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おはなし



「それじゃあ、またね。」という挨拶が、小さい頃から嫌いだった。どうして簡単にそんなことが言えるのだろう。幼いながらに不思議でしょうがなかった。またの機会があったとして、再び会った時にはそれを喜べなくなっているかもしれないのに。さっきまで好きだった人のことだって、手のひら返しで嫌いになれるのに。感謝の言葉を吐く裏では、善意の行動をくだらないお節介だと切り捨てることができるのに。口先三寸で愛を配り歩くことだって、欠伸混じりの容易さで、できてしまうのに。信じられるものなんて、片手で数えられるくらいしかないじゃないか。馬鹿言うな、なにが「またね」だ
、反吐が出る。至極自然に、当たり前に、そう思って生きてきた。けれどそんな自分でも、この人だけは大切にしよう、と思えた人は存在した。その人にだけは、嘘でなく絶対の約束として、「またね」と自分から零してきた。きっと相手も待っていてくれると信じているから、約束をする。それが当たり前になった頃、当たり前になってしまったから、ばちが当たったのだと思う。
結局のところ、物理的に離れ離れになってしまえば、人間の関係性なんて、意図も簡単に容易くあっさりと、鋏を使うまでもなく、指先でぷつんとするくらいの柔らかさで、千切れるものなのだ。

朝起きた時に、他人の生活音がしなくなったことには、慣れた。深夜帰ってきたところで呆れ顔を向けてくる相手もいないまま暗い部屋の鍵を開け一人眠りにつくことも、日常になった。おかえりも、ただいまも、いただきますも、ごちそうさまも、好きも嫌いも愛してるも、全てが独り言でしかない生活は、どこか生温くて現実味が無かった。夢のような、嘘のような、突然終わってしまってもいいような、現実。目が覚めたら俺は高校生で、ぼんやり身支度をして家を出たら、見知った顔の幼馴染が履き古しの運動靴を突っかけて前を走って行ってしまうのだとしても、不思議じゃない。つらつらと過ぎ去ってしまう毎日に、カレンダーを見なければ今日が何月何日かも分からないような始末で、ふっと「髪の毛が伸びてきたなあ」なんてことに気づいた瞬間月日が経っている事実が唐突に襲い来るのだ。自分はもうとっくに高校生じゃなくて、大学生でもなくて、新入社員ですらないわけで、それでも俺の中で生きている今現在の現実は何故だかどうしようもなく過去のものなわけで。
ぼんやりそんなことを考えているうちに、朝の身支度なんてものは終わる。毎朝のルーチンワークだ、自分が考えているよりずっと体に染みついているんだろう。眠たげな垂れ目を長い前髪で隠して、周りに埋もれるように、目を伏せて歩けるように、取り繕う。東京に居た時にはあれだけ気にして整えた見た目は、なんだかもうどうでも良くなってしまって、だって誰かに見せるわけでもないし、誰かに見て欲しいわけでもないし。憧れだった人も大切だった人も、ここにはいないのだから。ネクタイは緩めのまま、どうしてもきちんと締められないのは、きっとまだ過去に未練があるからだ。ちぃ、曲がってるよ。なんて、お人好しでお節介な何処かの誰かがひょっこり手を出してくれないかなって、思ってるから。いつまでもいつまでも、そう思いたいから。そんなこと、あるはずないのに。
自嘲気味に笑って、履き慣れた革靴に足を入れて、鍵を閉める。ちょうど隣の部屋の女子大生と被って、ぺこりと頭を下げられた。声の無い挨拶を返して、ふわふわのスカートを翻して隣を擦り抜けた名前も知らない彼女に対して、なんとなく、思う。死なねえかな、あいつ。俺が帰ってくるまでに、どっかで死んでくれねえかな。彼氏連れてくるとうるせえんだよ、壁薄いから筒抜けだっての。俺が個人的に彼女から何かされたわけでもなければ精神的もしくは肉体的に被害を受けているわけではないけれど、出来るだけ悲劇的に惨たらしく死んでくれねえかな。朝のワイドショーが騒然とする感じで、小中高の経歴を辿られて仲良くもない友達に根掘り葉掘り有る事無い事インタビューされるような勢いで、事件か何かに巻き込まれて死ねばいいのに。そしたらこの退屈でつまらない日常にもちょっとくらいは変化が起きるのに。空気読んで死んでくれねえかなあ。あーあ。
