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ずっと好きだった



高校生の時、好きな子がいた。
彼女の明るい笑顔と、肩に触れて跳ねる髪の毛の先と、細い指と手首と、長い睫毛と、丸っこい膝小僧と、滅多に見えない足の爪先と、全部全部が好きだった。いっときの思い出作りと割り切ったとしても、二人きりの写真は残せなかった。どうしてかって、レンズに焼きつくその瞬間に、きっといつまでも意固地にしがみついてしまうから。好きで、好きで、仕方がなかった。深い接点もない、クラスの中でのグループも違う、それでも目で追いかけ続けた。けれど何も出来ないまま、三年間があっという間に過ぎ去った。残ったのは、三年の内ほんの少しだけの二人で会話した掛け替えのない時間と、その思い出と、一枚の集合写真だけだった。その写真の中で俺は彼女を見ていて、彼女とその他の友達はレンズの方を見ていて。高校を卒業した今、思い出したように見返すと、胸が痛くなる。
今でも、彼女のことが、好きだ。

「いいなー、高校のクラス会とか、俺そんなんねえもん」
「行ってきます」
「あっ!名案!今日だけちょっと直と幹を交代しよ?」
「行ってきます」
「なあー、みきー」
「行ってきますっつってんだろ!」
「あーん」
駄々をこねる双子の兄を玄関先に置き去りにして、家を出た。成人してからの集まりに参加するのは二回目くらいだけれど、不定期に開かれる同窓会もどきに常に10名前後が参加するっていうのは、かなり仲良しクラスなのではないかと思う。来れる奴、来れない奴、それぞれだけれど、結構参加に前向きな友達が多いわけだし。その点、直はこうやって集まれる友達がいないらしい。かわいそうにな。
電車に乗ってしばらく揺られる。今回の開催会場は、高校の最寄駅の近くの居酒屋だ。こないだはこの辺で一番大きな駅に集合だったから店に入るまでが大変だったけれど、高校の最寄駅はそんなに大きな駅ではないので、すぐに合流できるだろう。
待ち合わせ場所に俺が着いた時点で、女子二人と、男が一人。女子二人の内の一人は幹事だ。しっかりしているので、先についていてくれたのかもしれない。
「久しぶりー」
「おー」
「ここはこないだぶりー」
「お前ら会ってたの?」
「駅でばったりね」
ねー、とクラスでは割と中心にいた女子が、男と目配せしあっている。まあ、高校の通学範囲なんて広いもんでもなし、そういうこともあるんだろう。唯山くんが来るの二回目とかだよねえ、と女子の記憶力の良さと社交性の高さを知らしめられたところで、ぞろぞろと人数が集まり始めた。今日は10人参加らしい。場所はもう取ってあるけど、一人ちょっと遅れてくるって、と幹事が携帯を振って、先に出発することとなった。
襖で区切られただけの仮個室。二時間の飲み放題だ。適当に座って、近況報告とばかりに周りの相手と話す。俺は運悪く一番廊下側になってしまって、正面に座っている幹事共々、オーダー係にされてしまった。くそ。ごめんね、と幹事の女子に手を合わせられて、別に構わないと手を振ったけれど。隣の友達には、そうでもしないとお前喋んねえから!と背中を叩かれた。いやいや、喋るよ。
「あっ、もうすぐかな」
「なに?」
「かなちゃん来るって。部屋分かんないだろうから、あたし連れてくる」
幹事が席を外して、襖の隙間から外の喧騒が聞こえてくる。他の団体さんの笑い声とか、店員の声とか、足音とか。かなちゃん、と聞き慣れたような聞き慣れないような名前を思い出している間に、一人で消えていった足音が、二人分に増えて戻ってくる。からり、と開いた襖を見上げた先にいたのは、有馬かなただった。
「遅れてごめんね」
「遅いぞー!」
「どうしたの?」
「バイト延びちゃって。ごめんごめん」
「ここ空いてるよ」
「ありがとー」
