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おはなし



《6歳》
それは側から見たらとても幸せな家庭でした。
仕事の合間を縫って家族とゆっくり関わる時間を作る父親。子どものことを大切に慈しみ愛している母親。弟の手を引いて歩く笑顔の姉。嬉しそうに目を輝かせる弟。絵に描いたように理想的で素晴らしい家族の図でした。側から見た場合にのみ、それは適応されました。
伏見彰人の記憶の中には、幸せな家庭じみた思い出が、一欠片だけありました。きっとそれは二度と起こりうることのない奇跡だったのでしょう。だから幼い彼はそれを脳髄に沁み渡らせて決して忘れないように鍵を掛けたのです。仕事に時間を全て捧げて家に帰ってこない父親、笑ったところを見たことがないような母親、自分のことを邪魔者扱いする姉。それに目を瞑れるように、なんでもないことだと見過ごせるように、諦められるように。現に彼のその目論見は成功しました。もっとも、それと引き換えに彼の表情筋は基本的に凍りついていましたが。
保育園からの帰り道、手を引かれて歩く間も、母親に向かって数度口を開きましたが、短過ぎる返事に口を噤みました。しょうがない。お母さんは忙しいから。お父さんもお仕事があるから。お姉ちゃんも小学校があるから。みんなが自分を相手にしてくれないことは、仕方のないことなんだ。迷惑になっちゃいけない。心配をかけちゃいけない。子どもだから、子どもなりに、聡い彼は必死に考えたのです。いつかまた自分はあの幸せな家族に戻れるのだと、その時の彼はまだ漠然と信じていました。
「はい。あき」
「……なあに?」
「鍵。もうすぐ小学校でしょ。家を出る時と帰ってきた時、これからは自分で鍵かけてね」
ちりん、と渡された冷たい鍵に、ありがとうを言うために引っ張り上げた口角が、強張りました。大丈夫だよ、出来るよ、まかせて、と受け取るのを母親は想像しているのでしょう。この鍵を理由もなくベランダから投げ捨ててしまいたいと、自分が思っているのも知らずに。
差し出した小さな手の上に、銀色の鍵が乗せられました。高揚も満足もなく、ただ蟠ったのは諦めでした。自分は他の家族のように、休みの日にどこかへ連れて行ってもらったり、おかえりを言ってもらったり、我儘を言って泣き喚いてそれを叱られたり、でも最後には許してもらえたり、そんな夢みたいなことはこの先無いのだと、突きつけられた気分でした。だから、せめて、良い子でいなくちゃ。痞えた喉から絞り出した「ありがとう」で、伏見彰人は死んだのです。



《8歳》
元より眠りの浅い彼の意識を揺すり起こしたのは、洗面所から響く生活音でした。さらさらと流れる水、髪を乾かすけたたましいドライヤーの音、回る洗濯機の振動。目を開くまでの数分間、ぼんやりとそれを聞くのが彰人くんの日課でした。ありふれたその生活音の中には、人の声は入っていません。この家には自分以外に三人の人間が住んでいるということも、彼は重々承知でした。
「……おかーさん、おはよ……」
「彰人。おはよう」
いつものところに朝ご飯置いてあるから、と素っ気ない母親は、ぼさぼさの髪を跳ね散らかしている自分には目もくれません。しかしながらそんな母親にも何も感じなくなってしまった彰人くんは、うん、と頷いて少し高い洗面台に手を伸ばし、顔を洗います。ふわふわのタオルで水を拭って、洗濯機の上に備え付けてある小さなホットキャビを開き、暖かなフェイスタオルを取り出しました。蒸しタオルを頭に乗っけたまま朝ご飯を食べていれば寝癖が直ることを、彰人くんは姉を見て知りました。誰かが教えてくれたわけでは、ありませんでした。
少し大きいパジャマの袖から覗く指先で眠い目を擦りながら、裸足のままリビングへと向かいます。そこではもう既に姉が朝食をとっていて、何の変哲も無い朝の情報番組がテレビに映っていました。おはよう、お姉ちゃん、の声に目線だけ寄越した姉はすぐテレビへと向き直ってしまい、ほんの少しだけしゅんとしました。けれどまあ、これもいつものことです。冷蔵庫を開けて飲み物のパックを取り出し、薄水色のグラスに注ぎます。家族みんな色違いでお揃いの、このグラスが彰人くんは好きでした。お父さんの深緑色のグラスが一週間前に割れてしまったことは知っているけれど、まだちょっとだけ好きでした。
平らで広いお皿には、真っ白なパンと焼き目のついたベーコン、とろとろの卵に、瑞々しい野菜。猫の尻尾のような持ち手のついたマグカップには、コンソメスープが入っています。どこからどう見ても、絵に描いたように満たされた朝ご飯でした。木でできたお盆にそれを乗せ、零さないよう慎重に運ぶ彰人くんの隣を、食事を終えた姉がすり抜けていきます。四人で一緒にご飯を食べられるだけの広いテーブルの真ん中には、淡い色の花が飾ってありました。台所の流しでは、姉が自分の食べ終わった皿を洗っています。間に合わなかったなあ、とぼんやり思った彰人くんは、テレビに向かって左側の手前、いつも座る自分の定位置に腰掛けて、手を合わせました。いただきますとほぼ同時に、母親の行ってきますが聞こえます。重い玄関扉の閉まる音は、さくさくのパンを齧る嬉しさに掻き消されました。
野菜は嫌いなので口をつけません。残したまま冷蔵庫に戻しておいたって、母親も父親も何も言わないのです。ぽい、とプチトマトを皿の端に追いやるのも、いつものこと。ぼくが毎回野菜を残していることなんてお母さんもお父さんも気付いていないんだろうな。彰人くんはなんとなく分かっていました。他のお家のお母さんは、嫌いな野菜を食べさせたり、ちょっとした悪戯を怒ったり、勉強しなさいと口煩く言ったりするけれど、ぼくのお母さんはそんなことしない。それはきっと不自然なのだと、分かっていました。
「彰人」
「ん」
「一花、よしくんと一緒に学校行くから。自分で鍵閉めてってよね」
「うん」
もぐもぐとベーコンを頬張ったまま、姉を見送ります。一人ぼっちには慣れていました。どうせ学校にも特に仲良しのお友達はいません。男の子は小さくて弱々しい彰人くんのことを仲間に入れてくれませんし、彰人くんも仲間に入りたいとは思いませんでした。女の子は彰人くんに優しくしてくれますが、ちやほやされることが彰人くんはあんまり好きではありませんでした。最近はみんなよりちょっと遅い時間に学校へ行って、チャイムが鳴るぎりぎり下駄箱に到着して靴を履き替えるのが当たり前になっていました。遅刻したらお母さんに心配をかけてしまいます。彰人くんはそれはしたくありませんでした。
お皿を台所へ戻した彰人くんは、歯を磨いて、着替えをして、いつまでもぴかぴかのランドセルを背負って、靴を履きます。誰も返事をしてくれないことは分かっていましたが、毎日がらんどうの部屋に向かって言うのです。
「行ってきます」



