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おはなし



「ちぃ。朝だよ、起きて」
「……んん……」
「遅刻するだろ!ほら!」
布団を跳ね除けて俺を揺する手は、無い。ふわりと覚醒した意識がしばらく揺蕩って、ぼんやり時計に目を向ければ、目覚ましが鳴る十分前だった。二度寝のできないタイミングだ。
あくびを漏らしながら、クローゼットを開く。先日俺のものを残してみんな整理されてしまったせいで、空きスペースの残るそこから、スーツを取り出す。ここには、ついこの前まで、和葉のものがあったのだ。今はすっからかんにされてしまったけれど、俺はあいつと二人でここで暮らしていた。確かにそれは事実なはずなのに、毎朝このクローゼットを開く度に、それが夢だったんじゃないかと思うのは何故だろう。あいつの使っていた枕がクローゼットの隅に置き去りにされていて、もうこの家に和葉がいないことを明確にしていた。もういない、消えてしまった、帰ってこない。その事実を悲しいと思うことすらルーチンワークになるくらい、俺は彼の不在を反芻し続けている。
取り出したスーツを脱衣所の扉に引っ掛ける。シャワーを浴びたら着替えよう。でもその前に朝ご飯を食べないと。くしゃくしゃの頭を何とか押さえつけながら台所に立ち、昨日買ったパン一枚と残り物のサラダを用意して、コーヒーを淹れた。何か特別なものを作るわけじゃないけど、和葉が台所に立ってるのを見るのは好きだった。根っからのコーヒー派の和葉は、朝食の時には必ずコーヒーを淹れていて、甘くないと飲めなかった俺はそれにやいのやいのと文句をつけて、和葉が俺用に紅茶を用意してくれるのが、嬉しかった。和葉は、俺がコーヒーも飲めることを知っていたんだろうか。知らなかったかもしれない。だって、言ったことないし。生野菜のサラダが苦手で、トマトは絶対に食べれなくて、パンを焼いたら三回に一回は焦がす和葉。向かい合って、このテーブルで朝食を食べるのが、当たり前だったのに。その当たり前が崩れたのは、最近のことだ。突然だった。我儘を言う暇なんて与えられなかった。神様なんていない、と思った。今もそう思ってる。
朝食を食べ切って、皿とカップを片付ける。色違いのマグカップ、俺は未練がましく和葉のオレンジのやつを使っている。これ使ってたら、それ俺の!って帰ってくるんじゃないかと希望を持って。洗い物の度にその希望は儚く泡となって流れていくのだけれど。水を止めて脱衣所へ向かう途中、そういえばとテレビをつけて天気予報を確認した。今日は晴れ。絶好の行楽日和です、なんて笑顔のお天気お姉さんに反吐が出た。今から出かける先のことを考えたら、そんな明るい気分になれない。むしろ雨の方が良かった、暗い気持ちのままでいられただろうから。
シャワーで寝癖も直り頭もすっきりしたところで、スーツに袖を通す。似合わねー!ホスト!と俺のことを笑った和葉は、童顔で身長もそれなりなせいで、七五三を彷彿とさせるスーツ姿だったっけ。ネクタイを締めて鏡を見ると、やっぱりうまく結べなかった。何度かやり直したもののあんまり変わらなかったので、一番出来が良いと自分で思えたところでやめておく。和葉はネクタイを直すのが上手かった。綺麗に結べるというより、結んだ後に形を整えるのが上手かったのだ。俺ら高校は学ランだったからしょうがないよなあ、と周りの友達にからかわれてふて腐れていた顔をよく覚えている。ゴツめのスポーツウォッチがお気に入りで、スーツの時でも構わずそれを付けるもんだから、袖周りがごつごつしていて、ぶつかると痛いんだ。優しい彼が、それをわざわざ外して、俺に触れるのが嬉しかった。金属が肌に合わなくて、冷たい感覚が苦手な俺のこと、いつも自分勝手にさせてくれた。時計も、リングも、大切なもののはずなのに、俺といる時には外してくれた。俺を想ってくれる彼のことが、俺は好きだったのだ。伝える術もない今更、気付いたってもう遅いけれど。
