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血統書



それはやっちゃんから結婚報告を受けるよりちょっとだけ前の話。
やっちゃんとあのヘタレ鈍介の二人旅行を計画立てたあたしたちは、完全に一仕事終えたつもりでいた。今日が出発の日だ。昼過ぎの新幹線を取ったらしいから、今頃はもう駅にいるだろう。
「おつかれ、美和子ちゃん」
「そう思うなら自分の家の掃除くらい自分でして」
「ははは」
なんだってあたしが和成の家で掃除機かけてるんだ。理由は単純、江野浦和成という男はなんにもできないからである。
時間を遡り、高校卒業後。高校を出てからすぐ親に家を追い出され、否応無しに一人暮らしを始めたこいつは、生活能力が皆無だった。レンジでチンすら出来ない始末で、やっちゃんより駄目な奴がいるなんて思わなかった、と心底頭が痛くなった。そしてあたしは、仲良くなったよしみだし、生存確認とばかりに連絡を定期的に取っていたのだ。それは本当になんとなくなんだけど、一応理由はあって。何故かって、親からも連絡を断たれ、引っ込み思案で人見知りなこいつのことだから近所の人との関わり合いも恐らく皆無で、あたしがいなかったらこいつ助けを求める相手がいないのでは?と思ったのだ。その予測は大正解で、一人暮らしを始めて1年くらい経った時、和成は高熱を出して倒れた。最後の力を振り絞ったような嗄れた声で、留守録に入っていた言葉をあたしは忘れない。『みわこちゃん、助けて。』それだけ吹き込まれていたメッセージに、あたしはありったけの看病道具を持って家に駆け込んだのだ。綺麗とは言い難い自宅には鍵もかかっていなかった上に、布団を掛けることすらせず、和成は部屋の隅っこに転がっていた。荒い息と異様な熱を持つ体に、必死で重いそれを抱え上げて、救急車を呼んだ。和成の意識は朦朧としていて、名前を呼んでも氷枕を当てても汗を拭いても水を飲ませても反応は無くて、どうしてもっと早く気がつかなかったんだろう、あたし以外にこいつの面倒見てる奴なんかいないのに、と自分を責めた。恐らくは家を飛び出した形相が凄まじかったのだろう、追いかけてきた母親がてきぱきと救急車が来るまでの処置をしてくれて、あたしはただ泣いてた。だって、こんなことになるなんて思わなくって。
幸いなことに、救急車で病院に運び込まれた和成は、すぐに落ち着き、平熱を取り戻した。体に異常も残らず、目を覚ました和成があまりに間抜けな顔で『なんでいるの?』なんて言うもんだから、あたしは奴をぶん殴った。それからあたしは、電話だけじゃなくて、和成の家に通うようになって、家事の世話をするようになって、しばらくの時間が経つ。粗末な物しか食ってなかった和成に栄養のあるものを食べさせ、布団を干し、掃除洗濯をしてやるのだ。あたしは母親か。
掃除機をかけ終わって、ぷちぷちとさやえんどうの筋取りをしている和成の隣に座る。ああもう、疲れた。さやえんどうは、今晩の夕食に使う。お前が食うんだからこのくらいやれ、と買い物から帰ってきて押し付けたのだ。ぴっぴっと筋を指から払っている和成をぼけっと見ていると、ちらちらとこっちを伺った彼が、話し出した。
「ねえ、美和子ちゃん」
「なによ」
「俺さあ、俺たちも、そろそろさあ」
「ん?」
「おれ、美和子ちゃんと、結婚したい、なあ」
「……は?」
「えっ、ごめん」
「あたし、あんたと付き合ってたの?」
「……えっ」
お互い目を丸くする。だって、別にそんなつもりなかったし。他に当てがあるのかと言われりゃ、ないけど。ちゅんちゅん、と長閑に外で鳥が鳴いて、和成がじわじわ赤くなった。うん、なんかごめんね、恥ずかしい思いさせて。
「……和成、整理しようか?」
「う、うん」
「あたし、あんたと付き合ってた?」
「付き合ってるつもりで、俺はいた、ずっと」
「いつから?」
「……高三の終わり……」
「ええ……そんな前から……」
