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おはなし



人に言われて気がつくことがある。自分では分からなかった、自分のことだ。
今まで彼女がいたことは何度かあるし、彼女がいなくても彼女みたいな顔をする女の子といたこともある。ここ最近お付き合いした思い出はない。仕事が恋人とか言うつもりもないけど、仕事しながらそんなことにかまけてる余裕は、確かにない。忙しいのは楽しい、求められて必要とされている気がするから。一人からあからさまな好意を向けられるのと、周りに必要とされるの、どっちが幸せかって言ったら、俺にとっては後者の方が圧倒的に幸せなのだ。
「あなた、人のこと好きになったことないでしょう」
「え?」
「少なくとも、あたしにはそう見えるんだけれれど」
「……そうです?」
「人の恋愛話に、分かるわーってなったことある?今まで付き合ってた子のこと思い出したことある?興味関心じゃない理由に突き動かされたことある?」
「……えーっと……」
「ないでしょ?ない、って顔に書いてある」
なんだってそんなこと聞くんだ、と思ったけれど、財部さんは別に酔っ払ってるわけでも巫山戯てるわけでもなさそうだったので、正に図星なその言葉を、正面から受け止めるしかなかった。休み時間なのに、人のいない屋上。端っこに緑化運動の一部として置いてあるプランターの様子を見に来たら、先客の財部さんがいたから、なんとなくお話してたんだけど、どこからこんな話が出てきたんだろう。からん、と空になったコーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れた財部さんは、あなた酷い顔してたから、と独り言ちるように呟いた。
「さっき招待状頂いたでしょ。御園さんから」
「ああ、結婚式のですか?財部さんも貰いました?」
「貰ったわよ。上司だから行かないとね」
「みんな行くなら俺も行かなきゃだめですよねえ」
「……御園さん幾つだか知ってる?」
「えっと、……四十、過ぎ?」
「ぼやかさなくていいわよ。46歳です」
「……知ってます……」
「いい年して式だなんて、って思うじゃない?それって普通よね」
「……まあ……」
「辻くんがそう思ったのは当たり前だと思うのよ」
「げっ」
「げ、じゃない。顔に出すぎ」
「……うーん……」
「御園さんにもバレバレよ。でもね、あの人ちゃんと理由を言ったじゃない。一生に一度のことだから、恥だと罵られても、あの人と式を挙げたい、って」
「はい」
「辻くん、その時自分がどんな顔してたか知ってる?」
「……もしかして笑っちゃってました?失礼でした?」
「反対よ」
感情が抜け落ちた、無関心な顔。いっそ笑っていた方が愛想があったくらい。「そんな感情的な理由、自分には理解できません」って書いてあるみたいな顔。だからあたし思ったのよ、ああ、辻くんはきっと、他人を好きになったことがないんだ、って。理性的で打算的なのは生きる上でとても重要なことだけど、あなたは機械じゃなくて人間だから、好意の感情が抜け落ちてるのって、きっと欠陥よね。
少し怒ったような顔をした財部さんは、そう言い切って、暫く黙って、酷いことを言っているのは分かってる、気を悪くさせて本当にごめんなさい、と謝った。俺は腹立たしさすら感じずに彼女の言ったことを反芻していたので、別に全然、確かにそうかもしれません、と答えた。ここまで図星のど真ん中を撃ち抜かれたのは、多分恐らく二回目くらいだったから、びっくりして。年の功ってすげー、って思いもあった。けど、それよりも、それ以前に、「他人を好きになったことがない」って言葉が、すとんと胸に落ちたのだ。そういえば、そうだったかもしれない。俺は今まで、他人を好きになったことなんて、ないのかもしれない。