名前も知らない彼女がどのように誰からも憐れみを誘う可哀想な死に様を迎えるのかを想像しているうちに職場に着いた。ちょっと楽しかった。そういうこと考えてると、ちぃくん悪い顔になってるよ、そういう不謹慎なのはやめなさい、って叱られたっけ。大嫌いな先輩が如何にこっぴどく憧れの先輩に切り捨てられるかを想像するのが大好きだった、んだけどその想像をしてると大体あのお節介に窘められるんだ。想像くらい好きにさせろよ、って思ってた。そう思えてたうちは良かったって気付けたのは、不幸だ。
おはようございます、おつかれさまでした、お先に失礼します、以外に職場で話すことは特にない。こっちに来てから無口になった。喋る必要性を感じないからだ。会話を楽しみたいとも思わない、そもそも相手と接点を持ちたいという欲が生まれない。『同僚』っていう枠組みの中に存在する人間は、そういう扱いしかできない。だってこいつらは、『恋人』じゃないし、『家族』じゃないし、かといって『友達』はもう埋まってるし、『先輩』も先客がいる。入れる隙間がないから、新しい枠組みとして、『同僚』。だから、扱いはそんなもんでいい。こいつらのための割り当ては元から作られていないから、会話だっていらないし、仲良くしなくてもいい。どう思われてようと構わない、多分どうとも思われていない。とっても楽だ。俺ってそもそもこういう人間なのかもしれない。裏表がくっきり分かれるほど外面作って無理して、無闇矢鱈に周りとたくさん関わって、人の真似ばっかりして、取り繕っては外堀固めて、そうやってみんなといるのも、決して楽しくないわけじゃなかったけど。誰一人として俺のことなんて知らない場所で、誰かのコピーじゃなく、何かの写しじゃなく、人に埋もれてぼんやり漂って、他人に認識されずに、いてもいなくてもいいような存在でいるのは、すごく楽だ。地に足がついていないような気分になる。幽霊になったような気持ちで居られる。俺の役は、俺じゃない人にだって、できる。今まではずっと、必要とされることで、生きている気がした。誰かに求められていない今は、生きている実感があんまり無い。けれどその分、自分が自分だけのものになった気がして、好き放題しても誰も咎めたりしないのだと思えて、少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しかった。
それは、誰かにならなくても、自分は渚千景なんだ、と胸を張れるようで。

「休み」
「そうなんだよ。悪いね、急に入った工事で」
「いえ」
「有給使えとは言わないから。こっちのミスだし、本当にごめんね」
「……いえ」
いきなり連休なんて言われても、なにしたらいいか分からない。職場であるビルの電気系統がどうたらこうたらで、取り敢えず急場凌ぎの工事をするとか、しないとか。話半分にしか聞いていなかったからよく分からないけど、とにかく俺は明日明後日と休みらしい。明々後日は元々休みだったので、実質三連休である。予定もないので、暇だ。
家に帰る道をぼんやり辿って、三日なんてすぐだ、と思う。出かける予定も無い、話し相手もいない。寝て起きて食べて寝てればすぐ休みなんて終わってしまう。今までだってそうだったわけだし、と改札口を抜けて最寄りの駅を出ると、携帯が震えた。ポケットから取り出したそれの画面には、嫌という程見慣れた名前。
「……、」
天真爛漫、といった顔で笑う彼は、今なにをしているのだろう。何の用があって俺に電話なんてかけてきたのだろう。距離が遠くなったことで、「疎遠」という言葉がぴったり当てはまる関係になったのに、もう幼馴染みの距離感じゃないのに、今更何で。だってあいつは、あの日に死んだじゃないか。仁ノ上和葉は、俺のものじゃなくなったあの日に、死んだのだ。幸せそうな花嫁と二人で生きる道を選んで、俺の中で死んだ。いなくなった、なんて生易しい言葉は使いたくない。だって、俺のことなんていらなくなったくせに、置いていったくせに、一人ぼっちにしたくせに。もっと子どもでいられたなら、結婚なんてしないで欲しいって泣いて縋りたかった。けど嫌に大人びた客観的な自分が、この世はお前を中心に回っているわけではないんだ、と呆れて諭して、だから俺は大人の真似をすることに決めた。地団駄踏んで我儘言いたいのを飲み込んで、おめでとう、なんて笑顔で言っちゃって、大人ぶっちゃって。幸せが溢れかえってる結婚式に出れる程大人にはなれなくて、すっぽかしたけれど、それでも血反吐吐くような思いで、おめでとうは言ったのだ。その代わり、仁ノ上和葉は死んだ。そろそろ何周忌になるだろう。
