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おはなし



高校二年生、春。好きな人が、できました。
それは、なんていうか、甘い砂糖菓子みたいな思い。そっと見つめているのが嬉しかった。名前を呼んでもらえただけで、眠れないほど幸せだった。欲の無い、静かで清らかで、今まで感じた気持ちの中で一等綺麗なもののように、あたしには思えた。
けれど、悲しいかな。好きになった人は、一つ上の先輩。あたしが二年生なら、彼は三年生なのです。高校三年生っていったら、卒業を控えているわけで、卒業してしまったらもう会えなくなるわけで。先輩を目で追うことすら許されなくなるリミットが近づき日に日に追い詰められていくあたしが、告白の決断をしたことは、罪ではないでしょう?だって、好きだと言うだけならば、きっと大丈夫。それすら言えずに終わるより、ずっといい。本気でそう決めて、そのための準備を、今から。
先輩がこの学校からいなくなるのは、三月。その前に、想いだけでも告げよう。

出会いは四月。発端は押し付けられた美化委員で、全くもってやる気もせず、でもあたしにはサボる程の度胸があるわけでもなく、滲み出る渋々を隠しもせず訪れた教室。もう既に何人かが集まって、思い思いの机を陣取っていた。あたしも、後ろの方の机に鞄をかけて、携帯を取り出した。一人の世界って感じの人が多くて、別に委員会での友だちとかいいやって思ったから。
「ねえ、君、ごめんね」
手伝って欲しいんだ、と頭の上から声が降ってきて、見上げる。そこには、大きなプランターとプリントを抱えて、すっからかんの鞄を背負った、先輩がいた。先輩だと分かったのは、校章の色が違ったから。見上げるあたしが無言だったのに、勝手にそれを了承と受け取ったらしい先輩は、これ机に一枚ずつ置いてくれる、とプリントの束を渡してきた。断ることもできず受け取ったそれから先輩の手が離れて、大きなプランターを抱えたまま黒板の前にある机へと歩いていく。
「辻。今年の校門前のプランター、そんなにでかいの?」
「うん。予算たくさんもらえたんだって。先生が奮発してくれた」
「お前のおかげじゃん」
「えへへえ」
「委員長やんの?」
「やらないよ」
「じゃあ俺やろっと、委員長やれば羽柴さんと話せるし」
「不純だ」
「うるっせ」
同い年の先輩同士話して、からからと笑う。茶色い髪が、開いた窓から滑り込んだ風にふわふわと揺れた。感情をはっきりと映し出す丸い目を、丸い眼鏡が隠す。レンズ越しでないと、あの瞳は眩しくて、きっと目を合わせられない。きちんと着込まれた制服は、袖口のボタンが緩んでほつれているのが目を引いて、可愛らしく思えた。プランターを撫でた綺麗な指先が、友達を指差して、おかしそうに笑う先輩の口元に当てられる。一つ一つが嫌に頭にこびりつく。記憶に焼き付けろと、頭じゃないどこかに、命令されているみたいに。
さっき辿ったのと同じ道で、あたしの横をすり抜けて教室を出ようとした先輩は、上履きを止めて振り向いた。プリントを受け取ったまま席から動かないあたしに向かって、笑いかける。それはまるで、花のように。
「よろしくね」

