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おはなし



悪口は言っちゃいけないと思う。でも、真実は隠せないので、うっかり言っちゃう時もあると思う。そう伏見に言い訳したけれど全く聞き入れてもらえず、定規で思いっきり3発くらい引っ叩かれた。しかもすごい速さだったから、すげえ痛かった。でもしょうがないじゃん、伏見だって悪い。通り道塞いで我が物顔で腰据えてるから、ちょっと退いてよって軽く押そうとしたらぴくりともしなくて、岩かよ!って正直な感想が口から出ただけだ。あまりに重かったから、つい本音が漏れてしまった。無言の伏見が俺を定規で叩いてから、眼球すれすれに定規の角を突き出してきたから、羽根のように軽い!と真っ赤な嘘をつかざるを得なかった。怠惰の賜物だ、あの肉どうにかなんねえのか。
まあそんな先日起こった俺の失敗はどうでもよくて。柔らかい言い方をすれば、肉つきがよろしいというか体積が大きいというか、そういうこと伏見に正直に言えるのは弁当くらいのもんだ。弁当だって優しいから、そんなこと滅多に言わない。機嫌が悪くて伏見とぎっすぎすの喧嘩してる時、本当に稀に、おい話聞いてんのかこのデブ、くらいなら言うけど。あの二人の喧嘩は怖い。俺には意味が分からない難しい言葉を駆使しながら口論する。
人にはそれぞれ沸点というものがあって、例えばの話、伏見は怒りっぽい。元来怒りっぽくて苛々しやすいのを覆い隠して普段生活しているから、素が出せる俺たちの前で更に切れやすくなってるってのもあるかもしれないけど、とにかく怒りっぽい。感情を露わにすることを、我慢しない。爆発するだけして、物理も心理もごた混ぜに人のことをボコボコにして、一頻りマシンガンのように吐き散らかして、落ち着くと自分の存在を気にしない人、例えば弁当だったり航介だったり、その近くで温厚な顔をしてごろごろしている。そしてもう一つ例えば、伏見の怒りを一番身近で受けやすい小野寺は、怒りにくい。なかなか事を荒立てない。伏見にされたことで、それは怒っていいと思うよ、ということでも、しょうがないなあと笑っていたりもする。しかしながら怒ると手がつけられない。伏見と弁当の喧嘩とは別の意味で、怖い。いつも笑っている人間が笑わなくなることは怖いことだと俺は小野寺のおかげで思い知った。そんでもって最後に例えば、もっと怒りにくい、言ってしまえば感情が表に出にくいのは、弁当である。
「そこで」
「ん?」
「弁当がどのきっかけで怒るのか、調べたいと思う」
「……俺とお前で?」
「うん」
「無理だよお」
そういうことには伏見を呼びなよ、と小野寺が弱音を吐いた。馬鹿、伏見なんかに声掛けたら未曾有の大事故が起こるだろ。いい加減分かれよ、小野寺は何年伏見といるんだよ。そう小声で言えば、聞こえていたのかいなかったのか、ソファーの上で丸まって寝ていた伏見がむにゃむにゃと何やら呟いた。危ない、悪口言ってたのがばれたら殺される。ちなみにここは弁当の実家である。もうそろそろ航介と朔太郎も来るはずだ。
調べたいことは至って簡単。伏見よりも、航介よりも、小野寺よりも、朔太郎よりも、誰よりも怒らない弁当は、どんな状況になったら怒りに身を任せるのか。怒られたことがないわけじゃない、喧嘩したことだってある、でもなんだか最後には有耶無耶に許してくれちゃうのだ。そうじゃなくて、なんていうか、ぶち切れるとこが見たいっていうか。自分でもあまり趣味のいいことを言っていないのは分かってるんだけどさ。
「いいか、やるぞ」
「嫌われるよ」
「……嫌われたら謝ろう」
「怒らせたいんでしょ?謝っても許してくれないよ」
「なんでそういうこと言うんだよ!小野寺の薄情者!」
「事実だよ!」
「あんまりでっかい声で話してたらばれちゃうだろ!静かにしろよ!」
「ええ!?」
どの口がそんなことを!?と驚かれたが、俺は正しいことを言っているはずだ。弁当に、今からお前を怒らせようと思うんだ、なんてことがばれたら不愉快だろ。怒りそうになったら、こういうわけでお前の怒った顔が見たかった、ごめんな、って謝る方向で行こう。
