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君に望まれたのは永遠の命と誉れ



「助けてください」
「あらー」
「あららー」
「……お金なら、あります」
じー、と音を立てて開けられた、鞄のファスナー。中には札束がいっぱい。わーお。流石の帝士さんでも、この大金を生で見たことはない。アンちゃんなんて、イーヤッホーウ!ってなっちゃってる。
「……助けてくれますか」
「オッケー!」
「ぜーんぜんオッケー!」

ご唱和ください。金さえ積まれればなんでも解決!僕らは丹原探偵事務所!
これは、丹原探偵事務所がまだ東京に拠点を構えており、所員はアンちゃん一人だった時の話である。東京編のラスト、とでも言ったところかな。この事件を終えた後、俺たちは青森の端っこに引っ込むことになる。ちょっと派手にやりすぎたから、という理由で。
寂れた雑居ビルの三階、ぼろっちい扉を開けた依頼主さんは、背の高い男だった。きちんとしたスーツを着て、臙脂色のネクタイを締めた、表情のない男。要項をいろいろ書いてもらう紙に依頼主さんの名前も書いてもらうんだけど、ちょっと手が止まって、田中、と書き出したので、目敏いアンちゃんが、嘘はだめぽよ☆と何処からか取り出した筆で名前を塗りつぶした。無言で顔を上げた彼が、ふう、と息を吐いて、新しい名前を書いた。
「えーと、こがねい、さん」
「……偽名ぐらい使わせてください」
「小金井さんは偽名じゃないよね?」
「ほんとっぽいよー、アンちゃんそういうの見抜くの得意なんだー」
「へー。こがねいっちはなにして欲しいの?」
「……信用できると聞いて頼りに来たんだが」
「信用?できるよできるよー。ねっ、アンちゃん」
「ねー、てーちゃん!」
「……………」
ぴくりとも笑いやしねえ。さて、お仕事モードにしますか。
こがねいっち、もとい、小金井清さん。若いねー、22歳だって。ほんとかなー。ちょっとサバ読んでそうな気もしなくもないなー、落ち着きすぎてるし。新卒で大手某会社に入社、高所得の超エリート。そんな恵まれマンな彼の依頼内容は、ある団体の調査だった。書かれた名前を調べると、ヒットしたのは新興宗教。20年ぐらい前からじわじわと勢力を広げつつある、新しい神様を祀る宗教らしい。詳しくはちゃんと調べないと分かんないけど。ここと君には何の関係があるの?と聞いたけど、それははぐらかされた。どうして調べてほしいのか、だけははっきりさせておきたくて問えば、少し目を泳がせて。
「助けたい人がいる、ねえ……」
「こがねいっちじゃ助けらんないから、助けるのを手伝ってほしいってことかなー」
「代わりに助けてくれ、が正しいんじゃない?そもそもにして、宗教系って自分で嵌りに行くもんだから、なにをもってして助けるなのか分かんないけど」
「えー、でもー、今回はアンちゃんのファンの方の企みじゃなさそうだから、ちょっと楽しみー!」
「とりあえず調べてみようか。助けてほしい人っていうのも、詳しく教えてもらわなきゃいけないし」
「そいえば、あんまなんも教えてくんなかったねー」
「教えられるほど、彼も知らないのかもしれないよ?態度的に。知ってて隠してるっていうよりは、危ない状況にあるってことしか彼も掴めてないっぽかった」
「てーちゃん、探偵っぽーい!」
「だはは、でしょー」
「お金いっぱいもらえるから?」
「お金いっぱいもらえるから」
「キャッホー!がんばっちゃおー!」
「おやすみー」
「おやすみー!」

次の日。んじゃ、行ってくるでありまーす!と元気よく飛び出して行ったアンちゃんは、潜入要員である。誰かに成り代わるのではなく、何処にでもいそうな誰かになって、信仰宗教云々の詳しいことを調べてこようという算段。危なくなさそうなところまででいいからね、とは言ってある。細かいことが分かったら依頼主であるこがねいっちに一旦報告、その程度によって今後の詳しい依頼内容を伝えるかどうかを決めたい、とのことだったので。ちなみに、太っ腹なことに、どうであれお金は払ってくれるらしい。それだけ切羽詰まっている、という事実の裏返しのような気もするけれど。
