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始発



やっほー。新城出流だよ。中原くんのかれぴっぴだよ。もひとつ重ねてやっほー。
人にはそれぞれ今まで歩いてきた人生というものがあると思うのだけれど、それは口に出さなければ相手に伝わることもない。もしかしたらあなたの目の前で笑っている恋人は自殺癖があったかもしれないし、あなたとお酒を飲んで笑い会う友人は人を殺した経験があるかもしれないし、あなたを慕う年下の後輩にだって人には言えない爛れた異性関係があるかもしれない。そんなのはぱっと見ただけじゃ分からないのが当たり前であって、もしかしたらそうなのかなってこっちが思ってることすら気づかれないのが常であって、それが日常ってものなのだ。全ての異常を平凡で覆い尽くして、日常は進んでいく。
これは、そういう話だ。言わなければばれない過去の話。新城出流の始まりの話。きっともう誰も知ることもない話。

俺にはお父さんがいなかった。生まれてこられたからにはいるんだけど、この人が父親であるという覚えがない。多分この人が父親らしい、という認識はある。テレビ越しにでしかないけど。俺の父親であろう人物は、有名な名俳優らしかった。海外でも人気がある俳優さん。テレビを見て、この人が出流のお父さんなのよ、と母親が何度も何度も言うので、そうなんだ、そうらしい、と思っているだけのこと。もしそれが本当なら、俺の年齢と母の年齢から鑑みて、三十路超えた超有名な俳優が二十歳になるかならないかのファンに手を出し、果てには妊娠させ、そのまま責任も取らず黙秘を続けている、という最低な事実が浮かび上がってくるのだけれど、本当かどうかは分からない。母が最初から最後まで錯乱して嘘を俺に教え込んでいるのかもしれないわけだし。
母は俺を、父のようにあれと育てた。決して裕福でもない家庭で、色々なものを切り捨てながら、俺に才能を詰め込んでいった。時期にばらつきはあるけれど、水泳、体操、英会話、エレクトーン、習字、ダンス、将棋、そろばん、テニス、学習塾。たくさんの習い事をして、自由な時間はほとんどなくて、必死に勉強をして、子役としてのお仕事もいくつか受けるようになって。母は俺に何度も繰り返した。貴方は選ばれた側なの、お父さんと並ぶ人間なの、他の有象無象はみんな見下げて生きなさい、と。繰り返し繰り返し、擦り込むように、そう伝えられて、そう信じた。あの子なんかより出流の方が出来るわ、出流は特別なんだから、と頰を優しく包まれて、頷いた。周りより出来る子であることが、新城出流のアイデンティティー。常に一番で、周りを見下して、自分こそ唯一だと思って、与えられたノルマをこなしていく。課題の達成は、100%以上の力を持って、圧し潰すように。他人に自分より前を歩かせないように。どう思われようが、どんな手を使おうが、自分が一番であるように。だって俺は特別なんだから。なんでもできなくちゃいけないんだから。そうじゃなきゃ、母をがっかりさせてしまう。見捨てられるのも、見放されるのも、怖かった。だってそれは、母が父にされたことと同じだ。あんな風に惨めに縋りたくない。なら、全てを蹴落として「出来る子」であり続けなければならない。そうじゃなきゃ、俺の存在は、俺じゃなくてもよくなってしまう。自我の確立に、ぶち抜けたエゴイズムが必要となってしまったがために、俺にはあんまり友達がいなかった。上大岡ちゃんは親同士の仲もあって仲良くしてくれたけど、俺が彼のことを怖がっていたので、そこまで一緒にいたわけでもない。それに、友達と遊んでる暇があったら、勉強しなくちゃいけない。習い事は毎日異様なまでに詰め込まれていたもんだから、誰かと遊ぶ余裕なんてなかったのだ。
中学校は、大学までエスカレーター式に繋がっている、有名私立に受験した。当然ながら、無事合格。母はその頃には、いつ寝ているのか分からないほど仕事に明け暮れ、俺を教育し、まるで何かに駆り立てられているようだった。父らしき俳優はいつしかたくさんの賞をとって、応援して下さる方々のおかげだとか、そういうことを宣っていた。一度だけ、母がそれをテレビ越しに見ていたのを覗き見たことがあった。なにかぶつぶつ唱えていたけど、なにを言っていたのかは知らない。俺が寝た後、暗い部屋の中で、わざわざ録画しておいた会見をじっと見ている姿が、少し怖かった。
