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おはなし



俺が幼い頃からいつも忙しそうにしていた母親を、笑わせてあげられたことがあまりないように思う。俺がしたことに対して、喜んでくれなかったわけじゃない。むしろすごく受け入れてくれたし、褒めてくれたし、俺のために色んなことをしてくれた。ほんの些細なプレゼントも大切に取っておいてくれて、いつだか俺が小さかった頃、朔太郎は魔法が使えるみたい、なんて言われたのが凄く嬉しかったっけ。大きくなった今思えば、疲れが吹っ飛ぶ的な意味だったんだろうけど、簡単な脳みそをしている俺は、その言葉をそのまましばらくの間信じ込んでいた。ちなみに、未だに嘘だとは思ってない。なって俺の母は、さちえは、嘘をつかない。だから俺には、魔法が使えるんだと思う。
だけど魔法って言ったって、何もないところにお菓子の山を生み出したり、降り出した雨を止ませたり、指先から炎や水を迸らせることができたりするわけじゃない。そんなことできるわけない。じゃあどんな魔法かって、それは俺にもよく分からないのだ。確かなのは、まるで魔法使いのようだとさちえや友梨音に笑ってもらえた、それだけ。それだけだけど、きっとそれが、俺の魔法の源泉だ。人を笑顔にする魔法だなんて、素敵じゃないか。そんなものを持って生まれてきたなんて、とんでもないラッキーだろ。
しかしながら。彼岸のものが子どもの目に映りやすいと迷信があるように、経験がないと魔法使いと揶揄されるように、生きたままでは死んだ人間とは会えないように。物事には決まりや期間がある。いつからいつまでだとこうなる、それ以降は元には戻れない。単純明快で、且つ破ることの出来ない、水面下の絶対規律に俺たちは縛られて、生きることを許されている。許しているのが誰かって、神様だか閻魔大王様だか御釈迦様だかイエス様だか知らないけれど。目には見えない規律が、この世にはあるのだ。酸素濃度、血液の流れる方向、子どもと大人の境目。それに従えないと、弾かれてしまう。俺の魔法にも、有効期限があった。天真爛漫が許されるのは、幼く純粋でいられる時だけ。さながら何かを喪うように、何も変わらないくせして、さも大層な何かが変化したようなふりを繕いながら、俺は大人になった。俺だけじゃなくて、みんなそうやって今まで生きてきているのだと思うんだけれど、俺は周りとただ一つ違っていた。
大人になったら、魔法が、使えなくなった。

「あのな、朔太郎」
「ん?」
「俺、今まだ、仕事中なんだけど」
「うん」
「気が散るんだけど」
「ただ逆立ちしてるだけだぞ!逆立ちの自由を俺は訴える!」
「うっぜえ!」
仕事が早く終わったので、意気揚々と家に帰れば、家を出るところだった友梨音とさちえに会った。なんでもピアノの先生のところに行くんだとか、父も仕事で遅くなるんだとか、友梨音はそのままレッスンがあるのでさちえもそれを待って一緒に外で夕ご飯を食べるつもりだったとか。それを一頻り聞いて、どうする?とさちえから投げ掛けられた問いに対する答えは一つだった。友梨音のこの不安げな顔を見て、自分でどうにかするとか曖昧なことは言えない。絶対的な確証のある明確な答えでないと、優しい彼女は俺を置いていってしまう不安を抱えたままピアノのレッスンに行って、それが終わったら早く帰ろうとさちえを急かすんだろう。そんなのは駄目だ。よって、導き出された一つは。
「別にうちで飯を食うのが悪いっつってんじゃねえのよ」
「うん」
「残ってる仕事やってる俺の横で唸りながら逆立ちするのをやめてほしいだけなんだよ」
「それはどうかな……」
「どうかなって答えが人間的にどうなんだろうなあ!?」
「声でかっ、2000デシベル」
「んなわけあるか!」
航介の家に行くつもりだったから平気だよ、と友梨音に言えば、あのゴリラに何故か信頼を寄せている彼女は、それなら良かった、と嬉しそうに笑った。連れ立って行ってしまった二人を見送り、スーツから私服に着替え、愛しのさくちゃんトワイライトファンタズミック号に跨がる。ちなみに一号機であるさくちゃんアルティメットジャスティス号は、ちょっと前に電柱に激突して変なとこが変な風になったので、お役御免になった。ぶーん、と効果音を立てながら航介の家に到着。とんとんとんと玄関扉を叩けば、勝手知ったると言った様子でみわこが出てきた。もうおかずほとんどないよ、と素っ気なく言われて、ショックできゅるきゅると鳴るお腹に手をやれば、欲しけりゃ航介の分から貰えと引っ込んでしまう。ていうか玄関扉開けて即言うことが「もうおかずほとんどないよ」ってどういうこと?俺じゃなかったらどうするの?と先を行くみわこに聞けば、インターホン使わないで玄関叩くのお前しかいないから、となんだか以前航介からも聞いたことがあるような返事をされた。成る程、納得。
