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君はパナシーア




時間が経つのが、こんなにゆっくりに感じたことは、今までなかった。かちかちり、と音を立てて進む秒針を眺めて、冷えた指先を擦り合わせる。血が通ってないから冷えるのだ。寒がりで冷え性なのはここの家主の方で、俺はどちらかといえば子供体温と揶揄されるのに、あいつの冷たさが移ってしまったのかな。座りっぱなしのせいで、足も痺れている。もしこのまま帰ってこなかったら、とさっきから十分毎くらいに巡ってくる最悪の想像で、喉の奥から胃液がせり上がった。
弁当が出て行って、しばらく経った。一日経ったようにも思うけど、まだお日さまは昇っていないので、一晩も経っていない。ぐるぐると腹の奥に蟠るもやもやをどうにかして吐き出したくて、トイレで喉に指も突っ込んだりもしてみたけれど、何にも出なかった。その時初めて俺は、このもやもやが物理的なものではなく心理的なものであることに気がついたのだ。鈍感にも程がある。これじゃあ、あいつが愛想を尽かしてしまう気持ちも分かるってもんだ。自己嫌悪しか生まれない。俺が気を遣って嘘を吐き続けてると思っている彼は、そのくせ俺が嘘を吐くのが大の苦手だと知っている。それでも、その苦手を覆い隠してまで嘘をついていると思われているのか?今信じてもらえないなら、これから先一生俺の言葉が彼の心に届くことはないのか?ああ、でも、落ち込みすぎるのはいけない。朝になったらきっと帰ってきてくれる、待っていれば大丈夫だ。おかしなことを言ったと謝って、また信じてもらえるまで好きだと伝えよう。けれど、そう言ったところで。回る思考は不安定で、現実味を持たない。考えていることが纏まらなくて、かちり、と秒針だけが進んでいく。
くしゅん、通算三度目くらいになるくしゃみをした後、体の芯が冷え切っていること、指先が冷たいことに気がついた。風邪でも引いたかなあ、と他人事に思う。まだ春には早い季節だ、夜が冷え込むのはしょうがない。外にいる弁当は、寒がっていないだろうか。今彼が隣にいたら、寒くないかと心配して、手を握って暖めてやることもできるのに。それとも、こんな冷えた指じゃあ嫌だと断られてしまうのかな。弁当が本当に俺のことを好いているのかすら、分からなくなってしまった。自分が彼のことを好きなのは、絶対なのに。それが分からなくなることは無いのに。
そうだ、手紙を書こう。思いついたまま、重い体を引きずって紙とペンを取りに行く。手紙と言っても、紙はルーズリーフだし、便箋があるわけでもない。それでも、口ではどうしたって気持ちを伝えきれない自分には、その手段が必要だと思った。その手段しか、ないと思った。
『弁当へ』
最初の一行を書き出して、迷う。そもそも手紙なんてそうそう書かないし、書き方もいまいち分からない。畏まった手紙には、拝啓、なんて一文がついているのでは無かったか。時候の挨拶が入ったり、謙譲語尊敬語なんていう敬語の使い分けも有るのではなかったか。そのくらいきちんとしないと、また冗談を、と取られてしまうかもしれない。でも、普段あれだけふざけておいて今更畏まったところで、真面目に受け取ってもらえないかもしれない。どっちに転んでも痛い。ペンで書き始めたことを悔いた。
『喋っていると、余計なことを話してしまいそうなので、手紙にすることにしました。手紙にしたところで、余計な寄り道はしてしまうかもしれないけれど、読み飛ばしてください。』
上手とは言い難い自分の字が、つらつらと綴られていく。弁当の字は読みやすく整っていて、綺麗だ。そういう風に書ければいいのに、俺は弁当にはなれない。ああはなれないから、彼の気持ちも分からずじまいだ。
『俺は、弁当のことが好きです。お前が俺に好いてもらえなくてもいいけど俺のこと好きなみたいに、俺はお前に信じてもらえなくてもお前のことが好きです。でも、信じてくれなくてもいいって思うけど、やっぱり誤魔化され続けるのは辛くて、さっきは酷いことを言いました。ごめんなさい。両方とも俺の本心です。ごめんなさいじゃ足りない、我慢してた弁当の気持ちを踏み潰したことは分かってるけど、謝ることしか出来ない俺を、許してください。』
