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「俺、他人のものって欲しくなっちゃうんだよね」



「ただいま……」
「おっじゃましまあす」
伏見の言った名案は、至ってシンプルなものだった。有馬の自信を揺らがせる作戦。俺だって余所見することが出来るのだと、有馬にも知ってもらうことを重点としている。あからさまな嫉妬とか焼きもちとか、そういう優越感、知りたくない?なんて伏見の言葉に釣られてしまったことも確かだ。
かちゃりと鍵を置いて靴を脱げば、久し振りに来た、と伏見がきょろきょろしていた。模様替えしたわけでもないけど、なにが物珍しいんだろうか。二人で生活している以上、並んでいるものも二人分で、有馬の履き潰したスニーカーが逆さ向きになっているのを手癖で直した俺を見て、伏見がにやついた。その顔やめろ。ショートブーツを脱いだ伏見が、そういえば有馬はいつ帰ってくんの?と振り向く。今いないってことはもうそろそろだと思うけど、正確な時間は分からない。最近忙しそうにしてるし、あんまりとやかく言っても迷惑だと思って聞かずにいたから。
有馬に、俺と伏見が仲良く、それはもう仲良くしているところを見せ付けて、恋人を盗られる恐怖を味わわせてやろう。伏見が考えたのは、そんな魂胆で仕掛ける、ちょっとした悪戯だった。俺相手ならそんなに怒んないだろうしさ、と本人が言ったのだから、それに甘えるほかない。なにも本気で怒ってほしいわけじゃない。ただ、俺が恋に盲目なのだと有馬本人が思い過ぎないように、予防線を張るだけ。だから、大丈夫。全部伏見に言われたことの受け売りだけど、納得したのは自分だし、お願いしたのも自分だ。有馬が帰ってきたら始めるのかな、とグラスにお茶を注いで出せば、部屋の中を見回していた伏見が小さくお礼を言ってグラスを傾けた。こくこくと飲み下されるのを横目に、自分も酔い覚ましがてら喉を潤す。ぽーっとしていた頭が、冷たい飲み物に冷やされていく。こつん、とテーブルにグラスを置いた伏見が、口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「弁当って誰でもこうやって家にあげるの?」
「……いや、別に……知らない人には、こんなことしないけど」
「知ってる人にはするの?」
「知ってる人には、するかな……?」
「そう」
へらへら笑っていた伏見が、不意に真顔になった。何を聞かれているのか分からなくて、他人を不用意に家にあげるなってことだろうか、と首を捻る。でも、伏見が言い出したことだし、家に友達を招くことっておかしくないし、今までだってしてきた、はず。嫌に含みのある言い方に、どうしたの、と聞こうとした喉が、息で詰まる。笑いもせずこっちを真っ直ぐに見る伏見が繰り返したのは、さっき口にしたのとほとんど同じ「ねえ」のはずなのに、聞き間違いじゃないのに、声が出ない。伏見の声に声帯を盗られたみたいに。中身が半分入ったグラスをそっと手から抜き取られて、なすがままに、されるがままに、それを目で追う。なにしてるの、どうしたの、なにするの。言いたいことはたくさんあるのに、一瞬で呑まれた俺の喉は何一つ音を発しようとしなかった。伏見の目が、色めいた瞳が、細まる。傷の無い指が俺の首に絡みついて、まるで付き合ってるみたいな距離感でしな垂れかかられて、じんわりと温かみが伝わってくる。とん、と自分の背中が床に着いたのが分かった時にはもう遅くて、伏見が俺の上にいて、俺の両手首は捕まえられていた。疲れたの?とか、眠いの?とか、聞こうとしてるんだけど、噎せ返りそうに壮絶な雰囲気に、あー、この人すごい、その気がなくてもやらしいことできるってそういうこと、と他人事に思う。だって、言葉が出ないから。息が絡む近さに擦り寄せられた唇が、緩やかに開く。ようやっと俺の口から出た言葉も、即座に切り捨てられたけれど。