それでは作戦その1。驚かしてみよう。ミッションは至って簡単、台所でちまちまなにやらやっている弁当の背後からこっそりと近づいて、肩でも叩いて振り向かせる。何も知らない弁当が振り返った先には、怖いお面を被った俺。弁当はびっくり、そこにネタばらし、さあ怒れ、という寸法で行こう。ちなみに怖いお面はさっき買ってきた。ホラー嫌いのあいつなら、なに怖がらせてくれやがってるんだ!と怒ってもおかしくない。
「よし、行ってくる」
「はあ、行ってらっしゃい」
「その努力、他の方向に活かせないの?」
「づああ!なんっ、さくっ、いつからいた!」
「さっき。つーか当也がそんなんで怒るわけないでしょ」
呆れ顔の朔太郎が炬燵の下から生えてきて、我ながら野太い悲鳴をあげる。小野寺は瞬きもせずがきんと固まってしまっている。驚かせちゃ可哀想だろ!と朔太郎を叱れば、いやいやお前さんがやろうとしてたことはじゃあなんなんだよ、と窘められて、それもそうだった。もそもそと炬燵から出てきた朔太郎が、ぱんと胡座を叩いて指を立てる。
「当也怒らせるんなら出会い頭に眼鏡ぶち割るくらいしないと」
「通り魔……」
「てゆーか、絶対有馬くんとか小野寺くんじゃ怒んないよお。当也が切れるとか、ないない」
「なんで?」
「なんでって。三人には甘々じゃん、当也」
さ、ん、にん。区切りながら俺と小野寺と伏見を指差した朔太郎が、俺びっくりしたんだよ、と話を続ける。なににびっくりしたかって、弁当の態度だと朔太郎は言った。曰く、確かに元からぼんやりさんではあったし、喧嘩っ早くもなければ気が短くもない。どちらかといえば温厚だったけれど、怒らないわけじゃなかった。例えば高校の時、ちまちま地味に貯めていた貯金でお取り寄せしてこっそりお高めのケーキをホールで買った彼は、冷蔵庫にそれをうきうきしながら隠して学校に行った。それはそれは美味しそうなケーキで、だけれど一人っ子の彼には自分の取り分に名前を書いておくとかそういう習慣はなくて、そわそわしながら放課後を待つより他無かった。その日は運の悪いことに珍しく部活でミーティングがあって、側から見て分かるくらい急いで苛々しながらすっ飛んで帰った。文化祭で何出すかなんて毎年同じだからどうでもいいだろうが、と靴を脱ぎ捨てて台所に入った彼は、衝撃的なものを目にすることになる。
「なに?」
「航介んちがここの隣なことは知ってるよね」
「うん」
「その日はね、みわこの誕生日だったんだ」
「みわこ?」
「航介母。それで、やちよ、じゃない、当也のお母さんは、いつの間にか冷蔵庫に入ってた美味しそうなケーキをお隣さんにプレゼントしようとした」
「ひええ」
「そこでサプライズ要員として呼ばれたのが航介でね」
「嫌な予感がする」
「もう聞きたくない」
「航介がケーキの箱を受け取った瞬間、当也は台所に駆け込んできた!」
「きゃーっ!」
「いやーっ!」
「うるさいな」
「ぎゃあああっ」
「は?」
まさかのご本人様登場に、ケツを浮かしてすっ飛んだ俺に、弁当が首を傾げた。パン切り包丁片手に持ってんの怖いからやめてほしい。ほらあ、あの時の話だよ、ケーキのさあ、当也が航介を殴り飛ばした時の、と朔太郎がふにゃふにゃ笑って、弁当が思い出したように頷く。
「ああ。そんなことあったね」
「軽っ」
「盗られると思ったら体が先に動いてた」
「殴ったの」
「殴った」
「ひい……」
「航介吹っ飛んだらしいじゃん」
「お前どこにそんな力あんの!?」
「いや、吹っ飛んだっていうか」
正確に言えば、受け取った瞬間じゃなくて、弁当のお母さんが航介に渡そうとしてたところを弁当は目撃したらしい。会話を聞くとかそういうところに頭が回らなかった高校生の弁当は、自分のお楽しみケーキがよりによって特に甘いものが好きでもなんでもないクソゴリラの手に渡りそうになっていることにまず腹を立て、航介の胸倉を引っ掴んで母親から引き剥がしたらしい。訳も分からずされるがままに胸倉を掴まれた航介が、どちらかというと怒りっぽかったのも、運が悪かった。なにすんだよ!と当たり前の文句を吐いて抵抗してきた相手を黙らせようと、完全に周りが見えなくなっていた弁当は航介の胸倉から片手を離し、握り拳を振り抜いた。まさか突然殴られると思ってもみなかった航介の頰に見事にそれは決まり、ほとんど喧嘩なんてしたことのない弁当は、体勢を崩した航介に引きずられて自分も倒れてしまわないように手を離した。ただぱっと離したのではなく、やべえと思ったからかなんなのか、ぶん投げるように勢い付けて、手を離した。