《13歳》
とても寒い朝でした。ベッドから抜け出して目を擦った彰人くんは、もこもこのパーカーを羽織って自分の部屋を出ました。朝早くから人の気配がしなくなるこの家には、暖かみなんてものは存在しないのです。ぴっぴっ、と音を鳴らしてリモコンを操作し、暖房をつけました。指先を擦り合わせて、タイマーくらい付けて行ってくれたっていいのに、貧乏なわけじゃないんだから、と内心で悪態をつきます。
ぬるいお湯で顔を洗って、髪の毛を溶かして、歯を磨いた頃には、リビングが大分暖まってきました。テーブルの上でラップをかけられたまま放置してある、見た目だけは綺麗な朝ご飯を一瞥して、戸棚からパンを出しました。お皿の中には、ほうれん草のソテーやポーチドエッグが盛り付けられていましたが、一つも手をつけないまま、買い置きの食パンに冷蔵庫から出したジャムを塗りつけて齧っています。先日、深夜まで夜更かしをした時に見た映画で、朝ご飯に虫を混ぜられるシーンがあり、それから作り置きの料理がどうも気持ち悪いのです。好き嫌いですらない、気分屋な行動でしたが、彰人くんが朝ご飯を丸ごと残して学校へ行っても、両親に何か言われたことはありませんでした。お弁当を半分しか食べなかった日も、逆に足らなくて買い足したおにぎりやサンドイッチの包みがお弁当箱と一緒に放り出されていた日も、何も言われませんでした。彰人くんはもうそろそろ、父と母である彼や彼女にとって、自分は特に気にとめるべき存在ではないらしい、と気づいていました。気付いたところで、それは現実であり事実なので、何ができるというわけでもないのです。
まるで作り物のように整えられたお弁当を鞄にしまって、シャツに袖を通します。ズボンを履いて、カーディガンを着て、学ランを着て、マフラーを巻いて。学校は、弓を引くために行く場所になりつつありました。勉強は苦ではありませんし、そもそもにして彰人くんは自他共に認める「出来る子」です。自分のことを疎ましく思う先輩から妬みのこもった刺すような視線を投げつけられながら、それでも唯一楽しいと思えるのが、弓を引いている時間でした。それまでの時間は惰性です。今だって、登校中だって、授業中だって。名前のあるモブキャラたちとお情けで関わって、笑顔を向けてやりながら過ごす惰性が、早く終わることを願いながら、1日が淡々と流れていくのです。世界はきらめいてもいなければ、劇的でもなく、困難は打ち勝てるようにできていて、全てがそれなりに御都合主義でした。両親とまともに顔を合わせていない時間が数日続いていることに、玄関先に置いてある小さなマンスリーカレンダーを見て気付いた彰人くんは、なんとなく全部がどうでもいいような諦めを蹴り転がしながら、家を出ました。
「……行ってきまーす」



