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分岐器




新城が昔出た映画を、見たことがある。芸名だし、化粧とか衣装とか雰囲気とか、本人が他人の空似だと押し切れば、そう納得せざるを得ない。というか、普段の新城とかけ離れすぎていて、彼を知っている人間の方が同一人物だとは思えないだろう。剣崎さん、新城のお父さんが言ってた、才能。存在しない人間に、命を吹き込む力。自分以外の誰かを生かす手段に、新城は長けているのだと思う。あの人の、言う通りだ。新城がいくら否定して投げやりにふざけても、無学な俺にだって分かる。新城は、俺が昔の彼を知っていることを知らないけれど。
大学の前まで再び送ってもらって、恥じらいもクソもなく真顔で中指を立てた新城が、車を見送った。なにも言えない俺に向き直って、ごめんねえ、夜ご飯遅くなっちゃうね、なんて、とぼけたことを宣いながらへらりと笑う。
「帰ろっか」
「……うん」
本当に良かったのか、と聞くのは野暮な気がした。自転車の後ろに跨りながら、お惣菜買って帰ってもいい?と少し不満そうに口を尖らせた新城に頷いて、肩に縋り付いた。積極的!と嬉しそうだ。お金や名誉や親よりも、と選んでもらって、独占欲混じりのあんまり宜しくはない幸福に浸かっていたのは、こっちの方なのに。
当たり前と言えば当たり前に、あの人たちがたったこれだけで諦めるわけもなかった。どうしても、新城の才能を殺したくないんだろう。俺だって、勿体無いと思う。けど、そう思うことと、新城を手放して何処か訳分からないところに飛び立たせることは、わけが違う。せっかく笑ってくれるようになったのに。勇気を振り絞って話しかけた最初の、他人を生き物とすら思っていない冷たい目。あんな顔をさせるくらいなら、死んだ方がマシだ。運転手さんが、思い出したように時折来るたび、新城は酷く冷たい顔になる。俺はそれが怖くて、ただただ嫌だった。
「どうやったら追っ払えんのかなー」
「……もう一回、ちゃんと断りに行くとか」
「やだ。顔も見たくない」
ぶーたれている新城は、巫山戯て見える割に、結構本気であの人たちを嫌悪の対象として認識しているみたいだった。俺が巻き込まれたのも多分原因の一つ。とは言え、そのきっかけとしては、俺がついた嘘だから、彼らのせいですらないのだけれど。あの時、俺が浅知恵で嘘をついて、俺が新城出流だとか言わなかったら、あの車に乗らなかったら、何か変わったのかな。けど、守りたい気持ちは本当で、嘘だってできることなら吐きたくなかった。無関係な自分には、本当になにもできないんだろうか。

「行ってきまーす」
「おー」
大学は休みの日。新城はバイトに行った。誰かのヘルプに入ったり、時間を伸ばしてもらったり、最近いやに精力的に働いている。剣崎さんの一件があってから、新城は忙しさを求めているみたいだった。そうすれば考えなくて済む、とでも言いたげに。俺はそれにどうこう口出しできなくて、いつもより時間をかけて丁寧に作られる豪華な夕食に、おいしい、と笑うことくらいしかできなくて。だって、それで新城が安心したような顔をするのだ。今の俺にできることは、それくらい。
「……はあい?」
お昼前。洗濯物を畳んでいたら、インターホンが鳴った。宅急便かな。今行きます、と聞こえないことは分かってて言い訳のように零し、急ぎ足。はい、と扉を開けると同時、伸びてきた手のひらに絡め取られた。
「っ、ん、ゔ!?」
ぐ、と口を押さえられて、息が詰まる。暴れようと上げた手は、いとも簡単に捕まえられて、抱えるように持ち上げられて、足が浮く。蹴っ飛ばした足に、煩わしそうに舌打ちをした誰かが、握り拳を俺の腹に埋めた。殴った、というより、埋める、が正しいぐらい、減り込んだのが分かって、一瞬世界が止まる。千切れ飛びそうな視界が明滅して、焼ける喉。朝なに食べたっけ、新城が作ってくれた、なんだっけ、全部出た。見知らぬ相手の手を汚しながら、途切れそうな意識を必死で手繰り寄せる。まともな息もできない中、耳に触れた低い声に、ぷつんとなにかが切れた音がした。