「……弁当さ。駄目だよ、油断しちゃ。お前のそういうところが、ちょろいんだよ」
「……あ、ぇ……?」
「有馬も男でお前も男だけど、お前は抱かれる側で、俺も男だよ?警戒とかないの?自分がやらしい体してるって自覚ある?」
「……ぅ、ちが、」
「はあ?何言ってんの、自分のこと抱いてる恋人馬鹿にしたいの?それともなに、俺のこと自分と同じだと思ってた?」
それなら残念だったね、俺とお前は違うよ、悲しいことに。憐れみを浮かべた伏見が、くつくつ笑いながら首筋に頬を寄せてくるので、まるで今からそういうことするみたいな近さに、咄嗟に身を捩って逃げた。やっと危機感覚えた?とおかしそうに眉を下げた伏見は、俺の手首を離して両手を自由にしたかと思えば、服に手をかけてきて、ざっと体温が下がる。冗談じゃない、笑えない、何も面白くない。
「ゃ、やめ、っ」
「はは、遅い遅い」
「おこ、っ怒る、から!退けよ!」
「退かしてみなよ」
「っ」
お前一人くらい退かせる、つもりでいた。伏見は俺の手を最も簡単に払って、ついでとばかりに唇をこじ開けた。ぱちりと目が合って、降ってきそうになった唇に、ばっと自分の手のひらで覆って防ぐ。ばくばく心臓が鳴って、逃げなきゃ、早く逃げなきゃ、ってそればっかりで、でも体は動かなくて、だってさっきまでどうでもいい話してた相手だし、ていうか伏見だし、こんなことされるなんて思ってなかったし、どうしたらいいのか分かんない、し。額同士をこつりとぶつけた伏見が、どんどん上がっていく俺の呼吸に、気づいた。
俺に抱かれた女の子ね、みんなびっくりするんだよ、だって俺のことちゃんと男だと思ってないから、そういうことするなんて思ってなかったってびっくりするんだよ、お前と一緒だね。そう、内緒話みたいにこそこそ吹き込まれて、そこで初めて逃げるために伏見の体を押し退けた。全然動かなかったけど、そんなの一緒にされてたまるかって思って、押したんだけど動かなくて、泣きそう。蚊の鳴くような声しか出ないなりに、やだ、いやだ、やめて、って言ってんのに、全然聞こえねえわ、って伏見はからから笑った。そういうこと言う人は大体聞こえてるんですよ、有馬がいつもそうだから。だんだん実感を持って迫ってきた恐怖に、声が大きくなってきて、裏返りかけるのを必死で我慢しながら、下手くそに暴れる。逃げるの下手すぎて何一つ伏見のしようとしてることを邪魔できてないことなんか分かってるけど、こういうことは、やだ、本当にこういうことしたくて呼んだわけじゃない。
「じゃあどういうつもり?家まで呼んで、見せつけたかったんでしょ?手っ取り早く、事に及べはいいじゃん」
「っちが、ちがくてっ、ふりだけ、っ、まねっていうか、ごっこのつもりで、だからっ」
「はいはい、ごっこごっこ。だから無駄な抵抗はよそうなー」
俺の服を乱していく伏見をどうにかして止めようと、叩いたり押したり引っ張ったりするんだけど、退かない。全く動かないくせして、俺の服はどんどんはだけさせられていく。
「はな、っ離し、てっ」
「やだね」
やだはこっちだ、ばか、怖い、こんなつもりじゃなかったのに、ちょっと悪戯したいだけだったのに、悪いことを考えた罰だろうか。まるで当たり前みたいな顔して、ただただ楽しそうに俺に乗っかっている伏見が普通で、ぶるぶる震えて拒否している俺が、おかしいのかもしれない。だって友達だろ、突き飛ばして怪我させたらかわいそうだ。
「ほんっと、ほんとに、怒る、伏見、だめだって、っ」
「俺に抑え込まれちゃうとか、有馬もそりゃ心配するわ……」
あ、有馬、そうだ、こんなことしてるの見られたら嫌われる、だから力任せに逃げないと、でももうどうしようもなくて、ていうか力任せになんて逃げられやしないのに今更何言ってんの俺。それに、伏見も伏見だ。「俺に抑え込まれる」なんて自分を卑下しないでほしい、小野寺を屈服させられる時点で俺よりそうとう力の使い方が分かってるんだから。ってそうじゃなくて、でも、いや、だって、現実逃避くらいさせてほしいっていうか、ほんとにこんなことがしたかったわけじゃなくて、もう。
