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独白



千に代わるいちたすいちは、健康に生きる、と書いて、千代田健生といいます。この前、7つ年下のセフレから、そういう名前の紹介の仕方があるんだと聞きました。あいつはそれで、俺のフルネームを正確に知ろうとしたんでしょうけど、なんで買い上げた商品にそんな個人情報を晒さなければならないのか甚だ意味が分からなかったので、黙らせました。何故だか年を食うごとに、我慢がきかなくなっていきます。そんなところで、自分に甘くて、堪え性無しで、すぐかっとなって理性の欠けた行動に走っては後からツケが回って来る、そんな駄目な大人の話でも、するとしましょう。

まず最初に、生まれた時の話から。記憶があるわけではありませんが、元気に産声を上げたそうです。父母はそれに酷く安心して、この子は元気で、健康に、健やかに育ってくれればそれでなんの文句もない、と思ったそうです。こんな大人になってね、あんな風になってくれたら嬉しい、そのような類の望みは最初から持たれていませんでした。元気でいてくれれば、それで。父母がそれに固執したことにも理由はあって、実は俺の上には、元気で健康に、健やかに育つことができなかった兄がいたのだと、随分後になってから聞かされました。もしかしたら姉だったかな。よく覚えていません。だって、会ったことは勿論、写真その他で顔を見たこともないのですから。ひょっとしたら、父母でさえ顔を見たことがないのかもしれません。それは彼らの話であって、俺の話ではありませんから、細部は突き詰めませんが、だからか俺は、幼少期から、すべてのことを許されて育ちました。サッカーの試合をテレビで見て、やりたいと思ったらやらせてもらえて、飽きたらほっぽっても良いような。ケーキが食べたくなったらそう言えば、その日はちょっとしたパーティーになるような。そんな家庭で育ちました。
しかしながら、それを良しとするような性格ではなかったもので。それに甘んじて、甘えて、放蕩出来るほどに、自由を愛してはいなかったのです。感謝こそすれ、この家はおかしいと、幼い頃から差異を感じていました。みんなは我慢しているようなことが、俺にとっては可能なことで。みんなが欲しいものは、俺にとっては手を伸ばせば届く範囲の中にあって。おかしいでしょう。自分だけが愛されていて特別だなんて、御伽噺。父母はずっと、自分を通して、命を落とした兄だか姉だかのことを、見ていたのです。重荷を背負っているつもりはありませんでした。ただ、ほんの少しだけ、寂しかっただけで。なにかが歪んだとするなら、そのせいにするとします。だって、そういう綺麗な理由をつければ、大概のことは御涙頂戴で許されるんでしょう?
時間は進みます。誰しも同じように、規則正しく。俺は小学生になりました。利発そうな顔立ちの、真面目な子どもだったそうです。自信がない、できない、と言うこともありました。それでも諦めずに立ち向かい、一つずつ着実に自分の力にしていく子だった、と聞いたことがあります。覚えてないんですけどね。そんなもんです、自分のことなんて。
覚えているのは、生まれて初めて好きになった人のことです。それは恋とか愛とかというよりも、憧憬に近いものだったのかもしれません。それでも、好きでした。小学校五年生の時に、担任になった先生で、優しくて、大きな手が暖かくて、薄い硝子越しに目が合うといつだって柔らかく微笑んでくれる人でした。思い返せばその時からずっと、好きになる相手は同性の、男の人です。自分はおかしいのかもしれないと思ったこともありましたが、けれど好きになってしまうものは止めようがないし、女の子のことはどうしたってそういう目では見ることができませんでした。可愛いとか綺麗とか、そういう感情は勿論あるけれど、それって恋愛に必ずしも結びつくわけじゃないじゃないですか。可愛くて愛らしいペットに欲情する人間なんて、なかなかいないじゃないですか。俺にとって女の子ってそういうものです。人間として見ることが、きっと出来ないんです。小学生の時もそうでした。ノンフレームの眼鏡をかけた担任の先生を好きになって、けれど誰にも言いませんでした。秘めたる恋、なんて言ったら素敵かもしれませんけど、ただ周りから弾かれるのが嫌で黙っていただけです。先生から褒めてもらうことを楽しみに、大きな手で頭を撫でてもらうことを想いながら、毎日学校に通いました。すごく楽しかったです。幸せでした。先生のことを好きになって本当に良かった、と心から思いました。
