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分岐器



日曜日の夕方。インターホンの音に玄関を開けると、宅急便のお兄さんがいた。特に愛想も無く、言われたところにサインをして受けとる。通販とか最近頼んでないし、そもそも送り主が書いてない。新城のやつかとも思ったけど、宛先は俺の名前だ。なんだろう。
「宅配?」
「うん。軽い」
「こないだゲーム買ったって言ってたじゃん」
「それは予約しただけだから」
へえー、と返事をする新城は、台所で今日の晩御飯の唐揚げを作るのに大忙しで、こっちに来ようとはしない。たっくさん作るからね!と一人で大盛り上がりである。
なんだろう、って箱を見ててもはじまらないわけだし、開けてみるか。ダンボールの封をしていたテープをハサミで切ると、中には緩衝材に包まれたケース。ずれないように厳重にテープで止めてあるそれを外して、緩衝材を取れば、ケースの中にはディスクが入っていた。DVDだろうか。なんにせよ、パソコンに入れてみれば再生できるだろうけど。手紙とかも付いてないので、全くわけがわからない。変なウイルスだったりしたら嫌だから、新城のボロノートパソコンを借りよう。
「……再生できるし……」
ディスクを入れたらすぐ読み込んだ。予想通りDVDのようだけれど、再生押しても平気かな。そもそも送り主が書いてない時点で怪しいし、やめといたほうがいいかな。でも気になることは確かだ。俺宛に届いてるわけだし、見るか。変なのだったらすぐ消せるように、停止ボタンにポインタ置いとこう。痛かったりグロかったりするのは、苦手だ。三角の再生ボタンをクリックしたら、きゅるきゅると読み込む音。差しっぱなしになってたヘッドホンを片耳だけ当てて、目を剥いた。
「……ぇ、?」
暗い画面の中で、猿轡を噛まされて、脚を開いて、ふうふうと荒い息を吐くのは、幼い俺だった。はっきりと、身に覚えがある。足の間から伸びるコード。媚びるような目。後ろ手に拘束されて、燻る快感に耐えきれずにぐりぐり腰を床に押し付けて、逃がそうとしている。知らないふりはできない。こういうことはあった。確かにあった。でも、なんで今更、これが俺のところに。停止ボタンを一度押せばいつも通りに戻れるはずなのに、俺は凍りついて動けなかった。フラッシュバックする、粘つく空気と、叔父さんの視線。息が止まる。引き戻される。母の名前を呼ぶ声、体を弄る生ぬるい指、気持ち悪いのが気持ちいい感覚。数秒にも数時間にも感じられた、殆ど音のない映像が途切れて、1秒。
「、っ!」
ヘッドホンから響き渡った自らの嬌声に、吐き気が込み上げて、がたがたと逃げた。首に引っ掛けたままのヘッドホンにつっかかって、遠ざかれなくなったところで、隠さなきゃ、新城にこんなのばれるわけにはいかない、ってちょっと我に返って、DVDを取り出した。あの時は、ずっとビデオカメラが回されてた。最初の仕込みと最後の行為がこのDVDに入ってたってことは、誰かがわざわざ編集して、焼いて、俺の住所を調べて送ったってことだ。気持ち悪い、吐きそう。でも、うちそんな広くないし、トイレで吐いてたら新城はきっと気づく。心配される。本当のことを隠し通せる自信がない。DVDを元のケースに戻して、寝室の自分の戸棚の奥底に仕舞い込む。捨てたらばれるかもしれない。ゴミ箱から親切にも拾ってくれて、再生されたらどうする。おわりだ。きらわれる。
「……どうしよ……」
がたがたと震えていることに、今更気づいた。怖い。気持ち悪い。頭を回るのは嫌悪の感情なのに、きっちりあの日に躾けられた体は正直に反応して、泣きそうだ。気持ち悪くて最悪なのに、気持ち良くしてもらえるんだと勘違いした馬鹿な体が、求め出す。おじさんはもういないのに。警察に行ってくるって自分で言って、
「……警察……?」
そういえば、おじさんのしたことに対する刑期って、どのくらいなんだろう。最悪の想像に、今度こそ吐いた。

「もお、体調悪いなら言ってくれたら良かったのに」
「……ごめ、」
「あ、違う、謝らないで。ううんと、気づかなかった俺も俺だし、吐くって相当でしょ?我慢させてごめんね」