「……久しぶり、新。お母さんは元気?」

「……ひ、っ」
「目が覚めましたか」
「っぉ、めんなさ、っごめんなさい、ご、めっんなさ、ゆるして、言うこと聞くから、なんでもやるから、っ」
「中原様?」
「おじさ……っ」
「……さっきの方なら、警察を呼ぶ前に逃げました」
「……ぅ、んてんしゅさん……」
「中野と言います。名前も教えていませんでしたね」
病院に行きましょう、と俺を再び寝かせた運転手さん、中野さんが、車の扉を開けて、運転席に回った。寝かされているのは車のシートで、あの、豪華なやつ。俺と新城が、ちょっと前に剣崎さんのところへ行く時に、乗った車だ。口の中が気持ち悪い、殴られた場所が痛い、まだむかむかする。呆然としている俺に、運転席との仕切りを開けてくれた中野さんが、ペットボトルのお水をくれた。親切。
「頭は打っていないように見えましたが、痛みますか」
「……ぁ、いえ……」
「そうですか。良かった」
「ぁ、の、なんで、俺、車に」
「貴方が不審者に襲われていたので、助けに行ったんです」
中野さんは、剣崎さんから、俺たちの家の見張りを仰せつかっているらしい。タイミングを見計らって会いに行け、とも。まさか四六時中見張られてるだなんて思わなかった。この豪華な車じゃ流石に俺たちでも気づく、と思ったが、何処だかの地下駐車場に隠してあったらしい。身一つなら分からないでしょう、と言われて、たしかに、と思ってしまった。
さっきに話は遡る。家から新城が出て行って、中野さんが頼まれているのは「家の見張り」だから、事態の張本人である新城はほったらかして、俺が残った家の見張りを健気に続けていたそうだ。そしたら、中肉中背のどこにでもいそうな男が訪ねてきた。俺が対応して、羽交い締めにされて殴られてゲロ吐いてるのを確認した中野さんは、どうやらあれは客人ではなさそうだ、と判断してくれたらしい。以前中野さんが車を止めた場所に、明らかに不審な白いバンが停まっていたことも、彼の不信感に拍車をかけた。事態の収束を図った中野さんは、警察に連絡する旨を男に告げ、バンが発車できないように道を塞ぎ、俺を取り返すより先に捨てさせる方法に出た。思い通り、俺を床に打ち捨てた男は、道を開けた中野さんを轢き殺す勢いで逃げて行った、と。倒れ臥す俺をそのままにするわけにもいかず、中野さんは俺を背負って自分の車に戻り、寝かせたところで俺が目覚めた。よく考えたら、服とか汚くしちゃったかもしれない。そんな俺の心配を流すように、被害者の貴方にはなにも求めるつもりはありません、と中野さんが被せた。そして、そういえば、と付け足す。
「ナンバーは控えました」
「……ありがとうございます」
「いえ。貴方になにかあると出流様が烈火の如く怒り狂うと、私は先日身に染みましたので」
「……あの、病院いいです。帰ります」
「あの男に覚えがあるんですか?」
「車、止めてください」
「病院には行かなくても構いませんが、質問には答えていただかないと困ります」
「……知りません」
「嘘を吐くのが下手ですね」
「本当に、知らない人で」
「……ごめんなさい。意地悪を言いました。あの男が誰なのか、知っています」
「……ぇ」
「貴方の幼少期、調べさせてもらいました」
ひゅ、と自分が息を呑み下した音が、いやに響いた。淡々と、不躾なことをして申し訳ありません、ですが何が目的で貴方が出流様の近くにいるのか調べる必要があったんです、と告げられて、車のドアに咄嗟に手をかける。がたがたと開けようとする俺に、鍵がかかっていますし走行中です、と当たり前のことを教えてくれた中野さんが、小さく息を吐いた。
「……貴方に無体を働いた男は、少し前に出所しています。品行方正に改心した、とは言えないようですね」
「だれ、っ誰が知ってますか、新城は知らないでしょ、おじさんのこと」