結論から言って、中学校で俺は、ものすごく浮いた。他人と馴れ合おうともしない、授業中に別の勉強をしてるくせに当てられるときちんと答えられる上に試験の成績はいい、休み時間はいなくなる、休みがち。そりゃあ友達なんて出来るわけがない。ちなみに、全てに弁明はできる。他人と馴れ合わなかったのは他人を見下せという刷り込みがあったからだし、授業中の別のことは習い事の課題を終わらせるため。授業で習うこと程度、もうとっくに勉強し終わっているから、聞いていなくても大丈夫。喧しい教室で休み時間を過ごすことに意義を感じなかったし、休みがちなのはお仕事があったからだ。そりゃもう浮いた。しかしながら、友だちに必要性を感じなかったのも事実だ。いつしかお仕事のことがばれて、一瞬ちやほやされたが、俺が塩対応にも程があったので、すぐ爪弾きにされた。まだ有名でもないちょっとしたエキストラでしかないのに、偉ぶってりゃ、そりゃそうなる。
ちなみに、我が愛しのスイートハニーであるところの中原くんとの初邂逅はこの時のはずなのだけれど、俺が他人に全く興味を示さなかったことと、中原くんもあんまり他人と関わろうとしなかったことで、恐らくまともな会話すらしていない。もっとおしゃべりしとけばよかったなあ、と思うのは今更だ。同じ学校にいたくせに、後から見つけた卒業アルバム写真の印象しかない。今より幼くて女の子に近い顔立ちと、今とあまり変わらない全てに対して不満そうな目。すぐ人に埋もれてしまう、周りより小柄な体格が際立って、制服に着られているようだった。それは高校でも変わりゃしないんだけど。後々になっての中原くん曰く、「存在は知ってた」「嫌な奴だって」だそうで。そう聞かされると、その時代の俺と中原くんが出会わなくてよかったような気もする。大学生の俺と中学生の中原くんが出会えたら一番いいのにね。
転換期は高校時代。高校から外部入学してくる生徒がちらほらいて、それがきっかけというわけでもないが、高校生にもなれば「ただの爪弾き者」は「いじめられっ子」にバージョンアップする。そもそもにしてこっちが嫌な奴なんだから、いちゃもんつけられて当然だ。しかしその時の俺にはまだそんなこと分からないので、突っかかられて、それを逆に馬鹿にし返して、けちょんけちょんにされ、いつしか当たり前のように集団から弾かれて、下駄箱の中はゴミだらけで机の上には落書きだらけだった。それでもまだ生意気なので、時々殴られたりもした。今になって思う。当たり前だ。突っかかられた時点で大人しく引いて、ご自慢の演技力で怯えるふりでもしておけば、あっちだってすぐに飽きて、関わり合いになりたくない変な奴、扱いで済んだかもしれなかったのに。馬鹿だなあ。俺をこんなにした母を責めるより、その歳にもなって空気の読み方と知らない自分が悪い。一人ぼっちの世界にずっと篭っていたせい。
殴られた時には大概財布の中身を持っていかれる。残念なことにうちは裕福ではないので、毎回舌打ちと共に端金を抜かれていた。その日は思ってたより酷くって、骨とか折れてたらどうしよう、お仕事に支障が出る、習い事もままならなくなる、とぼんやり思いながら、じくじく痛む頰を押さえながら座り込んでいた。嫌に腫れてるのは足首で、思いっきり踏んづけられたから、その時に変な向きに曲がってしまったのかもしれない。人気のない裏庭でぼおっと噴水の水を見ていた俺の前に、影がさした。
「……もうお金なら、」
「新城」
「あげ、……?」
「……足」
「……ああ、うん、痛いんだ」
「歩けないの」
「だったらなに?」
「……ううん」
ふる、と首を横に振った彼は、中原くんは、踵を返してのろのろと歩いて行ってしまった。心残りがありそうな歩き方だった。肩もがっくり落ちてた。その当時の俺は、あいつも俺を馬鹿にしにきたのか、足が痛くなかったらまた殴るつもりだったのか、弱い者いじめをするつもりはないとでも驕っているのか、こっちは弱い者になったつもりはないぞ、と内心ブチ切れ倒していたのだけれど、そんなわけはない。後日知った話がここからは多分に入ってくるが、この時の中原くんは、今まで俺がいじめられている様子を散々覗いてきて、止めるとか割って入るとかそういうことはそもそも眼中になくて、ただ純粋に声がかけられなかっただけなのだが、一世一代の決意を振り絞って話しかけにきたのだ。足を怪我したチャンスを狙った、と中原くんは言った。走って逃げられたりしないから、とも。俺が言うのもなんだが、彼の倫理観も大概壊れかけである。人がいじめられてぼこぼこにされたことをチャンス扱いするな。そりゃ、君にとってはそうだろうけど。
