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おはなし



ねえ、小野寺。
そう呼びかけると、むにゃむにゃと眠たそうな返事が聞こえた。それでもぎりぎり返事をするんだから、慣れっていうか躾っていうか、お前ってすげえなあ、頭やられてんな、とは思う。現在時刻は、丑三つ時真っ只中。なんだかんだいろいろしてるうちにこんな時間になっちゃったけど、ほんとはもっと早く寝るはずだった。明日も授業は入ってるし、バイトだってある。けど、寝返りを何度打ってみても、目を閉じて無心になってみても、なんとなく寝れなくて。俺を寝かしつけるつもりなんだか知らないが、一つの布団にわざわざ入ってきた小野寺は、あと一押しで眠りに落ちそうだというのに。
「ねえ」
「……んー……」
「ねえってば」
「……きいてるよ、きいてる」
本当かどうか疑わしい。もそもそと体勢を変えて小野寺の方を向けば、目はほぼ閉じていた。俺置いて寝んなよ。
今日は珍しく、小野寺の家じゃなくてうちに二人でいる。といっても、姉ちゃんはこの時間になっても帰ってこないし、父さんと母さんはさっき帰ってきた音がしたものの、明らかに息子のものではない靴が増えていたところで声をかける気もさらさら無いらしい。つーか声掛けられたり部屋に入られたりしたらやばかった。見られちゃやばいようなことをしてた、ので。なんで小野寺んちをやめたかって、雨が急に降ってきたからだ。その時点での現在地が、うちのすぐ近くだったから、しょうがなく。台風が近づいているとニュースでも見たけれど、こんないきなりびゅーびゅーのどしゃどしゃになると思っては見なかった。そんな理由でもなければうちに小野寺を連れてなんて来るもんか。雨が弱まったら傘を持って小野寺の家に向かうつもりだったんだけど、俺んちに俺がいるシチュエーションに毎度何故か異様に興奮する小野寺がエキサイティングしてしまったので、こんな時間になった。お前のせいだ、馬鹿。
「聞いてるの」
「……きいてるよお」
「本当?」
「んー」
「じゃあ聞いててね」
がたがたと風が窓を揺らして、弱まらない雨脚が叩きつける音が響く。こんな天気だと、思い出すのだ。こんな天気の時にあった、かわいそうな出来事を。
先に言っておくと、俺は可哀想がられるのは嫌いだ。何も知らない部外者には、知ったような顔で他人様のことを悲観して欲しくない。お前らに可哀想がられるほど可哀想だったら、俺とっくに全てに愛想尽かしてる。案外なんとかなってるから生きてんの、そんくらい分かれよ。見た目だけでちやほやするやつも、経歴と家庭事情を知って可哀想だと嘯くやつも、俺は大嫌いである。でもまあ、俺って可哀想だな、と思ったことがないわけじゃない。それは悲しい出来事というよりは、事実の再確認でしかなかった。どうやら俺は、自分で思っているよりも、世間的には悲劇のヒロインらしい。そうぼんやり感じたことは、ある。
小学校低学年の時だった。今でも面影を残す、女の子より女の子みたいだった俺は、あんまり明るいタイプじゃなかった。もっと具体的に言えば、一人が好きだったのだ。同年代の同性に混ざってわいわいやるよりも、ぼおっと窓の外を見ていたり、家から持ってきた本を暇潰しに読んだり、そんな時間の方が圧倒的に長いような子どもだった。爪弾きにあったわけではないけれど、自分から参加もしないのであまり遊びにも誘われず、いつも少し遠くから様子を窺われていた。こちらからあっちに参加したいという意思は持ったことがない。あっちから、あいつ誘ってもいいのかな、と遠巻きに興味の目を向けられていた、というのが正しい。けれど生活で不便しない程度には人との関わりは持っていたし、勉強だって躓くことはなかったから、困らなかった。それになにより、子ども同士でも分かるくらい見た目が抜きん出て整っていたもんだから、話しかけてくる奴もいなかった。それだけの話だ。ここまでは何一つ、可哀想でもなんでもない。