二日後。たっだいまー!と帰ってきたアンちゃんは、あんまり元気がなかった。あんまり素敵なところじゃあなかったよ、と真っ直ぐに俺の目を見て言った彼女は、依頼主さんに本当のことを伝える必要はないかもしれない、とでも言いたげだった。ほんと、優しくなってくれて、嬉しいよ。人間を人間として認識できるようになった。不死の敵、なんて名を与えられた、人工的な君。それでも、依頼主さんに嘘はつけないよ、とアンちゃんの頭を撫でた。ちょっとしゅんとした彼女は、一言だけぽつりと呟いた。
「アンちゃんは悪い子だったけど、悪いことを考えたことはなかったの」
だから意味が分からない、と付け足しそうな、それを飲み込んだ、苦しげな声だった。あの人たちの信じる神様は、ちっとも優しくなんかなくって、アンちゃんは神様なんかいないと思ってるけど、あんな神様ならいらないって思ったぐらい、とぽつぽつ連ねた彼女が、眉を下げたまま目を合わせた。
「……聞きたい?」
「うん」
「でも、てーちゃんきっと、やな気持ちになるよお……」
「アンちゃん。俺は探偵さんなんだ。自分の気持ちと依頼者のくれるお金、どっちが大事かと聞かれたら、後者なんだよ」
「……アンちゃんもそう思うけどお……」

自分を清め、正しくあることで、天に召された後の生として神の御許に仕えることを許される、ことを信仰の軸としている、よくあるといえばよくある宗教である。鼠算のように増えることを目的ともしていなければ、この壺を買えば徳が上がります!というような宗教でもない。では、どうしてアンちゃんに嫌な顔をされているのか。それは単純、自分を清め正しくあること、が、自分以外の誰かに罪と汚れを背負ってもらうこと、にイコールで結びついてしまっているからだ。背負おうとしないなら、背負わせれば良い。人身御供を立てれば良い。欲望を一手に引き受け、罪を背負ったまま命を投げ打ち、自分の代わりに地獄に落ちてくれる誰かを、作り上げれば良い。そんな馬鹿な話があるか。信じる者は救われる、ので、他の信者を救うために貴方は犠牲となりましょう、というわけだ。
「アンちゃんは、その人に会えなかったけど。こがねいっちが、助けてほしい、って相手があの中にいるとしたら、人身御供の誰かさんなんじゃないかなあ」
「うん」
「……アンちゃん、その子を助けてあげたい。けど、本人は助けてほしいなんて思ってないかもしれないし、こがねいっちの気持ちも知らんぷりかもしれないし、だって、その子は、同じ神様を信じてるみんなのために、がんばってるんだよ?」
「うん」
「ねえ、てーちゃん、聞いてるの」
「うん」
「アンちゃんはどうしたらいいの?」
「自分で決めたらいいよ」
「……てーちゃん、所長さんでしょお。部下に指示を出すのは上に立つ者の義務なんだもん」
「こがねいっちからの依頼は受けるよ。でも、団体をぶっ壊せとは言われてない」
「……んー」
「アンちゃんがやりたかったらやっていいよ。てーちゃんが責任取ってあげる」
「……ずるうい……」
「わはは、ずるいでしょう。抱いてあげてもいいんだぞ」
「てーちゃんくさいからいや」
「えっ?」
「ふふー」
金色の髪の毛を指先で梳けば、おやすみなさあい、と頰にキスを落とされた。同じベッドで寝るし、頰や額にキスぐらいならするけど、触らせてくれないよなあ。身体で相手を落としてたくせに、こんなにいい女に触れないって、結構男としての沽券に関わるけど、てーちゃんはトクベツ!と口を尖らせられると何も言えない。くぴー、とすぐに寝息を立て出したアンちゃんの頰を撫でると、にやにやしていた。起きとるし。

探偵事務所を開く前は、何でも屋をやってた。大してやることは変わっていないような気もするけれど、お金が貰えるのが嬉しかったので、結構危ないこともしていたのは事実だ。アンちゃんと出会ったのは、その時だった。運び屋を捕まえろ、との依頼で、国外に逃げたと伝えられて、中国に飛んだのだ。アンちゃんも雇われで、運び屋側のグループについてた。敵対関係ってやつ。嗅ぎ回る俺を消せと命じられたアンちゃんは、真ん丸のお月様を背負って、目尻を柔らかく下げて、口角を上げて、でも笑わずに俺に手刀の切っ先を向けた。銃や刃物では血が流れるから、それでは目立つから、という理由だったらしい。可愛い子だなー、と見上げた俺の肋骨をへし折ったアンちゃんは、ひいこら逃げる俺を追い、ついでとばかりに片腕もへし折り、足を潰し、首を踏みつけ、チェックメイトを決めたところで、ようやく口を開いた。