「知らないと思いますよ。少なくとも、私どもは伝えていません。貴方のプライバシーを侵害するつもりはありませんので」
「……そ、ですか……」
「身体の傷より心の傷の方が、見えない分だけ治りも遅いとは、よく言ったものですね。顔もまともに見えていなかったんじゃないですか、貴方」
「……はい」
「声だけで、良かったですね。貴方の心がまた無駄に傷つかずに済んだ。あの場所は、引っ越した方がいいかもしれないけれど」
「……中野さん、良い人ですね」
「良い芝居は良い人間に宿るのだと、剣崎様に教えていただきました。偽善でも、演じ続ければ自分のものになる」
「偽善なんかじゃ、」
「つきましたよ。病院」
「っ……」
「咄嗟のことなので、貴方のお財布等は持っていません。お金はこちらで出しますが、身分を証明するものだけ、後で提出して頂けますか。お手間をおかけして申し訳ありません」
「ぇあ、いいです、お金とかそんな」
「後から後遺症が残ったとあれば、出流様にどう説明するのですか」
「……ぅ……」
「……それと。こんな時に言うのも、弱味に漬け込むようで不快感を煽るかも知れませんが」
「……?」
「剣崎様が、貴方とも一度、二人でお話がしたいと、申しておりました」
宜しければ、この電話番号に。そう渡された、小さな紙。車から降りた中野さんが扉を開けると、もう手配は済んでいたのか、車椅子が待っていた。念のため検査をしましょう、すぐに帰れますよ、と看護士さんに笑いかけられて、立つことすら許されずに車椅子に座らされて、中野さんを振り向く。作り物みたいに、綺麗なお辞儀をした彼は、頭を下げたまま遠ざかっていった。

検査結果、異常無し。特に何もなくて、良かった。昔俺に乱暴した実の叔父に家の場所を知られていることも、それを中野さんに助けてもらったことも、電話番号のメモのことも、新城には言えないままだ。今日の夜ご飯は中原くんの好きなお肉だよ!と、器用にもお花みたいに飾ってある薄切りのステーキと、色とりどりの付け合わせ。おいしい、の言葉に嬉しそうな顔をする新城に、そんなこと言えるわけなかった。引っ越したいと言い出すには、俺の昔を伝えなきゃいけなくなる。それは、嫌だった。きっと軽蔑される。嫌われる。そんなことがあった相手、と見捨てられるのが怖い。それでもいいと受け入れてくれる未来は、どうしても想像できなかった。新城はそんな奴じゃないって信じたくても、けどもしももう二度と触ってもらえなかったら?口も聞いてもらえなかったら?明日の朝起きたら家がもぬけの殻だったら?なんて湧き出る疑問と不安に飲み込まれると、信じられなくなる。1%でも不安があるからその心配をしてしまうのだと、自分が一番分かってる。それを振り切って本当のことを言えるほど、俺は強くはなかった。
電話をしたのは、その数日後。お礼もしたかったし、直接話もしたかった。新城が一日いない日に、会うことにした。場所は、行ったこともない高級ホテルの、とびっきり高そうなレストラン、の個室。
「……えと……」
「気にせず食べていい。私も食べるからな」
「あの、お話」
「美味いぞ。食べずにいたら次が来る、勿体無いだろう」
「……おはなし……」
全然聞いてない。ちょっと新城に似てるかもしれない。なんたらかんたら、っていう長い名前のカタカナの前菜は、確かに美味しかった。
剣崎さんが話したかったのは、俺から新城のことを教えて欲しかったから、だった。探りたいから、とかじゃない。多分きっと、親として、子どもがどんな風に生活しているのか知りたいだけだ。ご飯は作ってくれること、俺が好きなものは練習してくれること、洗濯物を干すのが丁寧すぎて時間がかかること、靴は脱いだら脱ぎっぱなしなこと。一つ一つに、頷いて、笑って、時には呆れて、俺の上手でもない話を聞いてくれた。好き合っているんだろう、と聞かれて、頷きもできなかったし、首を横にも振れなかった。新城に同じことを聞かれたら、んなわけねーだろ馬鹿、で終わりだけど、この人にはそう言いたくなかった。けど、正直になるのもハードルが高い。知っているよ、と柔らかな声で言われて、もう恥ずかしさに顔も上げられなかった。