普通に寝室をゲロまみれにしてしまった上、訳が分からなくなってとりあえず隠そうと手で吐瀉物をかき集めていた俺に、台所から飛んできた新城が悲鳴を上げ、俺をリビングに輸送して寝かせて、後始末を全部してくれた。もう申し訳なさしかない。ちゃんと謝ってお礼をしなくちゃ、と顔を上げた俺に、にやにやでれでれの新城が吐いた言葉は、「次はちゃんと言ってから吐いてねえ」「こっちにも準備があるからさあ」だったので、謝る気は失せた。言葉だけ見れば優しいかもしれないが、顔が下衆だ。疾しいことを考えているに違いない。馬鹿なんじゃないのか。絶対謝らないしお礼も言わない。ぶすくれている俺を撫で回しながら、熱とかはないね、念の為に病院行く?と体調をチェックしている新城にも聞こえるくらいの音で、ぐう、ってお腹が鳴った。
「……おなかすいた」
「……いやいや。食べないほうがいいでしょ、吐いたのに」
「からあげ……」
「からあげ!?中原くん、サービス精神旺盛だね!?」
「は?なに、は!?違えよ!お前に見せるために吐くのを目的に食うんじゃねえよ!」
「うそうそ、お腹空いたならせめてお粥とかにしようよ。作ってあげるから」
「う、……ぅん」
「なにかご意見がありますか」
「……からあげ楽しみにしてた……」
「からあげはまたのお楽しみです」
「ほんとか」
「お腹良くなったら、お皿にてんこもりのからあげいっぱい食べようねっ」
「……そっかあ……」
「中原くんお肉好きなんだよねー!愛しい!」
「暑いから離れろ」
特に病気ではないのだけれど病人扱いされ、今晩の飯はお粥になった。たまごとひき肉が入ってる、ちょっと味濃い目のやつ。新城が気を使って、俺が好きな感じにしてくれたやつ。からあげの口になってたから、ただのお粥じゃ食べた気しなかっただろうし、ありがたい。本当に病院行かなくていいの?意地っ張りじゃない?と繰り返し聞かれたが、行かない、とその度答えた。だって病気じゃないし、強いて言うなら心因性のものだし。トラウマ一気に掘り起こされて脳みそがぐちゃぐちゃになった結果、胃に多大なるダメージが襲いかかっただけ、だし。
DVDは、しばらくしまっておくことにした。ばらばらにして捨てても、新城はド変態なので、時折俺のゴミを漁ったりすることがあり、変な勘の良さでDVDを発見されても困る。外で捨てようにも、見知らぬ誰かに拾われても困る。新城に見つからないタイミングでごみ収集車にブチ込めるまでは、持っているしかない。持っていたくないけど。とりあえず、忘れられるように心がけよう。おじさんが俺の住んでるとこを知ってるとか、そういう嫌な可能性には、目を向けないふりをしよう。
お粥は美味しかった。ので、おいしかった、ごちそうさま、と手を合わせれば、にっこにこの新城が、俺が横たわってたソファーに頬杖をついた。
「ねえ、気持ち悪くない?」
「気持ち悪くない」
「吐く?」
「吐かない」
「バケツいる?」
「いらない。新城が気持ち悪い」
「中原くんの嗚咽と嘔吐、見たいのになあ」
「気持ち悪い」
「あっ、吐く?」
「吐かない」



『俳優の剣崎仁志さんが、本件についての独占インタビューに答えてくださいました』
『果たして、隠し子疑惑は本当なのか?その事実に当コーナーでは迫りたいと思います』
『数々の賞を受賞した経歴のある剣崎さんですが、』
テレビを見たくないと思ったことは今まで生きてきて一度もなかったが、今回ばかりは耳を塞ぎたくなる。どこのワイドショーでも、大御所俳優、剣崎仁志の隠し子騒動について、やいのやいのと取り沙汰して、邪推を重ねて騒ぎ立てる。俺だよ、俺!隠し子、俺!って両手を振って出て行くことも可能だが、絶対にやりたくない。今現在の、平和で平凡で、中原くんを怒らせたり泣かせたり喘がせたり、本当に時々稀に笑わせたり、そういう「普通」の方が大事だからだ。一度も面識のない男を父親だと思ったこともないし、今更になってボロを出したのには思惑があるとすら思う。だってあの人、一回女優さんと結婚して離婚してるんだぜ。バツイチだよ。なんで今更、隠し子騒動が沸いて出るかな。
「へー。剣崎仁志、隠し子いるんだって」
「……誰それー」
「は?知らないの」