たった一言だったけれど、なに言ってんだか分かんなかった。残念なことに、俺は博識でもなければ、多言語を使いこなせるわけでもないので、全く分かんなかった。ぎゃあぎゃあと、痛いっつってんじゃん!死んじゃうよ!手を引けとか言えばいいじゃん!ノータイムで殺しにかかってくんなよ!ふざけんな阿婆擦れ!と叫んだ。黙って聞いていた彼女は、んー、と独りごちて、口を開いた。
『いたいの?』と。
あの一瞬で、日本語を吸収したのだ。再び、いたい?とたどたどしく問いながら、足首を掴み上げられて、逆さまにされて、喚く。なんなんだよ!と叫んだ俺に、なんなんだー、と繰り返したアンちゃんが、にっこりして、俺の顎を蹴り上げた。マジで死んだ、と思ったけど、目が覚めたら素敵なホテルのふかふかベッドの上だったし、丁寧に治療されてたし、アンちゃんがにこにこしていた。血に濡れた服を俺の上にばさりと投げ捨て、ホテルのバスローブで艶めかしく笑った彼女は、あっさりと。
「みんなぶっ殺してきちゃった!たんばらてーじさん、雇ってくれてもいいよお?」と、完璧にマスターした日本語で。

「ぁぐぅ……」
「むにゃむにゃ」
「……アンちゃん……アンちゃん、ねえ……愛しのてーじさんに足が乗ってる……寝返りの速度じゃなかったよね……?」
「むにゃ」
「起きてるよねえ!」
「むにゃー」
夢を見るな、とでも言いたかったのだろうか。ちなみにその後、得体の知れないアンちゃんを雇うなんて暴挙、俺には出来なかったので、怪我も治っていないのに逃げ出した。しかしながら二日後ぐらいに、金髪を短く刈り取られたアンちゃんが、たすけてくださあい、と血だらけでへらへらしながら逃げ込んできて、二人でなんとかどうにかこうにかいろいろやって、今に至る。ちなみに、アンちゃんの髪は次の日には元に戻ってた。いまだにどういう仕組みかは分からぬ。
勢いよく降ってきた踵に腹を蹴り抜かれ、濁った声を上げながら目を覚ます。おはようございます。お腹には傷があるんだよ、と嘯けば、アンちゃんはてーちゃんを傷物になんかしてないよお、と全然笑ってない目で言われたので、嘘はやめた。自分と出会う以前の話、しかも俺が怪我をした系の話が、アンちゃんは心底嫌いらしく。アンちゃんといるようになってから怪我することもあんまりなくなったしね。アンちゃんにぼこぼこにされたのが一番派手かも。
報告出来る程度に調べはついた、とこがねいっちを呼べば、すぐに来た。きちんと着込んだスーツ、無表情。うりうりー、わらえー、とアンちゃんがほっぺを好きにしても、ぴくりともしなかった。あのアンちゃんが、しばらく遊んだ挙句に、すいませんでした、と手を引いたくらいだ。相当である。アンちゃんが調べてくれたことと、見解を話せば、黙って聞いていたこがねいっちが頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どう?信用に足りそうかな?」
「はい。自分が知っているものとほぼ同じ情報です。俺も、一度あの宗教にハマったふりをして、調べたことがあるんです」
「えっ?」
「え?アンちゃんじゃないのにそんなことできたの?」
「内部のことは外からではどうしても分からなかったので、仕方なく」
こんな神様は信じられないと脱会しようとしたら、ツケを払わされましたけれど。そう淡々と語られて、なにがあったかまでは突っ込んで聞けなかった。中を実際に見たアンちゃん曰く、「御供の代行者まがいなことでもされたのかなあ」だそうで。せめてもの罪を、汚れを、と彼に手が伸ばされたのだろうか。それを、鉄面皮の彼は黙って受け入れたのだろうか。救いたい人のために、自分一人ではどうにもならないと悟って、引き際をわきまえて、泥を飲んだのだろうか。見える場所に大きな傷はないが、彼はそういえばずっとスーツを着込んでいる。肌の見える範囲が狭まるように、という理由なら、辻褄は合うのだけれど。それをそうだと断定するのは、あまりに酷いとすら思う。