それから、中原くんは、俺がぼこぼこにされてる時に限って、話しかけにくるようになった。しかも、しょうもないことを、数言だけ。俺が鼻血垂らしてティッシュで押さえてんのに「今日の昼飯なに食べた?」とか。雨ざあざあの中で殴られた上に靴まで取られて途方にくれてる俺に向かって「もうすぐ夏休みだな、どっか行くのか」とか。頬っぺた真っ青になって口の中も切れてもごもごしてる俺に「そういえば、髪切ったんだな」とか。今考えれば、中原くんはそんなくだらない内容で話しかけることでさえも、一目惚れ相手の俺に対してだから、真っ赤になって、過呼吸寸前まで追い詰められて、それでも平然を装って俺の前に現れていたのだろう。かわいいやっちゃな。そんな彼の選ぶタイミングだから、俺が無視して逃げなさそう、且つ周りに人がいない、っていうのを見計らうとなると、あの時あの瞬間を選ぶのは、致し方ない。
しかしながら、当時の俺にとっては苛立ちの原因でしかなかった。だってなにも、いじめられてるのがへっちゃらなわけじゃないのだ。上履きが毎朝ゴミ箱に入ってれば履くのは嫌だし、無くても別に構わない教科書でも机の上に無いと先生に注意されるし、廊下歩いてりゃぶつかられるし、一人で静かに昼飯を食おうとすればいちゃもんつけられる。いくら周りを見下し切った当時の俺でも、心には限界というものがある。俺をいじめている相手にも当り散らしたことがあったけど、手が酷くなっただけだったから、諦めた。無意識のうちに俺は、その代わりに、と中原くんに当たることに決めたのだ。なにもできないくせに、俺のことを可哀想がって偉そうに話しかけてくる、変な奴。そう、中原くんのことを俺の中で位置付けて。
その日は暑い日だった。冷たい炭酸飲料を、珍しく二つ持ってきてくれた中原くんが、買いすぎちゃったからこれで冷やしたら、と一本くれた。俺はそれにも腹が立ったのだ。ありがとうなんて死んでも言ってやるものか、と内心で吠えた。こくこくと、両手でペットボトルを傾けてちょっとしか飲まなかった中原くんが、口を開こうとした。
「しん、」
「もう関わるのやめてくれない?」
「、……」
「迷惑なんだよね。可哀想だと思うなら、あいつらどうにかしてよ。俺が言っても聞かないんだから、もっと立場のある人間が言わないとやめないんでしょ?先生に告げ口するとか、君からしてよ。俺はしたくないから」
「……そう、してほしいの」
「全然。君が俺の近くからいなくなってくれればそれでいい」
「ぁ、ぇ、と……ごめ」
「なにに謝ってんの?これいらないから。はい返す、もう話しかけないで」
中原くんは、俺に突っ返されて二本に戻ったペットボトルを見下ろして、こくりと頷いて、走っていった。話しかけないで、を守ろうとしたのだ。言い返したかったはずなのに、泣き喚きたかったはずなのに、俺の前ではそうしなかった。しかし運の悪いことに、中原くんの走っていった方向は、裏庭から校舎に入る扉の方面だったので、俺は彼の後を追うしか無くなってしまったのだ。とっくに教室に帰ったもんだと思って、ひょこひょこ足を引きずりながら歩く俺の耳に、啜り泣きが聞こえた。
「……?」
ただの興味だった。誰だろうって当てもなかったし、別に誰だろうと良かった。しかも思ったより近かったので、隠れるのが下手だな、と馬鹿にすらしていた。校舎に入る扉の横、茂みの陰。覗き込んだそこには、地面に転がったペットボトルが二本と、ちっちゃく丸まってひぐひぐしている中原くんの頭があった。ペットボトルが落ちている辺りの土は凹んでいて、多分彼はペットボトルを地面に投げつけたんだろう、とぼんやり思う。そんなに悲しかったのか、俺とオトモダチにでもなったつもりだったのか、と呆れた俺は、うっかり茂みを揺らしてしまって、中原くんがばっと振り返った。
「ゔ、ぁ」
「……、」
「なんっ、な、なんで、新城、なんでいる、っひ、これは違、っひぅ、ちが」