数日前に突然嘔吐したもののすぐに回復して、毎日のようにからあげからあげと強請ってくる可愛い俺の恋人の中原くんが、あれにもそれにもこれにも出てるじゃん、と指折り数えた。そして、ふと、でもお前あんまり映画とかドラマとか見ないもんな、と納得したように指を下ろした。見ないんじゃなくて、見たくないんだ。中原くんに、俺の詳しい生い立ちを話したことはないから、知る由もないのだけれど。
俺は、母が言っていた「あの人があなたのお父さんなの」を、心の底から信じていたわけじゃなかった。そうであることが前提でいろいろ教え込まれてきたから、きっとあの人が俺のお父さんなんだなー、と思ってはいたけど、心の何処かで疑ってもいた。母が嘘つきなんじゃないか、と。しかしながら、母が心の病院に入院して、俺はまだ高校生で収入もなく、どうしてここまで自由気ままに、大学にまで入学できているのか、を考えると話が変わってくる。寮生活は、学校側の対応。大学入学も、いろいろな制度によってかなり金銭面では緩和されていたはず。そもそも俺、勉強はできるし。特待生ぐらい、余裕のよっちゃんだし。でも、「中原くんと同棲するに十分すぎるくらいの広さがある賃貸に住める」「自由に遊び呆けられるだけの金銭的余裕がある」などなどを重ねて考えると、答えは一つしか出ないのだ。俺が湯水のようにお金を引き出し使っている口座は、入院してすぐに母が俺に譲ってくれたもので、ここには自動的にお金が入るようになってるから、と言われている。その、自動的にお金が入る、のカラクリ。お金の出所。それが、恐らくは、日本でも有数の裕福野郎であろう、大御所俳優の父なのだ。その事実にはっと思い至ったのは最近だけれど、感謝は特に生まれなかった。いや、だって、どちらかというと、下手に干渉しないで欲しいし。お金だけくれてたらそれでいいし。隠し子いるんだって、とか噂にしないで欲しかったし。
しかもどうせそういう噂って、流した犯人は本人なんでしょう?

「新城、手紙」
「ん?」
「差出人不明」
「やだー、ラブレターかしら」
「シュレッダーしとくわ」
「嫉妬?ジェラシー?中原くんかっわいい!中原くんが一番だよっ!」
「うざい」
真っ白な封筒には達筆な文字で「新城出流様」と書いてあった。このご時世にお手紙なんて丁寧なことで、と呆れと嘲笑を半ばに、ハサミで封を開ける。流し読んで、そっと便箋を握り潰した。それをそのまま、パンツの後ろのポケットに突っ込んだことに、テレビのリモコンをつまらなそうに弄っている中原くんは、気づかない。あー、と誤魔化すように上げた声は、上ずっていなかっただろうか。演技と偽りには自信がある自分でも、煩いくらいに鳴る心臓の音が彼に聞こえて仕舞えば、もう隠し事はできないことぐらい、わかっていた。
「ちょっと買い物行ってくるね」
「は?なんで」
「なんでか聞きたい?」
「……いい」
「だってえ、昨日の夜、使い切っ」
「いってらっしゃい!」
察したのか真っ赤になってすっ飛んできた中原くんに蹴り飛ばされながら、あーん、と抜けた声を上げる。忘れ物だよ!とドスの効いた声と共に財布も飛んできた。買いに行くのはいいのね、すけべー。買い物なんて、嘘っぱちなのにね。
近所の公園には、ちょうど人がいなかった。くしゃくしゃになった便箋をポケットから取り出して、開く。読み終わったら破こう。流し読みだから、もしかしたら内容が分からなかったところもあったかもしれないし。読み違えていたのかもしれないし。そんなわけないけど。
『出流へ。
ニュースを見てくれたことかと思います。
私も驚きましたが、出流はもっと驚いたことでしょう。
もしかしたらお母さんから知らされていたかもしれませんが、直接顔を合わせて話したことはなかったものですから。
出流の父親は、自分であることに、間違いありません。
そのことについて、直接お話がしたく、お手紙にさせていただきました。
お手間をかけるようですが、下記の番号まで、ご連絡頂きたいと思います。
000-000-0000
剣崎仁志』
「……うーん……これ、書いてあるの本当に日本語かな……」