「それで?俺たちは、なにをしたらいいかな」
「助けて欲しい人がいます。子どもの頃から人身御供として育てられた、ここの教主の息子です」
写真を手渡されて、受け取る。カメラを向けられることに慣れていなさそうな、ふにゃりと照れた笑顔と、ゆるいピースサイン。若い男の子だった。かわいい顔立ちをしている。片側だけ長い髪の毛が、顔を少し隠していた。もったいない。溝口優吾といいます、とこがねいっちが付け足して、少し目を泳がせ、大学の同級生です、と言い訳のように吐いた。うん、それだけでここまで大金積まないよね。この子は、こがねいっちのなにかを掬い上げた人なのだろう。アンちゃんにとっての俺みたいに、自分の何かを決定的に変える相手、というのがこの世界には存在するのだ。
「アンちゃん見覚えは?」
「なーい。そういう人は隔離されてたっぽいから、下っ端アンちゃんは会えなかったし」
「恐らくは最上級の御供です。大学を卒業してから、連絡も取れなくなりました」
「卒業するまでは普通だったの?」
「普通……普通、でした。多分、普通なんだと思います」
自分には、普通がよく分からなくて。とこがねいっちが少し眉を顰めた。普通なんて、そりゃまあ確かに、人によるかも。帝士さんの聞き方が悪かった。君から見て、変わったところは無かった?と言い直せば、辛そうに目を閉じたこがねいっちが、呟いた。
「……理解できないところしか、ありませんでした」

「さて、アンちゃんや」
「なんだね、てーちゃん」
「お金を貰うからには、お仕事はきっちりするよ」
「おうおーう」
「最重要ミッションは、人身御供にされてる教祖の息子、溝口優吾くんを救い出すこと」
「アンちゃんにかかればそんなもん小指でちょいちょいやで!」
「関西弁までマスターしなくていいよ、アンちゃん」
と、言うわけで。潜入開始。
アンちゃんが事前に入り込んだのは、成り変われそうな誰かを探すためでもあった。幸薄そうな女のふりをした元気一杯のアンデッドエネミーは、静々と教会の中を歩いていく。アンちゃんの胸元にはカメラと盗聴器が仕込んであるので、俺は外で待機だ、アンちゃんに何かあった時用のバックアップ。二人とも中に入った挙句におめおめと捕まるのが一番最悪のパターンだからね。
『おはようございます。巡礼に参りました』
『入りなさい』
『ありがとうございます。彼処、畏み申し上げます』
お辞儀をしたのか、長い金の髪がカメラの前につるんと垂れ下がってきた。アンちゃんに成り代わられた女の人は、歌舞伎町で顔のいい男に囲まれて、お酒飲みまくりの豪遊三昧でうっはうはしているのだけれど、彼女は金髪でもなければナイスバディでもなかった。なのにアンちゃんはその人に成り切れるんだから、誤認って怖いよねえ。
普段よりは大人しいアンちゃんの、訥々とした祀り文句に、眠たくなってくる。どこで覚えたんだろ。学んでいないことまで知っている学習能力にはいっそ舌を巻く。彼女を作ったパパ達が、今のアンちゃんを見たらどう思うかなー、なんて。全体的に白を基調とした祭殿に向かって、彼女を含めて十人ぐらいが儀式をしているようだった。中央で主導しているのが祭司なのだろうか。もしかしたら、あれが教祖様なのかも。そもそもアンちゃんはなんの儀式に潜入したんだ、とぼりぼり耳をほじっていると、低い声が響いた。
『では、是より、罪の浄化に移る為り、我等の罪をここへ』
「……成る程」
からからと軽い音を立て、白い布の掛けられた檻が運ばれてくる。ふわふわと棚引く布の隙間に、人が垣間見えた。短期決戦型のアンちゃんらしい。人身御供に罪を被せる儀式に、直接突っ込んでいったわけだ。俺を当事者にする時間を最大限短くしたい、という彼女の知恵も含まれてはいるが。