ほんとは、まっすぐ家に帰ろうかと思った。それは嘘じゃない。けど、なんとなく電話かけたら航介が出ちゃったから。何の用だ、とつっけんどんに聞かれて何も答えない俺に、どっか外にいるのか、迎えに行こうか、なんて当たり前みたいに言うから。優しいとお節介の隙間を潜り抜けて俺を刺しては痛め付ける言葉に、全部お前のせいだってことにしてもいいと思った。そういうことにしよう。
そろそろ夕暮れから夜空に変わる時間。目印のバス停でぼけっとしてたら、見慣れた車が止まった。わざとそのまま待ってたら、乗り込もうとしない俺に気づいた航介が、顰めっ面をして車から出てくる。酔っ払ったふりって、なんて便利。
「なんだよ。歩けよ」
「歩けませーん」
「嘘こけ」
「違うんだよ、今日ね、結婚式でね、披露宴の間いっぱいお酒飲まされてね」
「お前酔っ払ったことなんかねえだろ」
「ないけどさあ」
「乗れ」
「ぁだっ、もっと優しくして!」
「呂律怪しくもない奴には優しくできない」
投げ飛ばされるように後部座席に飛び込んで、ふにゃふにゃ笑っていれば、運転席に回った航介が面倒そうな目を一瞬こっちに向けた。いいじゃん、笑ってなきゃやってらんないような気分なんだから、そんな顔しないでよ。俺が笑ってなかったら、お前だってどうしていいか分からなくなるくせに。笑っててやってんだよ、お前が戸惑わないように。航介の前でしか泣いたことがないからって、泣けないわけじゃない。俺だって、疲れたり、どうでもよくなったり、するんだ。恋愛感情の分からない欠陥人間だったとしても、全部投げ出して忘れてしまいたい日だってある。何の関係もないお前を利用するのは、狡いと思うけれど。
静かに発進した車の後部座席で、ジャケットを脱いで横になる。スーツが皺になるのは目に見えているけれど、誰がなんと言おうと今の俺は酔っ払っているので、背筋をしゃんと伸ばして座っている必要はないのだ。吐くなよ、と吐き捨てた航介が、バックミラーでちらっとこっちを見た。うるせーばーか、飲んでもねえのに吐けねえよ、ばーか。
「ひきでものー」
「……随分でかいな」
「最近はカタログなんだって。この中からなんでも一つ選んでいいらしいよ」
「へえ」
「まあ航介には関係ない話かもしれませんけどもね」
「うるっせえな」
「ひひ」
「明日も仕事だろ、そんなに飲んで」
「ざんねーん、明日はお休みでーす」
「……公務員が……」
「うわ、こんないい肉もあんの、すげー。これにしよっかな」
「分けろよ」
「やだね」
「送ってやってんだろ」
「うち帰りませんし」
「は?」
「だから、俺、このまま家には帰りませんし」
「……どっか行くの?」
「うん。お前も道連れ」
「なんで。迷惑」
「明日仕事あるの?」
「あるわ」
「じゃあ手加減してあげる」
「なにが?」
「ここまで言っても分かんないの?鈍いねー、お前のそういうとこ最高」
「なに、」
「今晩抱いてやるっつってんだよ」
ほら、前見てないと事故るよ?そう寝転がったまま囁けば、普段より幾らか乱雑なブレーキ。あっぶねー、落ちるとこだった。もそもそと体勢を変えて丸くなれば、バックミラーすら見えなくなった。どんな顔してるか知らないけど、行き先は航介が握るハンドルに託されているんだから、分かってるよね。このまま家に帰ることだけは、許していない。他の選択肢だってそんなに残されちゃいない、精々場所なんて二つかそこらからしか選べないのに、こうやって迫るのって多分とっても性格が悪い方法だ。でもほら、俺今荒んでるし?なんだかとっても滅茶苦茶な気分だし?心の底からお幸せを願えないような人間だってことが判明しちゃったわけだし?ちょっとくらい、意地悪言って、酷くしたって、許してくれるよね。航介は優しいから、俺のこと怒らせたりしないんだもんね。
「ねっ、航介」
「……うん……」
顔が見えなくて本当に良かった、と思った。



成る程、これは夢らしい。