《16歳》
「……ただいま」
「おかえり」
「……な、んでいるの」
「なんでって……仕事が片付いたから」
時計の針が10を通り過ぎる頃家に着いた彰人くんを出迎えたのは、母でした。こっちを向きもせず、分厚い本に目を落としています。小さな音量でつきっぱなしになっているテレビからは、知らないお笑い芸人の笑い声が響いていました。
「ねえ」
「……なに」
彰人くんは期待しました。どうしてこんなに遅いの?最近夜ご飯に全く手をつけないのはどうして?部活はどう?高校は楽しい?勉強はしてる?なんでも良いからなにか、自分に聞いてくれるのかと思ったのです。さっきまでいた一軒家では、お母さんはお節介で世話焼きで、お父さんは陽気に笑っていて、お兄さんは年下の自分に甘くて、フィクションで見る家族像が現実にあったものですから、期待してしまったのです。ばくばくと鳴り響く心臓の音が耳元で聞こえていました。ふ、と本から目を上げた母は、唇を開きます。
「里佳ちゃん……彰人からしたら、従姉妹のお姉さんね。結婚するんだって。お祝いに行かなくちゃいけないから、予定空けておいて」
「……………」
「彰人?」
「……誰?」
「ちっちゃい時に会ったでしょう。覚えてないだろうけど」
そう、と答えた自分の声が聞こえないくらい、彰人くんの心臓の音は鳴り響いていました。このまま止まって仕舞えばいいと思いました。肩からずり落ちかけた鞄を握り締めて、口から零れ落ちそうな怨嗟を飲み込みます。同じ家に住んでるのに久しぶりに会った息子に対して言うことがたったそれだけ。顔も知らない従姉妹なんかどうだっていいよ。小野寺のお母さんはそんなこと言わない。あんたはいっつもそればっかりだ。人様から見てお綺麗な家庭が築けてればそれでオールオッケーだと思ってる。中がぐちゃぐちゃのどろどろでかちこちだったって関係ない。俺が何時に帰ってこようが、何食ってようが、どんな成績取ろうが、部活で功績をあげようが、はたまた負けようが、そんなの興味もへったくれも無いんだろ。大切なのは他者から見た伏見家であって、それが自分の評価に繋がるわけで、フルタイムで忙しく働きながら二人の子どもを育てて母親としても妻としても完璧にやってる自分のことが何より大切で、愛おしくて仕方がないんだろ。父親の顔なんか忘れそうだ。姉のことなんか顔も見たくない。あんたなんか、俺がどうしたいかも知らないで。こんな家の子どもになんか生まれなければよかった。ちやほやされる見た目の代償が冷え切った家庭環境だって言うのなら、神様はきっと方程式を書き間違えてる。この家に住んでる奴はみんな大嫌いだ。だって知ってしまった。知らないように、傷つかないように、見ないふりして諦めてきた普通の家庭を、知ってしまった。どうでもいいことで喧嘩して、がんばったら褒められて、甘えても許されて、折れそうになったら受け止めてくれる、そんな普通がずっと欲しかった。ここは普通じゃない。俺はこの家が大嫌いだよ。
全部飲み込んだ彰人くんは、おやすみを言って自分の部屋に帰りました。久しぶりに、土手っ腹に大きな穴を開けられたような気分でした。



《19歳》
「伏見さあ、全然自分の家に帰らないよね」
「……今更なに?」
「やー、よく考えたら、高校生の時からうちに入り浸ってるでしょ」
「家嫌いだから」
「そお」
いいんだけどねー、と他人事のような小野寺くんは、きっと何も考えずに言ったのでしょう。家に帰らないわけではありません。着替えや荷物を取りに行くため、はたまた眠るためだけに家には帰っています。ただこの数年、滞在時間が多いのは自宅よりも小野寺くんの家であるだろう、ということは自分でも認めていました。父親とも母親とも姉とも、何日間顔を合わせていないか分かったものではありませんが、それは彰人くんにとっては特に害にはなりません。むしろ利に近いかもしれないくらいでした。無意味に傷つくことが無く済むのです。精神安定的にはそちらの方が限りなく良いでしょう。
「俺ここの家の子に生まれたら良かった」
「えー、良くないよ、兄ちゃんケチだし」
「こないだアイスくれたし」
「伏見にだからだよ!」
「お父さんもお母さんも優しいし」
「優しくない、理不尽に怒る」
「怒るだけ優しいんだよ。好きの関心は無関心なんだから、会話がないってことはどうだっていいってことだろ」
「そうかもしれないけどさ……」
「……ここの家の子に生まれたかったなー」
「住む?」
「住みてえー」
「いいよお」
うれしい、と相好を崩した小野寺くんに、彰人くんも笑顔を向けました。なんでも出来ると信じていた頃みたいに、笑いました。



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