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君はパナシーア



出て行った弁当のことを追いかける気にもなれずに、ぼんやり二匹並んだうさぎりんごを見ていた。変色し始めたそれは、食べてあげなきゃ可哀想だ。食べる意欲は湧かないけれど。
分かってるよ。弁当は今までずっと、有馬に好かれなくたっていいから自分が好きでいることを許して欲しい、と思ってた。好きでいさせてくれるだけでいいのだと、半年くらい前に口を滑らせた弁当がぽろりと零したのを俺は忘れない。どういうことだと聞き返せば、黙ってしまったけれど。要するにあいつの中では、俺への恋愛感情は献身に振り切れていて、一方通行なのだ。俺にそのお返しを要求するつもりはさらさらない。そもそもにして、弁当は俺の好きを信用に足るものと判断していないわけで、気を遣わなくても大丈夫だよ、とむしろ遠ざけられている。俺だって好きなのに。信じてもらえないのが自業自得だったとしても、聞くくらいはしてくれたっていいじゃないか。弁当の馬鹿。気遣いで人のこと好きになるわけねえだろ、そんなお人好しいるか。もしもこの関係が始まるきっかけが同情で、俺がお前のことを可哀想なやつだと思っていたとして、可哀想な奴相手だったら恋人ごっこが一年間も続けられるのかよって話だ。弁当だったらできるのかよ。少なくとも俺はできない。好きでもない相手と手繋いで恥ずかしがったりキスしたりそれ以外のことしたり、できるわけねえだろ。女ならまだしも男同士だぞ、よく考えろよ。俺にはお前の気持ちが全く全然理解できないよ。
家主のいなくなった部屋の中は寒々しくて、林檎と共に置き去られた事実にむしゃくしゃしてきた。だって俺は自分の気持ちを伝えただけじゃないか、と腹が立ってきて、終いには、あんな奴もう知るか、嫌いになってやる、と苛立ちのままに思うほどだった。もういい、知ったこっちゃない。嫌いになるから、あいつとはもうこれでおしまいだ。ポケットに携帯と財布を突っ込んで、靴を乱暴に履く。綺麗に整頓された室内を最後に振り返ると、じわり、何かが込み上げてきた。知らない、もう知らないから。
がちゃりと音を立ててドアノブを捻って、押し開けようとして、押せなくて、ぎりぎりと音がするほど歯をくいしばる。どうした、このまま出て行け、それで終わりだ。どうせ大学の友達なんて働き出したら会わなくなるかもしれないし、弁当がこの先どうするかなんて俺には関係ない。しかも鍵だって掛かっちゃいないじゃないか。弁当は正直で真面目だから、鍵を掛けて彼が出て行けば、俺が自分で鍵を開け放したままここを去らなきゃいけなくなると分かっていて、それが重荷にならないようにわざと自分が閉め忘れた風を取り繕って行ったんだろう。ばっかじゃねえの。そんなことこっちは気にしねえっつの。ほら、出て行けよ。もうこんなところに来ることもない。ドアノブはもう回っているんだから、あとは押すだけだ。押して、足を踏み出せばいい。忘れてしまえ、都合の悪いことからは逃げようじゃないか。あんな、俺のこと好きとか言っといて俺の好きは認めようとしないような薄情者、捨てていこう。扉を開けたら、あいつとはさよならだ。
「ゔ、ぅう、ぐ」
扉は開けられなかった。ぱたぱたと床に雫が落ちて、染みを作る。手が真っ白くなるまで握り締めたドアノブは、体温が移って生温かくなっていた。出て行こうとした一世一代の決意が、ぼろぼろ涙になって溢れ落ちていく。こびりついて残ったのは、未練たらたらの思い出ばかりだった。
この扉を何度潜っただろう。我が物顔で靴を脱ぎ散らかしたら、嬉しそうなのを隠しきれない弁当が向こうから顔を出して、それでも一生懸命ぶっきらぼうに、また来たの、なんて言う。俺のこと待ってたくせに、なんて揶揄い文句に彼は何も言い返せないのだ。だって、本当のことだから。それを知っていて揶揄うのが楽しかった。時々、頬を赤くした弁当がもう恥ずかしくて辛抱堪らんといった様子で照れ隠しに殴りかかってくるのが、面白かった。あいつが風邪を引いた時、俺はこの扉をぶっ壊す勢いで部屋に飛び込んだ。案外平然としながら冷えピタ貼ってアイス食ってた弁当に、力が抜けて玄関口にへたり込んだ。二人でたくさん買い込んで、鍋をしたこともある。あとちょっとで家だというところでビニール袋がはち切れて、野菜がごろごろ転がり出て、二人して大慌てになった。暑い日に買い物に行こうと玄関から一歩出た弁当が、二秒で引き返してきて太陽に心を折られたと諦めたのを大笑いしたこともある。覚えている。忘れられない。忘れるもんか。俺はあいつが好きなんだから。
今すぐに、帰ってきて欲しかった。この扉を開けて、泣いてる俺を見たら、きっと弁当はびっくりする。それから、俺のことを落ち着かせようとして、温かいお茶とかを出してくれる。涙が止まって会話が出来るくらい冷静になった俺を見て、ゆっくり話を聞いてくれるはずだ。溢れ出した想いは止まらなくて、涙と一緒に言葉が零れる。早く帰って来て欲しい。会いたい。苦しい。助けて。早く、会いたい。
扉は、まだ開かない。

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