「……出流に、演じてほしい役があるんだ」
「……絶対やらないって言ってました」
「君がお願いしてもかい?」
「俺がお願いしたら、誰にそうしろって言われたんだって、すぐばれると思いますよ」
「違う。君が、本心から出流にそう願っても、出流は拒否するだろうか」
「……俺の言うことなんか、あいつ全然聞かないし。多分、俺がどうこう言ったところで、無駄ですよ」
「やってみないと分からないさ」
なにも、君たちを引き裂こうというわけじゃない。出流に芝居の仕事が入るようになったら、今住んでいる家よりも便利な場所に引っ越す必要がある。そうしたら、君は過去のことを出流に告げなくても、引っ越しができる。ばらばらにする、なんて最初から一言も言っていない。君が付いて来たいなら付いて来たらいい。出流が求めるならむしろそうしてくれると助かる。彼の才能を持ち腐れさせるのは、芝居を生業とする者として、痛い。親だからじゃない。自分の仕事に誇りを持っている一俳優として、だ。君の説得が、生えたばかりの芽を大樹にするかもしれない。はたまた、あの馬鹿息子が意固地なままなら、そのまま枯れ果てるのかもしれない。強制ではなく、お願いだ。どちらにも利のある頼みであるとは、思っているがね。
そう、穏やかに語られて、何も言えなかった。俺がやれって言ったら、やるのかな。俺に出来ることって、それなのかな。この人はきっと、俺の昔を知っている。それを使って脅すことだって出来たはずなのに、しなかった。好き合っていると知っていて、それを利用することも、しなかった。唯々、新城出流の才能を開花させるためだけに、俺と話をした。誰のために、なにをするべきなんだろう。
俺が新城に、演じることを求めないのは、頑として拒否している、新城のため?それとも、いつか置いていかれると心の何処かで思って、彼が遠ざかることを怖がってる、俺のため?



徴候は無かった。きっかけも無かった。普段通りに過ごして、中原くんは俺に噛み付いて、俺はでれでれしてうざったがられて、寄り添って寝た。
朝起きたら、中原くんの声が出なくなってた。
「……、……」
「喉痛い?」
「……………」
ふるふると首を横に振る。口はぱくぱくして、なにか喋ろうとしてるのに、声だけごっそり抜け落ちている。咳き込むとかもない、ていうかそもそも、きっと風邪が原因じゃない。まるで人魚姫みたいだ、と他人事のように思った。
母音が微かに聞こえるくらいで、中原くんの唇からは言葉らしい言葉が出ないまま、彼は一日大学を休んだ。授業を受けた気にもならず、飛んで帰った俺に目を丸くした中原くんは、口パクで「おかえり」と言った。それから、声が出ないことを思い出して、諦めたように笑って。俺の話し声しかしない、部屋の中。いつもみたいに仏頂面してくれていいのに、それじゃあ雰囲気が悪くなるとでも思ってるのか、はっと気づいたようににこにこと笑う。かわいい。けど好きじゃない。取り繕った笑顔なんて、似合わない。お医者さんに診てもらおう、と持ち掛けたけれど、中原くんは首を横に振った。俺も一緒に行くからとか、じゃあ俺のお母さんの主治医さんに話だけでも聞いてもらおうとか、いろいろ代替え案を出したけど、全部嫌がられた。中原くんも、何処かで分かってる。自分の声が出ないのは、心が原因なんだって。
心因性失声症。調べた中で、一番近しいものはそれだった。月日が経つうちに分かったのは、俺と喋る時に特に声が出ない、ということだった。何も知らない小金井くんが俺と中原くんに挨拶をした時、不意に中原くんは「おはよう」と零せていた。掠れ声だったけど、本人もびっくりしていた。風邪?と不思議そうな小金井くんに、そうそう!と俺が取り繕った。案外喋れなくても生活は回るもので、バイトは流石にお休みしたけど、大学に通うだけならなんとかなった。無言の中原くんともコミュニケーションが取りやすくなって、俺がふざけて彼が怒るようなやり取りが、少しずつ戻ってきた。そんなこんなしてるうち、一週間、経った。