時は有限です。俺は中学生になりました。一年生の終わりぐらいで、両親があることに気づきました。どうやらこの子どもは、やらせればやらせた分だけ、スポンジのように吸収するらしい、と。そして両親は、決して勉強が苦手だったわけではない俺に、家庭教師をつけました。今よりもっと出来るようになって欲しかったんですかね。知りませんけど。俺の家に通うようになった家庭教師の先生は、暗めの色の髪の毛がくしゃっとしていて、黒縁の眼鏡をかけていて、垂れ目がちで優しげな顔で、穏やかな語り口の人でした。分からないところとか特に無い俺にも、優しくしてくれました。好きになりました。流れで。当たり前のように。好きになりましたとも。小学校の先生のことはすっかりすぱんと忘れて、家庭教師の先生を、好きになりました。切り替えが早いことは取り柄の一つです。他にも取り柄はありますよ。
好きになった家庭教師の先生のために、俺は勉強を頑張りました。頑張れば頑張っただけ、父母も喜ぶし、家庭教師の先生も嬉しそうにするのです。それは、俺にとってもとても嬉しいことで、幸せで、そのためになら普段しなくても生きていける、努力とかいうものをしてもいいかな、と思えるくらいの出来事でした。いつの間にか、成績はどんどん良くなって、中学校の中では上から数えた方が早くなりました。家庭教師の先生のおかげです。それは、教え方が上手いとか、疑問を解決してくれたとか、そういうことじゃなくて、家庭教師の先生が俺の好みのタイプだったおかげ、という意味です。女じゃなくて本当に良かった。
小学生の時と同じだけ、俺は、我慢しようとしました。何も言わないで、秘めた片思いのままで、終わらせようとしました。だって俺は、周りと違うから。同性のことを好きになってしまうから。我慢して、我慢して、褒められることが嬉しいから、それだけを楽しみに、一緒にいられさえすればそれで充分だと思えるように、ずっとずっと、我慢を続けて、中学三年生になりました。
我慢の糸が、切れました。
「ははは、あー、笑った。ねえ、千代田くん」
真面目な君にもそういう悪戯が言えたんだね、と笑われました。先生のことが好きです、貴方のために勉強を頑張ってきたんです、と告げた5秒後のことでした。冗談だろうと問いかけられる事すらなく、はなから信用されず、返事なんて期待の余地すら与えられずに。この間までやっていたドラマの真似だろう?シチュエーションが同じだもの。そう、笑いながら付け加えられて、そんなもの知らないと言い出すことは出来ませんでした。立ち尽くす俺を見上げる先生に、初めて会った時と身長差が逆転していることに気がつきました。俺はいつの間にか、先生よりも背が高くなっていて、身体も大きくなっていて、先生のことなんて片手で突き飛ばせるのです。今みたいに。
「あいた」
ぽてん、と尻餅をついた先生は、笑いすぎたから怒った?と少し申し訳なさそうな顔をしました。俺よりも小さくて、細っこくて、弱っちくて、柔らかくて、気づいていなかっただけでいつだって、力付くで捩じ伏せられた、先生。今この瞬間に、先生への想いを本気でぶちまけたら、それでも貴方は笑っていられるのでしょうか。俺のこと、嫌いになるのでしょうか。それは嫌だなあ、と思いました。そんなことになるくらいなら、笑われて、馬鹿な中学生がテレビの見過ぎで血迷ったと思ってもらった方が、マシです。だって、好きなんです。暖かな手でたくさん褒めてくれた先生に、冷たい目で見られることだけは、避けたい。自分の気持ちなんてどうだっていいじゃないですか。今まで通りに我慢して、鍵をかけて、しまっておけばいい。どうせまた小学校の先生みたいに、家庭教師の先生ともさようならしたら、想いが薄れて、消えてしまうのですから。お別れするまで鍵をかけてしまっておこう、子どものお巫山戯ってことにしよう、それで先生が笑ってくれるならそれが一番いい。本気でそう思いました。そう思えたこの頃が、一番真っ当で、周りに対する思いやりがあって、恋心ってやつが綺麗だったのでしょう。ここから先、そんな風に、我慢しよう、自分の気持ちなんてどうだっていい、と思えたことなんてありませんから。
