このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



「真守、起きろ。朝だぞ」
「……んん」
「藍麻が朝飯係だから、うかうかしてると清楽に食われるけど、いいのか」
「……やだあ」
「早くしろよ」
たくみ兄ちゃんは、朝は強い。普段はぼんやりしてるくせに。俺の布団を半分だけ剥いで、ストーブをつけて部屋を出て行ったたくみ兄ちゃんを、眠い目で見送った。まだ目覚まし鳴ってないじゃんかよお、と思った矢先に枕元でアラームが鳴った。ほぼ同じタイミングで起こすなら目覚まし時計なんかいらないんだよ、たくみ兄ちゃん。
らんま姉ちゃんが朝ご飯係だと、おいしいから減りが早い。てつた兄ちゃんとりつき兄ちゃんは早くに出て行くから、もういない。みり姉ちゃんも、もう畑にいる時間かもしれない。リビングの端っこで、うとうとしながらじいっとテーブルの上の朝ご飯を見ているきよら姉ちゃんに、おはようを言って、いただきます。狙われている。洗い物してたらんま姉ちゃんがこっちに来て、テレビを見始めた。今日はお天気だって。
「髪の毛跳ねてるよ」
「んえ」
「今日卒業式なんでしょ。しゃんとしていきなよ」
「うん」
鏡の前で、盛大に跳ね散らかしている右側の髪の毛と戦っていたら、部屋で寝ることにしたらしいきよら姉ちゃんがクッション抱っこして通りかかって、ついでに直してくれた。美容師さんみたい。てつた兄ちゃんが使ってる、髪の毛につけるしゅっしゅってやるやつ、借りちゃった。大人の匂いがする。
「行ってらっしゃあい」
「行ってきまーす!」
鞄を背負って、家を出た。いつも通りの道、いつも通りの制服。これから向かうのだって、いつも通りの学校。だけど、今日で最後なのだ。俺たちの一つ上の先輩は、今日で卒業する。俺はそれにはついていけないし、引き止めることだってできやしない。できるのは、見送ることだけ。たった1年間の差が、こんなにも深い溝になるなんて、今まで知らなかった。自分だって四月になったら、ああいう風に、高校三年生になるのだろう。あんな風に、なれるのかな。あんまり自信ない。
先輩がいてくれないと、やだなあ。

学校に着く前に、校門のところで都築先輩に会った。声に出すといつもかみかみになって、ちゅじゅき先輩になっちゃって、まともに言えた試しがないのだけれど、なんだい後輩くん、っていっつも許してくれる。優しい。
「当也先輩見ましたか」
「見てませんねえ」
「がーん」
「教室にいるかなあ。見に行く?」
「……………」
「ん?」
都築先輩は登校途中で追い剥ぎにあったようだった。まだ卒業式始まってないのに、ボタンが全部ない。俺の視線を追った都築先輩が、あーこれ、取られちゃったんだよねー、と苦笑いした。閉まんなくて困ってるらしい。安全ピンで留めるそうだ。もてる男も大変だな。
このクラスには、知ってる顔がたくさんいる。主にさくちゃん先輩とか霞ヶ浦先輩のおかげなのだけれど、今だってきょろきょろしている俺の肩を、次期生徒会長じゃん、と叩いて通り過ぎていった先輩がいた。あの人なんだっけな。弥生軒先輩と一緒にいるの見たことあるけど、名前知らないや。
「瀧川、当也知んない?」
「さっき自販のとこにいた」
「だってさ、後輩くん」
「ありがとうございます!」
「贈る言葉、楽しみにしてんねー」
「はい!がんばります!」
ひらひら、手を振られて、教室を駆け出す。たきがあ先輩。覚えたぞ。
階段を降りた先、自販機の前で、目が真っ赤なもずくちゃんとすれ違った。俺が構うともずくちゃんは怒るからそおっと通り過ぎたけど、なにかあったのかなあ。
ちなみに、自販機のところに、当也先輩はいなかった。どこに行ってしまったんだろう。最後にご挨拶したいのにな、と思いながら、校舎沿いに曲がる。
「あっ、さくちゃん先輩」
「その声は真守くんだなー」
「そうですよー」
花壇に向かって仁王立ちしていたさくちゃん先輩を発見した。振り向きもしないさくちゃん先輩に顔が見えるように回り込んだら、背中しか見えないように逃げられた。なにそれ、たのしい。
「楽しくない楽しくない!顔が見えないように隠してんだから、見ないようにしてよ!」
「おや」