突然現れた俺に驚いたのか、ぼけっとゴールデンタイムのバラエティーを見ながら晩飯を食っていた航介が、目を丸くして絶句する。そんなに驚くなよ、照れる。左手に持った茶碗の中身はほぼ空っぽで、目の前にある皿に乗っている肉は残り少しである。これはまずい。俺の食い扶持がなくなる。きょとんとこっちを見ている航介に素早く近づき、箸を奪っておかずの肉をがぶりと口に入れてしまえば、悲鳴じみた大声と共に突き飛ばされた。それがつい一時間ほど前のことだったか。
「あー、もういいや。やめた」
「かまちょ」
「嫌だ」
「我輩をほっとくと申すのか」
「誰だお前」
そしてそれからしばらく取っ組み合いの喧嘩をして、うるさい、いい加減にしろ、とみわこに怒られ、航介の部屋に引っ込んだ。最後の肉を取られたことにぶつくさ文句を言っていた航介は、部屋に戻ってすぐパソコンをつけてなにやらぽちぽちやり始めたので、俺はすることがなくなった。しばらくベッドの上をごろごろしたり腹筋したり目を閉じて寝たふりしてみたり携帯でゲームしたりしたけれど、逆立ちはさすがに航介的にアウトだったらしい。気を引こうと目に付くようにやってたから、当然の帰結ではある。
やめた、と宣言した通りパソコンの画面をネットに切り替えた航介が、彼らしくない珍しいものを見始めた。洋服の通販サイト、しかもCMで見たことあるような有名なとこ。慣れた様子で探し物を始めた航介に混乱した俺は、彼の頭をついうっかり引っ叩いてしまった。だって壊れたかと思って。
「ってえ!なんだよ!」
「殿中でござる!殿!」
「誰が殿だよ!」
「何見てんだよ!?」
「パソコンだよ!」
「いつもの航介にお戻りくだされ!」
「あぃっ、ぃだだだだ!いてえっつってんだろうが!耳ねえのかお前!」
こめかみをぐりぐりと押し潰した俺のことを引っぺがしてぶん投げた航介が、ていうかなんでお前今日口調が古風なんだよ!と訳の分からない切れ方をした。そんなん俺だって知らない、気分だ。
なんだかよく分かんないけど高いTシャツや、なんだかよく分かんないけど高いズボンを見比べて、さっぱりだ、と航介が首を傾げる。俺にもさっぱりなので、彼だけが抜きん出て疎い訳ではない。安心していただきたい。Tシャツなら袋倉さんに頼めばオリジナルのやつをくれるよ、と一応教えれば、お前がよく着てるあのイカれたデザインのやつならごめんだと断わられてしまった。ちなみに袋倉さんは、小物や服などをデザインから自作することが趣味な俺の先輩である。この前は、緑色のクマが蛍光ピンクの花を周りに飛び散らせながら紫色の魚に飛びかかっている素敵なTシャツをくれた。イカれたデザインだなんて失礼だ。そう憤慨すれば、ふんと馬鹿にしたように航介が笑った。うん、やっと笑った。
人を笑顔にする俺の魔法の成功率が下がってきたことに気がついたのは、いつのことだろう。成功率が下がったというか、無意識になったというか。昔はそれこそ、今笑って欲しいと思った時に何か行動を起こして、それがきっかけで笑顔をもたらすことができていた。今はどうだろう。そんなこと、夢のまた夢だ。最初からしょぼかった魔法は、月日を経て、ついに効果を失った。それは俺の周りから笑顔が減ったというわけではないということだけが救いだった。俺の魔法はもういらない、なくてもいい、みんなもう大丈夫だ。リミットが来た、それだけのこと。俺はそう思ったし、そうであるべきだとも思った。思った、んだけど。
話の切り口を変えよう。俺の幼馴染みの江野浦航介は、「今現在」をとても大切にしている。先を見据えることより、過去を振り返ることより、今をどれだけ一生懸命生きられるかを考えている。刹那的な生き方と言えばそれまでだけれど、俺は彼のそんなところは美点だと受け取っている。今を蔑ろにする奴に、未来なんかないから。しかしながらそんな彼は、今現在を愛しく思うあまり、変化を酷く嫌い怖がるのだ。航介にとって、自分が立つ現在の安寧が揺らぐことは恐怖の塊で、未知の領域は忌避すべきもので、だからこそ彼は、ここから出られない。この町からは出て行けないし、構築された人間関係を手離せない。柔軟な考え方、という言葉がこれ程似合わない若者がよくいたもんだ。自分のテリトリーとして真ん丸く引いた線の中から絶対に出ようとせず爪を立てて根を張る、そんな俺の幼馴染み。