真っ白なウエディングドレスが赤黒く染まっていく。顔は潰れてしまって分からない。長くて毛先の丸まっている髪が、血に塗れて固まっていく。怖いとかより先に、汚いと思ってしまった自分は酷く冷たい人間のように思えた。多分それは事実で、現実なんだろうな。冷たくて醒めた、感情が乏しい人間なんだろうな。手に持った金属バットを、もう一度振り下ろした。誰だか分からない花嫁を殺す。愛を誓った相手も分からない花嫁を殺す。これは登場人物として存在していてはいけないから殺す。合理的な理由に基づいているから、これはきっと罪ではないのだ。増えすぎた種は減らさなければならないのと同じで、バランスを取るためにはしょうがないのだ。しょうがない、しょうがない。滲み出た血液でウエディングドレスが真っ赤になった頃、俺の正面に人が立っているのに気がついた。バットをぶら下げて顔を上げれば、ドン引いた金髪。
「……なんで、俺の、」



目を開けたら航介が寝腐っていた。しばらく考えて、見たことのない天井と壁に、納得。そういえばそうだった。時刻は午前一時。くかー、と間抜け面で寝こけている航介の鼻をつまんでみたら、眉根が寄った。そういえば、脳みその細胞って、五分間酸欠が続くと壊死するんだとか。酸欠が続くと、まず思考能力が低下する。考えるのをやめたくなる。それからその後、論理的思考に至れなくなる。これやったら終わるってこともやっちゃうし、それを後悔する頭もなくなるってこと。理性の箍が外れて、自分が壊れてしまったことに気づけないのは、せめてもの幸福なのではないだろうか。自分はどうやら逸脱しているらしい、と思い至ることは案外精神的に来るものがある。俺なんか楽観的だから、時間が経てばどんなに思い悩んだことでもまあいいかって思っちゃうけど、そうじゃない人はこういうので心病んじゃうんだろうか。俺は他人じゃないから、自分のことしか分からない。分かるわけがない、自分のことだって他人に教えられて気づくような始末なんだから。
「……けふっ」
苦しい?と聞く声に返事はない。緩く緩く、力を込める指先が、血管が脈打っていることを伝えてくる。鼻をつまんでいた指は、自分でも気づかないうちに首へと移動していた。ここで壊れちゃうのも、ありなんじゃない?とか、思ったりして。前科つけられるのはやだから、離すけどさ。
しつこく根に持っているようだけど、財部さんには感謝しているのだ。他人を好きになったことがない、なんて思いもよらなかった。気づかせてくれたことは有難いことだ。見て見ぬ振りを無意識にしてしまうことの多い自分だからこそ、他人から指摘を受けるまで分からないことがある。そんなこと知ってるのに、それでも教えてもらうことが多いって、どんだけ自分で自分のことが分かってないんだって、不甲斐ない話なんだけど。顔色と寝息の戻った航介のことをぼんやり眺めながら、そんな風に思う。こいつは俺のことをどれだけ知ってるんだろう。俺の知らない俺のことを、航介も知ってるんだろうか。言わないだけで、言えないだけで、そんなこともあるのかもしれない。聞いたことがないから分からないけど。
好きになられたことはあっても、好きになったことはなかった。でも、大事だったり、大切だったり、そう思う相手がいないわけではない。家族とか、友達とか。いなくなったら泣いちゃう、って相手はいる。けど、それは「愛している」には結びつかないじゃないか。永遠の愛を誓える程に愛おしく、好きになれるわけじゃないじゃないか。だから結局、俺は人を好きになったことはないのだ。好意を抱いたことはあると思うんだけど、好きになったことはない。その二つの何が違うんだと聞かれたら、答えられないけど。