「おはよ、中原くん」
「……、」
「あ、今日夕方から雨だって。自転車やめよっか」
寝ぼけ半分の中原くんが、ぽやぽやしながら冷蔵庫を開けて、よろめいたのかごちんと痛そうな音がした。額に赤い跡。ばつの悪そうな顔を向けられて、もお、と抱きしめれば身体に手を回された。声が出なくなってから、中原くんはあまえんぼうになった、と思う。それと、何か伝えたいことがあるような顔を、よくするようになった。声が出ないんだから、そりゃそうなんだけど。お喋りは、携帯のメモに打ち込んだり、筆談したりで、代替してる。けど、中原くんはきっと、中原くんの声で、中原くんの言葉で、言いたいことがあるんだろうなあ。それを伝えられないまま、声を落としてきてしまったけれど。
二人でお買い物した、帰り道。夕暮れに照らされる路地から、スーツを着こなした男が顔を出した。
「うわ、またいる」
「お久しぶりです。剣崎様が」
「行かない行かない。もう諦めてよー」
「…………」
運転手さん、中野さんって言うらしい、中原くんが筆談で教えてくれた。名前なんてどうでもいいけど。その顔も久し振りに見るなあ、中原くんの声が出なくなってからは来てないから、とぼんやり思って、俺に隠れる中原くんをちょっと庇うように立つ。この人にわざわざ、中原くんの声が出ないことなんて、知られなくていいよね。そうですか、と特に残念がりもせず頷いた中野さんに、では、と封筒を手渡される。送ってこないなんて珍しい。送れないものでも入ってるのか、と一応受け取れば、特に重いわけでもなかった。
「詳細は中に。もうここには来ません」
「えっ、マジで?やったー、お元気で、息災をお祈りしております、ばいばーい」
「何かありましたら、また」
こくりと背後で中原くんが頷いた気がした。振り向くと目が合って、きゅっと口を閉じた彼は俯いてしまって、顔が見えなくなった。踵を返して去って行く中野さんに手を振って、家に帰る。冷蔵庫にいろいろしまって、封筒の中身を開けて見ることにした。
「……カード?」
「……………」
「あ、見る?見ていいよ、もう中原くんにはなんにも隠すことないし」
便箋には、丁寧な文字。最初の手紙からずっと変わらず、冒頭には「出流へ」とだけ書かれていたけれど、今回の手紙には「中原くんへ」とも書いてあった。二人で顔を付き合わせて、便箋の内容を読む。内容を要約すると、この日にここで最後のお話をしましょう、それが終わればもう二度と関わりません、ただし来なかったら俺と自分の血縁関係も母親のことも、なんなら中原くんのことも全部暴露して、全員諸共炎上しますのでご承知を、って感じだった。最終手段じゃねえか。年甲斐もなければ大人げもねえな。一緒に入ってたカードは、某有名ホテルのスイートルームのカードキーだった。金持ちめ。おれも?と不安げな顔で自分を指差した中原くんに、一緒に来て、とお願いする。声出ないのに?と震える文字に、なんにも言わなくたっていいよ、と返す。大丈夫。俺のことなんだから、俺が終わりにするよ。中原くんは、黙って隣にいてくれたらいい。それだけで、どうしようもなく怖くったって、吐き気がするほど嫌だって、俺は立ってられるんだから。

「……普段着で来るかと思っていた」
「TPOって知ってる?おっさん」
「私相手に、気を遣うだなんて、思っても見なかったんだ」
スーツで向かった俺と中原くんに本気で驚いたらしい父は、はっと我に返って、座るように促してきた。おどおど座る中原くんの隣に、思いっきり飛び込んで腰掛けたら、ふかふかのソファーでバランスを崩した中原くんがあわあわしながらこっちに倒れこんできて、楽しい。中野さんが紅茶を出してくれた。飲むもんか、知ってるぞ、悪い大人はこういうのにお薬を入れるんだ。隣を見たら、中原くんはにこにこで中野さんに頭を下げて紅茶を飲んでいた。中原くんったら自分を守る意識が徹底的に足りない!かわいい!俺が守る!