伏見の大きくて真っ黒な目に映った自分の顔がくしゃっと歪んだのが見えて、それと同時に伏見が瞬いた。ぱちん、と一瞬閉じた瞳に、ぷつりとなにかが切れて。
「ぁ、ありま、っ」
「へっ」
「たすっ、助けて、たすけてえ!」
「えっ泣い、っいったあ!」
「やりすぎ」
ごん、と重い音がして咄嗟に目を閉じる。悲鳴を上げて俺の服から手を離した伏見は、自分の頭を抱えた。重い音の出処はそこらしい。唸る伏見をいとも簡単に退かし、ついでの腹癒せとばかりに彼の体を投げ飛ばす。頭に気を取られるあまり気付かなかったのか、簡単にぽいっと投げられた伏見は、ふぎゃああ、と変な悲鳴をあげて壁にぶち当たった。苦情が来る、と俯瞰の自分がぼんやり思う。
「弁当、もう平気、怖かったなー」
「……てめえ……言い出しっぺのくせに、何しやがる……」
よしよし、と有馬に手を伸ばされて、胸の中へ収まる。なにより先に込み上げてきたのは安堵で、どっと全身の力が抜けた。助けてくれた、助けてって言ったら、ほんとに助けてくれた。恨みがましげな目の伏見が有馬越しに見えて、溢れそうだった雫をなんとか我慢する。泣いたって伏見がびっくりした一瞬、実際問題泣きそうになっただけだけど、その空白に有馬がいきなり、
「……ん?」
「ん?」
「ほらあ」
弁当ならすぐ気付くっつったじゃん、と投げ飛ばされて転がった体勢のまま壁に背中をつけて足が上を向いている伏見が、呆れ声を出した。いきなり助けてくれたのは有り難いけど、タイミングがおかしい。漫画みたいに計ったようなタイミング、なんて現実じゃあ本当に計画立てないと起こるわけがないのだ。疑問の声を上げた俺に、同じトーンを繰り返した有馬は、抱きすくめたまま顔すら見せてくれない。こういう時は、有馬が俺のことを誤魔化し切って逃げようとしている時だと、俺は知っている。馬鹿で自分の価値を分かっていない脳味噌たまごボーロ人間だけれど、自分の立ち居振る舞いで相手がどう動くのか計算して動けるようになってしまったのだ。人はそれを大人になったと呼ぶ。ちなみに俺のせいである。馬鹿な子ほど可愛かったのに。
思い出してみよう。計ったように有馬が現れたこと自体を疑うのならば、その証拠が絶対にあるはずなのだ。先んじて帰ってきていなければあの瞬間に割入ることはできないはず。うちの玄関扉は、鍵を回せばがちゃりと音がする、普通のやつ。確かにゆっくりやったとしたら俺は気がつかないかもしれないけれど、有馬はいつも帰ってきたら大きめの声でただいまを言う癖があるし、それを我慢した上でわざわざ意味もなく静かに鍵を開ける意味が分からない。よって、この一連の流れは企てられた茶番である可能性が高い。その可能性が高まってくるのは、有馬の今の態度からも窺える。伏見の言葉と合わせて考えれば、それはほぼ明確だろう。ではいつからいたのか。問題はそっちだ。途中からいた線が消えるなら、最初から家にいたことになる。俺と伏見が帰ってくるより前から、ずっとどこかに。
「あっ」
「……………」
「離して」
「……嫌ですかね……」
「離してください」
「ばれてるぞー」
「ばれてません」
「離せよ、おい、詐欺師、嘘つき」
押し退けようと抵抗したものの、とても低いテンションで拒否された。伏見は変な体勢のまま野次ってるし、有馬は離してくれないし、もういい。ポケットから携帯を取り出して、画面を開く。
いつからいたって、最初も最初からだ。靴があったじゃないか。俺は馬鹿か。逆さ向きになっていた靴を直して揃えたのは他でもない俺だ。なんであの時に気付かなかったのかって、仕事があると信じきっていたからである。疑う余地も無かったから信じていたのに。裏切り者、馬鹿、最低、机の角に頭打っちまえ。