ふわり、と布が取り払われて、露わになった檻の中には、白い襦袢に身を包んで、同じく白い布で目を覆われた、若い男がいた。あれが溝口優吾くんかな。顔が見えないので判別はつかないけれど、歳や背格好からして、恐らくはそうだろう。髪型なんかは、あの写真から変わっていてもおかしくない。檻の鍵が開く音に顔を上げた彼は、両脇を抱えられて外に出された。前が見えないからだろう、ふわふわした足取りの彼が、そこへ、と指示された場所にぺたりと座る。罪の浄化、と言ったか。なにをするか分からないけど、なんとなく嫌な予感がするなあ、とぼんやり思って。
『、ぁ、いっ……!』
「……うーわ。うわ、アンちゃん?聞こえる?聞こえてなくてもいいけど、俺そっち行くからね?」
ばちん、と響く音を立てて、坐禅で使いそうな板で背を打たれた彼の体が弓形に反って、押し殺した悲鳴が聞こえた。俺の言葉に、耳に小型の通信機が入っているアンちゃんは、とん、とん、と合図を送ってきた。二回だから、だめ、ってこと。一回だったら、おっけー、ってことなんだけど。だめでもなんでも行くからね、と告げると同時、白い部屋に響き渡る音で、もう一度彼が背を打たれた。次に構えられているのは、太い荒縄だった。あの司祭は、浄化、と言ったか。罪を背負わせるための儀式、ではないわけだ。ということは、命を落とした後神の御許に召し上げられることを崇高とするあの宗教で言うところの浄化というのは、要するに。
「あ、?誰だお前、は」
「ごめん悠長な説明してる暇ないわ!」
「が、っ!?」
アンちゃんが仕立てておいてくれた侵入経路を走れば、割とすぐに中の人に出会ってしまったため、申し訳ないけど走っている勢いのまま殴りかかって、寝てもらった。鼻血出てるけど、死にゃあしないから!人命には変えられぬってことで!

「っぜえ……ぉえっ、ぇ″え……ここどこだよお……」
えづくぐらい走った。もう歳なの、おじさんに近づいてるの、アンちゃんと出会った時ならまだしも、今更ハードなことさせないで。要は、飛び込んできたのはいいが、どこをどう進めばアンちゃんのいるところに着くか全く分からない、というわけである。何人か鉢合わせたのでぶん殴ってしまったし、人のいない方へと自然に逃げていたせいで、本気で迷った。あの子を守ってあげないとお金も貰えないし、丹原探偵事務所の評判も落ちる。それは勘弁。それに、一人ぼっちのアンちゃんも気になる。通信機ぐらい持ってくれば良かった、とぜえぜえしながら重い足を進めていると、曲がり角の先の扉が開いた。他の信者と同じく白を基調とした祭事服に身を包んだ男が、扉の鍵を閉めようと振り返って、
「っ、あ″ぁ!?」
「!?」
「みぞ、っげほっ、みぞぐちっ、ゆうご!」
「ぁ、え、はい……?」
「溝口優吾くん!」
「はい!」
「罪の浄化とやらの儀式をやってるところに今すぐ案内しろ!」
「は、あっ、ええ……?」
なんとびっくり。あの儀式で背を打たれていた男は、溝口優吾くんではなかった。いや、完全にターゲットだと思ったのよ。アンちゃんもそう思ってたと思う、だから潜入したんだし。しかし、現に、溝口優吾はここにいる。こがねいっちに見せてもらった写真の通り、ほとんど変わりなく、顔の片側を少し隠す長い髪の毛と、穏やかそうな顔立ち。今は突然現れて捲し立てた俺に、不信感を抱きながらも案内はしてくれている。ははーん、強く言われると断れないタイプだな、君は。荒い呼吸を何とか整えて、案内が終わったら君に会いたがってる人がいるからついてきてもらってもいいか、と問えば、頭の上に疑問符を大量に飛ばしている顔ながら、はあ、と頷いてくれた。ほんとに断らないし何も聞かないな、こいつ。そう育てられたんだろうか。
「……おじ……おにいさん」
「あ?あぁ、はい?」
「……誰ですか?」
「君を探しに来たんだけど、ちょっとヘマしちゃったドジっ子ちゃんだよ」
「ドジっ子ちゃん、さん……は、何をしに」
「名前じゃねえよ!ゆるいなあ!」
「あっ、お名前は」
「てーじさんとでも呼びたまえよ!」
「てーじさん……」
「帝王の帝に、武士の士。あっ、他の人に言っちゃだめだよ」
「……それは、お願いですか?」