全く理解ができなかったので、破って捨てた。シュレッダー並みの細かさでびりっびりにしてやった。日本語じゃないから読めなかったけどね、なぜか無性にそうしなくてはならない気がしたんだよね、俺ってば勘は良いからね。宣言通りに、買い物して帰ることにしよう。コンドームと、中原くんが好きな焼きプリン。ついでに、見かけた雑誌の付録に中原くんが好きなブランドのポーチが付いてたから、買っといた。もしいらないって言われたら自分で使うから良いや。
「たっだいまー!」
「うるさ」
「さびしかった?」
「安らかな気持ちだったのにお前が帰ってきて苛立ちしか感じてない」

一週間後。また真っ白な封筒が届いた。二度目だと気付いてはいるっぽい中原くんは、何も言わなかった。しかしながら、いつまで経っても連絡を寄越さない俺に、手紙の送り主はしつこかった。世間からすれば、隠し子がどうのこうのなんてゴシップ、すぐに飽きられる。取り沙汰されることも少なくなった癖に、封筒は一週間おきに届き続けた。封筒の数が五つを超える頃、中原くんがついに聞いてきた。恐る恐る、言葉を選ぶ感じで。
「……その手紙、なんなの」
「なんだと思う?」
「……ストーカー?」
「ふっ、すっ、あっはははは!」
「なんだよ!」
「すとっ、中原くんじゃあるまいしっ、俺にストーカー、あっは!おっかし、はははは!」
「心配してやったのに!」
「だってえ、んふふ、っふ、俺のストーカーって、ふふ」
「俺だって、ストーカーされたことなんかない!」
「嘘こけ。あるじゃん。しかも割と粘着質なやつ」
「な、ない」
「何で濡れてんだか分かんないティッシュ下駄箱に詰まってたことあるくせに……」
「ちがう!」
泣きそうになってるので、やめてあげよう。思い出したくないのかもしれない。途中までは、お前がやってんだろ!とか意気がってた中原くんだったけど、犯人が別にいると知った途端、普通に怖がってたしな。高校三年生の時の話である。まあそれはそれとして。
良い加減に、しつこい。文面は、まるでコピーのように全く同じである。無視し続けたら、永遠に送られてくるんだろうか。飽きろよ。それか別の手を考えて欲しい。これじゃあ、きちんとポストを確認する癖がある中原くんが、俺に手紙を渡す前に中身を見てしまうのも、時間の問題だ。そうなる前に見せるか。別に、中原くんに隠したいわけでもないし。
「はい。読んで良いよ」
「うん」
「嘘は一つも書かれてないからね」
「……ぇ?」
「全部ほんとのことだから」
「……新城?」
「はい」
「……ええと……お前、お父さん、いなかったっけ。いなかったな、だから寮に、それで……お母さんは、今入院してる、から……んと、えっと……」
はああ。かわいい。動揺している。目がぐるぐるしている。えっと、えと、んーと、と声を漏らして、言葉に出して事実整理するのは、中原くんの癖だ。俺の前だと、思ったこと全部喋っちゃうから。左手で手紙を持って、右手の人差し指を唇に当てて、んん、とむずがるような声を上げた。突然こんなの見せられても、悪戯だと思うよねえ。
「俺、知ってたよ。お父さんがあの人だって」
「えっ!?」
「母親が言ってた。あの人の息子だから、いろいろやらされてたわけだし」
「……あ、そう、なんだ……」
「今ここに住んでるお金とか、俺のバイト代で足りない分全部出してくれてんの、あの人」
「ええ!?」
「え?中原くん、どこから出てきたお金だと思ってたの?」
「……普通に、お前んちめっちゃ金持ちなんだと思ってた……」
「いやいや。うちは普通です。父親が異常なだけ」
「……連絡した?」
「してたら何通も手紙来ないっしょ」
「なんで、電話しねえの」
「なんで電話しなきゃならないの?」
「……父親なんだろ?」
「そうらしいね」
「会って、話がしたいって、書いてある」
「俺はしたくない」
「なんか大事な話かもしんないじゃん……」
「会いたくないし、話もしたくない。今更出てきて父親面されても、扱いに困るよ。何の話か知らないけど、どうせどうでもいいことだろうし」
「分かんないだろ!」
「うん。分かんない」