にこにこと、昔と変わらない笑顔で手を振った彼女は、幹事の隣を勧められて座った。俺の目の前だ。あ、どうしよ、なんにも考えてない、だって今日来るとか知らなかったし、どうしよう、ほんとにどうしよう、困る。今日だって、家を出る前に、机の引き出しにしまいこんでいた思い出の集合写真を眺めてから来たのだ。凍り付いて鮮明でなかった記憶の欠片が、一気に溶け出して蘇る。あの時よりも、少し髪が伸びたかもしれない。小さな花のピン留めは、金の花にリボン付きのヘアゴムにバージョンアップして、緩く纏められていた。化粧のせいか、服装のせいか、大人びた雰囲気がある。俺にとっての彼女は高校生のあの時で、止まったままだったから、今見る姿が新鮮で、目を反らせなくて、溶けて溢れた気持ちがもう止まらない。口を閉じていて良かった。危うく、かわいいですね、と口走りかねなかった。
どっどっどっ、と心臓が早鐘を打つ。だって、来るなんて想像もしなかったし、正面に座られるなんて以ての外だし、彼女への恋心はきっとありがちな青春時代の思い出にこのままなるんだろうと本気で思っていたのに。薄ピンク色の白桃カルピスサワーの入ったグラスにかかる綺麗な爪の形にまで見入ってしまって、目を無理やり離しては自分のグラスを傾けた。隣に座っている男友達の話には、申し訳ないことに全く集中できなかった。だって、普通そうだろ、しょうがないだろ。前を向いていると浅ましい思慕が見透かされてしまいそうで、彼女にそれを知られることは死ぬより辛いことに思えて、ただただグラスの中身を空にし続けるロボットになる。何杯飲んだかもう分からない。そろそろお開き、なんて幹事の言葉に、結局自分が彼女と一言も言葉を交わしていないことと、相当飲んだせいで頭がぐわんぐわんすることに、気づいた。でも、歩けない程じゃない。彼女の前でそんな恰好悪いところは見せられない、と一人前に育った意地を張って、ふらつく足をしゃんと立たせた。
「お開きかー、早いなあ」
「二軒目行く奴いない?森澤とか、末崎とか、来れるみたいなんだけど」
「行く行く」
「あたし帰ろっかな」
「唯山は?どうする?」
「……ん、帰る。明日、用あるんだ」
「そっかー」
嘘だ。用なんかない。行けるものなら二軒目も同行していただろうが、こんなんじゃ無理だ。酔いどれた頭を醒まさないとやばい。誘ってくれた友達には申し訳ない。また今度な、と手を振られて別れ、一息つく。彼女はあっちについて行ったんだろうか。途中から姿が見えなくなって、
「唯山くん」
「ぎっ」
「あっ、ごめん」
「……び、びっ、くり、し、て」
「すっごい飲んでたよね?ふふ」
とん、と前触れも無しに軽く叩かれた背中と、柔らかい声に、驚きのあまりへたへたと膝が折れた。がつん、と地面にぶつけた膝頭に、涙目になる。可笑しそうに笑った彼女は、俺の手を引っ張って何とか立たせて、そんなに驚くとは思わなかったから、ごめんね、と少しだけ眉を下げた。悪いのは気を抜いていた自分だ。
「どうしたの」
「唯山くんと、お話ししてなかったなあ、と思って」
「……?」
「ね」
深い理由はないらしかった。俺が二次会に参加しなかったから、声を掛けたのだと彼女は言った。用事があるなら無理強いはしないけど、クールダウンするだけの間、どこかでお茶でもしませんか。そう、少し躊躇うように言われて、喉がきゅうって詰まった。だって、えっ、待って、ほんと待って、いや、断る理由はない。確かに酔いは醒ましたい。でも、お茶って、二人きりだし、あっちからしたら何の意味もないのかもしれないし、本当にたまたま俺に声をかけただけなんだとも思うけれど、二人きりだし。黙り込んだ俺のことを、彼女は待ってくれている。優しい。断ったとしても嫌な顔一つしないんだろう。でも断るってお前、唯山幹くんよ、それは男が廃るというもんじゃないか。いくらヘタレで意気地なしでも、一緒にお茶くらいかっこ良くスマートにこなしてやれ。そうだ、思い出を一つ増やすんだと思えばいい。よし、頷くぞ、そんなに言うなら行ってやるとOKを出してやる、よし、がんばれ。
「あの」
「それとも、」
「あ、っごめん」
「……かぶっちゃった」
「……ごめん」
「じゃあ、行こっか?」