「話というのは、」
「お芝居ならもうやらないって決めてるから」
「……中原くん。君もそれでいいのか」
「……………」
「中原くんは関係ないでしょ。ていうか、中原くんのこともばらすってなに。巻き込まないでよ、偉そうに」
「、……、」
「ん?……ん?そうなのか?」
いそいそと携帯を取り出した中原くんは、声が出ない旨を打って、見せたらしかった。どうしたんだ、と不躾にも問いかける父親に、どう考えてもストレスでしょ、こんなことに巻き込んだから、と俺が嫌味ったらしく返す。そうか、と零した彼は、少なからずショックを受けているようだった。幼気な彼の心にダメージを与えたことをもっと悔いろ、反省して謝れ、地面に頭を擦り付けろ。中野さんが、小さく息を吐いて、零した。
「……貴方は本当に、生きるのに向いていませんね」
「あ?中原くんのこと?俺よりよっぽど利口だよ」
「どこがです。自問自答に追い詰められて、伝えるべきことを仕舞い込んだまま、口に出すことすら叶わなくなった。そんな人間のどこが利口なんですか」
「中野。やめなさい」
「いいえ。剣崎様、申し訳ありませんが、これは私の意地です。私は、私にない才能を持つこの男が憎い。この男を思い通りにするだけの力を持ちながらそうしない彼も憎い。私が新城出流だったなら、迷いもせず芝居の道を選んだと言うのに!」
「……出て行きなさい、中野」
「出流様。ご存知ですか。中原新は幼い頃、親戚の男に慰み者にされていました。母親の影を重ねられて、いいように扱われ、」
「中野!」
「先日その男が貴方がたの家に訪れました。中原新にまだ執着しているようで、彼は殴られ、私が居合わせなければきっとあのまま何処かへ連れ去られていました。彼を守りたいなら、貴方には選ぶべき道がなくなる。役者として名声が轟けば、彼を囲うことは至って容易になるでしょうし、」
「え、ねえ、中野さん。ごめん、あのさ、もしかして俺がそれ、そういういろいろ、知らないと思って言ってる?」
「……え?」
「……ぇ、っ」
中原くんが、吐息のように疑問を漏らしたのが聞こえた。隣を向けば、真っ青な顔、半笑い、冷や汗だらだら、涙目、ちょっと震えてる。ああ、なにその顔、最高。ごめんね中原くん。こんな時だけど、めちゃくちゃ興奮します。
「知ってるよ。中原くんが昔、おじさんに強姦されたこと」

中原くんがぶっ倒れた。過呼吸。顔色やばかったし、救急車かなーってマジで心配になるレベルだったけど、中原くん顔負けの真っ青さで、中野さんが迅速に対応してくれて、取り敢えず持ち直した。魘されてるけど。
「……お前に知られることを、中原くんは嫌がっていたようだったんだが」
「中原くんからは聞いてないよ。ちょっとした行き違いっていうか」
時間は遡って、中原くんにDVDの贈り物が届いた時の話だ。中原くんの手に渡ったのは、編集版だった。しかし、なんというか、彼にとっては残念なことに、丸三日分の本編データは、俺が持っている。なんでかって、別にその「おじさん」とやらとグルだったとか、そういうわけではない。普通に、俺しか家にいない時間に中原くん宛の宅配が届いて、中原くんと同じ名字の人が送り主だったから興味本位で開けてみたところ、中に入っていたのはDVDで、勿論俺は再生してみたわけで、幼い中原くんが泣き喘ぐ様子に諸手を挙げて喜んだ俺は、これをプレゼントしてくれた誰かさんにお礼の電話をかけたのだ。誰かさん、もとい「おじさん」は、中原くんが一人暮らしではないことまでは知らなかったようで、とても狼狽していた。彼は特になにも教えてくれなかったが、ご丁寧に宅急便の配達表に、住所と名前と電話番号が書いてあったので、中原くんのお母さんに俺は連絡を取った。中原くんのお母さんと俺、意外と仲良しだからね。二人で住むことを決めた時とかに、結構しっかり話してるから。DVDのことも全部話したら、中原くんのお母さんは、その人は中原くんのおじさんであることを教えてくれた。新にはもうそのことは忘れさせてあげて、と頼まれて、俺だってこんなのひどいと思う!と憤慨したふりをしながら、編集してショート版を作って、自分の家から自分の家に送った。中原くんの手に渡った時に送り主が書いてなかったのは、そのせいだ。以上。