こんなに何度も手紙を送ってくるってことは、相当会いたいんじゃないか、とか。もしかしたらとても困っているんじゃないか、とか。お母さんが入院してることとかも知らないんじゃないか、とか。中原くんは、心配そうにぽつぽつと漏らした。俺なんかがこんなこと口出しするのもおかしいよな、と最後に泣き出しそうな笑顔をくっつけて、その話はおしまいになった。中原くんはいつも正しい。大学を選ぶ時だってそうだった。俺が高校の途中から寮生活になったのも知ってて、俺の母親の状況も知ってて、もっと上のランクの大学に奨学金で余裕の入学ができる俺に、わざわざ自分と同じ大学を選ぶことはない、と言ってくれた。未来を見越した選択だ。中原くんは、そういうところ、しっかりしている。けど、俺はそれに逆らって、彼と同じ大学を選んで、半ば無理矢理ルームシェアを頼み込んだ。今でこそ、嬉しかった、と中原くんは言ってくれるけれど、当時は猛反発を食らったっけ。どのくらいの反発かというと、ボールペンで手の甲を刺された。非力な中原くんがいくらぽこぽこ俺を殴っても、全く効かなかった上に俺がへらへらしていたからこその、最終手段である。しかも刺した側の中原くんがめっちゃ泣いたし。俺、ちょっと跡ができたくらいで、すぐ治っちゃったし。そんな思い出話はどうでもよくて。
実の父親から連絡が来たら、会ってみて、話をして、それからどうするか考えるのが普通なんだろう。けど、俺はそうしたくない。いくら中原くんに言われたって、やりたくないもんはやりたくない。だって、会ったら何を言われるんだ。想像もつかない。これが自分の息子だと公表されるのか?真っ平御免だ。最悪。母親の病院を教えろ、とかそういう系の話でも、結果として二人の関係が明るみに出たら自分の存在に繋がりかねないので、駄目。仕送りを中止するとかそんな話なら、ああはいはいご自由にどうぞ、だけど、そんなの直接話さなくても、それこそ手紙で充分だ。
言い過ぎたかな、って後悔が背中に書いてある中原くんをぎゅっとして、電話もしないし会いにもいかない、けれど中原くんが本気で考えてくれたことはすっごく嬉しい、と訥々と伝えれば、ちょっと緊張が和らいだ。本当にそれでいいのか、と確認されて、それでいいんじゃなくてそれがいいんだと擦り寄った。
その選択が、まさかこんなことになるとは思わないじゃないか。

「……は?」
「お迎えにあがりました」
「誰?」
「剣崎仁志様がお待ちです。お乗りください」
大学から帰ってきたら、ボロい賃貸に全く似つかわしくない、すごいかっこいい黒光りしたぴっかぴかの車が停まってた。素敵なスーツを着こなした男に声をかけられて、いやいやいや、と立ち去ろうとする。家の鍵を鞄から出す途中で、ふと気づいた。今日、中原くん、交換授業だからってチャリ乗ってったよな。午前中で終わりだから、とっとと帰ってきて溜まった洗濯回すって言ってた。こんな晴れの日、最近なかったから。しかし、うちのベランダには、何かが干された形跡もなく。駐輪場代わりにしてる入り口横のスペースには、自転車もなく。凍り付く頭に、ぐるりと後ろを振り返れば、頭を下げていた男は姿勢を直して、目があった。
「貴方は、新城出流ですか?それとも、中原新ですか?」
「……中原くんどこにやったの」
「貴方は、」
「退けよ!」
「貴方は新城出流ですね?」
扉に掴みかかろうとした手首を強く掴まれて、静かな声で確認された。ブラインドがかかっていて、車の中は見えない。中原くんが中にいるのかもしれない。大学で、もしくは向かう途中に、こいつに捕まったんだ。ぐらぐらと煮え立つ頭で、唸るように答える。怒りで視界が霞んで行く。父親なんて大嫌いだ。中原くんを巻き込むなんて、一発殴ってやる。顔を殴る。痕が残るように。
「乗ってやるから、扉開けろ」
「……激情の芝居が、剣崎様によく似ていらっしゃいます」
手を振り払えば、扉の鍵が開く音がした。勢い良く開いた扉、中はリムジンのような作りで、照明が落とされているのか薄ら暗い。長く連なった椅子の、一番奥に、小さく丸まっている彼が見えた。
「っなかはらくん!」
「ぁ、っ」
「ごめん、ごめんね、怖かったよね、中原くんは待ってて、俺が行くから、今晩の夜ご飯は作れないかもしれないから買って食べて、ね?」
「あの、ちが、違う」
「ん?どしたの、中原くん。俺は大丈夫だよ、ちょっとびっくりしたけど、」