なんでや、と問えば、だって卒業式の日に美和子ちゃんに俺、これからも一緒にいて欲しいって言った、そしたら美和子ちゃんもうんって言った、だから俺、その時から付き合ってると思って、とぼそぼそ言い訳し始めた。しかも言い訳の途中で、自分がこちらに好意を伝えてないことに気づいたらしく、唸りながら頭まで抱え始めた。不器用で口下手で優しくて、ほんとほっとけない。こっちが笑いを堪えていることに気づいていない和成は、めそめそと謝りはじめた。
「ご、ごめんね、迷惑だったよね、俺なんかにこんな、そんな目で見られて、ごめんね」
「そうじゃない。ていうかそんなこと言ってないでしょ、早とちりしない」
「は、はい」
「自分を卑下しない」
「はいっ」
「悪いけど、あたしはそんな風には思ってなかった。あたしが無理やりあんたのところに押しかけてるつもりでいた」
「うう……」
「あたしは、嫌いな男に、気もない男に何年もそこまでするほど、お人好しじゃない」
「……えっ」
「だから!何度も言わすな!」
むしろ、逆。あたしは、あたしが無理やり押しかけて、こちらに気もない和成の世話をして、それによって何かしら恩を感じるとか情を沸かせるとか、取り敢えずプラスな感情を向けてもらえやしないかと思っていたのだ。我ながら姑息な魂胆である。だからせこせこ家事したし、和成が倒れた時には年甲斐もなくあたしらしくもなく、わんわん泣いた。みんなみんな、良く思われたかったからだ。あたしは、面倒見が良いわけでも優しいわけでもない。ただただ、気を引こうと必死だっただけ。それが伝わらないくらい和成が鈍くて本当に良かった、と毎回思っている。その分、いつまで経ってもあたしにアプローチの一つもかけてこないところには、ああ本当にあたしのことなんて何とも思ってないんだな、と落ち込んだけれど。
そう途切れ途切れに告げれば、真面目な顔をしてこくこくと頷きながら聞いていた和成は、次第に真っ赤になって、あんたまた倒れるんじゃないの?ってくらいまで逆上せていた。とんだ行き違いもあったもんだ。あっちはとっくにお付き合いしてるつもりでいるんだから、こっちからいくらアプローチを待とうがそんなもん返ってくるわけがない。何事にも受け身の和成から何か恋人らしいことをしようとなんてするはずもなく、そりゃ誤解も解けないわけだ。しかも、五年近くも。
「だから、あんたがそう思ってくれてたのは、あたしは知らなかったけど、願ったり叶ったりってわけ」
「……美和子ちゃん」
「なに」
「待ってて。ここで、待ってて」
「は?」
「待ってて!」
急に立ち上がった和成が、ばたばたと家を飛び出して行ってしまった。おいお前、さやえんどうはどうするんだ。追いかける気力もないし、待っててと言われた以上出て行くこともできない。奴の家なんだから戻ってくるだろ、と楽観的に捉えて、テレビをつけた。付き合ってると思ってた云々については、取り敢えず置いておくことにして。そういえば、あの鈍介野郎はあたし達を必ず二人セットで呼び出していたけれど、それもあたし達が既に付き合っていると思っていたからだったんだろうか。十分に有り得る。というか、和成がそう言ったのかもしれない。
時間にしたらそんなに長いこと経ってない。どたどたと戻ってきた和成が、靴を跳ね散らかして入ってきたので、ちゃんと揃えろ、と唸る。何やら忙しなくばたついている和成に、うるさいぞ、とテレビを消して振り向けば、目の前に広がったのは、大輪の向日葵だった。
「好きですっ、けっ、結婚を前提にっ、お付き合いしてください!」
「……………」
「……み、美和子ちゃん……」
「……あんたこれ買いに行ってたの」
「は、はい」
「わざわざ?」
「仲良しのお花屋さんが、近所にいて、この前から相談してて、どんな花束渡したら、美和子ちゃんが喜んでくれるかなって……」
「仲良しのお花屋さん」
「お、男だよ」
「そんなこたどうだっていいんだよ」
「はいっ」