「わかった?」
「……お前が自分の息子であることが恥ずかしい……」
「なに父親面してんの?あんたの息子じゃねえし」
ていうか、後半は知らなかったし。おじさんとやらがうちに来たの?と中野さんに問いかければ、中原くんの脂汗をこつこつと拭っていた彼は、少し逡巡して、頷いた。殴られてゲロ吐いてました、と正直に事実を述べられて、よく吐く子だねえ、と思う。俺が編集したDVD見た時も吐いてたよね。なんなら、10年ぐらい前に監禁されて乱暴されてた時も、快感に慣れない序盤は所構わずゲーゲー吐いてた。今回の声の件といい、心の負担を逃すのがどうにも下手くそなのだ、中原くんは。そこに関しては、生きるのが下手くそだという中野さんの意見に同意しかない。
「ふうん。家まで来たのかあ、じゃあもうあそこには住めないかなあ。中原くんの負担にもなるだろうし」
「……その相談も、中原くんは、したかったのだと思う。お前に話したいことがたくさんあって、どれを告げるにもうまく伝えられないのが怖くて、彼は言葉を失ってしまったんじゃないのか」
「そっかなあ。俺、中原くんが俺に泣かされてくれればもうそれでいいのになあ」
ね、中原くん。ふかふかのソファーに埋もれるように横たわっている中原くんが、俺の声に目を開けた。中野さんをしっしっと追いやれば、父親が「お前には話がある」と結構怖い声で中野さんを連れてった。中野さん、顔真っ青、うける。中原くんのいらんこと、激情に任せて撒き散らかしたりするから、あのおっさん怒っちゃったよ。中原くんのこと、なんか知らんけどお気に入りっぽいし。
まだ白い顔で、中原くんが体を起こそうとしたので、それを手伝う。横に寄り添って座れば、こてんと肩に頭を預けられた。あまえんぼ。素直な好意は嬉しいけれど、馬鹿、嫌いだ、あっち行け、気持ち悪い、と怒鳴り散らす声がそろそろ聴きたい。
「ね。俺、むしろ興奮した。ちび中原くんの乱れる様、責任持って永久保存するからねっ」
「……………」
「あっは、嫌そうな顔!ちゅー」
「!」
「ぶぇ、しないの?怒ってる?」
「……………」
「それとも泣きたい?」
「……、」
「ん?いいよ。全部聞くから、喋ってごらん」
「……、ぉ」
「うん」
「ん、……ょ、ぉ」
「うん。ここにいるよ」
「しん……」
「どこにも行かないよ」
「、っ」
ぼろぼろ、大粒の雨。しんじょお、と久し振りに出したせいで掠れ切った声で、彼が泣いた。ぐちゃぐちゃの言葉を拾って、相槌を打つ。「きらいにならないで。」なるわけないでしょう。「きたないっていって。」そんなこと言ったらもっと泣くくせに。「おじさんがこわい、たすけて。」それはもっと早く聞きたかったなあ。中原くんのためなら、出流くんはなんでもしちゃうんだぞ。「おれのことほっといて、やりたいことやって。」俺のやりたいこと?中原くんといることだよ。「おしばいのおしごと、やってみたらいいのに。」んー。「でもどっかにいっちゃったらやだ。」中原くんから俺が離れるって?遠回しな殺人予告?「いっしょにいてくれる?」君が、俺を隣に居させてくれるなら。そうさせて欲しいのは俺の方だよ。「おれもそうしたい。」うん、俺も。「だけど、しんじょうにしかできないこと、みないふりするの、おれはいやだ。」んん。そうかなあ。俺、どうしたらいいかな。中原くんが嫌がること、したくないなあ。そう呟けば、ずる、と鼻を啜った彼が、べたべたでぐっちゃぐちゃの顔で、ふにゃって笑った。
「……かっこいいとこ、みせてよ」
あ、それ、反則。


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