このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

君はパナシーア




「べん、っ……」
帰ってきた気がして、目を開ける。跳ね起こした体が、ぱきんと鳴って、自分が無茶な体勢で寝てしまっていたことに後から気づく。誰もいないすっからかんの部屋に、ぶわ、と枯れ果てそうな勢いで流した涙がまた込み上げてきて、ぐじゅぐじゅの鼻を啜って。
「……あっ!?」
手紙がない!
どうして、寝てしまう寸前まで書いていたのに、必死で書いたのにどうして、と視線を泳がせて、すぐに昨夜と違う一箇所に目が止まる。ちかりと窓から差し込む朝日を反射して光るのは、きっとこの家の鍵だ。弁当が持っているはずのそれがここにある理由が分からずに手に取って、隣に置いてあるペンと、一枚だけ残ったルーズリーフを見る。疲れた目がぼやけて、何度も擦って夢じゃないことを確認して、頰まで思いっきりつねって自分が目を覚ましていることをはっきりさせてから、尻に火がついたみたいに家を飛び出す。踵を潰したスニーカーを引っ掛けて、玄関扉をぶっ壊すんじゃないかと思うくらいの音を立てて開き、たたらを踏んで部屋の中に舞い戻って鍵を持ってきた。見知った顔のお隣さんが家にいたら、ばたばたうるせえクソ青ジャージ!と怒鳴られてもしょうがない騒がしさだったけれど、そんなことは気にしていられない。かちん、と確かに掛かった鍵を確認して、走り出す。
指輪をもらった公園で待ってる。
たったそれだけ、綺麗な字で書かれた文章は、最後の丸が震えていた。まるで力がこもってしまったように、迷っているように。上がる息は苦しくて、朝の澄んだ空気に吹かれる頰は冷え切っていて、ぴしぴしと乾いて罅割れそうなくらいだった。それでも、苦しくても辛くても、きっと俺の手紙を持って行った彼に、会わなければならない。答えを、聞きたい。
「べっん、べんと、っ」
「……おはよう」
「っは、おは、っげほ、ぅ」
酸欠でふらつきながら辿り着いた、高台にある景色のいい公園。貴方の気持ちは別のところにあるから、と真っ向切って千晶に指摘され振られた後、弁当と話したっけ。あの時指輪を投げ捨てようとした俺を必死になって止めてくれた彼が、柔らかく笑っている。片手に持たれているルーズリーフは、俺が書き綴った気持ちの塊だ。ぜえぜえと息を吐く俺の背中をとんとん叩いて、ゆっくりでいいよ、と囁かれて、首を横に振る。ゆっくりじゃだめだ。もうお前の優しさに、甘えちゃいけないんだ。
「なんっ、なんてっ、思った、っ」
「え?」
「おれ、俺の書いた、手紙、持ってったの弁当だろ」
「……ん」
「答えが、欲しいんだ」
「うん」
ぱた、と落ちた雫を目で追って、弁当が泣いているのを知った。ひゅっと呼吸が喉の奥で詰まって、最悪だ、泣かせるなんて、そんなつもりはなかった、と後悔が一気に押し寄せた。俺が問い詰めたせいで。血液が全部足元に落ちていくような感覚に襲われて、昨日から俺の涙も目一杯に吸って今は乾いているジャージで、眼鏡を取った彼の顔を擦る。むぐむぐ何か言っているのが聞き取れなくて手を離せば、いたい、いたい、と文句を言われる。涙を拭うのに邪魔で引ったくってしまった眼鏡を返して、ごめんなさい、と消え入りそうな小声で謝れば、首を横に振られた。さっきの俺を真似したような動きに、一緒にいると似てくるね、とおかしそうに朔太郎が笑ったのがフラッシュバックして、似てくるくらい一緒にいられたのかな、と少しだけ血の気が戻ってきた。大丈夫、喋れる、何を返されてもきちんと受け止めよう。俺はお前のことを嫌いには絶対になれない、愛しているんだ、と伝えられれば、それでもう花丸合格だ。あとは、弁当に任せるしかない。
「……答え、というか」
「うん」
「謝らなきゃいけないのは、こっちの方で」
「……う、ん」
「怖かったんだ。多分。ずっと一緒にいたら、気持ちを通じ合わせたら、離れた時辛くなるから」
「おれ、」
「わかっ、分かってる、なんにも言わないで、聞いて」
「……うん」
「で、でも、それって、すごく、有馬を傷付けた。俺の独り善がりで、本当に向き合わなきゃいけないことから逃げるために、言い訳してたんだと思う」
「……………」
「だから、……だから、ね。もう、もっ、う、にげ、逃げない、から、ごめんなさい、っぅ」
「と、うや」
「ひっ、泣くのは、っずる、いって、知ってるけど、わ、かってるん、っけど、おれ」
「当也」
「ごめ、っごめんなさぁ、っ」
息を詰まらせながら、しゃくり上げながら、それでも必死になって伝えようとする言葉に、耳を傾け続けた。へたり込む彼を抱き締めて、頷く。初めてかもしれない。弁当が、こんなに心情を吐露するのも、俺の前で自分本位のことを話すのも。朝日に照らされて、弁当の目からぽろぽろと流れ落ちる涙が光った。飴玉みたい、とこの場に不釣り合いなことを思った。
「おれ、俺は、有馬と一緒に、っひ、ずっと、ずうっと、いたい」
「うん」
「それに、っす、好きって言ってほしい、たくさん、飽きるまで、言ってほしい、きらいになるまで、何回も」
「うん」
「わがまま、っかなあ、だめかなあ、っ」
「ううん」