玄関扉から中に入って、鍵をかける。世界から隔絶される。ここは俺のテリトリーだ。隣の女はまだ帰ってきていないらしい。とっくに着信の切れた携帯の画面を見下ろして、久し振りに名前を呼んだ。かずは。和葉。呼ぶたびに、ぷちんぷちんと脳味噌の血管が切れるみたいだった。誰の真似でもない渚千景は、一番最初のオリジナルは、仁ノ上和葉のことが好きだったのだ。そればっかりは、誰の真似をしても、誰をコピーしても、誰になりきっても、誰を写しても、上書きできなかった。奥底の下敷きとして残り続けて、薄まって消えそうになっても、どうしたってなくならなかった。彼を殺して忘れた気になっていた、蓋をした思い出が、一気に甦る。紫外線に肌を焼かれる晴れた日も、強い風に煽られる雨の日も、しんしんと降り積もる雪の日も、太陽なんて見えやしない曇りの日だって、一緒にいた。一緒にいたかった。また明日、が当たり前な相手でいてほしかった。くだらない話をして、我儘を言って、呆れさせて、それでも俺のことを見捨てない和葉のことが、好きだった。その思いは今でもきっと変わっていなくて、ただ全部なかったことにしてしまっただけで、もしもそれを取り戻せるのならば、また笑いかけてもらえるのならば。
会いたい、と思った。生きているのなら、会いたい。話がしたい。誰の真似もしていない、一番最初の自分に戻った今だから、和葉に伝えられることがある。伝えなくちゃいけないこともある。会ったら、きっと、止まらなくなる。壊れた蓋からは煌びやかで愛おしい思い出が滲み出てきてしまった。下りの坂道で背中を押されたら、もう止まれないと同じだ。
必要のないものは全て置いていこう。財布と携帯があればいい。使わなかったせいで、幸いなことに金ならある。カードが使えれば心配はない、大丈夫だ。堅苦しいジャケットを脱いで、ネクタイも外して投げ捨てて、久方ぶりに私服を着た。和葉が好きだったブランドのシャツに袖を通して、真っ白なそれを見せびらかすようにぐるりと回る。なんだってできる気がした。なんだってしてやるって思った。たった一本の電話に何をここまで急き立てられているんだろう、と自分でも不思議になるくらい。その辺のコンビニに行くくらいの手荷物で、がちゃがちゃと乱暴に鍵を回して閉める。さっき出られなかったことを謝って、今から新幹線に乗ってそっちに戻ると伝えなければ、とリダイヤルすると、タイミングが悪いのか出てくれなかった。それでもいい。だって、今すぐに、早く、会いに行かなくちゃ。
和葉を殺したままにしておけば、家を出る気にはならなかっただろう。怠惰な休みを三日過ごして、いつも通りの日常に戻って、縁も所縁もない隣人の不幸を願いつつ生きていくのだ。けれど、幸せだった時間を思い出してしまった。それは手放せないものだと、忘れていた蜜の味を反芻してしまった。もう一度忘れるなんて無理だ。だって俺は、和葉のことが、

時間帯や曜日の関係もあってか、飛び込みで乗車券を買うことができた。電話は通じないままだけど、しょうがない。周りの人々が荷物を持っているのに対して、自分があまりにも身軽なので、少し面白かった。子どものように目を輝かせて、久しぶりに新幹線に乗り込む。早く着け、早く着け、と願う間に何度も電話したけれど、忙しいのかなんなのか、和葉は一度も出てくれなかった。でも、着信履歴は残ってるはずだ。どうしたのちぃくん、なんて呆れた声で掛け直してくる和葉の姿が目に浮かぶようで、口角が上がった。しばらくして、人が何度も乗り降りして、東京駅に着いて、在来線に乗ってからも、和葉は電話に出なかった。おかしいな、そんなに忙しいんだろうか。だって、俺からの電話を放ったらかしにしておいたことなんてないのに。まあいい、家に行けばいるだろう。そこまで考えて気づいた。