家庭教師の先生とは、中学卒業と同時にさようならしました。彼がその後何をしているかは、俺の知る限りではありません。高校生になった俺は、それなりに友達もできて、人付き合いと両立できる程度に勉強もやって、なんとなく過ごしていました。レベルの高い高校でしたが、落ちこぼれることもなく、ついて行くことができました。
清楽さんに出会ったのも、確か、この辺りでした。俺は高校一年生だったはずです。もしかしたら二年生だったかもしれませんが、三年生ではなかったはずです。彼女の年齢は今も昔も知りません。清楽さんは、行き倒れていました。俺がちょうど運良く1人で帰る日に行き合ったから良かったようなもので、誰かと一緒だったら絶対に避けて通ります。あの人は道端に横たわっていて、ぱっと見死体みたいで、でも近づいてよく観察すれば体は呼吸の度に緩く揺れていて、それによってぎりぎり生きてることが判別できました。生きてたとしても死にかけなのか、救急車を呼ばなければならないのか、1人では判断がつかなくて、とりあえず俺は彼女を揺すりました。焦っていたんです、正しい対処法じゃなかったとしても許してください。しばらくして、うーん、むにゃむにゃ、と絵に描いたような寝言を口にした彼女は、ぼんやり目を開けました。
「……だれだい、きみは」
それが彼女との出会いでした。この出会い以降俺は彼女に足として使われ続けることとなります。この時に、家に連絡したいんだ、携帯電話を貸してくれたら嬉しいな、なんてお願いを聞かなければ良かったのですが、今更後の祭りです。まあ、それはそれ、別の話でのお楽しみということで。
そして、大発表。好きな人が、できました。またかと思ったでしょう。惚れっぽいんですよ、意外と。
一つ上の先輩でした。みんなの真ん中にいて、スポーツが得意で、いつも明るく笑っていて、購買戦争で勝ち取った焼きそばパンを大きな口で頬張っては笑う、元気な人でした。今まで好きになった人とはタイプが違ったので、俺は驚きました。けれど、好きになってしまったものは、好きになってしまったのです。先輩のことを目で追いかけて、一年が経ちました。先輩は目立ちたがり屋な節があって、性格と同じく、明るい色の目立つフレームの眼鏡をかけていました。どうやらあんまり目は悪くないようで、ふとした時に眼鏡を外して、目を細めていることもありました。男にしては高い声と、俺より小さな体が、劣情を煽りました。話したこともないのに、誰かと会話している先輩を、俺は何度こっそり隠れ見て、話の内容を盗み聞きしたことでしょう。彼女がいないことで、どれだけ安心したでしょう。先輩は、俺のことなんて知らないのに。俺の、ことなんて。
「後輩くんよ、お金かしてくんないか?」
へ、っ。素っ頓狂な声が、喉から飛び出しました。自販機に隠れて、待ち合わせのふりをして先輩のことを窺っていた俺に、先輩は話しかけてきました。校章の色かネクタイの色を見れば何年生かは分かります。それで、後輩くん、と呼ばれたのかな。そう推測を立てました。見ておくれ、と扇動されてついて行くと、自販機の下に転がって行ってしまったらしい五百円玉を指差されました。結構、遠くにありました。手では到底、届かないくらい。
「あれ、おれの全財産なわけ。今めちゃめちゃ喉乾いてんの、でも五百円くんはあんなとこに行ってしまわれてね」
だから金を貸してくれないだろうか、ちゃんと返すから、生徒証も見せてあげるから、おねがい、と先輩は俺に向かって手を合わせて、ぺこりと頭を下げました。願っても無いチャンスだと思った俺は、頷くよりも早く財布を出しました。後から先輩に聞いた話では、あんまり財布を出すのが早かったので、すわ怖がらせてしまったか、脅すつもりはなかった、と内心で不安な思ったそうです。こっちにだってそんなつもりは勿論ありませんでした。
それから、そのことをきっかけに、俺と先輩は仲良くなりました。同級生の友達もたくさんいましたが、先輩の友達もたくさん増えました。朝、昇降口で。お昼、自動販売機の前で。授業の間の休み時間に、廊下で。帰り道、偶然ばったり。顔を合わせる度に、「けんせー!」と、まるで何かの号令のように大声で呼ばれることが、嬉しくてたまりませんでした。好きな人の視界の中に、自分は確かに存在する。たったジュース一本の繋がりが、こんなに強くなったのです。あの時、先輩を後ろから見つめ続けていてよかった。あの時、あの場にいたのが、俺で良かった。本当に、希望でいっぱいで、毎日が楽しくて、頑張ってこの学校に入った価値があったなあ、と心の底から思いました。先輩と、先輩の友達の輪の中に入れたことが、すごくすごく、本当に、嬉しかったんです。
