなんて、人間のようじゃないか。
「……、ぃ」
「小金井くん?小金井くん、ごめんね、痛かったね、俺、こんなことになるなんて、」
「悪魔め。口を開くな。これ以上我が息子を籠絡しようとするか」
「ぁ、ぐ」
「やめて!」
小金井くんの頭を踏みつける教祖の足を、払い除けるように、悲鳴に近い金切り声を上げた溝口くんが、刃を持っていない方の手を振り回した。緩い力でぱしりと当たったそれは、痛くも痒くもなさそうだったが、教祖は足を引いた。叩かれたことよりも、彼の発した言葉の方が、周りに与えた影響が大きかったのだ。たった一言。「やめて」。お願いされればなんでも聞いてきた、他者が為の人身御供である彼が自分から発した、意思。騒つく信者たちも、衝撃を受ける教祖も、きっと溝口くんの視界には映っていなかった。ごめんね、痛かったね、と友人の頭を抱きかかえた彼は、罪を呑み込み地獄に堕ちる掃き溜めというよりは、全てを愛し赦す、聖母のようで。
嬲られた怪我と薬で、舌が回らないのだろう。薄ら目を開けた小金井くんは、雨のように降ってくる、どうしても守りたかった友人の言葉を、ぼんやりと聞いていた。恐怖で指が外れないのか、片手に自分を刺すための刃を握りしめたままの溝口くんに抱かれたまま、はくはくと唇を動かして、ようやく声が出た。供物の自我に怯える信者たちは、気づいていない。二人がぽつぽつと言葉を交わしていること。溝口くんが泣いていること。小金井くんが、笑ったこと。
「……小金井くんは、俺に、して欲しいことを一つも言わなかったね。どうして身体を売るんだって聞いた時も、やめてほしいとは言わなかった。家に泊めてくれる代わりになにかさせてくれってお願いした時も、して欲しいことなんかないって言った」
「……、そ、だった、っけ……」
「そうだよ。かなしかったよ」
「……ごめん」
「俺がかわいそうだから?もっとなにかさせたら、かわいそうだと思ったから?」
「……、」
ふる、と小金井くんが首を横に振った。かくりと落ちそうになった彼の頭を抱え直した溝口くんが、じゃあどうして?と重ねて問いかける。ぼんやりと目を閉じた彼に、ねえ、まだ話の途中だよ、行かないで、としゃくりあげた溝口くんは、自分の後ろに立つ父親に気づいていなかった。ぐ、と襟首を掴んで引っ張られた彼の手が、それでも小金井くんを抱きかかえて、離そうとはしなかった。
「こがねいくん、こが、っぁう」
「まだ誑かそうとするか、この悪魔が!薬を増やせ!優吾、早く刺すんだ!神は遥かなる境地から見て居られる!この場にいる全員が深淵の冥府に飲み込まれる前に、お前がやれ!」
「やだ、やだよお、小金井くん、なにかゆってよ、俺にして欲しいことないの、ねえ、助けてって言ってよ、ねえ!」
「、……」
しあわせになってほしい。そう、彼は呟いた。
丸い目を、ぱちりと瞬いた溝口くんは、手を離してしまった。重い音を立てて、小金井くんの身体が落ちる。引っ張り上げられて突き飛ばされた溝口くんの軽い身体が、彼と離れる。白い布を被った信者が、注射器を持って小金井くんに近づいた。恐らくは最後の言葉が聞こえたのだろう教祖は、貸しなさい、と溝口くんに手を出した。自分の息子はあの罪人に情けをかけると予想したから、代わりに自分がやろうと。
「、ぁ?」
ぱた、と落ちたのは赤い、赤い液体で、教祖の手のひらからぼたぼたと床に垂れ落ちていた。その場にいる誰もが、状況を理解していなかった。誰よりも冷静だったのは、自分の父親の手を切り裂いた、溝口優吾だった。
「……優吾、なにを」
ふらりと立ち上がった彼は、もう震えていない刃を見て、ぼそぼそと呟きだした。儀式の時には、血をたくさん出す。血がたくさん出ると、供物は動かなくなる。動かなくなった供物は神様へのささげもの。ばらばらにして、持って行きやすくする。祝詞は、かしこ、かしこみ、もうしあげます。なにを言っているんだ、と、遅すぎる疑問を抱いた俺の目を、アンちゃんが塞いだ。
「……ごめんてーちゃん。これが、一番、あの子達を救う方法だと思う」

