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電車シリーズ



☆昔
「小金井くんは、溝口くんが大好きだなあ」
赤茶の髪をした軽薄な男。新城はへらへらとそう言って、でも俺も小金井くんの顔が好き、といらない情報を付け加えた。そういうことを簡単に言っているから、可哀想なことにこんな男を好きになってしまった俺の友人は、定期的に枕を涙で濡らして目を真っ赤に腫らすことになるのだ。友達と呼べる相手が今までの人生であまりいなかった俺だけど、だからこそ、俺のことを友達だと認定してくれた中原には、まあ一応楽しそうにしていてほしいという願いはあるわけで、それを彼の想い人たる新城が一番邪魔しているというのは、頭の痛い話である。まあどうせ、そっちはそっちの話で、俺にはなにも関与できないんだけれど。なら、関与できる自分の思い出話でもしようかと思う。新城は知らない、中原も知らない、終わった話。
小金井清が溝口優吾と出会ったのは、昔を遡って、中学校一年生の時のこと。その時の俺は小金井という苗字ではなかった。なんだったかは忘れた。溝口なら覚えてるかもしれないけど、特に聞きたくない。思い出したくない、が正解かもしれない。
俺は笑うのが下手な子どもだった。というか、笑い方が分からなかった。表情が動かないのがデフォルトだった。今もさして変わりやしないけれど、表情を作って上辺だけ真似することはできるようになった。とにかく昔は、今よりもっと表情筋が凍っていたのだ。笑わない子どもを親が気持ち悪がるのは、致し方無いのかもしれなかった。怒鳴っても泣かない、ましてや怖がりもしない、だったら手を出されても仕方ないのかもしれなかった。最初に殴られたのがいつだったかは忘れてしまったが、小学生の時はまだ加減されていた。中学生に足をかけて背が伸び始めたら、加減が無くなった。幼い子どもと呼べるラインを通り越してしまったから、思いっきり殴られても体がしっかりした分平気になってしまったから、仕方ない。虐待されている子どもは、自分の親を庇う傾向にはあるらしい。俺はその点では人間らしかった。父親が俺に手を上げた時には、きっと自分が笑ったり泣いたり怒ったりしないからなのだろうなあ、とちゃんと思えていたから。母親は息子に手を挙げる父親を止めはしなかった。怖かったのかもしれないし、俺がそうされるに値すると思っていたのかもしれない。どっちでも、母親を責めるつもりはなかった。
同い年に、顔に大きな痣を作って、いつも真顔のやつがいたら、自分だったら避ける。だから俺は、自分が周りから遠巻きにされていても仕方がないと思っていた。溝口は違った。一言も話したことのなかった、隣の隣のクラスの、名前も知らない奴なのに、真っ暗な目をこっちに向けて、ぽつりと呟いたのだ。
「助けてあげようか」と。
溝口優吾は、自分のことを顧みない。それを人は献身的と呼ぶのかもしれないが、あれは行き過ぎている。一種の自己犠牲だ。俺の家に着いてきた溝口は、俺が怪我をしていることを俺の父親に問い質し、かっとなった父親に殴られ、庇った俺のこともいつものように足蹴にする父親の様子を冷静に隠し撮りして動画に収め、痣だらけの俺を引きずって、交番に行った。数時間後には、俺の家の前にはパトカーが止まっていて、俺と溝口は女の警察官から嫌に優しい口調で事情聴取を受けていた。あっという間に離婚が決まり、引っ越しが決まり、俺の苗字が変わって、溝口の頰には大きいガーゼが貼られていた。感情を写さない真っ暗な目で俺を見た溝口は、口角を少しだけ上げて、全然そう思っていない声で、「よかった」と囁いた。
溝口優吾への、執着の原因。きっかけ。恩人と言えば聞こえはいいが、俺から彼に頼んだことは何一つとして一度もないことは明言しておかなければならない。苗字が変わって引っ越しをして、大学入学に当たり一人暮らしをしようと思って、それならば昔の実家の近くがいいと告げた時の母の顔は忘れない。清はやっぱり頭がおかしいのよ、お父さんにたくさんぶたれたから、だって普通だったらそんなこと思うわけないじゃない、みんなと同じことをしてよ、普通に馴染んでよ。そう、愕然と、怯えたような顔で俺に言った。だから、そうだね、頭がおかしいんだ、と家を出た。壊れているのかどうかは自分では分からないし、そもそも感情の起伏が薄い時点で設計ミスだ。他の欠陥が今更見つかったところで、驚かない。
大学に入って、溝口をすぐに見つけた。運命ってやつは本当にあるんだと感嘆したくらいだ。信じてもいない神様に感謝すらした。しかしながら、溝口はまた自分を他人に切り売りしていた。根源から、そういう人間なのだ。男相手に身体を売って何を得られるのだと、開口一番問いかけた時にも、薄く笑って答えた。「俺なんかが必要とされるなら、なんだって」と。
俺はまだ笑えない。溝口は他人に自分を使わせることをやめられない。俺が笑えるようになったら、その頃には溝口も自分のために生きられるようになるだろうか。ならないだろうな。二人ともきっと一生そうはなれない。死んだら治るかもしれないが、死ぬわけにはいかない。俺には友達が出来てしまったし、溝口にも大切なものくらいあるだろうから。
とりあえず、手近なところで、中原を嫉妬させるために溝口を使う新城を、どうにかしたい。俺の立場からすると、あれはとても邪魔だ。溝口を自分の欲で使い、俺の友人を泣かす。新城をどうしたら大人しくさせられるのかずっと考えている。最近になって、苦手な相手であるらしい、三上大嘉という男が浮上したので、うまく利用できたらと思う。けどきっとどうにもならないんだろうなってことも分かってる。俺がなにかして、それが他人に影響したことって、今まで生きてきてほとんどないから。中原と新城はこれからも好き同士なのにわざとすれ違い続けて、手を繋ぎながら殴り合うんだろう。俺にはどうしようもないことだ。けど、せめて中原には笑っていて欲しいとは思う。
思うだけなら、自由なはずだし。


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