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君はパナシーア




携帯のバイブで目を開ける。ポケットに突っ込んだ携帯が、いつものアラームを起動させていて、震え続けている。少しの間ぼおっとして、ポケットから引っ張り出した携帯を操作。止まったアラームに大きな欠伸を漏らして、凝り固まった体をばきばきと捻った。どうしてこんなところにいるんだっけ、と寝惚けた頭が昨夜と同じところを回って、それでも昨夜よりは少し早く、正解に辿り着いた。
有馬からの好きについて考え続けた俺は、もうなんだか全てが面倒になってきてしまって、考えるのをやめた。俺には有馬の気持ちなんか分かるわけがないのだ。あっちがそうであるのと同じように。だから、せっかくネカフェ来たから、ってパソコンをぽちぽち弄って、気になってたドラマを幾つか見た。現実逃避と罵りたければ罵ってくれ。あれ以上有馬の気持ちを有馬になったつもりで考えたら、俺の頭はおかしくなっていた。それで、その途中で寝落ちて、今に至る。額にずれた眼鏡が押し当てられていたらしく、じわじわと痛い。乾いた喉をどうにかしようと自販機に向かった時、店員さんに呼び止められる。朝までのフリータイムがそろそろ終わる、といった旨を親切に伝えてくれた店員さんに頭を下げて、踵を返し帰り仕度をした。あんなことがあって出ていった家だけれど、俺の家はあそこにしかない。青森にもう一つ帰れる場所はあるけど、さあ帰ろうと思い立ってすぐに帰るのは厳しい。大学卒業したし就職蹴って実家帰っちゃおっかな、と馬鹿なことを考えられるくらいには、俺は持ち直しているようだった。
見知った道をたらたら歩いて、腹が減ったのでコンビニに入った。昨日から、眠いとか腹減ったとか、自分に正直になりすぎている気がしなくもない。まだ商品が揃いきっていない棚の隙間をうろうろして、菓子パンとペットボトルを買った。自分に正直になりすぎるついでに選ぶ基準も特に何にも縛られることなく食べたいものをチョイスしたのだけれど、俺が今手に持っている菓子パンは、有馬が以前食べていた苺とチョコの真っ白なパンだったし、蓋を開けたペットボトルはこれまた彼の手に見覚えのある、レモンの炭酸飲料だった。それに気付いたらなんだか虚しくなって、二つとも半分くらいまで食べたところでやめた。ビニール袋に戻したが最後、もう手をつける気にはならなかった。
結局、好きなのだ。彼の面影を無意識に求めてしまうくらいには。でも俺は彼の気持ちを無視し続けてきたし、昨日なんかついに本人から直接何故だと問いただされた。ろくすっぽ答えもせず逃げ出した俺の顔なんて、もうあっちも見たくもないだろう。現実から逃げるのが常套な自分を、彼に彼女が出来た時の自分を、忘れかけていたそれがずるりと思い出されて、頗る嫌な気分になった。けど、もうそれも今日でおしまいにしよう。臭い物には蓋とはよく言ったもので、俺は自分にとって不都合な物は無かったことにできる。自分に向かって嘘をつき続ければ、真実と虚言の境目が曖昧になることを、俺は知っているじゃないか。そうやって時間をかけて、ゆっくり距離を置けばいい。有馬だってきっともう、うちにはいないだろうし。
「……?」
だから、玄関に靴があった時点で、まず酷く驚いた。誰のだろう、と問いかけるだけ無駄だ。彼のことを網膜に焼き付くくらい見つめ続けたのは、他ならぬ俺なのだから。履き潰したニューバランスは、俺が出ていった時と全く同じに転がっている。つまり、あれから彼は一度も外には出ていないということだ。音のしない室内を覗いても、何も起こらず、時計の秒針だけが鳴り響いている。よくよく耳を澄ませば、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきて、寝てるのか、と思い至る。なら、寝てる間にもう一度出て行こう。二分前に開けた玄関扉を再び開けようとして、そういえば携帯の充電が半分を切っていたことを思い出す。念の為今から夜まで外を彷徨くとして、それは少し心許ない。充電器だけ鞄に放り込んで持ってこよう、と足音を殺して部屋の中に入った。なんで俺ここに住んでる人なのにこそこそ隠れてんだ、と思いながら。
「うあ、っ……!」
机に突っ伏して寝てる有馬の後頭部を見ながら歩いたから、床に転がってたペンに気がつかなかった。思いっきり踏んだそれに滑りかけて、なんとか声を抑える。なんでこんなとこに、と憤りそうになって、有馬の手の下に紙が挟まっていることに気付いた。書き途中なことか窺えるそれに、勉強でもしてる途中で寝てしまってペンが落ちてたのかな、と有り得ないことを考えながら、興味本位で覗き込む。どうやら文と文の隙間らしいそれを目で追って、追って、かっと首から上が熱くなるのが分かった。ああ、これは見てはならないものだ、俺はこれを見ちゃいけない、あいつの気持ちに直接触れたら、その熱さに焼き殺されてしまう!頭の中でがんがん鳴り響くサイレンに、本能的に全部知りたいと伸ばしかけた手が止まる。そうだ、これ以上こいつを俺の元に引き止めたら迷惑になる、手放さなくちゃ、離れなくちゃ、どうしようもなくなる前に!泣き出しそうに荒くなる息を殺して、ふーふー煩い口を自分の手で押さえて、それでも耳鳴りが喧しくて唇を噛んだ。血の味がする、それに混じってさっき食べた苺チョコパンの味もした。
『なあ、これお前好き?』
ふっと、思い出す会話。
『……食べたことない』
『新発売なんだって。齧って』
『ええ』
『いいからいいから!ほら、あーん』
『……あ』
『好き?』
『ん……割と』
『好きって言って!』
『なんで』
『いいじゃん、言ってくれたって』
『……好きだよ』
『俺も好き!』
その会話が、後半俺から好きの言葉を引き出そうと有馬なりに足掻いた画策だったことを伏見から聞いた。あれでも考えてるよねえ、と笑った伏見に、俺は何も言えなかった。気まずくなったのだ。多分その時心のどこかで、俺は彼に好きと伝えていないことに、気付いたのだと思う。でもそれを、見ないふりして、蓋をして、閉じ込めた。それから先、有馬が同じパンを食べている度に俺に一口食べるよう求めるのを、断り続けた。好きだというと、縛り付ける気がして。その度に少し悲しそうな顔をする有馬には、気づかないふりをして。
凍り付いた指先を、動かす。とさり、と手に引っ掛かっていたビニール袋が落ちた。すやすやと眠り込んだ有馬の目尻は、真っ赤だった。頰には涙が通った跡がくっきりと残っていることに、近づいて気付いた。近づかないと気がつけないことがあるのだと、分からされた気になった。手の下に敷き込んでいる一枚とその横に重なったルーズリーフの束をそっと抜き取って、鞄に入れる。眠る彼の額に手を当てると、暖かかった。むにゃりと身じろいだのをきっかけに手を引いて、家の鍵と、落ちていたペンを机の上に並べる。これだけでは鈍い彼は気がつかないだろうと、真っ白なルーズリーフに一文書いて、その横に置いた。目を覚ました彼が、きっと一番に見てくれる場所。
「……ありがとう」


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