先輩、辻朔太郎先輩。美化委員で全員順繰りに自己紹介をした時に知った名前だ。美化委員は三年目です、とはにかんだ笑顔がまた頭にこびりついて、離れなくなった。委員長は、さっき先輩と話していた人がやることになって、副委員長は二年生が立候補した。我関せずといった様子でぽやんと窓の外を見ている先輩しか、あたしの目に入らなくて、委員会担当の先生が誰なのかすら、壇上に立たれて初めて気がつく始末だった。一番前の一番端に座った先輩の背中を見つめているうちに、曜日毎の当番決めになった。なんでも美化委員の仕事は、一週間に一度回ってくる花壇整備、一ヶ月に一度の割合で開かれる近隣のゴミ拾い、その他行事毎にお手伝いがいろいろ、ということだった。月一で定例会はあるけどそんなに忙しくないし、なんなら部活との両立も出来るから安心して欲しい、と委員長担当の先生が言う。あたしも部活やってるし、あんまり忙しくなくて良かったな、と内心思う。先輩は部活とかやってるのかな。得意教科は、好きな食べ物は、好きな女の子のタイプは、なんなのかな。撃ち抜かれた心臓と茹り上がった脳味噌はそんなことしか考えられなくて、ぼんやりと机に頬杖をつく。
「じゃあ、花壇整備は、辻。お前のが俺より詳しいから、よろしく」
「ええっ」
「いつもお前がしてることを話してくれればいいから」
「えー、えっと……昼休みに、大体やってるんですけど」
突然先生から振られて、先輩が上擦った声を上げた。後ろに顔が見えるように、体ごと振り向く。耳が赤くなってるのが見えて、見ちゃいけないものを見たみたいに思った。
お昼休みに花壇に水をやるのが、まず毎日やらなきゃいけない仕事かな。花は時間が経ったら枯れてしまうから、シーズン毎に植え替えもしてる。それは放課後やる事が多いよ。どの花を植えたいかも美化委員が選んでいいけれど、去年一昨年は定例会で俺が提案したらそのままそれが通っちゃってたから、今年はみんなからも意見を出してもらえたら嬉しいな。校内に花壇が幾つかあるのは、みんな分かるよね?それと今年はプランターを買ってもらえたから、校門の前にも並べようと思うよ。みんな一週間に一回の当番は忘れないでね、それさえしてくれたら美化委員のお仕事八割終わりだから。よろしくお願いします。
先輩が頭を下げて、すぐに座った。顔はそうでもなかったけれど、耳が真っ赤なまま。お礼を言った先生が、分からないことがあったら今のうちに聞くこと、と声を上げたものの誰も手を挙げなかった。きっと先輩の説明が分かりやすかったからだ。
「あー、それじゃあ週当番の割り振りを決めるぞ」
先生が黒板に、月火水木金と曜日を書いた。前から順番に書きに来い、と言われて席を立つ。先輩が前にいることに気づいて、わざと歩みを緩めた。後ろに座って良かった、ほんとによかった、これなら先輩が書いたところに一緒に書ける。どこでもいいんだけどなあ、と先輩がうろうろして、火曜日のところに名前を書いた。案外人がばらけていて、あたしが火曜日に書いたところで片寄ることはなさそうだった。遠慮なく火曜日担当にさせてもらおう。
最後に曜日ごとに集まって、挨拶だけしておしまいにしようということになった。火曜日チームで集まった時、先輩があたしの顔を見て、頰を緩めた。
「さっきはプリントありがとう。助かったよ」
「え、あ、はい」
「火曜日一緒なんだね。よろしくね、目高ちゃん」
「はっ、はい」
声、裏返った。

火曜日の昼休みのために学校に行っていると言っても過言じゃない。だって昼休みに花壇まで走っていけば、先輩があたしの顔を見て、「めだかちゃん」と笑ってくれるのだ。今一番大きな花壇で咲いているのは紫陽花。小さなプランターには、アイビーゼラニウムと紫君子蘭。紫陽花は知っていたけれど、小さなプランターは両方とも先輩に花の名前を教えてもらった。あたしにはまだ、花の見分けがつかない。でも一年生の時から花壇を守ってきた先輩にとっては掛け替えのないもののようで、それならあたしも大切にしたいと思えた。
「夏休みにはみんな来ないから、一旦この子たちで植えるのはおしまいにしなくちゃね」
「そうなんですか」
「枯れちゃうと、かわいそうだから」
先輩が「一週間に一回の当番は忘れないで」といった理由は、五月頃にはよく分かった。みんな面倒になって、来なくなってしまうのだ。必然的に人数は減って、火曜日担当は五人くらいいたはずなのに、月に一度くらいあたしと先輩しかいない日が来るようになった。それは嬉しくてラッキーなことなんだけど、みんなが来ないと先輩が少し眉を下げるから、それはまったく喜ばしくなかった。
秋には金木犀が咲くらしい。金木犀がいい匂いだってことは、私も知ってる。先輩が楽しみにしているから、楽しみだと思った。