「俺嘘ついた、俺が新城だって、俺が言った」
「……へ?」
「中原新か、新城出流か、って聞かれて、新城の代わりに俺が行ったら、新城は会わなくて済むと思って、でもごめん、失敗して、俺下手くそだったから、ごめん、なさ……」
ぼろ、と中原くんの目から涙が零れた。あまりに正しく在ろうとする、君は馬鹿だ。嘘をついたことに対する謝罪というよりは、俺を庇おうとしたのに結局ばればれだったことに対しての謝罪だった。全部顔に出る中原くんが、嘘つけるわけないじゃない。自分が新城出流だと名乗った時の顔が想像できる。ていうか、絶対写真ぐらい持ってるって。住所知ってて、なんなら通ってる大学まで押さえられてんのに、写真ないわけないでしょ。あの問いかけはただのハッタリだ。ルームシェアしている相手がいると知っていて、それがただの友人ではないと当たりもつけて、どこまで相手を守れるかを計る、クソみたいなハッタリ。やっぱり殴ろう。顔を三発。
ばたん、と背後で扉の閉まる音がした。
「は?」
エンジン音。発進に合わせて、重力が身体にかかって、耐えようとしていなかった俺は中原くんを下敷きにするようにシートに倒れこんだ。
「ぶゃっ」
「は、あ!?」
まさかとは思うけど、まだ中原くん乗ってんのに、発車しちゃったよ。おもいぃ、と涙声の中原くんに、眩暈がした。

到着。絶対監視カメラぐらいあると思って、嫌がる中原くんを押さえ込んでしこたまいちゃついてやったんだけど、運転手さんだったらしい男は無表情だった。まあ別にいいのだ。中原くん成分を補給して普段通りの新城出流に戻りたかっただけ、といえばそれもそうだから。
「し、しんじょぉ……」
「……………」
ただ、中原くんが生まれたての子鹿みたいになってしまったのは完全に計算外である。やりすぎた。もうちょっと加減したらよかった。腰抜けた、歩けない、もう置いてって、とぷるぷるしている中原くんはハイパースーパーかわいい上に、中途半端に可愛がられたせいでどえろいので、絶対に置いていかない。だって、あっちは中原くんの存在を知ってるわけで、俺の弱みだって分かってて使われてるわけで、そんなん置いて行くわけないじゃん。餌撒いて釣竿垂らして放置するようなもんだ。お姫様抱っこでもおんぶでもして連れて行くからね、と告げれば、じゃあ十分ください、なんてはあはあされて、それは要するに十分で落ち着けるから俺はどっかに行ってろということだな。オッケー。
ということで、運転手さんの見張り兼、何か聞きだせることはないかと思って、お喋りタイムである。中原くんは車の中にいる。十分で治らなかったらおんぶだな。
「あんたはなんなの?」
「剣崎様に雇われました」
「ヤクザ?」
「いいえ」
「嘘だあ」
「……剣崎様に拾われた者です。売れない役者だった私に、自分の身の回りの世話を任せ、芝居を盗むように言いました」
「執事的な?」
「それに近いのでしょうね」
「マネージャーとかかと思った」
「剣崎様もお忙しいですが、それを管理するマネージャー様も、お忙しい方ですから」
「ここどこ?」
「剣崎様の別宅です」
「最寄駅は?」
「バスです」
「うっわ、ど田舎じゃん……随分車走るなーと思ったんだよ」
「地図アプリですか」
「ピン立てとくね」
「では、次はご自分でいらしてください」
「は?ご足労願おうって?馬鹿じゃないの。迎えに来なかったらこんなとこ来るわけないじゃん」
「……若い頃の剣崎様と同じことを申されるのですね」
「うっざ。気持ち悪。あ、十分経った」
べたべたすんな!といつも通りの元気を取り戻した中原くんも連れて、出発。別宅、というだけあって、まあそれなりに広い。豪邸、とはいかないまでも、一人なら持て余すだろう。調度品が豪華だ。はわあ、と惚けている中原くんを引っ張って進む。無駄にふわふわのスリッパ、歩きにくいっての。豪華なドアノブの扉の前についた時、運転手の男が足を止めた。
「こちらに」
「あ。ねえ、待って、俺扉開けたい。どいて」
「はあ」
「たーのもー!」