見目麗しいかどうかに関わらず、幼い子どもというのはただそれだけで、犯罪の照準になるらしかった。小学校の近くで、不審な人物に声を掛けられただとか、はたまた車に連れ込まれそうになっただとか、通学路を帰る間延々後を尾けられただとか、そんな話がまことしやかに流れ出した頃だった。帰りの会で、充分に注意するように、と厳しい顔の担任からクラス全員が言い含められ、臨時登校班で帰ることを指導されたのだ。けれど俺は登校班で集まった後、体調を崩して保健室に運ばれたために、みんなと帰ることが出来なかった。少し休んだだけで、症状は回復の兆しを見せた。保健室の先生は保護者へ連絡をしたけれど、笑っちゃうくらい忙しいうちの両親が、小学校からの電話になんて出るわけがなかった。登校班はとっくに出発してしまっている。一人で帰ります、と俺がランドセルを背負ったのは、仕方のないことだったと思う。
ざあざあと雨が叩きつける日だった。強く風が吹くたびに足を止めて耐えながら、膝下をびしょびしょにして、俺は帰路を急いだ。それは担任の先生の話を思い出したからとか、みんなに置いていかれてしまったからとか、そういうことじゃなくて、早く帰って着替えて暖かい布団で横になりたいからだった。きっと倒れた原因も、そもそも体調が悪かったからなのだろう。そんなことに俺は気づかない。だって、保健室ではまだ熱は出ていなかった。ぼんやりと霞む頭と視界で、早く帰らなくちゃ、早く帰らなくちゃ、とそれだけを考えて、足を前に進める。あ、と思った時には、傘が手から離れていた。
飛んで行っちゃった。本気でそう思った。手を伸ばしても届かない傘に、すかりと指先が宙を舞う。そこでようやく、自分が誰かに担ぎ上げられていることに気がついた。足が泳いで、俺を担ぎ上げている誰かが舌打ちをした。悲鳴をあげるとか、抵抗するとか、そんなのは思いつかなかった。傘が地面に転がっているのが見えて、ランドセルが後頭部を打った。誰かが歩き出したのだ。そこで俺はようやく、ああ、大変だ、と思った。服はもうびしゃびしゃで、上半身を逆さまにされているせいで頭がくらくらした。大変だ、どうしよう、どうしたらいいんだろう。
幸いにも、通行人が異常に気づき、誰かに声を掛けてくれたおかげで、俺はその場で放り出され擦り傷を負うだけで済んだ。脱力しきって死んだナマコみたいになってる子どもを肩上に担ぎ上げる親なんていない。通行人の誰かがおかしいと思うのも当たり前だろう。それからすぐ警察が来て、小学校の先生が来て、保健室の先生が熱を出した俺の手当てをしてくれて、最後にお母さんが来た。俺はあの人の表情が大きく変化したところを見たことがないので、その時も当たり前のように笑いもせず怒りもせず、ベッドに寝ている俺の手を握って、言ったのだ。『帰りましょう』とだけ。
それから小学校はその話で持ちきりになった。いくら隠そうとしても隠せないものなのだ、そういうのって。俺は、不運が重なって事件に巻き込まれた、悲劇のヒロインになった。もしもあの時体調が悪くなければ。もしもあの時雨が降っていなければ。もしもあの時一人じゃなければ。意味のないもしもを重ねた先には、「かわいそうにね」が待っていた。そうか、俺はあの場では可哀想だったのか。そこでようやく分かった。電話に出てすらくれない両親、心配の言葉もかけずに手を握った母、ざあざあ降りの雨、体躯の小さな子ども。可哀想の火種はたくさん埋まっていた。俺が気がつかなかっただけだ。俺は、いつでもいくらでも、かわいそうになることができたんだ。
「……………」
と、いう話を、しようかと思ったけどやめた。如何せん長い。いくら俺の言葉なら聞き逃さない小野寺でも飽きてしまうだろう。遂にぐうぐう言い出したし。起きろやこの馬鹿、と胸板を叩いて、上下するそこに頰をつける。聞いてるっつったじゃん。嘘つき。
別の話にしよう。小学校高学年の時のことだ。一人でぼんやりしていることの多かった俺も、少しずつ友達との関わりが増えてきた。と言っても、放課後一緒に遊ぶ程の仲ではないのだけれど。関わりが増えるということは、繋がりが強まるということで、それはつまり俺に興味を持つ人間が増えるということだった。そして小学校高学年ともなれば、色恋沙汰がどうこうっていうのが、出てくるわけだ。その方向性が清純なものであるか爛れた醜いものであるかは、個人の範疇による。その時俺には、こんな俺にも、友達がいた。仲良し、の範囲に入るのだと思うけれど今となっては名前も覚えていない、友達がいた。面白かった漫画を教え合ったり、体育で二人組を作る時には一緒に組んだり、その程度。周りから浮かないためにはその存在が必要だったし、あっちも俺のことを特別視せずに受け入れてくれていた。嬉しくなかったといえば嘘になる。