「辻くん?」
「はい」
「どんな人って……」
夏休みが近づくにつれて、先輩のことをもっと知りたくなった。だから、部活の先輩に聞いてみた。本人にいろいろ聞けるような勇気は、あたしにはなかったので。
「なあに、好きなの?」
「そういうんじゃなくて、委員会が一緒なんですけど、美化委員で、水やり当番の曜日も一緒で」
「かわいい顔してるもんね」
「違います!」
「隠さなくてもいいのに」
なんていうか、変わってるよね。辻くんって。不思議なくらい誰とでも仲良くなれるし、誰でも輪の中に入れちゃうし。だから一緒にいると仲間に入れた気にさせてくれるのよね。めだかもそうだったんでしょ?
そう、先輩が囁いて、こっちを見た。あたしはそれに頷くしかなくて、あの二人きりの時間も先輩のパーソナルスペースが狭いから生まれただけの偶然と思うと、なんだか悔しくなった。手持ち無沙汰にラケットを振った先輩が、頭もいいし、勉強もできるし、優しいし、あの見た目だし、彼女がいるって話もよく聞くし、と指折り数える。ただ、長続きしたためしはないみたいだけど、とも付け加えられて不思議に思った。先輩なら、きっと相手を大切にしそうなのに。
「別に蔑ろにしてるわけじゃないでしょ。ていうか、女の子側が耐えきれないんじゃない」
「たえきれない……」
「誰にでも優しいって、罪だよねえ」
「……………」
「ていうか、あんた同い年に辻くんと仲良しの子いるじゃない。あの、なんだっけ?き、きぬたくん?」
「……ああ……」
あたし、あいつ苦手だ。可愛がられてちやほやされて、許されて育ってきたのが透けて見えるところが、苦手。それは愛されているのが妬ましいとか羨ましいとか、そういう理由じゃないけど、あたしだって家族からは許されて育ってきたけれど、あいつのそれは違う。何が嫌とか言えないけど、苦手なくらいなら我慢できるけれど、なんとなく同学年の中でも近づかないように過ごしてきた。先輩と仲良しだってことは知ってたけど、あんまり近寄りたくなかったのが本音だ。だって、目の前にしたらきっと、それこそ耐えられなくなる。普通通りではいられないし、ぎこちなくなる。
でも部活の先輩にそう言われると、砧くんなら何か知ってるんじゃないかとも思えてきて、次の日あたしは彼のクラスの前に立っていた。友達を呼んで、砧くんに話があると言えば、きっと取り繋いでくれるだろう。理由はどうとでもなる。早く終わらせてしまおう、先輩のことだけ聞いて。友達にお願いして呼び出してもらった砧くんは、あいも変わらずふにゃふにゃしていて、それでもなんとか笑顔を取り繕いながらさも世間話のように話し出したあたしを褒めて欲しい。呼び出してごめんね、実は辻先輩のことなんだけど、あたし今委員会が一緒で話す機会があるんだけど、盛り上がる内容がわからないから、好きなものとか教えてもらえるかな?とつらつら用意した台詞を吐けば、砧くんはぽかんとしていた。聞こえなかったならもう一回言おうか。聞いてなかったならこの場で横っ面叩いて帰る。
「つじせんぱい」
「……知らないみたいな顔しないで」
「……つじせんぱい……つじせんぱい……?」
「砧くん、あのね」
「あっ、あー、ごめん、ごめんね、ふざけてるわけじゃなくって、俺ちょっとだけ物覚えが悪いんだ!人の名前がほんと出てこなくて、ごめんね、ええと、もずくさん」
「目高です」
「つじせんぱい、待ってね、絶対どっかで聞いたんだ!五秒ちょうだい!」
頭が痛くなる。だからこいつ嫌なんだ、ぶっちゃけ去年同じクラスだったし。あたしちゃんと名前呼ばれたことないし。頭を抱えてうんうん唸る彼に見えないように溜息をついて、やっぱりこいつに頼るのは間違いだったと思う。なんで先輩こんな人と仲良いの?誰にでも優しいの度が過ぎる。
「あっ!つじせんぱい!分かった!つじさくちゃん先輩!」
「……そうだね」
「やー、よかったよかった、沢野森先輩の顔しか浮かんでこなくて、あれ?沢野森先輩?合ってるかな?」
「知らないけど」
「なんだっけ、つじせんぱい、のことだっけ」
「そう」
「んー、お花が好き」
「知ってる」
「お母さんと妹が好き、あとお友達」
「……そうなんだ」
「アイスクリームも好き!あとハンバーグも前食べてた、おいしいって」
「そうなんだ」
「あと、そうだなー、胸は大きい方がいいって前に言ってた」
「そうなんだ!?」
「わあ」
「ご、ごめん」
「もずくちゃんは……そうだね……」
「見ないでよ!」
「あだっ、ごめっ、ごめんね!」
やっぱり最低、嫌いだ。

夏休みいっぱい、考えた。先輩と会えないのは辛いし、すっかり愛着が湧いてしまった花壇に色とりどりの彩りが無いことも寂しかったけれど、それを振り払うように考え続けた。三月まであと半年。あたしは結局、先輩に何を伝えたいんだろう。どこが好きかを伝えることは、口下手なあたしには無理難題なように思えた。一緒にいてほしい、付き合ってほしい、と告げることも、違う気がする。そりゃあ先輩と一緒にいられたら幸せだろう、毎日が光り輝いて思えるだろう。けれど、その風景にあたしは溶け込めない。浮いてしまう。釣り合わない。足りない。勿体無い。手に余る。どんな表現を使っても上手く言えないけどなんとなく、疎外感が残るのだ。先輩の居場所はあたしの隣ではない、ということだけは、悲しいことに、確かな事実だと思える。
想いを伝えるだけで、十全。貴方の事が好きだという気持ちを受け取ってもらうために、そのためだけに、酷く独り善がりで身勝手な、告白をしよう。それは早ければ早いほど良いように思った。思い出が増えてしまったら、未練も一緒に増えてしまうから。例えば、そうだな、夏休みが終わって、二学期初めて、先輩と二人で花壇の前に立った日にしよう。いつと決めたら頭が沸騰して死んでしまう。日付指定の時限爆弾を抱えることは、あたしには出来ない。二人きりになる日がいつになるかは分からないけれど、一学期の様子からして必ず近いうちに来るだろう。だから、その日に。先輩の大好きな花に囲まれて、あたしは失恋をする。