ずっと、ずうっと、好きって言うよ。それを望む限り、何回でも伝えよう。だって、それがお前の幸せなんでしょう。俺は、お前を幸せにしたい。その為なら、なんだってするから。
わあわあ泣きじゃくって俺にしがみつく弁当は、子どもみたいだった。かわいいな、と思って、また一つ好きなところが増えてしまったことに気づく。耳元にキスを落として、泣き顔が好きだって書いたの読んだ?と問いかければ、ばかあ、と泣きながら罵倒されて笑った。離すものかと言わんばかりに俺を羽交い締めにする弁当のしゃっくりが治まってきた頃には、街は少しずつ活気に溢れて、車の音、喋り声、どこかから流れてくる音楽、みんなが混ざった喧騒を取り戻していた。いつもと同じ、日常が廻ってくる。
「帰ろっか」
「……いやだ」
「なんで」
「す、……ぅ、やだ」
「なによ。言いなさいよ」
「なんだよっ、泣き腫らした顔して!」
「誰のせいだと思ってるんだ、このやろ」
「ぅひ、っひゃめ、はははは!」
泣き止んだと思ったら怒って俺のことをぽかぽか殴ってきた弁当を押し倒して、擽った。涙の跡もそのままに笑う弁当を見てたらなんだか泣けてきて、暴れて俺を引き剥がそうとするのを押さえつけるふりしてちょっとだけ泣いた。側から見たら、オールでもした学生がテンション下がらないまま朝っぱらから巫山戯て騒いでるようにしか見えないだろう。それでいい。重たいものを抱え込むより、すっからかんで笑えた方がいい。だって大きな荷物をぶら下げてたら、手が繋げないじゃないか。
「はー……」
「それで?なんで嫌なの?」
「もういい。お腹空いた」
「おい」
「お風呂入りたい」
「あっ、俺も入ってないわ」
「きったね」
「一緒に入る?」
「んー……」
「勿論下心込みだけど?」
「んー……」
「考えてくれるんだ……」
ふらふらと二人で帰り道を辿る中、話す内容は至ってくだらないものだった。物語にもならない。四方山話、愚にもつかない話、取り留めのない話。その途中何回か俺が弁当にべたべたしたり、それを跳ね除けられたり、蹴られたり、やり返して頰を抓ったりした。終始彼は何処か嬉しそうで、ふとした話の切れ間に目が合うとふにゃりと笑ってもらえるのが、嬉しかった。頑なだった心をとろりと蕩けさせることが出来たようで、この時間が少しでも長く続けと祈った。どうか今この瞬間にトラックが突っ込んできたり、飛行機が墜落してきたり、隕石が打ち当たったりしませんように。もしそんなことがあつたとしても、俺たち二人は無傷で助かりますように。酷い願い事だけれど、神様は叶えてくれるだろうか。叶えてくれないなら、自分でなんとかするからいいけど。
もうこれからは、俺の好きを見て見ぬ振りはしないと、弁当は決めてくれた。俺も、それに誠実にならないといけない。とん、とん、と歩く度に触れ合う手の甲に、そっと指を絡めれば、それまでどうでもいい話を紡いでいた唇はぱちんと閉じて、みるみる弁当が真っ赤になった。その初心なことったら、今すぐに人目を気にせず抱き締めてぐちゃぐちゃにしてやりたい衝動に駆られるくらいだ。
「鍵開けて」
「そうだった」
「……それあげる」
「ん?これ?」
「違う、馬鹿、それ。鍵」
ポストに入っていたチラシを上げれば、眉を顰められた。これ、そうか、鍵か。でもこれここの鍵だし、と空回りした思考が、がちり、音を立てて止まる。えっ、鍵くれんの?俺、ここ、自由に来ていいってこと?ぱくぱく口を動かしていると、合鍵はあるし、一本ずつ持っててもいいでしょ、としれっと言った弁当が先に家に入ってしまった。耳が真っ赤なのには、しょうがないから目を瞑ってやろう。
後から追いかけるように靴を脱いで、机の横に転がっていたビニール袋を拾う弁当に走って飛び付く。ぎゃあ、と色気もへったくれもない悲鳴がして、つんのめった体は横倒しになった。勢いよく押し倒したことにてっきり文句を言われると思って、その前にキスしてやろうと突き出した唇を、両手で塞がれる。んぷ、と変な声を上げて止まった俺を見て、少しだけ笑った弁当が、ビニール袋の中身を出した。俺の好きな炭酸と、弁当が好きなパンだ。頭の上にはてなを浮かべて見下ろしていると、口角を上げたままの弁当が、パンを俺に突き出してきた。
「はい、どうぞ」
「……ありがと……?」
「それ、好き?」
「うん、……っ!」
「ふふ」
意図に気付いて声を上げかけた俺の唇を塞いだ弁当が、幸せそうに笑った。今まで見たこともない、満開の笑顔で。
「俺も好きだよ」





「なあ、なんで、あの時やだっつったの」
「しつこいな」
「なんで」
「しつこい」
「ん?」
「わ、ひゃ、っやめ、分かった!っも、分かったから!」
「今は逆らわない方が身の為だぞ」
「……本当に俺のこと好きなのかな……」
「んん?」
「あっやめて、うごっ、動かないでください」
「うん」
「……笑わない?」
「笑わないでほしいんだろ?笑わないよ」
「笑ってくれてもいいんだけど」
「どうしたの、ほら」
「……せっかくだから、その」
「その?」
「す、すきって、ゆってもらってから、帰ろうかなって、思って……」
「……………」
「なんか、言ってよ」
「……………」
「ねえ……」
「……お前はほんと……」
「なに、っや、ば、ばか!」
「耳溶けるまで言ってやる」
「ぅ……」
「嬉しい?」
「……ぅ、うれし……っ」
「よしよし!」

6/6ページ