なあんだ、ご近所付き合いできてんじゃん。あたし以外にも繋がりあるじゃん。あたしが必死にあんたの気を引いて繋ぎとめようとしてたのも、そりゃあんたからしたら、彼女が通い妻してるように見えるわけだわ。なんだか笑えてきて、相当走ったらしい和成がぜえぜえしながら汗だくになってるのもおかしくて、向日葵が美しく咲き乱れてるのが酷く目に痛かった。なんて綺麗な黄色。しかも妙に多い、一体何本あるんだろう。これをこのくたくたのジャージで抱えて走って帰ってきたかと思うと、ついに笑い袋が決壊して、吹き出してしまった。
「わ、笑わないでよ!」
「ふっふ、だって、あんた、あんたさあ……」
「これでも俺、頑張って考えたんだから、美和子ちゃんのこと、幸せにしたくって」
「んー……」
「ねえ!」
「そうだねえ……」
取り敢えず、これを受け取ったら、一緒にお役所にでも行こうかな。そう漏らせば、和成がぼろぼろと泣き出したので、ついまた笑ってしまった。

これは息子が産まれてしばらくした頃の話だ。
「あー!だめだめ!とーちゃん!それは大事だから!」
「わあああん」
「……やっちゃんがうるっさいから航介起きたろうが……」
びええと泣くわが子を抱き直しながらやっちゃんを睨めば、やっちゃんは当也から写真立てを取り上げているところだった。涎でぺたぺたの手で触られちゃ、確かにたまんないだろう。さっきまで寝てた航介は、数秒ぐすぐすしたら満足したのか、またすよすよ寝息を立て始めた。よく寝る奴め、和成に似たのか。
ベビーベッドの中で掴まり立ちして、そこから届く場所に大切な写真を置いておく奴も悪い。リビングを出て行ったやっちゃんを見送って、訳も分からずんまんましている当也の頭を撫でる。さっき取り上げた写真立てには何が入っているのかと伏せられたそれを取り上げると、数年前の思い出が入っていた。ふむ、今見ても笑える。
やっちゃんが着ているのは、薄ピンク色でふわふわのドレス。頭には花の冠を乗せて、真っ白のタキシードを着た響也と二人で写っているそれは、結婚式の時に撮った写真だった。これ実際に見た時も、噴き出すのを我慢するので必至だった。どうしても興味があるらしい当也が手を伸ばすのを避けながら写真立てごと持ち上げれば、中の写真が少しずれていて、その下に何枚か重なっているのが分かった。なんだこれ、あのズボラ女、重なってるのに気づいてないのか。写真立ての額を外して、裏の写真を取り出す。
「……あー……」
重なっていたのは、さっきの写真より余程身に覚えのある写真だった。恥ずかしいとは言えなくて、お金が勿体無いと先送りにしてきた、あたしと和成の結婚式。やっちゃん達のに比べたら、簡素で素っ気ない式だったっけ。真っさらな白無垢を着て仏頂面をしているあたしと、緊張して目を泳がせている和成が、そこには写っていた。なんだってこの写真をやっちゃんが持ってるんだ、うちの母にでも貰ったのか。そこは問いただす必要がある、けどこの写真立てに一緒に重ねてあった理由についてはあんまり聞ける気がしない、とぼんやり思いながら、もう一枚重なった写真を捲った。
そこには、懐かしい制服を着たあたしとやっちゃんが、二人並んでピースをしていた。一つずつ持っているのは、お揃いだった小鳥のキーホルダー。二人とも笑顔で、天真爛漫に楽しそうで、仲が良さそうな写真だ。急に感慨が込み上げてきて、写真立てを急いで戻した。ばたついたあたしが揺らしたからか、むにむにと少しだけぐずった航介がきゅっと服を握ったのが分かった。また写真立てに手を伸ばした当也がバランスを崩して、ぺたりと尻餅をつく。ふにゃりと顔を歪めた当也が、口をぱかりと開いた。
「うええ」
「……はいはい」
「やだー、みーちゃんゴリラ」
「うるせえな、お前がいないから抱いてやってんだろ」
「双子みたいね」
「顔似てないじゃん」
片手に航介、片手に当也を出して揺らしていると、やっちゃんが帰ってきた。咄嗟に直した写真立てはさっきの場所よりずれてしまったけれど、見ていたことには気づかれていないようだった。
「写真撮っていい?」
「子どもだけにしてよ」
「まあまあ、みーちゃんも入って入って」
「みーちゃんって呼ぶなって何万回言ったら分かんの?」

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