夏は終わったはずなのに、いやに陽射しの強い今日も、変わらず先輩の植えた花々は揺れていた。金蓮花とブルーサルビア、チョコレートコスモス。風に吹かれて花の香りが漂ってくる。今年はルクリアを育てるんだと、先輩は嬉しそうに鉢を持ってきた。暑さにも寒さにも弱い、難しい花なんだって。一緒にがんばろうね、と笑いかけてもらえたことを、あたしは一生忘れないだろう。
「先輩」
「ん?」
「先輩、そのまま聞いてください」
「うん」
ホースの水を止めて立ち止まった背中を、指先で摘んで、話しかける。声は震えていないだろうかとか、掴む力が強すぎやしないかとか、今にも泣き出しそうに熱い目尻とか、不安なことだらけで、唯一先輩があたしの言葉通り背中を向けてくれていることだけが救いだった。顔を見るなんて無理だ。
「先輩、あたし、先輩に言いたいことがあります」
「うん」
「ずっと言いたかったんです。でも言えなくって、だけど言い出せないままになるのだけは、嫌で。だから、今日言います」
「うん」
「あたし、先輩のこと、えっと、先輩に、いろんなことを教えてもらって」
「そうかなあ」
「花の育て方なんて、知りませんでした。美化委員だって、渋々なったんです」
「そっか」
「でも、先輩と会って、先輩がいたから、こんなにがんばれたんです。だからあたし、先輩のこと、先輩が、す、すてき、な人だって、思って」
「うん」
「あの、それで、なんか、なんていうか、先輩のこと」
「ごめんね、めだかちゃん。やっぱりこっち向いていいかな」
「えっ」
「ちゃんと顔が見たいな」
背中を掴んでいた指先は離れて、先輩がこっちを向いた。視線が合って、あんまりにまっすぐな目で先輩がこっちを見るものだから、言い淀んで喉で痞えていた言葉が、すとんと落ちた。あたし、先輩のことが、やっぱり、どうしたって、どうしようもなく、好きだ。烏滸がましいことは言わない。たったそれだけ、好きだってことだけは、伝えたくて仕方がなかった。
「先輩」
「なあに」
「あたし、先輩のこと、好きです」
「うん、ありがとう」
「知ってましたか」
「知らなかったよ」
「嘘吐かないでください」
「……さっき気づいたんだから知らなかったようなもんだよ」
「好きです。これからも、好きでいさせてください」
「いいよ」
「いいんですか?」
「うん。なんで?」
「やりにくくないんですか。あたし、先輩のこと好きなんですよ」
「でも、今までだってそうだったんだろ?変わりないじゃん」
「……そうですか」
「それとも、関係性を変えたい?」
「えっ」
「先輩と後輩、だけじゃなくなりたい?」
「……それは、嫌です」
「嫌なの」
「嫌です。先輩は、先輩のままで、いてほしいです」
「そっか。めだかちゃんは変わってるね」
「先輩ほどではないです」
「そうかな?俺告白されて、彼氏になってほしい、ってその後言われなかったこと、あんまりないよ」
「だって、あたしが先輩を好きなだけなので、そういうのは、ちょっと」
「え?ほんとにめだかちゃん俺のこと好き?」
「はい。四月からずっと」
「……すげえドライだよね……」
「そんなことないです。ずっと、ほんとに好きでした」
「まもりくんに俺のこと聞いちゃうくらい?」
砧くんは殴る。絶対に殴る。なんとしてでも殴り飛ばす。
それだけが決定した、失恋というには簡素で味気ない、いつもと同じ会話だった。あーあ。

「えっ!?目高、辻くんに告白したの!?」
「はい」
「どうなったの!?」
「どうって……」
「付き合うとか!そういう!」
「……お付き合いしたいとは、言ってないです。好きですって言いました」
「はあ!?」
意味分からん、と呟いた部活の先輩に目を丸くされて、そこで初めて、ああ、付き合ってください、って言えばよかったのか、と気づいた。時既に遅し。今日は火曜日なので、昼休みに先輩と花壇に水遣りをしてきてしまった。特に会話が途切れることもなく、気まずくなることもなく、かといってときめきイベントがあるわけでもなく。普段通りのいつもと同じ。無かったことにされたわけでもないけど、先輩の中であたしの告白はそのくらいのもんなのだ。多分。
それはそれで、多分良かったのだろうな、と思う。



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