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おはなし



「さちえ、どっか行くの」
「ええ。畑瀬のおばあちゃんのところ」
「なんで?」
「この前、着物を貸してもらったのよ。御礼もしなくちゃいけないし、行ってくるね」
「俺も行っていい?」
「いいけど……おばあちゃん、朔太郎は来ないのかって言ってたし」
「うん、行く、久しぶりだし、お休みだから暇だし」
「着替えてからいらっしゃい、待ってるから」
「え?このままでいいよ」
「着替えて」
「はい」
大きな風呂敷包みを持ったさちえが、おばあちゃん喜ぶわね、と笑っている。久しぶりだし、暇だし、さちえ一人で行かせるのもなって思っちゃったのも確か、だし。
畑瀬のおばあちゃん。顔もぼんやりとしか覚えてないお父さんの、お母さんだ。お父さんがいなくなってからも、薄いながらに関わりはあって、多分俺が知らないだけでさちえはたくさん助けてもらってたんだろうし、だったら俺もお世話になってることは確実なわけで。でも、こう、悪い人ではないんだけど、というか、俺たちを助けてくれようとするからこそ、さちえは畑瀬のおばあちゃんに頭が上がらなくて、困った顔でぺこぺこするのだ。俺はそれが、嫌いというか、腑に落ちないというか。悪いことじゃないって分かってるし、さちえからすると当たり前だって思うけど、やっぱりもにゃっとするのだ。それは誰が悪いわけでもなくて、俺が一人でまごついてるだけ。おばあちゃんのところにさちえだけで行かせるのもなあって思ってるのも、俺が知らないところでさちえが眉を下げて笑うのが不甲斐ないだけだ。俺がいると、おばあちゃんは俺のことを気にしてくれるから。
車を出して、俺が運転席。大切そうに風呂敷を抱えるさちえに、口を開いた。
「着物、何かに使ったの」
「おばあちゃんが、お友達をお着付けするのに練習したいって、お母さんが練習台になったのよ。それで、せっかくだからそのまま幸太郎さんのところに行って、おばあちゃんはご用事があるからって早く帰って」
「えー、さちえ着物着てたの?いつ?俺見てないよ!」
「朔太郎が遅かった日だもの」
「お墓行っただけ?」
「やっちゃんにも会ったわ」
「俺だけ見てないじゃんかさ!」
「うーん、俊一さんも見てないわ」
「なんで?」
「……なんとなく?」
お夕飯の準備をしなくちゃいけなかったから脱いだとか、着慣れないから苦しくってとか、いろいろさちえは付け加えていたけれど、「おばあちゃんに借りた着物を次の旦那さんに見せるのが引け目に思った」が本当なんじゃないかなあ、とは思う。それが良い悪いは別にして、さちえがそう思うのは責められない気がする。
畑瀬のおばあちゃんの家までは、車で30分くらい。古い家で、おばあちゃん一人にはきっと少し広い。さちえ一人で来ても温かく迎え入れてもらえるんだろうけど、俺が行くとおばあちゃんは喜ぶ。孫だからってのあるけど、俺とお父さんがそっくりだってのもあるような気がしてならない。重ねられているのだ、結局のところ。
他愛のない話をして、また来る約束もして、小さな手を握って、別れた。お父さんの写真が飾ってある、誰もが誰もに無意識に気を使う家。車に戻って来たさちえが、小さく息を吐いたのが、その証拠だ。優しくありたいと思うことはいいことのはずなのに、不思議なことに、何故かそれが重なると、少し息苦しくなる。車が家に到着した時、うちの玄関前に、見慣れた車と見慣れた金髪がいた。車の音に振り向いた航介が、口を開く。
「あ。いた」
「あら、こーちゃん。どうしたの」
「届け物」
中ぐらいサイズの発泡スチロール。お正月に持ってくる、馬鹿でかい豪勢なお造りが入ってるようなのじゃない。頼まれてたやつだけど、と軽くそれを上げて示した航介に、さちえが手を打った。忘れていたらしい。
「あらー、みーちゃん急いでくれたのかしら。ごめんね、こーちゃん。ありがとう」
「帰りついで。どっか行ってたのか」
「ええ。ちょっとお出掛け。さ、入って」