だから、ちょっと、ミスっちゃいました。
「……は?」
返ってきたのは、唖然とした声。コーヒー牛乳のパックから飛び出たストローを咥えていた口が、ぱかんと開いて、そのまましばらく固まりました。俺がうっかり、好きです、とか先輩に言っちゃったからです。そんなつもりはなかったのに、ついうっかり、好きだって、言いたくなっちゃって。この沈黙、というか表情の感じには、見覚えがありました。家庭教師の先生の顔がフラッシュバックして、笑い飛ばされた衝撃が舞い戻ってくるようで、ざっと血が足元に落ちたみたいな感覚に襲われて。早く撤回しなくちゃ、と口を開いた俺に、先輩は、片手を上げました。制されたその一瞬で、俺の喉は凍りつきました。
「待って。そういうのは、きちんとしなくちゃいけない。ふざけて言ってるなら、今言って。そうじゃないなら、おれもちゃんと、考えるから」
ふざけて言ってなんか、いませんでした。はくはくと口を開け閉めしながら何も言えない俺の目をまっすぐに見た先輩は、しばらく間を置いて、わかった、と頷きました。わかった、けれど、少しだけ時間を頂戴。おれも考える時間が欲しいんだ。そう淡々と告げられて、頷き返しました。俺は何も言えないまま、先輩はコーヒー牛乳を飲み終わって、休み時間も終わって、先輩は自分のクラスに帰って行きました。なかなか動こうとしない足を無理やり動かして、俺も自分のクラスへ帰りました。友達は、時間ぎりぎり、むしろちょっと間に合っていない勢いの俺を見て、どうしたんだと不思議がっていましたが、何事もなかったかのように振る舞いました。必死でした。無かったことにしたくて、明日になったら先輩は今日の記憶を全部失っていることを願って、胸が張り裂けそうでした。
次の日が来ないことを祈りましたが、朝は毎日同じように巡ってきます。残念なことに、朝日は眩しく、空は晴れわたる、いい天気でした。俺は晴れが嫌いになりました。太陽なんてクソ喰らえだな、と思いました。生まれて初めて学校になんか行きたくないと思いましたが、親が心配するので、行きました。心配はかけるもんじゃありませんから。家を出てそのままどこかに行ってしまう手もありましたが、足が勝手に学校を目指していました。飛んだ裏切り者がいたものです。いまにも死にそうな面持ちで自分の席に座っているうち、一時間目が終わり、二時間目が終わり、三時間目も四時間目も終わりました。お昼休みになると同時に、クラスの中はがやがやと、席を立ってご飯を食べに行く人たちの声で溢れかえります。俺はぼおっと座っていました。何をする気にもなれなくて。友達は、そんな俺を食事に誘ってくれましたが、やんわり断りました。ほっといてくれ、と思いました。
「けんせー!」
肩が跳ねました。先輩の声に、世界は色づきました。俺の背中側のドアから入ってきたらしい先輩が、なにやら1人でわいわい言いながら歩いてくるのが、声と足音で分かります。席を立って逃げてしまおうとして、でもそんなことをしたら先輩に嫌われてしまうかもしれないと思うと体が動かなくて、そんなこんなまごまごしている内に、先輩が机の目の前まで来ました。せめてもの抵抗に、机に突っ伏してぺたんこになっている俺を見て、なにしてんだ、ばか、と先輩は呆れたみたいに頭を軽くはたきました。
「頭上げたら、好きになってやってもいい」
ぽそりと、小さく囁かれた言葉に、勢いよく飛び起きました。俺の耳に口を近づけていた先輩は、いきなり体を起こした俺に驚いて、たたらを踏んで後ずさりました。隣の友達の机に手をついて目を丸くしている先輩に俺は、吹き飛ばしてしまったことを謝って、でももしかしたら先輩なにか勘違いしてないかなって思ってそれも聞きたくて、ていうかここ教室のど真ん中だし、今の所誰かに話を聞かれている様子はないけれど、それでも。ぼろぼろと零れ落ちたばらばらの言葉の端くれを拾った先輩は、あー、うん、と相槌を打ちながらしばらく聞いてくれましたが、同じ話が三回目になった辺りで、半ば切れ気味に「場所変えようか!?」と机を叩きました。俺は大人しく従いました。


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