ドアノブを捻って軽く開け、あとは勢いに任せて蹴り上げた俺に、運転手さんは目を丸くし、中原くんは一瞬で真っ青になった。すげえ音。重い扉だったんだなあ、足で開けちゃったから分かんないけど。中はリビングだろうか。ソファーとか、テーブルとかあるし。慣性に従ってゆっくりと閉じる扉を、影から伸びてきた手が止めた。
「……扉は手で開けるものだ、と母親から教わらなかったか?」
「うるせえバーカ!」

殴った。二発。三発目を振りかぶった時点で、俺が運転手さんに引きずり倒されて踏んづけられた。めっちゃ痛かったけど、その代わり、二発は思いっきり顔にぶちかましてやった。激昂した脳みそで覚えてるのは、中原くんが必死で止めに来たのと、運転手さんに思いっきり引きずり倒されたのと、案外されるがままだったテレビで見たことあるおっさん。剣崎仁志。知ってる顔だが、実際見るとまあ、確かに覇気がある。オーラ的なもの、というか。騒動がひと段落して、冷やすものを持って来てくれた運転手さんは、一礼して出て行った。中原くんもそれについていこうとしたので、がっしり手を繋いで引き止めた。中原くんの席は俺のお隣だからね。俺が殴った頰を冷やしている剣崎仁志は、深くため息をついた。
「……いきなり殴られるとはな……」
「気が済んだから帰っていい?」
「待て。話があると言っているだろう」
「こっちにはない。聞こえなーい」
「あっばか、ばか!乗るな!ちゃんと話聞けって!」
「おじさん出てって、ソファー借ります」
「……そういうところが、小夜にそっくりだ」
母親の名前だった。思わず動きを止めた俺に、剣崎仁志は話し出した。俺が中原くんに乗り上げて服をたくしあげようとしているとか、そういうことは瑣末なことらしい。ふざけて乗り切る作戦、失敗。成功するとも思ってなかったけど。仕方ないから中原くんを解放すれば、そそくさと服を直して、でも手は繋いでくれた。そういうところが大好きだ。
「……小夜が入院していることも、お前がそこの、中原新くんと一緒に住んでいることも、知っている」
「でしょうよ。どこから調べんの?そういうこと。非合法の手段?」
「仮にも父親だからな。公的な手段から辿る方法もある」
「も、ってことは、非公式な手段もあるってことだ。こわー。中原くんのこととかはそうやって調べ上げてんでしょ?このおじさんこわー」
「真面目に話を聞きなさい」
「聞いてやってるだけ有難く思えよ、とっとと本題に移れ老害」
「……しん、」
「ちゅーされたくなかったら黙って」
「……はい……」
「本題、か。単刀直入に言うと、お前に仕事を頼みたい」
「密売とか?」
「違う。役者としての仕事だ」
「自分の息子として売り出すために?あーやだやだ、汚れた大人の考え」
「それも違う。役者として、お前に見込みがあるからだ」
「俺、お芝居なんかしたことないですし」
「高校生までは仕事を受けていただろう。お前は、役に命を吹き込める。作られた物語を、まるでそれが事実であるかのように、他者に錯覚させられる。それは才能だ。誇っていい」
「だからなに?才能があったら、それ使わなきゃいけないの?人殺しの才能があったら人殺さなきゃいけなくなっちゃうじゃん」
「そうじゃない。お前が役を生かすことで、それを見た観客の心を動かすことができる、という話をしているんだ」
「だから、さっきも言ったけど、だからなんなの?」
俺の唯一大切なものは、顔も知らないお客様じゃない。俺のために苦手な嘘をついて、俺のために泣けて、俺のためにここに来てくれた、どうしようもなく俺が大好きでしょうがない、馬鹿正直に正しい中原くん。彼のためにならないことは、俺はしない。中原くんが「やって?」って言ったらやるかも。でも、これだけごねる俺を見て、やって、なんて中原くんが言えるわけない。緊張からか、中原くんの掌は汗で湿っていた。それをぎゅうっと握り直して、眉根を寄せて不快感に顔を歪めて唾でも吐き捨ててやりたいのを隠して、幸せそうに笑いかけてやった。ほら、お前が才能があるって評価した、俺の渾身のお芝居だよ。喜びに咽び泣いて拍手してくれても、いいんだからね。
「それじゃ、あなたのお葬式には呼んでね。そのご自慢の顔に、油性ペンで落書きしてあげたいからさ」

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