彼には、俺以外の誰も知らない秘密がある。本人すらも明確には気がついていないかもしれないそれは、誰にも言えない夜のこと、じゃなくて。近過ぎて認識できてない方の幼馴染み、当也に対して抱えるコンプレックスのことだ。ぼけっとしてるように見えて頭の中ではたくさんの会議が開かれている当也は、脳内会議で可決したことならばぽんと行動に移せる実行力がある。変化を厭わないのだ、航介と違って。その大きな違いが、インフェリオリティーコンプレックス、劣等感に深く繋がっている。当也が上京して、今までにない形で現状を引き裂かれぶち壊された航介は、その心理抑圧が爆発して、まあそれなりの異常をきたした。それは自覚症状の無い、他者から見ての異常だった。その時の話はまた別の話なんだけど、とにかく彼はそんな劣等感を抱えている。それが、俺しか知らない彼の秘密。
今現在を愛する航介は、いつまでも俺の魔法にかかり続けた。現状打破が出来ない奴なのだ、彼だけ最後まで残るのは仕方がない。無邪気に不器用な心は、鈍い光を持って俺の魔法を叶えてくれるのだ。嬉しかった。まだ俺は魔法を使っていてもいいんだと許された気になった。神様でも閻魔大王様でも御釈迦様でもイエス様でもなく、江野浦航介が俺の魔法を許した。それは幸せだった。けれど、それだって長くは続かなかった。かかりが悪くなっていることに気づいたのは、最近のことだ。脆く儚い魔法はついに、彼の中からも掻き消えてしまうようで。当たり前だ、彼だって大人になる。大人にならない人間なんていないんだ。けれどそれは、その事実は、まるで俺のことを残して彼が走り去ってしまったようで。
「それでね、その時俺が飛び降りてなかったら危なかったって言われたんだよ」
「そりゃお前が飛び降りたことで尊い命が三つ救われたからだろ」
「でも俺足痛かった!」
「怪我してねえんだからいいじゃん」
「あんなくらいで怪我なんかするかよ!」
「なんだよ、その自信」
「大怪我なんかしたことないぜ」
「お前何で怪我しないのか不思議だよなあ」
くつくつとおかしそうに喉を鳴らす航介が、原チャで転んだ時も、軽トラにぶつかった時も、ベランダから落ちた時も、縄跳びが首に引っかかった時も、お前ぴんぴんしてた、と思い出して笑う。ふむ、笑ってもらえるなら丈夫な体で本当に良かった。さちえよ、ありがとう。
置いて行かれた感の否めない俺の魔法の消失なんて知らない彼は、それでも笑う。今までいた場所と違う場所で、今度は俺とお前はばらばらの場所で、それでも自然に笑うのだ。さっきも言っただろう。魔法が使えなくなったからといって、笑顔がなくなったわけではないのだ。俺が、俺がきっかけでない航介の笑顔をたくさん見つけられるようになった、ってこと。でももちろんそれだけではなんとなくもやもやして、それはきっと寂しさを原因とするものなんだろうけれど、それで俺はやっぱり、彼を笑わせようとする。自分の力で、彼に笑顔をもたらそうとする。それに答えてくれる航介は、崩れそうな砂のお城をじっと見つめるのが好きなような奴だから、今だってそういうことだろう。まだそこにあるお城が崩れ切るその日まで、じっとその場に止まって笑い続けるのだ。お城が崩れてしまっても、きっと笑ってくれる。お前何やってんだよ、水混ぜろ、固くしなきゃ壊れるだろうが、と俺に文句を言いながら手を出してくる航介の姿が眼に浮かぶ。
「これいいじゃん。これ買いなよ」
「嫌だよ!やめろ!」
「だって、ポケットがたくさんついてる。機能性に長けるデザインだ」
「だっせえんだよお前のセンス!」
「なんだと!」
「今日着てるその、なんかよく分かんねえやつも、やばいからな」
「どれ?」
「これ」
「かーでがん?」
「なんだよこの無数のボタン。いらねえだろ」
「いるよ!おしゃれアイテムだぞ!」
「多すぎて気持ち悪いんだよ!虫か!」
怖い顔して俺を罵って、お腹を抱えてげらげら笑っている航介が、俺のしょぼい魔法を形にしてくれた。それは事実で、それだけが事実だった。



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