「それで航介が、ここから、ここまで飛んだ」
「充分吹っ飛んでるよ!」
「そうかな」
「怖い……」
「母親には叱られた。痛いことはしないって」
「だから、当也を怒らせるなんて止した方がいいよ、血ぃ見るよ」
ここからここまで、と台所からぺたぺた歩いてリビングの端で立ち止まった弁当に、寒気がした。怒らせてはいけない。それも、小野寺よりもよっぽど。
それからしばらくして、航介が来た。伏見も目を覚まして、ごろにゃんと航介の隣で甘えきっている。そういえば伏見のやつ、朔太郎がいても平気になったんだな。関わらなければ大丈夫なのかな。前までは過呼吸になりそうなくらい動揺して逃げ回ってたのに。みんなで炬燵を囲んで晩飯を食って、それも落ち着いてきた頃。
「なあ、みかんとって」
「……………」
「おい。みかん。当也、みかん」
「……うるさ」
「あ?」
ぱんぱん、と炬燵の天板を叩いた航介が片眉を跳ね上げる。お茶を啜っている弁当は依然動かないままだ。とってやる気はないらしい。航介のお茶を勝手に飲んでた伏見が、ちらっと目線を上げてすぐに戻した。
「真後ろだろ、一個寄越せよ」
「自分で取りに来い」
「けちくせっ」
「横着して人を扱き使うような奴に言われたくない」
「……………」
「……はい、みかん」
「おー、悪い」
弁当の矢のような言葉と航介の無言が居た堪れなかったらしい小野寺が、手を伸ばしてみかんを取った。お前が行かなかったら俺が行ってたよ、という意味の目配せを交わして、みかんをむきむきし始めた航介に一安心する。こういうのを止める気はないらしい朔太郎は携帯でゲームをやってる。おい、お前幼馴染みだろ、なんとかしろよ。まあ確かに急に朔太郎が止めに入ったら俺たちも驚くけど、気にかけるくらいしろよ。そんな心の声は届かない。そういえばこいつこないだも、航介が弁当にぎゃんぎゃんなんか言って弁当がそれを全無視してた時も、徐に二人のところに寄ってったかと思えば、食べてたおっとっと見せて、『ねえこれなにに見える?俺的にはタコなんだけど』とか言ってた。ちなみにタコじゃなくてマンボウだった。全然違う。
「そのみかん古いやつだよ」
「食ってる時そういうこと言うなよ!」
「バチが当たったんだろ、小野寺を使うから」
「えっ、俺いいよ、全然いいよ」
「……当也とは違うなあ、小野寺は」
「腐ったみかん食ってろクソカス」
「あ!?」
「聞こえなかったの?耳掃除ちゃんとしたら」
「け、喧嘩しないで」
小野寺が、私のために争うのはやめて!の状態になってる。おろおろしてる小野寺を挟んで、鼻で笑う体勢の弁当と、無言のまま睨み付ける航介が、火花を散らしている。それを見て、そうだった、と思い至る。沸点がどうとか怒らせてみようとか、そんなこと考える以前に、弁当が唯一やり合う相手が、こんなに近くにいたじゃないか。
「……苛々させんな」
「人んち来て勝手に苛々しないでくれる?」
「外出ろ」
「嫌だ。寒いから」
「来い」
「いっ、て、やめろ馬鹿」
「ぁぎっ、なにすんだ!」
「人のこと引っ張るな、脳みそすっからかん」
「足の小指を逆さに曲げる方が余程タチ悪いだろ!ふっざけんな!」
「いってえ、なにすんだクソゴリラ」
「あっぶね!目はやめろ!」
「我が家にゴリラ用宿泊施設はございませんのでどうぞお帰りくださいませ」
「ぁだだだ、ってめ、もういい、こっち来い」
「うあ、っ離せ、懲役五年みてえな顔しやがって!ぐえっ」
「うるせえ、いいから来い、怒った」
航介にひょいっと担ぎ上げられた弁当が、じたばた暴れながら連行されていくのをぼんやり眺める。そっかあ、弁当も喧嘩とかするんだあ。しんみりそう思いながら、どかどかと二階に上がっていく二人の、罵倒の声と踏み鳴らす足音が響く。呆然としている小野寺と、未だ我関せずの朔太郎と、ぼおっとしている伏見と、俺。それからしばらくした頃。
「……静かになったね」
「え?」
「死んだかな」
「きゃっほー!ハイスコア!航介!当也!見て見てえ!」
ぽつりと呟かれた伏見の言葉に顔色を変えた俺たちを尻目に、朔太郎がどたどたと階段を駆け上がっていった。だめだ、無理だ、俺にはあいつらの間に首を突っ込む勇気はない。意味分かんなすぎる。


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