初めて気付いたのは、体育の時間の後だった。体操服を着るためには私服を脱がなければならない。そんなの当たり前で、だから体操服を着ている時には更衣室に私服が残っているはずなのだ。そんなの分かってる、みんな知ってる。だから、俺の私服がなくなったことは、いっぺんにクラス中のみんなに知れ渡った。いくら探してもどこにもなくて、その日はしょうがないから体操服で帰った。姉には変な目で見られたけど、特に気にしないようにした。
それからしばらくしても、あの日の私服は出てこなかった。その代わり、よく物が無くなるようになった。鉛筆とか、消しゴムとか、リコーダーの袋とか、歯ブラシとか、ランドセルについてたキーホルダーとか、色々。遡ること私服も含めて、無くなって本当に困ったものはなかった。何故なら幸いなことに、うちの両親は俺がいくつ物を無くそうが、「じゃあ明日買っておくから。」で済ますわけだから。けれど、どうも気味が悪かった。誰かが持って行ってしまったとしか思えなかった。だって、俺が少しだけ席を外した間に、それらは無くなるのだ。友達も一生懸命探してくれたし、先生にも相談したけれど、全て一つも見つからなかった。まるで神隠しみたいだ、と思った。
『無くし物、見つからないな』
『……うん』
『おかしいよ。俺やっぱり、クラスのみんなに聞いてみる。誰かが持って行ってるんじゃないかって』
『や、やめて、それはいい』
『……なんで』
『……なんでも……』
これ以上かわいそうになるのは嫌だから、とは言えなかった。友達の親切心は嬉しかったけれど、俺の探し方が足りないんだと思うことにした。そっか、と少し眉を下げた友達の顔を見るのが申し訳なくて、ランドセルを背負った。
校門を出て、しばらく行って、忘れ物をしたことに気づいて引き返した。だって、また置いて行って無くなってしまったら困るから。誰もいない廊下を早足で通り抜けて扉を開けば、さっき別れた友達がまだ自分の席に座っていた。見知った相手だったことに安心しながら、忘れ物したの?だめだよ、なんて声に頷いて、机へ向かう。その中には、算数のノートが、どこにも見つからなかった。
『あれ……』
『……もしかして、またなにかなくなった?』
『うん、ノート、算数の』
『俺がここに来るより前かな。誰にも会わなかったから』
『そっか……探し物、増えちゃった』
『また一緒に探すよ。大丈夫、今度こそ見つけよう』
『ありがとう』
ノートのことは一旦忘れようと思い、なにしてるの、と机の方へ寄れば、難しそうなプリントが開かれていた。友達は塾へ行ってるんだって聞いたことがある。途中まで解かれたそれと、転がっている黄色い鉛筆。俺の使っている鉛筆は青っぽいやつだったから、黄色はどこで売ってるの、と聞けば、黄色がどうしても欲しかったから絵の具で塗り直したんだって教えてもらったっけ。友達が恥ずかしそうに机と俺の間に入ってきて、あんまり見られたくない、ともそもそ言うもんだから、少し可笑しかった。
どうせなら一緒に帰ろうかと友達がランドセルを背負って、手持ちの鞄を肩にかける。少し口の開いていたそれからノートが覗いていて、すとんと中に落ちた。一瞬、そのノートに見覚えがあって、動きを止めた。どうしたの?と聞かれて、一呼吸。なんでもない、と答えた自分の声が震えていなかったか、不安だけれど。
それからしばらくして、また幾つかの物が無くなった。友達も変わらず手伝ってくれたけど、見つからないまま。忘れ物はしないようにあれから殊更気をつけたけれど、移動教室の間とかに狙われているみたいだった。それはもうしょうがない、学校休むわけにはいかないんだし。今日は帰りの会の後、先生に呼ばれた。俺が職員室に少し行ってる間にみんな帰ってしまったみたいで、教室には誰もいなくなっていた。ランドセルの中身を一応確認したら、今日は自由帳がなくなっていた。いいや、特に使ってなかったし。友達ももう帰ってしまったのか、と机の方を見れば、まだいつも持ってる鞄が引っかかっていた。しばらく前、その鞄の口から覗いていたノートがフラッシュバックして、悪いことだと思いながら、そっと鞄をフックから外した。何も入っていないみたいに軽いそれを、ゆっくり開く。中に入っていたのは、ファイル、プリント、ノート。学校では見たことないやつばかりだから、恐らく塾で使っているものなんだろう。一通り中身を見て、そっと鞄をフックに戻した。見なかったことにしよう。その方がいい。わざわざ平穏を壊すことはない。踵を返して教室を出た先には、友達がいた。