濡れた音。信者の悲鳴と、逃げ出す足音。訥々と零れ落ちる、溝口くんの祀り言葉。断末魔。鉄の匂い、腐敗臭を思わせる篭った陰気。見えないけれど、耳と鼻で、全てを察するには十分すぎるぐらいの情報が与えられた。彼は全ての罪を背負う人形だから、彼の凶行を誰も止められなかったのだ。下手に手出しをして、自分が地獄に落ちるのは、嫌だ。誰も教祖様を助けようとしなかったのは、そういうことだろう。
静かになった部屋の中には、よんじゅういち、よんじゅうに、とぽつぽつ数える溝口くんの声と、繰り返し、柔らかいものに固いものを差し込む崩れた音が残った。きっと、あの真っ白な服は、見るも無残なことになっている。ごじゅう、まで数え切った溝口くんは、からん、と刃を床に捨てて、どこにもいない神様に、御祈りをはじめた。精神的にも肉体的にも、かなりの重労働だったのだろう。はあはあと息を荒げながら、震える声で、彼処、畏み申し上げます、奉って我が罪、捧げ申します、と、唱える。
「我が父に五十の罪を、全能の神に五十の誉れを、永遠に果てぬ楽園への道は閉ざされず、我が身は深淵に抛つ所存の、……の……」
「……てーちゃん」
「ん」
「こっち向いて。まっすぐ」
「うん」
「まっすぐ、前だけ見て進んでね。こがねいっちがいるから、外傷と呼吸の確認。警察と救急車を呼んで、絶対にみぞぐちゆーごくんのことは見ないであげて」
「わかった」
「アンちゃんは、みぞぐちゆーごくんをお手伝いしに行くね」
彼女の手がそっと目から離れて、視界が明るくなった。倒れ伏している小金井くんの方へ、言われた通りにまっすぐ近づく。溝口くんがなにをしているのかは見えないし、アンちゃんも見えない。優しく甘い、柔らかな声だけは、聞こえてきた。
「お祈り、忘れちゃった?難しいよね、君にとっては、こんなこと、はじめてだし」
「……ぁ」
「見るだけじゃあ、わかんないよ。手伝ってあげる、一緒にやろう?もう死んでるから、あとは、ばらばらにするんだよね」
ここをこうして。うん。こっち持ってて。ここでいい?そう、そしたら引っ張って、ここ外すからね。うーん。じょうずじょうず!なんて、アンちゃんと溝口くんの会話は、料理でもしているみたいだった。見るなと言われたので見ないけど、帝士さんは大人なので、死体ぐらい見たことある。アンちゃんは過保護だなあ。小金井くんは、呼吸はしているものの、刺された太腿の傷と、空になった注射器が、かなり彼の体にダメージを与えているようだった。信者たちが逃げるときに蹴り飛ばされでもしたのか、意識はなく、たらたらと止まらない鼻血を押さえてやりながら、携帯を取り出す。警察と、病院。
ねえ、小金井くん。幸せになって欲しい、というのは、無茶苦茶なお願いだよ。だってそれじゃあ、結局がんばるのは溝口くんじゃないか。君が言うべきだった言葉は、幸せにしてやるから一緒にいてほしい、とか、そういうことだったんじゃないのかな。そうしたら、今こんなことには、もしかしたらならなかったかもしれないんじゃ、ないのかな。



