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おとうさんといっしょ



うちには息子が一人いる。隣の家にも、同い年の息子が一人いる。彼らは、兄弟というほどでもないけれど、友達と言うには同じ時間を長く過ごしすぎている、不思議な関係だ。古き良き幼馴染、もしくは、家族ぐるみの付き合い、とでも呼ぶべきだろうか。隣の家は朝早くから出なければならない類の仕事を両親揃って続けているために、それと反対に両親揃って在宅が多い我が家が必然的に彼のことを預かる回数が増え、その結果が今の関係性に結びついている。幼い頃からずっと、玩具を取り合いお菓子を取り合い、一緒の布団に転がされ、いっぺんに風呂に入れられてきた。特段仲の良いわけではない、むしろどちらかと言うと喧嘩の多い彼らだけれど、それなりに上手くやっているようだ。俺はそれを父として見てきた。
さて、そうして二人だけで完結してきた、言うなれば幼馴染の関係性であったが、最近になって新参者が参入してきた。「さくたろう」だと息子の当也と隣の家の息子の航介は言う。確かに最近、階下でわいわい騒ぐ声が増えたような気はしている。ここのところ締め切りに追われて仕事部屋に閉じこもりきりだったのと、そもそも息子たちが遊んでいる間はリビングや子ども部屋に顔を出さないように努めているので、正確なところは分からない。しかしまあ、恐らくは八千代に聞けば分かるだろう。ひと段落ついたパソコンを閉じて、凝った肩を解しながらリビングへ向かう。この時間だ、当也はきっと寝ているはずだ。ダウンライトがぼんやりと照らす部屋の中で、ふわふわの髪の毛を揺らして八千代が振り向いた。
「あっ、響也さん」
「……こんな暗いところで、目が悪くなる」
「うーん、でも、かっこつけだからいいのよ」
とーちゃんったらこんなに難しい本読んでるのよ、天才かもしれないわ、と八千代が掲げた本は、宮沢賢治だった。……難しいだろうか。中学生が読むには普通に見える。八千代は活字を追うことを苦手としているから、尚の事取っ付き難く思うのかもしれない。
当也は案の定寝ているらしい。八千代は、貴方が降りてくると思って起きて待ってたの、なんて言うから、本当のところは分からない。野生的な勘に恵まれた彼女なので、本気でただの当て勘を信じて待っていた可能性も無きにしも非ずだが、俺の仕事具合を鑑みて考えてくれたのかもしれない。仕事の終わり具合が読めるくらいの年月を共に過ごしてきているので、どっちもあり得る。たまには夜更かししましょう、とコーヒーカップを手渡されて、ソファーの隣に座った。当也が読みかけらしい、栞の挟まった文庫本の背を撫でた八千代が、ぽつりと口を開く。
「猫がお料理する話は読んだことがあるのよ」
「……注文の多い料理店」
「あと、走る話」
「……走れメロスか?」
「同じ人でしょう?」
「そうだけど……」
覚え方が雑だな、とは言わなかった。恐らく話の内容はあまり覚えていないのだろう。猫、料理しないし。未遂だし。
それからしばらく、久し振りに二人だけでぽつぽつと話して、当也の近況を聞いたりなんかした。中学校の話なんかしない子どもだから、どうしてるかなんて知らなかったが、八千代は航介との会話や普段の素振りからなんとなく分かるらしい。母の力というやつか。お勉強は心配いらないわ、けど体を動かすのが下手だから困っちゃうの、体力作りのために夏休みは走らせようかしら、と頰に手を当てて悩んでいる八千代のことは止めておいた。多分そういうところの出来は俺に似たんだ、やめてやってくれ。
「……そうだ。八千代、当也の友達なんだけどな」
「あんまりいないわよ」
「うん、……いや、そうじゃない。数じゃなくて、最近うちに来たのがいるだろう」
「さくちゃんかしら」
「そうかもしれない」
「明日泊まりに来るけど、どうかしたの?」
「……泊まりに来るのか」
「さちえちゃんがね、ああ、さちえちゃんって言うのはさくちゃんのお母さんなんだけど、さくちゃんっていうのは辻朔太郎くんで、当也の友達」
「……八千代、ゆっくり整理して話してくれ」
「うん、そうね、響也さん書斎に籠りきりだったものね」
「悪いな」
「いいのよ、貴方が好きなお仕事を出来てるのが嬉しいから、その邪魔だけはしたくないの」
ふにゃりと気の抜けた笑顔をふと漏らす、そういうところが、自分にはないところだから、好ましいのだと伝えられたらいいのだけれど。
