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君はパナシーア



暗闇からぼんやりと戻ってきた視界に、最初に飛び込んできたのは、パソコンの画面だった。嫌に明るいそれに目を細めて、眼鏡を探す。見慣れないそれと、四方を囲む壁に、ここはどこだっけ、どうしてこんなところに、と記憶をなんとか巻き戻して辿り着いたのは、家を飛び出す直前に想い人が浮かべていた、崖から突き落とされたみたいな顔だった。
そうだ。俺は、逃げてきたんだった。

恋愛感情の在り方について、俺の中で緩い形が決まったのは、小学校の時だったように思う。いじめられっ子というほどでもなく人の輪の中に入ることができる、その代わり友達には無自覚に馬鹿にされ下に見られるきらいのあった、俺の幼馴染み。今はそんなことはない。思春期に入った頃から体付きが大人になって、無駄な肉は削ぎ落とされて筋肉に変わった。元来の心優しさはぶっきらぼうでかっこつけな外面に隠されて、泣くこともなくなった。それでも幼い頃は涙腺の弱かった彼が、ぐずぐずと涙を零すのを、秘密基地の神社で何度見たことだろう。ある時も同じだった。寒い冬の夕方だった覚えがあるけれど、いつものように二人で遊ぼうと誘われついていけば、しばらくふんふんと鼻歌まで歌って上機嫌に足を揺らしていた彼は、べしょりと顔を崩して泣き出したのだ。どうしたの、と聞くのが定石であるということはもうとっくに刷り込まれていて、当たり前のように無感情なまま、どうしたの、と俺は聞いた。どうせまた、大縄跳びで引っかかったとか、ドッジボールで当てられたとか、リレーですっ転んだとか、自分がかっこ悪くて周りに笑われたのが許せなかったのだろうと推測していたから、特に興味も持たなかった。だから、涙混じりに続いた言葉に酷く驚いたのだ。『すきなこができた』。そう、彼は泣いた。なんで泣いてるのやらさっぱりだったが、好きな人がいる、というのはもっと幸せなものではないのか。少なくとも、自分が今まで読んだことのある本でも漫画でも、アニメでも映画でもドラマでも、好いた相手がいる、というたったそれだけで、世界が幸せで満ちているような描写が為されていた。なんでこいつは泣いている。思っていたのと違う答えにおろおろしながら続く言葉を待つと、彼はしゃくり上げながらぽつぽつと話す。曰く、『はずかしくてすきといえない』。それまでは当然だった挨拶でさえ、出来なくなったと彼は悲しんでいた。真面目で根が優しい彼のこと、挨拶も出来ない無作法者なんて認められるものではなかったのだ。どうしよう、どうしよう、とぐすぐす涙を零す彼に、俺がなんとか告げたのは、お前のことをどう思っているのか聞いてきてやろうか、といった類のことだった。彼はすぐには頷かなくて、明日まで考えるから待ってくれ、と返事を保留するほど迷って悩んで、結局俺の手助けを受け入れた。笑われていても嫌われていても馬鹿にされていても忘れられていても構わないから、と震える手をぎゅっと握って俯いた彼に、自分よりも何倍も大人だ、とぼんやり思った。人付き合いの苦手な俺なんて、すきなこ、どころか、そういったきっかけになるときめきすら感じた覚えがないのに。
結果。彼女は彼のことを、認識していた。存在を知っていたし、なんなら話したことだって何度もあって、楽しかったエピソードもいくつか聞かせてくれるくらいだった。ただ惜しむらくは、小学校高学年、という段階で心の成長過程に置ける女子と男子の差異だった。
『楽しいけど、そういうんじゃないから。』
そのたった一言で、ばっつりと、彼の恋路は断たれたのだ。彼女は、俺がまだ何も言わないうちに、彼が何かしらのアクションを起こすよりも前に、予防線を張った。彼女の方が俺たち二人よりも、恋愛感情に敏感で、頭が良かった。俺は彼に正直にその言葉を伝えるのがどうしても許せなくて、自分のせいにした。放課後呼んで、話をしようと思ったけど、女の子と話すのが恥ずかしくて、出来なかった。そう苦しい言い訳をした俺をじっと見た彼は、噴き出すように破顔して、げらげらと俺のことを指差して笑ったのだ。ばーか、じーしきかじょー!お前のことなど相手にするか、という意味がそれこそ過剰に込められたその言葉に、取っ組み合いの喧嘩をした。彼がこっそり俺と彼女の話を最初から最後まで聞いていたことを知ったのは、それから随分と時間が経ってからだった。
俺はその時知ったのだ。相手に自分と同じを求める方が間違ってる。好きな相手が自分を好きになるとは限らない。そう、自意識過剰だ。たとえそれが一方通行の報われない恋であったとしても、自分が相手を好きでいられることが、どんなに幸せなことか。恋路を断たれず歩かせて貰えることは、相手の優しさだ。相手が自分のことを好きだなんて、烏滸がましい。そりゃあ確かに、好きになってもらえたら死ぬほど幸せだろう。けれどそんなこと、そうそうに起こってたまるか。恋愛の成就は奇跡的な確率だ。そして奇跡は、常識では起こるとは考えられないような不思議な出来事だから、奇跡なのだ。そこら中で起こり得ることは、奇跡とは呼ばない。世の恋人たちは、本当に好き合って付き合っているんだろうか?妥協や嘘が無いと言い切れるカップルは、果たして世界中に何人いる?そんなことを気にしちゃいけないのかもしれない。こうやって思うこと自体、自己中心的な考え方なのかもしれない。だって結局は、自分さえ良ければ相手がこちらをどう思おうと関係ない、ということじゃないか。それは思いの押し付けでしかない。それが優しさから起こった気持ちや行動だとしても、押し付けは迷惑だ。それはあってはいけない。
好きになってもらわなくてもいい。好きでいられればそれでいい。そう、ぼんやりと思い続けてきた。有馬と出逢って、好きになった。ぼんやりとしていたその考えは、はっきりとした輪郭を持って、俺の両肩にのし掛かった。