「ん」
「なに持ってきたの?」
「魚」
「航介が発泡スチロール持ってて魚以外であるわけがなくない」
「……それもそうな」
航介が長靴を脱いでいる間、持ってて、と手渡された箱は、まあそれなりの重量だった。長靴ってことは、ほんとに仕事帰りってことだな。うちにただ遊びにくるだけなら、格好は同じようなもんでも、靴はスニーカーだし。
さちえがみわこに頼んだのは、当たり前といえば当たり前に、お魚だったようで。切り身にしてあるから、こっちは刺身用、と分けながら出してくれている航介に、ふんふんとさちえが頷いている。スーパーで買うよりも融通が利く、その上手間のかからないようにあっちで多少の手を加えてくれる、という感じで、ちょこちょこお願いしているらしい。さちえがお菓子を作っていつもの母同士の集まりに持って行くと、もれなくお魚サービス一回、みたいな。こんなもんかな、と分け切った航介に、さちえがお茶とお菓子を出した。
「ゆっくりしてって」
「すぐ帰るよ。そのつもりだった」
「お菓子くらい食べてって。ね?」
「……お菓子くらいなら」
「……………」
「……なんだよ」
お菓子につられたというよりさちえに弱いだけだな、という目である。言いたいことは特にない。
航介は、ほっとくと意外にも静かである。俺がちょっかいを出さなければ、という前提がつくけれど。今だって、俺があんまり喋らずにソファーでぼけっとしていると、同じく静かにお茶を啜ってお煎餅を齧りながらぼけっとテレビを見ている。それを見るさちえはにこにこしている。なんのにこにこだろうか。俺もお茶飲みたい。
「ご馳走様でした。帰る」
「まったねー」
「ああ」
「あ、待って、こーちゃん。これ、持って行って。和成さん好きでしょう」
「おー。渡しとく」
「お夕飯食べていかない?」
「いいよ。ほんと、届け物に来ただけだし」
「そう?俊一さん残業で、今晩遅くなるって、お夕飯余らせちゃうからと思ったんだけど」
「そうなの?」
「ええ。さっき連絡きて、こんなことならおばあちゃんにもご馳走できたら良かったわね」
「ふうん……」
「……じゃあ、明日夕方また来る。もし今日の夕飯が残ってたら食べるから、とっといて」
「えー、それじゃ残り物じゃない」
「別に平気だろ、腐るわけじゃないし」
「そうじゃなくてえ……」
「?」
「……察しなよ、さちえの葛藤を」
「明日は来るなってことか」
「そうじゃない。にぶすけ」
頭の上にはてなマークを引っ付けたまま、帰って行った。鈍感すかぽんたん。なに渡したのかさちえに聞いたら、「おつまみ」だそうで。

しばらくして友梨音が帰ってきて、案の定一人分、夜ご飯は余った。ちなみに酢豚メインに中華系のメニューだったので、明日でも喜んで航介は食べると思う。お風呂に入って、ベッドで一人、ぼんやり思い出すのは、おばあちゃんちに行った時のこと。今日じゃなくて、昔の話。
その時の俺はまだ子どもで、自分の母親がよく知らんおばあちゃん相手にへこへこすることに今よりもっと腹を立てていて、融通がきかなくて、道理が分からなくて、不機嫌になっていることが傍目から見てもよく分かるような態度をあからさまにとっていたのだろうと思う。その時の自分は、自分が無知で傍若無人で我儘だってことは、知らない。子どもだから、許されるのだ。今もまだそんなんだったら、周りから疎まれているに違いない。そんなんだった俺は、その時のいつだかも、さちえに連れられておばあちゃんの家に行って、気を遣う自分の母を見て、不機嫌になって帰ってきた。あからさまにぶすくれて、口をとんがらかせて、眉根を寄せて、嘸かし分かりやすく御機嫌斜めだったことだろう。我ながらそういうの、隠せないたちだったもんで。
その時、その日、その後。ちょっとして、航介と当也が確か遊びにきたのだ。違う、俺が遊びに行ったんだったかな。航介の家に集まったような気がする。なにも珍しいことじゃない。さちえと俺が二人でお出かけするってことは、お休みの日ってことだ。お休みの日ってことは、航介の家に両親が揃ってるってことで、いつも食べさせてもらってる分うちで子どもらに飯食わすか、ってみわこが発案することが稀にあった。その日はきっとちょうどみんなでご飯の日だったのだ。