明日泊まりにくるという、「さくたろう」について。どうも、中学入学と同時にこの辺りに越してきたらしい。それまではもう少し街の方に住んでいたんだとか。母親の名前は、さちえちゃん。彼女は働きに出ているらしく、母不在の子一人で留守を守ることも多々あったそうだ。明日はどうしたって帰りが夜遅くなってしまう用があり、一人で夜ご飯を食べさせるのも、夜中の帰宅で起こしてしまうのも可哀想だ、という母の悩みに八千代が預かりを立候補した形になる。八千代は、さくちゃんも泊まりに来たがってたし当也も喜んでたからうちに困ることは何にもないのよ、こーちゃんだってうちで寝かしちゃうことだってざらにあるんだから、と半ば無理やり、渋る彼女を説き伏せたようだ。父が早くに他界していることもあり、母一人で息子を育ててきた彼女は、どうも他人に頼ることをあまりしないらしい。うちなんか、和成も美和子も、航介のことを割とうちにほったらかして全部丸投げなので、そんなに固くならなくとも、と不謹慎かつ不真面目に思ってしまったのだが。
「さくちゃん、良い子よ。天真爛漫、な?」
「天真爛漫」
「使い方合ってるかしら」
「無邪気で明るい」
「そう」
「合ってる」
「当也ともこーちゃんともタイプが違うから、響也さんはびっくりしちゃうかもしれないけどね」
「……友達になれるか不安だ」
「息子の友達と友達になろうとしてるの?」
「え?」
「ふふ、響也さん、おっかしい」
「なんでだ。その子のお父さんにはなれないんだから、友達になるしかないだろう」
「そうねえ、ふふ、っ」
「八千代」
「あー、ごめんなさい、おかしくて」
でも、それならきっと心配いらないわ。さくちゃん、やっちゃんのことだってお友達だと思ってるもの。そう笑った八千代が、再び思い出したように吹き出した。失礼だなあ。

次の日。さくたろうを迎えに行ってくる、と息子が出て行ってからしばらく経った。迎えに行ってくる、はずなのに何故か竿と網を背負っていたから、多分海っぺりにふらりと遊びに行ったのだろう。八千代が出してくれたつまみをつつきながら、久しぶりに酒を傾けてぼんやりしていると、がちゃがちゃと鍵のなる音がした。音の主が分かっているらしい八千代が、はいはい、とエプロンを外して玄関へ迎えに行く。
「おっじゃましまー!」
「いらっしゃい。当也は?」
「網片付けてる!ねえ八千代、お魚釣れた!」
「あらー、ちびっこいのねえ」
「食べれる?食べれなかったら飼う」
「食べるにも身が少なすぎるんじゃない?」
「そっかあ。じゃあ、今日からお前はうちの子だぞ」
「ただいま」
「おかえり、とーちゃん、お魚釣ったの?」
「うん。これしか釣れなかった」
「いいにおい!」
どたばたと、一気に家の中がうるさくなる。勝手知ったるといった様子で上がってきたらしい「さくたろう」が、どかんとリビングの扉を開けた。心の準備をする猶予もない最短距離で詰めてこられたので、こんな子どもに人見知りするわけには、ととりあえずちゃんと顔は上げておいた。丸い目が俺を認識して、片手に持っていた小さなクーラーボックスがごとりと床に置かれる。大きい声を出します、と言わんばかりの、息を吸い込んだ音に、頰が引き攣るのを感じた。
八千代、俺、友達になれない。
「あー!当也のお父さんだー!」
「……よ、ようこ、そ?」
「見て!お魚釣った!ちっちゃいから飼うことにしたんだけど、けどね、お魚のご飯って何あげたらいいの?」
「……見せてみなさい」
「うん」
「ええと……釣った時に付けていた餌を当分食べさせてみたらどうだ。それか、川で石の下から虫を拾ってくるとか」
「うん」
「水槽に入れるなら、水道水なんか入れちゃ駄目だ。死んじゃうから」
「うん」
釣り上げた魚だからきっとあんまり長くは保たないだろうけれど、俺なんかの付け焼き刃知識でも、この子どもにとっては深く深く頷く程の価値があるらしい。遅れてリビングに入ってきた当也が、大きめの水槽を持ち上げて、ここをお家にしよう、と提案した。これを探していたから遅くなったらしい。最後についてきた八千代が、にこにこしながら見ている。第一印象としては絶対友達になれないと思ったけれど、なんとかなりそうな気がしてきた。
「……あんまりころころ環境が変わると魚に良くない。しばらくそこで安静にさせてやったほうがいい」
「ご飯食べたら元気出るかな?」
「余ってるなら入れてやったらいいんじゃないか」
「うん」
「へえー、当也のお父さん物知りだねえ、すごいね!」
「……そ、か」
「おれ、畑瀬朔太郎!今日はここにお泊まりするんだ!よろしくおねがいします!」