家を出て駅に向かう。道は晴れていて、過ごしやすい気候だった。お天気お姉さんもそりゃ行楽日和だと言い切るだろう。目的地は、最寄り駅から三つ離れた駅、そこからバスで一本。式場の近くに行けば案内板があるし、地図もあげるからね、と和葉のお母さんに言われた。子どもじゃないんだから、と呆れたけれど、そうだった、和葉にもそう言われたのよ、もう子どもじゃないって、と彼女が泣き出してしまったから、俺はもう少しの間母親の子どもでいてあげるべきなのだなと何となく思った。別れが来るその時まで、和葉は彼女の息子であったのだろうか。案外家族に素っ気なかったあいつのことだから、俺とルームシェアし始めてからは等閑にしていたのかもしれない。しばらく慰めている内に、千景くん、ごめんなさいね、と涙を拭って無理に笑った彼女は、息子との別れをまだ吹っ切れていないようだった。家族じゃない俺だってそうなんだ、母親からしたらそんな簡単に立ち直れるもんじゃないんだろう。嫌だな、行きたくないな。血縁を濃く感じさせる、和葉に似た彼女の泣き顔を、見たくはなかった。幼馴染みという関係上、お世話になった人が悲しんでいるのは辛いっていうのもあるけど、なにより、俺が和葉を泣かせた時のことを思い出してしまうのが嫌だ。自分本位だけれど、紛れもなく本心だ。
仕方ないなあ、ちぃくんは。それが和葉の口癖みたいなものだった。家族の中で幼少期にだけ使われていた呼び名でいつまでも俺のことを呼ぶ和葉は、俺にすこぶる甘かった。俺からも甘えやすくて我儘を好き放題言える相手だった、というのもあるけれど、それにしたって俺に甘かった。最終的にはいつだって、仕方ない、しょうがない、ちぃがそう言うならそうしよう。ちょっとやり過ぎな我儘、例えば彼の時間を長く束縛しようとしたり、拗ねたふりして口を利かなかったり、そんなことしても和葉は笑っていた。ちぃくん機嫌悪いね、やなことあった?俺で良かったら聞くからね。そう言って、くしゃくしゃと髪を撫でて、決して遠くには行かないのだ。振り返れば見えるくらいの距離で、俺がアクションを起こすのを待っている。今だって、ふとした瞬間振り向けば和葉がいるような気がして、とっくに癖になってしまった。いないことは頭で分かっていても、心がそれを理解しようとしない。彼がいないことに、慣れられない。もういなくなってしまってからしばらく経つのに、振り向く癖も、コーヒーを二杯用意してしまう癖も、家を出る時に行ってきますを言ってしまう癖も、抜けないままだ。
式場につけば、知らない人がたくさんいた。和葉に沢山の繋がりがあったことを思い知らされる。待合ホールのようなところでしばらく突っ立っていると、高校時代の友人が遠くに見えたので、場所を変えることにして、辿り着いたのは一番端っこの隅だった。柱の前でぼおって行き交う人を眺めれば、和葉のお母さんもいた。泣き腫らした目をした彼女は、俺に気づいてぱっと顔を明るくしたけれど、忙しそうだったので話しかけるのはやめた。他人の会話がどこか遠くに聞こえてくる。和葉くん、まだ若いのにねえ、良い子だったわよね。耳に飛び込んできた誰かの声に、いてもたってもいられなくて、ホールを飛び出した。嫌だ、こんなところにいたくない、俺はまだあいつとさよならしたくない。そこから逃げ出しても現実なんか変わらないのに、そんなこと分かってるのに、俺の足は当て所なく道を駆け抜けて、全く知らない路地裏に出た。振り向けば、真っ青な空と、真っ白な雲と、さっきまでいた式場が見えた。
ごおん、ごおん、と鳴り響く鐘。
今日、仁ノ上和葉は、結婚する。



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