みんなでご飯の日、俺は大好きだった。他の二人もきっとそうだと思う。けど、運の悪いことに俺はその日機嫌が悪くて、今ほど上手に気分転換する手段も知らないもんだから、さちえに連れられるがまま、仏頂面で江野浦家に到着した。当也はそういうの見て見ぬ振りするのが上手くて、しれっとした顔でこっちの気分を変えてくれる。それは彼の長所でもあり、そもそもにして「見て見ぬ振り」が短所でもある。しかしながら、航介はそうはいかない。おかしいと思ったらおかしいと言うし、何かあったのかと思ったら何かあったかって聞く。今でこそ空気読みが出来るようになったから、俺が変だと彼なりに気を遣ってなんとかしようとして、最終的には結局「お前なんか変だぞ」と告げられることが多いけれど、その時はまだド直球が八割を占めていた。その日も確か聞かれた。なんで怒ってるんだ?って。俺はそれに対して、「別に」とか「なんでもない」とか「関係ないでしょ」とか、吐いたんだろう。覚えてない。自分のことって、得てして覚えてないもんで。
「……ふーん」
「なんだよ」
「別に、なんでもない、関係ないだろ」
疑いの目を俺にぶっ刺した航介は、恐らくは俺が言ったことを嫌味に反芻した。口と意地が悪いのは、お互い様なので。
しばらくして。三人でゲームしたりなんだりしてる間に、ちょうどよく夕飯どきになった。みわこが台所から持ってきた夜ご飯は、俺が好きなもののオンパレードだった。からあげとか。具沢山のきんぴらとか。どうして好きなものばかりなんだろう、とか思う前に、やったぜラッキー、と中学生の俺は思い、単純に機嫌が良くなった。後から思えば、あのメニューになった理由は、航介がみわこに相談したのだろうけれど。いつだか「お前がなんか変で弱ってそうな時は早めに添え木でもしておきたい」と大人になってから航介に言われた。その時に出されたのはポテチだったっけ。振り返れば、中学生のその時から、朔太郎がおかしい時には好物をとりあえず与えておこう、と航介は思っているのかもしれない。どんだけ単純だと思われてんのさ。ぐうの音も出ない正攻法だ。
話を現実に戻して。さっきの航介は、多分俺のことを若干気にかけて、明日飯を食いに来る約束を取り付けた、のだと思う。今日の今日は無理でも明日も様子を見に来よう、とか。もし明日になっても変な空気を引きずってたら手を打とう、とか。多分そんな感じ。ここまで読んでることも、航介は恐らく分かってる。分かっててやってる、節もある。下心は忍ばせて。刃の下に心と書いて忍と読むのだ。色恋沙汰には似ても似つかない、自分が面倒を食いたくないがための下心だけれど、それが使えるようになったことは特に誇れない。先に進めないお互い様の惨状を、突きつけられているようで。

「お邪魔します」
「ほんとに来た」
「昨日の晩飯何だった?」
「酢豚。今日は五目焼きそば」
「どっちも食う」
「お父さんいるよ」
「挨拶して来る。友梨音は?」
「ピアノ」
「迎え行くんだろ?俺も行く」
「運転してくれんの?イエーイ」
「お前がしろよ」
「じゃあ来んなさ」
「……………」
苦虫を噛み潰した顔で、航介が俺の手から車の鍵を取った。そんなにお迎えに行きたいのか、と思ったら、遊びに来た兼飯を食いに来たのに手土産の一つもなく、というところを気にしていたらしい。お父さんのとこに顔出して、友梨音のお迎えして、帰り際にお菓子買ってた。うちの車なんだけど、俺より運転が安定してるのが、若干悔しい。
航介の不安は晴れたらしい。隠したていの、下心。昨日の酢豚と今日の五目焼きそばをぺろっと食った航介が、じゃあ帰るわ、ととっとと帰って行ったので。明日は俺があっちに遊びに行こうかな、かずなりに釣竿返さなきゃいけないし。


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