「……弁財天響也、当也の父親だ」
「あっ、あー、聞いたことある!ねっやちよ、きょーやさん!」
「そうねえ」
「……待っ、ちょっと、八千代」
「はい」
笑顔の八千代を連れて一旦台所へ引っ込む。その間に、当也と朔太郎は魚に餌をあげているらしかった。出来るだけ長く生きて欲しいのは確かだけれど、ちょっと待て、どういうことだ。
「なにが?」
「当也のお母さん、じゃないのか」
「やちよです」
「なんでそうなる」
「だってえ、さくちゃん、自分のお母さんのこともさちえって呼んでるし。やちよって呼んでもらっても構わないし」
「親だぞ」
「当也のお父さん、よりも、響也さん、の方が短くて呼びやすいのよ、きっと」
「……そりゃあそうかもしれないけど……」
「江野浦くんのことなんて「かずなり!」よ、みーちゃんはみわこだし、さくちゃんの距離の取り方って素敵よね」
なんでそんなところに突っ掛かるのか分からないとでも言いたげな態度に、間違ってるのは俺か、と思う。いや、普通だと思うんだが、もしかして古い考え方なんだろうか。当也もしれっとしてるし。振り向いたら当也あいつ、朔太郎がいけないんだいけないんだって言ってるの無視して俺のつまみ食ってるし。俺の笹かま。好きなのに。
リビングの扉を開けて戻れば、当也がやべえばれたみたいな顔でもごもごしていた。朔太郎は目をくりくりさせてこっちを見ている。よし。
「……朔太郎」
「きょーやさん」
「……まあいいか」
「お腹空いた!」



「……なにしてる」
「きょーやさん」
「そこで何してる」
「宿題」
「当也の部屋でやりなさい」
「あっ待ってやだ追い出さないで、お願い、教えてください、お願いします!」
「嫌だ。仕事に差し支える」
「嘘だ!映画途中で一時停止してある!」
よく頭の切れる奴め。和成ならまだしも、俺が朔太郎を抱え上げて部屋から追い出すなんて到底無理なので、できるだけの威圧感を持って睨んだのだが、口笛一つで誤魔化された。手元には、俺の辞書が開かれている。宿題に使われていたのは明白だ。
当也と航介に習うのは癪だと、文系科目の分からないところを朔太郎から俺に尋ねるようになったのは、何時頃だっただろうか。どちらかといえば理系の彼からしたら、英語やら国語やらの長文読解は気が遠くなるらしい。文章の意味を理解しろったって作者じゃないんだから分かるわきゃない、と肩を竦めていたのは記憶に新しい。俺からしたら得意分野なこともあって、というか読めない文章を読めるようにするのは職業柄やらざるを得ないことでもあって、いつの間にか朔太郎は宿題で詰まると俺の部屋に忍び込むようになった。なぜ忍び込むのかというと、残りの二人にバレたら鬼のように怒られるからだ。抜け駆けするな、自力でやれ、と御尤もな台詞を吐いて喧嘩しているのを見たことがある。
「……一問だけだからな」
「ひゅー、きょーやさん優しーい」
「どこだ」
「この長ったらしい英文どうにかして」
「……ちなみにどういう意味だと思ったんだ」
「トムとジェシカの、えー、旅行記」
「違う。真面目に読みなさい」
「真面目に読んでるよ……」
「高校二年生だろう」
「これ入試問題なの!難しいの!」
もう知らない、と人の部屋の床で大の字になってしまった朔太郎を放って、つらつらと英文を追う。入試問題と言っても高校生、難しくて大学生レベルなら解けないこともない。どこをどう取って旅行記だと思ったのかは不明だ。トラベルの話はしているけれど、別に二人は旅行に行ってなんかいない。
「ねええ」
「大雑把に訳してやるから、待ってなさい」
「ねえ」
「なんだ」
「当也ってなんで一人っ子なの?」
「……は?」
「弟か妹作らないの?」
思わず噴き出すと、訝しげな顔をした朔太郎が体を起こした。なんつー聞き方するんだ、この馬鹿。他意も悪意もない上に、なんでこっちが引っ掛かって噴き出したのかなんて考えてもいないところが、いっそ腹立たしい。弟か妹作らないの、じゃねえよ。作るとか言うな。昔の方がまだ可愛げがあったのに。
「……一人で充分だろうと思って」
「いいお兄ちゃんになると思うんだけどなー。友梨音にも優しいしさ」
「……そうか」
「あとさあ」
「暇ならこの文章訳してみろ。はい」
「えー、やだ」
「自分で少しはやりなさい」
「トムは、彼の、家から」
「違う。ここの名詞は最後にかかる」
「そういうとこきょーやさん当也にそっくりだよー」
「逆だ」


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