手を差し出されて、固まる。そういえばさっきも手を引っ張られたんだった。柔らかそうな掌を見下ろしてフリーズしている俺に、あ、ごめん、子どもじゃあるまいし、と彼女は手を引っ込める。勿体無いことをした気がするのはどうしてだろうか。酔っ払ってるから危ないと思って、普段はこんなことしないよ、と言い訳のように早口で零しては耳を赤くする彼女に、また心臓がだくだくした。
しばらく歩いて、駅から少し離れた先。くらくらする視界と覚束ない足元に、彼女が歩みを緩めてくれているのが分かる。ビルの隙間にひっそりと建つ、古そうな三角屋根で彼女は立ち止まった。
「……ここ」
「遅くまでやってるカフェなの。お気に入りなんだ」
「ふうん……」
からんからん、と開いた扉の向こうは、仄暗くて、淡いオレンジの光が店全体をぼんやりと照らしていた。小さなカウンターの向こうには、壮年のマスターが立っている。空いているお席は何処でもどうぞ、と優しい低音で案内され、テーブル席に座った。外の世界から切り離されたように、小さく掠れた音でラジオがかかっていて、人の少ない店なのに温かみを感じさせられた。彼女のお気に入りというのも頷ける、ゆったりとした空気の素敵な店だ。
メニューを開いて、お互いに飲み物を決める。くるりとカウンター側を振り向いた彼女に反応して、マスターがオーダーを取りに来た。俺はアイスコーヒー、彼女はカフェモカ。端的な返事と丁寧なお辞儀で、彼は自分の位置へ戻っていった。懐かしいね、とラジオに耳を傾けた彼女に習って耳を澄ませてみると、確かに自分が学生の時に聞いていた曲が流れていた。君の願いはちゃんと叶うよ、と流れるサビに、唯山くん好きだったよね?と聞かれて、頷く。
「覚えてたんだ」
「そんな話ししたなあって」
「……うん」
「会うと思い出すもんだね。さっきも、顔見るまで忘れてたこととか、たくさんあってさ」
目を細めて頰に手を当てた彼女に、もう一度頷く。それは同感だ。俺もさっきまで、君の思い出を散らして揺蕩わせていた。掻き集めて纏められたのは、顔を見たから。ぼんやりと見つめていると、目を開いた彼女と視線が絡んで、顔が赤いぞ、酔ってるな、と小突かれた。違う、君のせいだぞ。
「あの、今、なにしてるの」
「ん?」
「ていうか……なんていうか」
「ふは、唯山くん」
「え」
「そんなに急がなくても、ゆっくり話そうよ」
話したくて呼んだんだよ、唯山くんのこと。他の人だったら、ここに連れてなんか来なかったよ。だって、お気に入りなんだもの、他の人に教えるなんて勿体無い。そう彼女が笑って、目を伏せた。長い睫毛は、マスカラとかいう作り物できっとコーティングされていて、そんなことしなくても君は可愛いのに。俺はそれを知っているのに。瞼に乗る煌めきも、頰を赤く染める粉も、いらない。唇だってわざわざ艶めかせなくたっていい。あの時よりも少しだけ大人になった彼女は、俺の知っている彼女ではないようで、なんだか寂しかった。大人びたふりをしないでくれ。あの時のように笑ってくれ。伏せた目に、俺の知らない数年を思い知らさせるみたいで、息が止まった。黙った俺に顔を上げた彼女は、眉根を寄せて無理に笑った。
「ごめんね。話したかったのは、あたしだけかも」
「……ぇ」
「無理に誘ったから、断りにくかったよね」
「ちが、そうじゃなくて」
「た、っ」
「俺そんな喋り上手じゃないし、今なんか酔ってるし、誘われたのは嬉しかった、この店も好きだ、けど、俺なんかよりもっと、有馬が話したい相手はいたんじゃないかなとか、俺でいいのかなとか、そうやって思ってる内に、黙っちゃって、っ」
だん、と机を叩いた音は静かな店内に響いて、彼女がきょとりと目を丸くしているのが分かった。捲し立てる途中で我に返って、彼女越しに目が合ってしまったマスターに頭を下げて、かっと熱くなった顔を下げた。うわ、あ、やっちゃった、喋んなくていいこと喋っちゃった。もう嫌だ、直助けて、今すぐ可愛い弟を助けにここに来て。
しばらくして、ふふ、と笑った声にじりじり顔を上げれば、出処は有馬だった。なんだよ、と我ながら拗ねた声で答えると、目尻を指先で拭って。
「やっと呼んでくれた」


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