家を飛び出した俺は、といっても飛び出したというほど勢いがあるわけではなかったしそんな心持ちでもなかったが、取り敢えずしっくりくる表現が無いので、飛び出したということになる。自分のことだから側から見れるわけじゃないけど、茫然自失、という言葉がぴったりとはまる、ふらふらした様子だったと思う。我ながら、よくもまああんな状況で携帯と財布をポケットに詰め込んだものだと、ふと我に返って驚いたのだ。何かつらつらと考えるだけの気力も無く、眠たい、という酷く原始的な欲求に突き動かされて、足を進める。気付いた時にはここにいた。数回利用したことがある漫画喫茶兼ネットカフェ。静かな店内にはちらほらとしか人がいなくて、薄暗かった。狭苦しいスペースだけれど、椅子もあるし冷暖房完備の恵まれた場所だ。外の喧騒から離れて一息つくつもりで深く座り込んだ俺がすとんと眠りについたのも、当然のことだった。
がんがん痛むこめかみと、熱を持った目尻。自分の体だからよく分かる。意識が眠りに落ちた途端ぷつんと緊張の糸が切れて、押さえていた分の水っ気が目から溢れたのだろう。感情が読みきれないとよく言われる自分だけれど、こと有馬に関しては、とても素直で分かりやすい。いっそぞっとするくらいに、それはもう。
隠し切れていないと自分で恥じるくらいに、俺は彼のことを想い過ぎている。好かれているのではないかと思い上がるくらいに、想い過ぎているのだ。おい、調子に乗るなよ。そう、はっきりと現実を叩きつける自分の声が聞こえる。分かってる、分かってるよ。反響してやかましく掻き鳴らされる頭の中で、そっと自問自答。俺は彼のことが好きだということだけは、見失わないと決めた。それ以外はどうなってもいいから、それだけは握り締めて生きようと、決めた。彼の言葉は綺麗すぎて、まるで星を吐いているように聞こえるのだ。星は手に余る。大きすぎて、抱え切れそうにない。好意を持ってもらえるのは嬉しい、嫌われるより何万倍も喜ばしいことだ。けれど、好意と恋は違うし、恋と愛だって違う。あいしている、と彼に吐かせるのは、俺の罪だ。嘘の星は隕石になって、いずれ落ちる。嘘をつくことが苦手な彼に嘘を吐かせている、その事実のどれだけ残酷なことか。俺が我慢していれば、貴方を愛おしく思うと伝えさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。
俺が悪い。彼を好きになってしまった、俺が悪い。それはさながら祈りだった。どうぞ、罰してください。優しさを持って作り出した、自分をも騙す偽りの愛を、彼は俺に与えようとしています。それを拒めない俺を、それに甘んじようとする弱い俺を、愛した男を救えない俺を、どうか罰してください。ごめんなさい。貴方を好きになったせいで、貴方をきっと不幸にしてしまう。幸せから引き剥がして、遠ざけてしまう。綺麗な貴方に嘘を吐かせて、汚して、穢して、自分と同じ思慕の沼に嵌めようとして。それでも、貴方のことなんて好きにならなければ良かった、とだけは言えない俺を、許してください。
どうして信じてくれないの、と泣きそうな顔で縋った有馬が、フラッシュバックした。じくりと、頭の奥が痛む。なにを、信じろと言うのだろう。脳が揺れる。ちくりちくりと、痛い。嘘じゃないなんて、嘘だ。だって有馬は、俺のことなんて。
そう。俺の、ことなんて。
「……?」
好きじゃない、と、言われたことはなかった。いくら思い返しても、そんな思い出はない。そんなことに、今更気づいた。好きだ、と言われたことなら、あった。それこそ、両手の指じゃ足りないくらいの回数。
じわり、じわり、と。頭の芯が、痺れていた。

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