数日後。なんなら、数十日後。
「お邪魔します」
「あー!国家の犬め!」
「ぎゃー!騙したなー!アンちゃんたちをしょっぴくつもりだなー!」
「悪いことはしてないぞー!」
「あの、いや、いたっ、何を投げてるんだ、やめろ」
十分後。
俺とアンちゃん、最近お茶汲みを出来るぐらいに回復したおおかみちゃん、で並んで、小金井くんの前に座る。勝手に調べるな、と文句を言われて、調べなかったこっちが馬鹿だった、と返した。
「だってまさか公安の人間だなんて思わないじゃんか!」
「公安所属じゃない。嘘は一つも書いてない」
「嘘書いてないからアンちゃん見破れなかったんでしょおー!こがねいっちのいじわるー!」
「悪かった、わかった、悪かったよ、黙ってたこっちが悪い」
きゃんきゃんと吠える俺たちに、呆れたように片手を上げた小金井くんが、溜息をついた。おおかみちゃんがにこにこしながらそれを見て、話は聞きました、と付け足して、小金井くんの肩が更に落ちた。
小金井清。書かれていたプロフィールには、なんの偽りもなかった。けれど、よく考えたらただの会社員があんなことするか?あれだけの額をぽんと動かせるか?と気になって、イデアに調べてもらったのだ。そしたら出てきたのが、「警視庁公安部」の文字。真っ青になったわ、そりゃもう。しかしながら、警察学校に通っていた経歴もなければ、勤務先が警察庁の系列なわけでもない。どういうことだと不思議だったが、それ以上洗おうとすると本当にマークされかねないので、手を引いたのだ。本人が来てくれたならこれは幸い。気になっていることをみんな聞こう。
「潜入捜査官、と呼ばれているものなんだろうな、分かりやすく言えば。一般人に紛れることを職務としている」
「へえー」
「みぞぐちゆーごくんのことも、あの宗教団体が怪しかったから、調べてたの?」
「いや、……恥ずかしい話、あれはみんな俺の単独行動だ。上からも叱られた。足もこんなだし」
「……まともに動かないの?」
「リハビリ中だ」
刺された足は、太い血管を避けた代わりに、筋を切り裂いていたらしい。どうも歩き方が覚束ないと思ったら、治りかけ、ということだ。他の傷は、残るようなものはないし、病院で適切な処置をしたら薬もすぐに抜けた、とのことだった。そんな言い方したら、ここでずっとお世話されてたからおおかみちゃんがいつまで経ってもぼんやりさんで、その間俺とアンちゃんにいいように可愛がられ遊ばれてたみたいじゃないか。おおかみちゃんにはその記憶はないけれど、ごたごたが済んでからの一週間ぐらい、おおかみちゃんの睡眠時間がまだ長い間、凄まじく楽しかったなあ。ねっ、アンちゃん、楽しかったね。
「ねー」
「で?警察の人がなんの用?もうお金は貰ったから、用済みでしょ?」
「……本当なら、これもばれたら、かなり叱られるんだがな」
お前たち、上からかなり目をつけられてるぞ。そうあっさりと言い放たれて、上、上ねえ、と考え、あんまりよく分かっていないらしいアンちゃんと、全く分からずとりあえずにこにこしているおおかみちゃんの手を取った。よし。
「二人とも。逃げるよ」
「えー、アンちゃんがボコってきたげるよお!だいじょぶだいじょぶ!」
「だいじょぶくない!そんなことしたらどこにもいられなくなっちゃうでしょ!東京は多分だめだ。こがねいっち、国外まで行かなくてもいいよね?」
「俺からも提言はできる。捜査するに値しないと価値を下げるよう動いてみるが、まあ、このあたりにいるなら、いずれ調べが入ることになるだろうな」
「アンちゃん、南と北どっちがいい?」
「えー、ここがいいー、いずるんともまた会いたいしー」
「おおかみちゃん、暑いのと寒いのはどっちが好き」
「うーん、寒いのですかねえ」
「北に行きます!探さないでください!」
「ああ」

かくて丹原探偵事務所は、日本列島北端、青森に拠点を移したのである、めでたしめでたし。の前に。
通報を受けたやってきた警察に現行犯逮捕された溝口くんは、育てられた環境なども加味し、彼に世間一般的に正常とされる判断能力がそもそも備わっていたかどうかも定かではないことなどもあり、かなりの減刑が成されたらしい。テレビはその話題で持ちきりだったが、溝口くんを責める声は意外にも少なかった。世間的な判断は、彼も被害者、ということで落ち着いたのだろう。しばらく刑務所でちゃんとお仕事をして、精神科にかかって、外に出て来られる日は遠くもないらしい。小金井くんとたくさん遊ぶ約束をしたんです、遊園地に行って、花火をして、好きなだけ楽しいことをしていいって、小金井くんがそう言ったんです、と子どものように頰を緩めて、分厚い硝子の向こう側で、溝口くんは笑っていた。宗教に育てられ、多少なりともそれに依存していた彼なので、依存対象が「人のためになること」から「小金井くんといること」になっただけのような気もするが、友達と好きなだけ好きなことをしてはしゃぎ回ることのほうが、余程健全だろう。
「てーじさん、ありがとう」
「ん?俺は何にもしてないよ。アンちゃんと、あとこがねいっちががんばって、君もすごくがんばりすぎちゃっただけだ」
「ううん。てーじさんが来てくれて良かった」
ありがとう、と、彼はもう一度繰り返して、いつか写真で見たみたいに、恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。

いらっしゃい。僕らの名前は丹原探偵事務所。金さえ積んでもらえれば、どんな事件もぱぱっと解決。我らが所長の丹原帝士、麗しの秘書兼鉄砲玉のアンデッドエネミー。新しく加わりましたのは、事務その他を請け負うバイトの三上大嘉。何か御用立てありましたら、いつでもご連絡を!

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