しゃくりあげながらの弁明。真っ赤な目。驚きすぎて腰でも抜かしたのか、立ち上がりもせずずりずりと下がって、土まみれになっていく制服。ちがう、ちがう、と繰り返して、涙で潤んだ目が泳いで、ぱたりとズボンに雫が落ちた。雷に打たれたようだった。俺はこの人に、こんな顔をさせて、こんな醜態を晒させて、こんな目に遭わせている。なんてかわいい、なんて欲情する、なんて興奮する泣き顔だろう。彼の目に映る自分が、醜く笑ったのが見えた。胸倉を掴み上げると、高く掠れた声で、悲鳴が上がった。耳まで真っ赤になってぎゅっと目を瞑った中原くんのことが、欲しい。俺だけのものにしたい。俺のために、俺のせいで、俺の手によって、泣いて欲しい。不満そうな目が絶望に澱んで、涙に変わるその瞬間が見たい。今この瞬間だけじゃ足りない。もっと見たい。中原くんの泣き顔を、もっともっと、俺だけのものにしたい。さっきみたいにしたい。次はさっきよりももっとどん底に突き落として、救いの手を求められても振り払って、恥も外聞もなく、君を泣き喚かせたい。そんな想像で、背中を走り抜けたのは、どうしようもなく快感だった。
「ねえ、悲しかった?」
「……っ、なに、なんだよお……」
「俺にどっか行けって言われて泣いちゃったんでしょ?悲しかった?正直に言わないと、もう二度と話してあげないよ」
「ひぅ、っ……か、なっ、かなしかったよ、悲しかった、これでいいんだろ!」
「なんで?仲良しこよししたかったから?可哀想な俺に突き放されたら自分も可哀想になるから?いじめられてる奴と一緒にいることが分かったら、君もいじめられちゃうかもしれないんだよ?」
「ぅ……」
「殴られるのって痛いんだよ。ゴミ箱って汚いんだよ。教科書って大事なんだよ。誰も助けてなんかくれないんだよ。知ってる?当たり前かもしれないけど、みんな知らないんだ。俺が可哀想な目に遭ってるの見て、君は哀れんだんでしょう?」
「……か、かわいそうって、なんだよ……」
お前のどこが可哀想なんだ、と。中原くんは、胸倉を掴まれて怯えながら、大好きな俺が近くにいることに心臓をときめかせながら、本気の声で零した。多分、俺が中原くんを好きになった瞬間は、こっちだ。欲の対象としての芽生えが数分前なら、恋愛対象としての第一歩は、こっち。狂ってる、と思った。彼は、俺が可哀想だから近づいてきたわけではなかったのだ。その時の俺にはまだ理由は分からなかったが、ただ俺のことが好きすぎて、俺がいじめられているとかそういうことは、中原くんにとっては瑣末なことでしかなかった。頭がおかしい。しかもその一目惚れの原因も、お付き合いを初めてしばらく経った後、したたかに酔っ払った成人済みの中原くんをいっぱい甘やかしてチューしてぎゅーして教えてもらったのだが、「体育の授業の前に着替える時、身体がかっこよかったから好きになった」だそうだ。大笑いした。俺が心の底から救われたのは中原くんの好意がきっかけなのに、初っ端の彼は俺の身体が好きだったわけだ。そりゃ、精神的な問題である「かわいそう」の意味が分からないのも頷ける。決定的にずれている。今となっては、中原くんは俺の全部が好きだから、もうどうでもいいけれど。
ぱっと手を離したら、中原くんはべしゃりと尻餅をついた。彼が痛がるのは特に興奮しなかった。やっぱり泣かせないと。俺に縋って、俺だけが頼りなのだと、泣いてもらわないと。
「ゔぇ」
「……仲良くしてあげる」
「……ぇ……?」
「思ってたのと違ったから、君と、仲良くしてあげる」
「しんじょ、」
「名前なんていうの?」
「……なかはら、あらた……」
「中原くん。よろしくね」
「……ぅん」
真っ赤っかの中原くんは、嬉しそうにはにかみながら頷いて、すぐ取り繕うようにぶすっとした顔に戻った。はっと気づいた中原くんが、土まみれのペットボトルを制服で拭いて、綺麗にしてから渡してくれた。中原くんの制服は泥まみれだ。変な奴だ、とペットボトルの蓋を開けた俺は、吹き出した炭酸で濡れる羽目になる。
「ぁは、っあははは!新城、びしょびしょ、あはははっ」
「……なにがおかしい」
「だって、ふふ、お前がそうやって、普通にしてるとこ、あんま見たことないから」
普通。成る程、普通か。自分でもあまり他人に馴染もうとしなかった、と、この時俺ははじめて気づいた。遅い。遅すぎるぞ、高校生の新城出流。もっと早く気付け。そしてちなみに、中原くんは炭酸が苦手だった。だからちみちみしか飲まなかったのだ。俺があの炭酸飲料を好んで買ってるのを覗き見て知ってて、あれを二本用意した。いじらしいなあ、もう。


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