楽しくないらしい。ぐるぐる追いかけてたら怒られてしまった。顔を両手で隠しているさくちゃん先輩に、泣いてるんですか、さびしいんですか、って聞いてみたら、泣いてるわけないじゃん、俺生まれた時から泣いたことないもん、と指の間から目が出てきた。確かに泣いた人の目じゃない。だって、泣いた人は、目がうるうるしてたり、赤くなってたりするんだ。さくちゃん先輩はぜんぜんそんなことない。面白いから、さくちゃん先輩(目)との会話を続けることにした。
「当也先輩知りませんか」
「とーや?知らないよ」
「なあんだ。さくちゃん先輩はなにしてたんですか」
「女子に頬を叩かれるなどしていたよ」
「知ってます!それ、SMプレイって言うんですよね!」
「違う!そういうやつじゃない!」
「そうなんですか?」
「真昼間に人気のない花壇の前で引っ叩かれて興奮してたら末期の変態だよ……ていうかなんでそんなこと知ってるの」
「りつき兄ちゃんの部屋から昨日きよら姉ちゃんが持ってきた、真守はまだ読んじゃだめな本に書いてありました」
「まだ読んじゃだめな本を君は読んだんだな、いけないんだ」
「きよら姉ちゃんが音読してくれたのを聞いただけなので、俺は読んでません」
「音読!?相変わらず砧家かっとんでんな!」
「全然興奮しませんでした、病気かもしれません」
「それで興奮したら真守くんは心に病を抱えているよ……」
ていうか卒業式にする話じゃないよ!と地団駄を踏んださくちゃん先輩に、笑って誤魔化す。だって、湿っぽくさようならなんか、したくないじゃないですか。さくちゃん先輩だって、ずっとほっぺた隠してるし。死に別れるわけじゃない、会おうとすればまた会える。そんなこと分かっちゃいるけど、でもどうしようもなく一つの区切りとして、高校二年生と高校三年生の間には「卒業式」という溝が存在するから。それを埋めることは誰にもできなくて、だからせめてもの抵抗に、涙ながらのお別れは嫌だ、なんて渋ってみるのだ。ありがとうを言って、笑って送り出せないと、先輩だって安心して巣立てないでしょう。そういう後輩でいたい。そういう関係でいたい。だから、今日だから、いつもよりもっと、たくさん、ふざけてみたりなんかしちゃったりして。次期生徒会長なのに、お前なあ、まったく、みたいな。
そんなことを考えているうちに、さくちゃん先輩も時計を見て溜息をついた。もうそんな時間なんだ。俺も支度があるから、そううかうかはしていられない。
「当也探してるんでしょ?見つけたら、言っといてあげるよ」
「はい」
「ん、あれ?航介は?いいの?」
「……んー」
「……あれは先輩ですらないと……」
「……あー、いや、えーと……」
「すげー濁されてる、可哀想なゴリラ」
うーんと。どうしたもんかね。

厳しい寒さが残りつつも、なんとかかんとか。繰り返し練習した送辞の文章を、もう一度目で追いながら、ぼんやり思い出す。たくさんの思い出がありました、なんて書いてあるけど、ここに書いてある思い出よりももっと、一人ずつにそれぞれ、その人と俺とだけの思い出があるはずで、それをクローズアップしていたら何時間もかかっちゃうからそんなことできないわけだけど、でもやっぱりこんな、二分やそこらで終わるような文章の中に「たくさんの思い出」なんてもんが収まるわけがないのだ。だってたくさんだぞ、たくさん。二分で話し終わる思い出をたくさんとは言わないだろう。
舞台の脇からは、体育館の中に整然と並んだ卒業生が見える。さくちゃん先輩が欠伸してるのも見えてるし、都築先輩が背筋を伸ばしてる隣で、さっきクラスにいたたきがあ先輩が眠い目を必死でこじ開けてるのも見える、たまこ先輩がうるうるしてるのも見つけた、当也先輩もここに来てやっと発見できた。もちろん、滝ノ上先輩も見つけた。
まだありがとうを言い終わってないのに、送辞が終わったら、卒業式が終わったら、彼らはこの学校からいなくなってしまうのだ。会おうとすればまた会える、けど、毎日会えるわけじゃない。三年生の教室の扉を開けたら、廊下の曲がり角を曲がったら、校庭の傍にある花壇の横に行ったら、下駄箱の近くの自動販売機で立ち止まれば、今までは会えたのにな。
在校生代表、と名前を呼ばれて、なんとなく喉が詰まった。くしゃくしゃになった送辞の紙を握り直して、ほんとなら一人ずつ、たった一人に向けての送り出す言葉を、その人と作ったたくさんの思い出を、何時間もかけてゆっくり話したいところを、我慢して。決まり切った文句を、口の端に上らせた。
意外とつまんないんだね、って、よく言われます。

「当也先輩!」
「うわ」
「どこにいたんですか!探しましたよ!」
「……教室にいたよ」