『帰るところ?』
『ぁ、う、うん』
『一緒に帰ろうよ』
『いい、今日一人で帰る』
『ふうん?』
『じゃあ、』
『ねえ、鞄見た?』
『……ぇ』
『鞄。見たでしょ?』
振り向けば、普段通りの友達がいた。まずはこれを返すよ、とさっき俺がフックに戻した鞄から出てきたのは、俺の自由帳だった。拾ってくれたの?とか、見つけてくれたの?とか、いろいろ取り繕える言葉はあったはずなのに、無言で受け取ることしか出来なかった。ついてきてよ、と前を歩かれて、足を進める。下駄箱で靴を履き替えて、いつもばいばいする交差点で友達について行って、地元なようで知らない道を歩く。背の高いマンションで、ランドセルから引っ張り出した鍵を開けて中に入った友達に、置いて行かれないように早足になった。オートロックで締め出されたら大変だ。エレベーターに乗って、6階で降りた。勝手知ったるという様子で歩いていった友達は、一番奥の部屋まで行って扉を開けた。上がっていいのか分からずに玄関先で待っていると、大きな紙袋を持って友達が戻ってきた。
『はい。見つかってよかったね』
『……あ』
『一人で持って帰れる?俺、手伝おうか』
『だ、大丈夫、ありがと、平気だから』
『ほんと?』
足が震えていた。紙袋の中はいっぱいで、算数のノート、キーホルダー、リコーダーの袋、消しゴム、服。全部俺のものだった。見覚えのある黄色い鉛筆を取り出せば、ああ、これはどうしても使いたかったから、色を塗っちゃったんだ、ごめんね、と苦笑いされた。先の方の絵の具が剥げていて、青色が見えている。吐き気が込み上げてきて、紙袋を抱えて、挨拶もせずに家を飛び出した。なんでそんなことしたのかは分からない。好意からか嫌悪からか、どちらでもないのか、俺には分からないままだ。その友達とはそれから自然と疎遠になって、今となってはどこで何をしているのかなんて、知る余地もない。
なーんて話も、長すぎる。やめよう。思い出して感じるのは、俺って罪な男だな、可愛すぎるからかな、なんてちゃらけた感想だ。だって別に心の傷とかじゃないし。小野寺はまだぷーすかしているので、むかついてきて、頬をぎゅうっと潰した。むがむが苦しそうにするのが面白くてしばらくそうしてたら、払い除けられてしまった。つまんねえの。
あとは、なんだろう。中学の時の先輩の話をすると、小野寺は嫌そうな顔をする。あの人のせいで、俺は他人は使うものだと知ってしまったから。女の子と遊んだ話をした時と同じくらい嫌そうになる。その話はやめておこう。わざわざするもんじゃない。
「ねえ」
「……んん……」
「ねえってば」
「……うん……」
「俺って、誰のせいでこんなんなっちゃったんだろ」
「……………」
「俺のせいかもしれないよ。他人事にはしたくないし。でも、誰かのせいにしてもいいところはきっとあるじゃん」
「……………」
「あの誘拐未遂のせい?友達のせい?先輩のせい?それとも、」
それとも、お前のせい?そう、最後の言葉は呟くように薄まって、消えた。呻り声すら上げなくなった小野寺の顔をしばらく見上げて、身動きしない体に手のひらをぶつけた。ぱしぱしと音がして、それでも小野寺は起きなかった。てめえ、聞けよ、馬鹿。こういう時に自然と言葉をかけろよ、俺今すっげえ荒んでるぞ。
「ねえ」
「……んへへ」
「なに笑ってんだよ。起きろよ」
「……ふしみは、おれのことがすき……すきらってえ……」
「……そんなこと言ってない」
「……うれひい……」
「ねえ、言ってないよ……」
「んん?」
ぎゅうっと抱きしめられて、何も言えなくなった。寝ぼけてるくせに、寝ぼけてるくせに!もういっそ、全部お前のせいにしてやる!自棄っぱちでそう思って、しばらく耐えて、耐えきれずに小野寺はベッドから蹴り落とした。
「ぎゃんっ」
「起きろよ!」
「ぃ、いだぁ……」
「ハーゲンダッツ買いに行ってこい!抹茶!」
「なんで急に落とすの……」
「うるっさい!」


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