航介に言わせないようにこっちからわざとコントロールしている言葉が、一つだけある。それは、俺に対する感情の行く先。何度か聞かれたことがある、「俺たちってなんなの?」なんて質問の答えだけは、出しちゃいけない。その質問だけは、正確な回答に辿り着くよう導いてはいけないのだ。だって、俺はどうがんばったって、お前のことを好きにはなれないんだから。愛おしくは思えないんだから。お前だってそうしてもらわないと、困る。感情の矢印は、釣り合わないと関係の破綻を齎す。「ともだち」でないと、困るんだよ。それじゃできないことをしていたって、それ以上にもそれ以下にも、なれない。なるつもりもない。関係性の変化を求められたら、それが見切りの付け時だ。航介にだけは嘘はつきたくないから、好きにもなれないのに好きだと言いたくないし、嫌いになれないのに嫌いだとも言いたくない。そんな日が来ないことだけを、願うしかない。
すうすうと寝息を立てる航介の頰に、そっと左手を当てる。薬指に指輪を嵌めた二人は、幸せそうに笑顔を浮かべていたっけ。俺のここにはなにもない。この先、鉄枷を嵌められる予定もない。だって、恋愛感情の持てない俺にも何故か存在する独占欲と肉欲は、すっかりちゃっかり満たされてしまっているから。たった一人を自分のものとして作り替える愉しみは、知ってる。それを恋愛感情と呼んでいいなら、俺にあると思われた欠陥は気のせいだったってことになる。その代わり、永遠に答えを出してはいけないこいつと俺との関係に答えが出てしまう。ハリネズミのジレンマだ。それなら俺は、欠陥製品でいい。答えを出さないほうが、ずっといい。他人なんて好きになれなくたって、いいじゃないか。今まで困ったことはないんだから。これからだって、困る心配もしてない。愛することなんて、知らなくていい。
「……お願い」
ここからいなくならないでね。俺のほんとうに気づかないでね。何も知らないままでいてね。現状打破の出来ないお前だから、こんなお願いするんだよ。それはまるで懺悔だった。休憩宿泊いくらの狭っ苦しい一室で、指先が震えた。きっと彼にも待っていたであろう輝かしい未来予想図を、この先俺は何度も殺すのだ。そんなものはなかったと、嘯くのだ。明るい道を一緒に歩いてくれる顔も知らない未来の女より、俺が欲しいと言って欲しいがために。どうしようもない自己愛の塊に、航介は利用されている。溺れる彼を、助けを求める手を、沈んでいく頭を、俺は何もせずただじっと見ている。だってきっと、足がつく深さだ。自力で助かることができるのに、それをしないお前がいけない。俺のやりたいようにやらせてるお前だって悪い。俺一人が悪いわけじゃない。だって、ここに愛は無いのだ。打算と利己的感情の蟠る関係に、情なんて湧かない。助かりたいなら、自分で助かってよ。俺、きっと航介が逃げたって追いかけないよ。そうなったらそうなったで都合良く別の相手を探すんだろうし、時間経過であっさりとお前のことを忘れるんだろう。そういう奴だよ。だから、そうならないように、何も知らないままでいてね。お前の未来は、俺に握り潰されたままでいいじゃない。そんなことにも気づかずに、笑っててよ。一人で助かったりしないで、一緒に沈もう。
「……さぶい」
「ん?」
「……んー……」
俺の手を払いのけた航介は、寝ぼけているらしかった。寝返りを打った彼に布団をかけ直してやりながら、このままずっとこうしていられたらいいのにね、なんてよくある恋愛ソングみたいな台詞が浮かんできて、ちょっと笑えた。そんな共感を得られるようなもんじゃない。もっと鬱屈として、捻じ曲がったなにかだ。
例えるならアイビー。真実の愛、なんて花言葉の裏には、重苦しい欲が潜んでいる。「死んでも離さない」。お似合いじゃないか。だって、恋愛なんて分かんないし。分かんなくていいやって思っちゃったし。きらきらしてるふりして蓋を開ければ本当はどろどろしてんの、人間っぽくていいじゃない。
どうせこれも、三回も寝たら忘れちゃうんだろう。俺ってそういう奴だ。かわいそうな航介。なんて思ったのも、明日には覚えてないんだろうけど。
「……そうでもしないと、笑ってらんないし」



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