ここで手を止めて、はたと思う。何を伝えたかったんだっけ。謝りたくて手紙を綴っているわけじゃないことは確かだ。俺がどれだけあいつを愛しているか、ぞっこんか、首ったけか、ということを書かないといけないのではなかったか。
『俺が弁当のどこをどれくらい好きなのかというと、まず人のことをよく見て、考えてくれているところです。俺のことを俺よりも大切にしてくれて、想ってくれる、優しいところがとても好きです。俺だけじゃなくて、かなたのことも、伏見のことも小野寺のことも、航介と朔太郎のことも、千晶とか夏目さんのこともまだ気にかけているの、知ってます。渚のことだって六島のことだって、弁当は自分のこと友達が少ないって言うけど、そうじゃなくて、広げられる手の分きっちり目が届くように、見てくれているからそう感じてしまうだけだと思います。助けられるように、見てくれてるんだと、思います。そんな優しいお前が大好きです。だけれど、お前はもう少し、自分にもその優しさを向けてあげられたらいいと思います。弁当だって幸せになってもいいんだよ。俺のことなんかほっといてもいいからさ。』
分からない漢字は、携帯で調べながら、少しずつ書き進めていく。ちょっとでも、俺の気持ちが伝わるように。想いを文字にしていく内に、自分の頭の中がすっきりしていくのが分かる。喋るのとは違って、自分が綴ったことが目に見えることは、頭の悪い俺にとって適切な手段と言えた。敬語と話し言葉がぐちゃぐちゃに混ざってるのにも途中で気付いたけど、今更直せそうにはなかった。酸化を始めた林檎は元には戻れないのと、一緒だ。
『それと、頑張り屋なところも好きです。最初は料理なんか出来ねえとか無理だとかって言ってたよな、覚えてる?ハンバーグを作りすぎた上に焦がしてしまって、昼飯に持ってきて苦い顔で齧っていたこと、俺は覚えてます。今はお前の飯、すごい美味いし、楽しみにしてる。俺の好きなものを作ろうとしてくれて、ありがとう。アップルパイも、シチューも、俺が好きだからしょっちゅう作ってくれるよな。真面目だから、レシピちゃんと調べて、練習してるんだろ?美味しいもん。そういうとこも好きだよ。あと、いつも全然表情変わんないくせに、甘いもの食べてる時だけはふにゃふにゃに笑ってるのに、自分で気づいてないのもかわいくて好きです。甘いもの好きなら好きって言えばいいじゃん、みんな知ってんだから、って思います。隠したってばればれなのに、隠し切れてる気になってるの、お前のとびっきりかわいいとこだよ。好き。』
『気づいてないかもしれないけど、俺のこと大好きなのがばればれなのも、俺は好きです。お前は自分のそういうとこ嫌ってるの、見てれば分かります。でも、俺はすごく好きです。嘘つきで自分の気持ちをすぐに隠してしまう、素直になれない弁当が、俺のことに関しては分かりやすく真っ赤になったり真っ青になったり笑ったり泣いたり怒ったりするのが、嬉しいです。お前が俺のこと好きだって気付いてから俺のこういう気持ちは始まったから、そういった意味では弁当は、俺の恩人とも言えます。でも、お前が俺のこと好きな分だけしか俺がお前を好きにならないと思ったら、大間違いです。残念ながら、今まで結構な長さで書いてきた通り、俺は弁当のことが大好きになってしまったし、それは例えばお前が俺から離れることがあったとしても、変わりません。もう嫌だと言っても離しません。俺のことを好きになってしまったことを、せいぜい後悔してください。悪い男に引っ掛かったと思ってください。俺のことを頭に刻みつけて、忘れないでください。俺との時間を無かったことにしないでください。これはお願いです。俺から逃げないでください。俺はお前が帰ってきてこの手紙を読んで、どんな答えを出したとしても、きちんと受け入れるつもりでいます。けど、答えを出さずに放ったらかして逃げることだけは、許しません。今までの時間をなかったことにして友達に戻ろうなんて、甘いことを考えないでください。俺がお前の気持ちを踏みにじったことは謝ります。だから、弁当も俺の気持ちを蔑ろにしないでください。俺がお前のことをどうしようもなく好きだという気持ちは本当で、お前なんかに消せるもんじゃねえって、分かってください。それを踏まえた上で、答えを出してほしいです。』