「嘘!」
嘘はついていない……と困った顔をした当也先輩は、俺が後ろから大声で呼んだせいで跳ねた肩を、ようやく下ろした。お花を胸に付けて、さっき貰ったばっかりの証書が鞄からはみ出している。もう帰っちゃうんですか、って聞いたら、朔太郎が下で待ってるから一緒に一旦帰るところ、って言われた。一旦、ってことは、多分きっと先輩たちでもっかい集まって、別れを惜しんだり、惜しまなかったり、するんだろうな。それを邪魔するのはよくない。
「とーや先輩」
「はい」
「ありがとうございました」
「……はい」
「いろいろとひっくるめて全部」
「……こちらこそ?」
なぜか疑問形で語尾を上げた当也先輩が、不思議そうな顔をした。なんでお礼を言われるのか分からない、と言いたげな表情に、まあ俺だってなんでわざわざお礼を言うのかなんて分かんないけど、当也先輩に対してはきちんとお礼を言っておくのが筋だと思うのだ。だって、ほんとにたくさん、お世話になったし。さくちゃん先輩とはいっぱいふざけて、元町台先輩にはいっぱいどやされたけど、当也先輩とは一番普通の先輩後輩でいられた気がする。それなりに世話を焼かれて、こっちからもお返しをして、敬って、後をついてきた。それができたことが嬉しいから、「ありがとうございました」なのである。
「朔太郎、下にいるよ」
「さくちゃん先輩とはさっきお話ししましたのでっ」
「ふうん」
「俺、生徒会のお仕事あっても、部活やめませんから、また絵見にきてくださいね」
「……でも俺、東京に出ちゃうんだけど」
「気が向いたらでいいから!」
「いや距離的に」
「はいって言ってください!嘘でいいから!」
「はい」
じゃあまたね、と当也先輩は俺が呼び止める前と同じように、歩いていった。またね、か。地元を出てしまう以上、俺が繋がりを持っている先輩たちの中で、当也先輩とは一番会いにくくなると思うんだけど、またね、って言ってもらえると、ちょっとだけ安心する。関係性がまだ繋がっているのだと思える。
三年生の先輩たちは、もうほとんど校舎内からいなくなった。みんなきっと、当也先輩みたいに、一回家に帰って荷物を置いて、着替えるなりなんなりして、また同級生同士で集まるのだろう。もずくちゃんが前に言ってたみたいに、部活で集まるところもあるかもしれない。けどうちの部はそういうことしないから、俺のお仕事はもう終わりだ。四月になったら、高校三年生になって、生徒会長を一生懸命やって、三月になったら諸手を挙げて卒業していくのだ。先輩たちみたいに。
軽い鞄を背負って、駅までの道を一人で辿る。電車で来てる人はほとんどいないから、一緒に帰る人なんて今までだっていた試しがほとんどないのだけれど、今日に限ってはものすごく寂しく思えた。ぺったぺった、自分の足音を聞きながら歩いて、ふと顔を上げた。
「あ、っ」
向かいっ側から、自転車に乗って、滝ヶ原先輩が来る。あっちもこっちに気づいて、スピードを緩めた。卒業証書の筒がないから、一旦家に帰って戻って来たくちなのかもしれない。逃げ場なんてないのにもそもそ後ずさる俺を見て、なにしてんだこいつ、と変なものを見る目をした井ノ原先輩に、ええと、ええと、ってもごもご答えた。あんまり会いたくなかったことだけは確かで、だって、いなくなることが一番想像できない先輩って言ったらこの人だし、おふざけ抜きで言わなきゃいけないことがいくつかあるし。だから延々、ええと、えーっと、って誤魔化しているんだけども。
「……なにしてんの」
「……ええと……」
ついに声に出して聞かれてしまった。ので、答えざるを得なくなった。しかも自転車から降りられてしまった。もうだめだ。おしまいだ。俺をとおせんぼするみたいな配置で、自転車から降りてこっちのアクションを待っている江ノ島先輩、じゃなくて、なんだっけな。とりあえずとにかく先輩に、あのう、と声を上げた。
「なんだよ」
「……ご卒業、おめでとうございます……」
「ああ、うん、ありがとう、……変なものでも食ったの?」
訝しげな顔をされて、そんなことはないと首を横に振った。とりあえず、にしちゃ、堅苦しすぎたか。
「ちょっと待ってください」
「……俺急いでんだけど」
「待ってくださいって言ってるでしょうが!」
「なんで逆ギレらんなきゃいけないんだ……」
「ええと、えーっと、江野浦先輩」
「だから違うって」
「え?」
「えっ?」
「……また間違えました?」
「……ごめん、もう一回言って、聞き間違いかもしれないわ」