「あ、」
俺、和葉んち、知らないじゃん。
ずがん、と頭を撃ち抜かれたような気分。実家なら知ってるけれど、今住んでる家なんか知らない。だって連絡取ってなかったし、そもそも俺和葉のこと死んだと思ってたし。考えなしに飛び出しすぎた。ちくしょう。どの駅で降りよう、と迷った挙句、適当な駅で降りて、連絡が来るのを待つことにした。掛け直してくるに決まってる。きっと恐らく余程忙しいんだろう。上司が突然ぶっ倒れたのかもしれない。嫁が急に死んだのかも。それは好都合だけど。
ぼんやりとベンチに腰掛けながら、考える。今更俺なんかに言われるのも嫌かも知れないけれど、幼馴染の立場から、彼と深く繋がりがある人間として物を言わせてもらうのならば、あんな女に仁ノ上和葉は勿体無いのだ。あれは俺のものだ。遡ること15年以上前からそう決まっている。この数年貸してやったに過ぎないわけで、だから和葉は電話だって絶対に掛け直してくるわけで、俺が帰ってきたと一度知れば女なんて放ってこっちに来るのが当たり前なのである。それは別に理由が必要な情緒的判断ではなく、そうせざるを得ない理であって、しょうがないことだ。女には、相手が悪かったと諦めてもらうしかない。俺もお人好しだ、数日に飽き足らず数年もの間、大切な幼馴染を貸してやるなんて。溜息が出る。ホームに人は疎らで、通過列車が何度も目の前を横切った。全く、和葉は何をしているんだろう。早くしないと日付が変わってしまうじゃないか。もうこっちから掛けるのは飽きてきた、そろそろ掛け直してもらわないと。引っ越して仕事を始めたことをきっかけに契約ごと新しく買い替えた携帯を握り潰してしまいそうだ。そういえば、これも自慢してやりたいな。あいつ、電化製品は壊れるまで使うもんだと思ってるから。まだ昔と同じ携帯を使ってるなら笑ってやろう。
待てど暮らせど、なかなか電話は来ない。どれだけベンチに座っていただろう、もうそろそろ電車が停車するのにも間が空くようになってきた。いっそ心配になるくらい遅い、こんなに忙しいなら体を壊してやいないだろうか。向日葵みたいな笑顔が萎れてしまうのを想像して、ぞっとした。会いに行くと決めた矢先にそれは嫌だ、これから俺は和葉と住むんだから。まもなく2番線乗り場を列車が通過します、と駅構内アナウンスが響いて、またか、と顔を上げる。ずきずきと痛む頭が理解したのは、ぽん、と跳ねたサッカーボールだった。
「……和葉」
電車の線路の向こう側、フェンス越しに、和葉がネットに入ったサッカーボールを蹴りながら歩くのが見えた。ぱっとこっちを向いた彼は、驚いたように目を丸くして、気が抜けたみたいにふんにゃり笑って、両手を広げた。おかえりなさい、ちぃくん。呼ばれて、駆け出す。だって、早く行かなきゃ。本当はずっと会いたかった。意地を張ってごめんなさい。お祝いしなかったことだって謝りたかった。でもお前がどっかに行くのが嫌で、だけどもっと我儘言って引き止めたら怒られちゃうと思って、だから我慢したんだから、褒めてよ。手を伸ばして縋るように、待っている和葉に届くように、走る。こんなに離れたことなんてない。寂しかった、悲しかった、泣きたかった。もう、ひとりぼっちは嫌だ。離れたりしないから、離さないで。ずっと一緒にいて、また明日を言わせて。大切に思うから、好きだから、愛しているから。
涙で滲んだ視界を踏み出した先に、かくん、と地面がなくなって。












「それで?」
「うん?」
「さっきの電話なんだったの?」
「分かんない。知らない番号だし」
「もっかい掛け直してみれば」
「そんなことしないよ……」
「さっき一回はしてたじゃん」
「知り合いかもしれないって思ったんだけど、出なかったし、留守録入ってないし」
「ふうん……あ。電車止まってる」
「え?どこで」
「ほら。振替輸送って」
「うわ、ほんとだ」
「やだー、どうしよっかな」
「少し前の事故だから、待てば運転再開するかもしんないね」
「そっかなあ」
「急いでますか」
「急いではいませんが」
「そうすか」
「もうちょい待つかー」
「そうだなあ」

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