『俺がこんなことを書いたら、弁当は自分の気持ちを口に出せないよな、って思います。優しいから、俺のことを考えてしまうでしょう。俺が笑うような答えを出そうとするでしょう。そうじゃなくていいんだよ。さっきも書いたけどさ、お前が幸せになれれば俺はそれがいいんだよ。お前だってそうだろ。弁当も、自分が幸せになるよりも俺に幸せになってほしいんだろ?俺も同じだよ。だから、自分の幸せを考えてください。辛いから好きだって言って欲しくないなら、もう言いません。やっぱり一緒にはいられないから別れたいって言うなら、別れます。今までよりも甘やかしてほしいと言うなら、甘やかします。男役を譲ってほしいと言うなら譲るし、物や形で愛を伝えて欲しいなら頑張って探します。一緒に死のうって言われたら、それは、出来ないけど。一緒に生きることは、できます。』
『好きなところに話を戻します。好きなところは、他にもたくさんあって、寝起きの悪いところとか、ノートが綺麗なところとか、案外口が悪いところとか。おしとやかに見えてそうじゃないの、大学入った最初の頃、こいつめちゃくちゃ面白いなって思って見てました。無言でぼけーっとしてるのに、頭の中で色々喋ってんだよな。酔っ払うと頭の中で抑えつけてる本音が口からぽろぽろ出てくるところも好きです。積極的に酔わせたくなってしまいます。お前酒強いから、なかなか酔わないけどな。航介や朔太郎が、弁当が本音を今よりもたくさん口に出してた頃を身近に見ていたと思うと、嫉妬で燃えそうです。でも最近は、出逢った最初の頃よりは気が緩んでいるのが分かります。二人でこたつに入ってテレビ見ながら、気付いたら弁当が寝ちゃってんの見た時とか、幸せだなーって思いました。そんな幸せの中で邪な感情を持っていることは、ごめんなさい。しょうがないじゃん、俺だって男の子だし。でも弁当の泣き顔も好きです。俺しか見えてないってその顔が見たくて、迫ってしまうの、許してください。』
『他にも、几帳面なところも好きです。例えば玄関の靴がきちんと揃っているところとか。シャツが皺なくぱりっとしているところとか。甘いもの好きな癖に虫歯知らずなくらい歯磨きちゃんとしてるとことか。しっかり者のお前が好きです。体力が無くて、運動があんまり得意じゃなくて、夏はひーひーしてるとこもかわいくて好きです。汗あんまりかかないよな。変なとこ見てるって引いたかもしんないけど、細かいところまで覚えておきたいって思う俺の気持ちは、伝わったでしょうか?今だって、いつだって、全てを魅力的に感じています。案外頑固なところ。色白の肌、細っこい指。甘えられると断りきれないところは、もっと強く出てもいいと思います。俺にはいいよ。でもさあ、お前最近伏見に甘すぎない?なんで料理とか教えちゃってんの、二人っきりとか俺一応嫉妬するよ?まあいいんですけど。王道ものの漫画とか小説とか好きで、内心憧れてるようなところも、好きです。俺とお揃いだなって思います。今度また一緒に、映画を見ましょう。できれば、ヒーローが巨悪を倒して、ヒロインと最後には結ばれる、ハッピーエンドのやつを。』
駄目だ。ペンが止まらない。伝えたいことがまだまだたくさんある。真っ白なルーズリーフがあっという間に黒く染まるくらいの勢いで、文字を書き続けた。何枚書いたかはよく分からなくなってしまったし、きっと俺のことだから誤字脱字もある。でも、読んでもらえたらいいなあ、と思った。
早く帰ってきてほしいな、と思った。


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