俺の予想を正解だと告げるように、伏見が声を上げた。曰く、少し前に有馬と飲みに行った時に、先程の俺たちのように、マンネリがどうのこうのと話をしたらしい。それを打破するにはどうしたらいいかって、思いついたのがこのクソくだらない茶番だった。俺に別の男が言い寄ったとして、しかもそれがある程度の知り合いで情も湧く仲だったとして、俺はそれを拒否しきれるのか。また、有馬に対して何か思うところはあるのか。実験内容はそれ、というか実際賭けられていたらしい。自分大好きな伏見は当たり前といえば当たり前に、『弁当が俺のこと拒否るわけないじゃん、最後までやっちゃえるよ』に一票。有馬は『弁当は優しいし抵抗下手だから流されるかもしれないけど、すっごい怖がって嫌がると思う』に一票。蓋を開けた結果としては、完全に有馬の勝ちだ。俺が有馬に助けを求めるところまでは予測されていなかったらしいけれど、結果論として助けに来た有馬に俺が惚れ直しておしまい、とうまく進められるはず、だった。助けて、と俺が言ってしまったがために、テンションの上がった有馬が出てくるタイミングをすっかり忘れ、伏見を投げ飛ばしたせいで今に至る、と。
「実家に帰ります」
「まだばれてません……」
「実家に帰ります、離してください」
「……すいませんでした……」
「だからあんだけばれないようにやれっつったのにさあ」
「う……」
「帰ってくる前に玄関扉がちゃれとか、靴片付けとけとか、一個もやってなかったじゃん」
「どこにいたの?」
「……い、今帰ってきたんだよ……」
「伏見」
「トイレか脱衣所。電気つけないで隠れてるっつってた」
「ふうん」
「だっ、だって、弁当がもし流されちゃったらとか伏見が言うから、俺も不安になったし、そんで」
「俺のせいにしないでよ」
口を尖らせている伏見は全く反省していないようだった。さっき取り出した携帯を耳に当てれば、それに気付いた有馬が、ごめんなさい、と目を合わせないまま少しだけ体を離す。目が合わないのは、悪いことをしていた自覚があるからだ。あからさまにしゅんとしやがって、こっちの気も知らずに。許してやりたくなるじゃないか、許さないぞ、本当に怖かったんだから。
「……もしもし」
「電話?誰?」
「べんとお、ごめんって、俺いけないことしたの分かったから、何でも言うこと聞くから」
「何でも言うこと聞くとか簡単に言うなよ」
「そう。うん、今うちにいる。なんでって?聞きたい?」
「弁当誰と電話してんの?ねえ」
有馬は鈍感だけれど、伏見は敏感だ。俺の声のトーンと言葉で、もう電話の相手を察したらしい。引っ付いているのを良いことに、有馬を盾に使いながら通話を続ける。真顔の伏見が飛び起きて向かってくるのを横目に、はっきりと告げた。
「伏見に襲われたんだけど、小野寺、どういうこと?」
「てっ、め」
「うわあ!あっぶねえ!」
通話先を特定したと同時に殴りかかってきた伏見から俺を庇って床に転がった有馬が、危ないだろ!なんてことすんだよ!と怒っている隙を狙って、腕から抜け出す。そのまま振り返らずに靴を突っかけて外に出てやれば、電話の向こうもこっちのばたばたを察したらしく、駅名を指定された。そこで合流して今後の予定を練ろう、ということだろう。了解だ。
うかうかしてると、小野寺の名前を出したせいで一気に追い詰められて手負いの獅子状態になった伏見が逆切れて追ってくるので、駆け出した。有馬もしばらく放っておきたい、謝られて流されて許してやりたくなんかない。この辺りならあの二人でも撒ける自信はある。俺の方が土地勘あるし、もう暗いし。本気で出ていかれるとは思っていなかったのか、一瞬静まり帰った後に後ろから聞こえてきた足音と声を無視して、駅と逆方向に足を向ける。しばらく帰らないので、宜しくお願い致します。

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