「楚々麗先輩」
「奇跡の一回かよ!」
ふざけんな!と自転車のハンドルを叩いた先輩に、合ってたなら合ってるって言ってくれないと!今のが合ってたんだなってインプットできないじゃないですか!とぴーぴー言えば、それが間違え続けている側の態度かと怖い顔をされた。元から怖いけどもっと怖い。
「卒業するっつってんのに今更教えるのもすごく嫌だけど」
「はい」
「お前、成績はいいんだよな」
「はい」
「はいじゃねえよ……」
「頭は悪くありません」
「……いいか、お前の先輩が、当也が言ってた俺の名前の漢字の覚え方を、今から教えるからな」
「はい!」
「俺じゃなくて当也が言ったんだと思えば覚えられるだろ」
「多分無理です!」
「じゃあ言わねえよ!舐めてんのか!」
「で、でも、当也先輩の漢字の覚え方は知ってます」
「弁財天の神様の弁財天で、そのまんまでいいじゃんか」
「弁護士の財産は天井知らず、で弁財天です」
「嫌な覚え方だな……」
「鍛冶ヶ谷先輩の漢字の覚え方、教えてくださいよ!ちゃんと覚えますから!」
「もうやだよ、望みゼロだから」
お願いお願いお願い!ってぺこぺこしながら500回ぐらい頼んだら、嫌そうな顔で教えてくれた。そういうとこが朔太郎にそっくりだ、って。褒めてるのかな。江戸の野原に、海の方の浦。名前の方はどうでもいいだろ、とりあえず苗字だ、脳みそスポンジ野郎、と余計な悪口をくっつけられて、はい!江戸の野原に海の方の浦!って大きい声で復唱したら、うるせえと叩かれた。でももう覚えたような気がする。
「言ってみろ」
「戸原浦先輩!」
「ふざけてんのか」
気を取り直して。いつも楽しくなりすぎてしまうから、要するに巫山戯てしまうから、本題に入れないのだ。名前を間違えたらまた横道に逸れてしまうので、せんぱい、とだけ呼んだ。めんどくさそうな、なんだよ、に対して、頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……なに、急に」
「たくさんお喋りしてくれたのも、愛想尽かさないで怒ってくれたのも、うちに来てくれたのも、仲良くしてくれたのも、全部です」
ぎりぎりまで迷ったけど、やっぱり、ごめんなさいよりもありがとうの方が、しっくり来ると思って。先輩と仲良くなれて、良かったです。真守は楽しかったけど、先輩はどうですか。名前も覚えられない抜けてる後輩は、お邪魔でしたか。そうでないと、嬉しいです。お邪魔じゃないなら、これからも仲良くしてくれたら、もっと嬉しいです。
ぽつりぽつりとそう告げれば、ぽりぽり頰を掻いた先輩が、いや、あの、うーん、って迷ってから、口を開いた。
「当也の後輩だから、最初はそりゃ、無碍にしちゃいけないと思ってたんだけど。俺部活とか入ったことないから、後輩とかいなくて、どう扱っていいか分かんなかったし。でも、なんか別に、気ぃ使わなくていいっぽいなー、とか思って。お前すぐうちのクラス遊びに来ちゃ騒ぐし、2年の砧って有名だし、……なんて言ったらいいか分かんないけど、なんていうか、楽しかったよ。嫌じゃなかった。俺って怖い先輩だった?」
「いえ、全然」
「……即答ってどうなんだよ」
「え、えどの……えっと、こうのうら先輩」
「なに」
「これからも、仲良くしてくれますか」
「……別のやつにもそれ言った?」
「言ってません」
「……じゃあやだな……」
「なんでですか!ひどい!」
「生徒会長ちゃんとできたら、飯ぐらい奢ってやるよ」
「えっ、ごはん」
「ちゃんとできたらな」
「ごはん!なにごはんですか!?ハンバーグですか!?」
「ちょっと、もういい加減遅刻しそうだからマジでどいて」
「ハンバーグ!ハンバーグですよね!?ハンバーグ!」
「うるせえ!退け!後ろに乗んな!」
「ハンバーグ!いえーい!ハンバーグ!がんばります!」
「乗んなっつってんだろ!降りろ!オラ!」

鞄を引っ掛けて、靴を履く。もうすぐ高校三年生。だって、三年生の先輩は、卒業してしまったから。きよら姉ちゃんとらんま姉ちゃんがお見送りしてくれて、ばたばたと駆け出した。今日は生徒会の新年度準備のお仕事だけど、遅刻しちゃったら大変だ。もずくちゃんに鬼のように怒られる。
「行ってきまあす」
「いってらっしゃい」
「真守、また頭跳ねてるー……あー……」
「……行っちゃったし」
「いいんじゃなあい?そういうせーとかいちょーがいても」


7/68ページ