「ああ、そう、お願いお願い。案内してほしいのも、ついてきてほしいのも、俺の名前を黙っといてほしいのも、全部お願い」
「そうですか。わかりました」
にこっ。場に相応しくない程、嬉しそうに笑った彼が、ここですよ、と重そうな扉を開けた。蝋燭の立てられた通路の奥に、もう一つ扉がある。深々とお辞儀をして、失礼致します、謁見者を連れて参った次第で御座います、と誰もいない空間に話しかけた彼について、奥の扉へ向かう。
ふと気づいた。あれ、やばいな、アンちゃんがあの後なにしたか、俺知らないぞ。また殺戮兵器やってたらどうしよう。流石に十人以上を惨殺されてたら揉み消せない。素手だろうがなんだろうが、アンちゃんが相手をぶち殺そうとすれば、その相手は必ず死ぬ。痛めつけようとすれば必ず苦しむし、逆に、助けてやろうと思えば必ず助かる。彼女はそういう風にできているのだ。人数がどうとか、場所がどうとか、関係ない。むしろ、だめって言ったのに来ちゃった俺もお仕置きされるかもしれない。お尻とか叩かれちゃうかも。ひええ。がらごろと重い音を立てて横に引かれた扉の奥には、血だまりがいっぱい、ではなかった。部屋の奥に、痛めつけられていた男の目隠しを外して、横抱きにしたアンちゃんがいて、声をかける。すぐに振り向いた彼女は、普段通りの、俺のかわいいアンちゃんだった。
「……アンちゃん?」
「あー!てーちゃんのおばかちん!来ちゃだめって言ったのに!アンちゃんの言うこと聞かない悪い子は、くすぐりの刑だよ!」
「ごめん!でも危ないと思って!」
「んもー。てーちゃんのそゆとこ、アンちゃん大好きなんだから、あんまりそーゆうことしないで!かっこいいでしょお!」
「あ、かっこいい?ありがと」
「……ええと、てーじさん、こちらの方は?」
「俺の彼女」
「ばかゆわないの!」
「ぎゃふんっ」
頭をかち割られた。ド金髪でお胸はばいんばいんで砕けた口調の超かわいい若い女子に、はわあ、と声を漏らした溝口くんは、口を開けて固まってしまった。アンちゃんの魅了スキル、こういう時役立つよね。突っ込まれずに済む。
想像していた血溜まりはそこにはなく、しかし静寂が広がっていた。やっちゃった?と一応聞いたところ、首を横に振られた。殺す手段を知っていると言うことは、殺さない手段も同じように得ているということなのか。俺のことあれだけボコっといて、命は助けてくれたしな。ただ、人形みたいにそのへんに散らかってる白い服の人たち、所々腕とか変な向き向いてたりするけど。気絶してるだけなんだよね?ほんとに死んでないよね?アンちゃん?
「あー、アンちゃんのこと信じてなーい。てーちゃんとはもう一緒に寝たげなーい」
「ええー。困るー」
「アンちゃん、みぞぐちゆーごくんと寝るもん。いー匂いするもん、この子」
「あ、その人人違いだったみたいだよ」
「えー?」
「こっちが溝口優吾くんだよ」
「は、はじめまして」
「……ええ?」
す、とアンちゃんの顔から笑顔が消えた。今の今まで本気で気づいていなかったらしい。アンちゃんレベルの誤認は、誰でも使えるわけじゃない。彼女は、そのために作られた、人類にとっての不死の敵なのだ。そんな人間がぽこぽこいて溜まるか。珍しい真顔で、腕の中にいる男を見下ろしたアンちゃんが、暫く考えて、取り敢えず逃げよっか、と思考を放棄した。うん、正解。
「その子も連れてく?」
「……連れて行く。パパ達が、またアンちゃんを作ったなら、アンちゃんにはやることができちゃうから」
「えーと、じゃあ、溝口くん。出口を教えてくれるかな」
「出口?」
「うん。外に出たくて」
「その子、連れて行っちゃいけないんですよ。この前怖いおじさん達がつれてきた、新しい身代わりなんですから」
「そういう細かいことはいいから、君と、この子と、俺と、アンちゃんが、安全に逃げられて追っ手の来ない、そういうルートはないの?」
「普通に正面玄関から出るのはいけないんですか?」
「この子連れてっちゃいけないんだろ?」
「ちょっとお散歩に行くだけとか言えば、平気じゃないですかね」

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