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おはなし



「おはよう」
ぱたぱたと走って寄ってきていたのは、少し昔のことだ。基本寝てばかりいるししまるは、俺のおはように、片耳をあげて、顔だけこっちに向けて寄越した。わん、って大きく吠えたりもしない。そっちから来ないのでこっちから近づくしかなく、しゃがんで撫でれば、満足そうに目を閉じた。
「お散歩行こうか」
さっきよりも大きく耳が動いて、いいだろう、みたいな顔をして、やっと立ち上がった。ぺたぺたとししまるが歩いて行った先にはリードがかけてあって、これでしょ、って見上げる。そうそう、大正解。新しくてぴかぴかとは行かないリードとお散歩セットを持って、靴履かなくちゃ、って歩き出したらすぐついてきた。最近素早く動かなくなった割に、どうも散歩は好きらしい。
「ししまる散歩連れてく」
「行ってらっしゃーい」
台所に多分いるんだろうけど姿が見えない母に向かって、行ってきますのつもりなのか、ししまるも一応、わん、って吠えた。頭がいい犬である。
家を出て、どっちに行こうか、ってししまるに聞いてみた。いつもだったら俺が連れて行くんだけど、ていうか普通散歩ってそういうもんだと思うけど、今日はししまるに任せてみようかと思ったのだ。歩き出さない俺を見上げて鼻を鳴らしたししまるにもう一度、どこ行きたい?と聞いてみる。考えるように見回したししまるは、こっちにしよう、とばかりに左のほうへ歩き出した。了解。
右側に行くと車通りの多い道に出るけど、左側に行くと絵に描いたような住宅街だ。車が通る道はついでに買い物したりする時に使うけど、こっちはほんとにただの散歩コース。ししまるは人が少なくて静かなのが好きなので、然もありなんといった感じ。思い出してみれば、小さい頃よく使ってたのはこっちの道だったっけ。航介と交代でリードを持って、その時はまだししまるも若くて元気だったから、鳥を追いかけて急に走り出すししまるに2人で引きずられたりして。道の脇にいた尾の長い鳥がぱたぱたと飛び立ったけど、ししまるはそれをぼんやり見送っただけだった。おじいさんめ。
「……追っかけないの」
「?」
一応聞いたら、きょとん、と見上げられた。追いかけてほしいわけじゃないけどね、俺も追いかけられないから。きっとリード手放しちゃうから。
しばらくのろのろ歩いて、不意にゆっくりになるししまるを待ったりして、ぶらぶらしてるうちに結構な時間が経った。おじいさんだから、疲れちゃったかな。そう思って、ゆっくりになったタイミングで俺も歩みを緩めれば、ししまるの目の先にはバッタが飛んでたり花弁が舞ってたりして、なんだ、これ見たいだけか、って安心する。覚えてないぐらい前から、俺が小さかった頃から、ずっとずっと一緒だったから、もうとっくに年寄りの犬になってるってことも分かってるし、昔みたいに走り回って転げ回って人のことを突き飛ばして上に乗っかったりするような遊び方はしないんだろうなとも思う。それはなんとなく寂しくて、悲しくて、でも仕方のないことなのだ。俺がまだ小さかった頃に一回、ししまるは大きい病気をしている。それこそ、生死の境目を彷徨うくらいのやつ。けどそこから復活して、今こうして元気で暮らしているのだから、ちょっとくらいおじいさんになっただけじゃ、悲しむには至らないのだ。年相応、こんなもん、だから仕方ない。そうこう考えてるうちに、ぐるっと回って家の近くまで戻って来てしまった。
「休憩しようか」
昔よく行った秘密基地。ししまるの定位置は、階段登ってすぐの開けたところで、それは今も昔も変わらないようだった。ぺたりとそこに伏せて大きな欠伸をしたししまるが、あなたも座りなさいな、って感じで一旦落ち着いた場所から少しずれてくれた。幼かった頃は、神社の前の三段ぐらいの段に座ってたっけ。今はししまるの隣に座ることにした。ふわふわの毛並みを撫でてたら、頭の上でさやさや木々が揺れて、ししまるがぷーすか寝息を立て始めた。早いなあ。安らかすぎるぐらい安らかだし。撫でながら寝てしまったので、撫でるのをやめると、ぴたりと寝息が止まって、おおん?って見上げてくるので、やめられない。やめるつもりもないんだけども。
「おーい、とーちゃーん」
「……んぁ」
「んあ、って。おっ、ししまるくんと一緒だったの」
「和成さんなにしてんの」
「家に帰るとこだよ」
よいこらしょー、と掛け声をかけながら階段を上がってきた和成さんは、下から見えたけど一人ぼっちなのかと思ってさあ、と喋り出した。一人ぼっちでここにいたら寂しすぎるでしょ。これあげるよ、うちじゃ食べないから、とプリンを渡されて受け取る。うちに持って帰るよりも先輩たちに渡した方が絶対いいと思ったんだけどやっちゃんに捕まると長いから渡しに行きづらかったんだよ……と小さくぼやいているのは、聞かなかったふりをした。分かるって言いたいのは我慢した。
「それじゃ、あっ」
「ん」
「とーちゃん、明日東京行くんだっけ」
「……うん」
「そっか。そっかあ、寂しくなっちゃうね」
「そうかな」
「そうだよ。ししまるも、かなしいね」
俺とは違う手で撫でられて、わふ、と欠伸をしたししまるは、体を起こしてプリンの入ってる袋に鼻を寄せた。だめだよ、ししまるは食べれないから、と遠ざければ、和成さんは笑っていた。なんとなく、考えないようにしてたんだけどな。
じゃあねー、と階段を降りて行った和成さんがそのまま車に乗り込んだのが見えた。ここは家と程近いから、乗せてってくれってほどでもない。なにこれ?の勢いでプリンを嗅いでくるししまるに、もうだめ、おしまい、と立ち上がれば、仕方があるまいって感じでついてきた。家に帰ろうか。
「とーちゃん、おかえり」
「ただいま。プリン」
「あらー、どうしたの」
「隣ん家がくれた」
「みーちゃん?じゃないか、江野浦くんね」
「ん」
「どうしたの」
「ししまるが、離してくれない」
「……今日は、お家の中で一緒にいたいんじゃない?」
らしくもなく擦り寄ってくるししまるに、じゃあそうしようか、とリードを外した。ししまるだって悲しいって和成さんが言ってたのを思い出して、そうなのかな、ってちょっと後ろ髪引かれたから。
それからずっと、珍しく、ししまるは離れてくれなくて、夜ご飯食べる時も隣にいたし、テレビ見てる時も隣で、お風呂入る時も脱衣所までついてきたし、寝る時も静かに後ろをついてきて、布団の横に丸くなった。おいで、って中に入れてあげたら、ぴくんと耳が動いて、添い寝する体勢にのそのそ動いてくれた。うん、って独り言ちて、思う。寂しくないって言ったら、嘘になる。航介とか朔太郎とか、父母とか、人と遠ざかるのは、何とかなるんだろうなって自分でも思ってた。未練とか執着とか、今まであんまりしてこなかったから。けど、ししまるはちょっと、そういうんじゃなくて、違くて。明日っから、散歩に連れてくことも、寝てるとこ撫でることも、ご飯あげることも、当分無くなるんだって思うと、それは少しだけ辛い。
「……元気でいてね」
俺の発した言葉にぱちりと目を開けたししまるが、返事をするように、くうん、って鼻先を擦り寄せて来た。また、お散歩行こうね。



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