このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



「なあ、弁当」
声に振り向くと、隣には有馬が座っていた。もはやトレードマークみたいになってるいつもの青いジャージで、炬燵に下半身を埋めて、青いマグカップを持っている。青大好きかよ。ほかほかと湯気が立っているそれの中身は、なんだろう。ここからじゃ見えない。見える範囲で分かる情報は、ここは俺の家だな、ってことくらいだ。目が合って、窺うように覗き込まれて、耳にかかっていた明るい色の髪がさらりと零れ落ちた。なあ、ともう一度、確認するみたいに俺を呼んだ有馬が、ふいっと目線を外す。つられてそっちを向けば、テレビがあった。スクリーンみたいに大きいやつ。うちのテレビ、こんなに大きかったっけ。
「ほら、弁当の好きなやつ、出てるよ」
画面の中では、きらびやかなペンライトがまるで波みたいに踊っている。スポットに照らされて歌い踊るのは、今一番売れてるアイドルだ。滴り落ちる汗の雫を弾き飛ばしながらファンに手を振って、弾ける笑顔でカメラに向かってピースした、明るい髪。ひらひらと舞い落ちる紙吹雪と金銀のテープが、ステージの上にいる有馬の頭に乗っかって、ちかちか光を反射する。瞬くそれに目を細めると、わあっと歓声があがった。
「みんな、ありがとー!次の曲でラスト!一緒に歌おうぜ!」
女の子の黄色い声と、爆音で流れ出すメロディー。頭上では、吊られたカメラがびゅんびゅん動き回っている。そりゃそうだ、人気絶頂のアイドルのファーストライブなんだから。くるくると、きらきらと、人懐っこい笑顔でファン一人一人に目を合わせていく有馬を、俺はステージの下から見上げている。指先まで目が離せない、瞬きする時間すら惜しいほどに、見るもの全てを魅了する歌とダンス。歌いながらこっちに向かって駆け寄って来た有馬は、俺が見上げていることに気がついて、ステージから飛び降りた。王子様みたいな衣装の裾が翻って、俺を抱き上げて急上昇。このライブの見せ場はワイヤーアクションなのかな。ぐんぐん足元が遠くなって、ファンたちはゴミ粒みたいになってしまった。ねえ、上がりすぎなんじゃない。
「うん?だって、死んじゃったんだから、しょうがないだろ」
えっ、なにそれ。後ろを見れば、有馬の背中には羽根が生えていた。ばさばさと大きな羽根を動かして、軽々と天高く上がっていく有馬は、俺を抱えたままだ。いつの間にか、地上なんて見えなくなっていた。ぶらぶらする足にほんの少し恐怖を覚えると、真っ白なローブを纏った有馬が、からから笑った。今から天国に連れてってやるんだから、と言われたって、困る。まだ死んだつもりはない。しかしながら、有馬の頭には光の輪っかがついていて、背中には羽根が生えていて、どこからどう見ても天使だ。フランダースの犬的な感じにされている。宙吊りだけど。このままどこへ連れて行かれるんだろう。どこだっていいけど、途中で一人にされて置いてかれるのは嫌だな。そんなことをぼんやり考えていたから、ばさばさと軽快に続いていた音が、ばさ、ばさ、ってゆっくりになってきているのには、気付けなかった。
「あっ、やっべ、ごめん!」
ぱっと手が離れて、一瞬静止。天使でも手を滑らせるのか、と思うような余裕もなく、重力に従って自由落下が始まった。ほんっとごめん!と謝る有馬の声が遥か上空から聞こえて、そっちを見るより早く、どぷんと水の中に飛び込んだ。落ちた先はどうやら海だったらしい。危ないところだった、死なずに済んだ。がぼがぼ、水泡が宝石みたいに舞い上がる。
「なにやってんだよー、ほら、行くぞ」
ぐいっと手を引かれて、青いひれがぼんやり見えた。引っぱられるままに水の中を揺蕩う。上半身裸に、下半身は青い魚の有馬が、今日は沈没船を見にいくって言ったじゃんか、と拗ねたように口を尖らせて、すいすいと泳ぐ。ああ、そっか、人魚だ。そうだ、そんな約束をしていたかもしれない。任せっぱなしじゃなくて自分で泳がないと、とひれを同じように動かそうとして、体が動かなかった。だって俺、普通に、足だし。そんな便利な足ひれ付いてないし。それに気づいてしまった途端、呼吸が苦しくなって、酸素が足りないと脳が訴えてくる。でも、水面なんか見えない。苦しむ俺に、進むのをやめた有馬が、心配そうな顔で立ち泳ぎして、止まってくれた。どうしたの、と不安そうに問いかけられて、頰に手を当てられて、大丈夫大丈夫、なんて言う余力は残っていなくって。頰を滑った手が、首にかかった。
「苦しいんだろ?」
ほら、苦しいときは逃げなきゃだめだぞ。ゆったりと、絞め上げられて、呼吸が浅くなる。酸素が足りなくて、ざんばらに乱れて傷んだ髪の先が、ちらちらと歪んだ。部屋の隅には、濁った水槽、ぼろぼろのカーテンにゴミが散乱した床、切れた電球。酷く愉しそうに俺の首を締め上げて、へらへらと笑う有馬の後ろに、べったりと赤黒い液体の付いた刃物が転がっていた。声も出ない。きっとこのまま、殺されるんだ。せめてもの抵抗に、俺の首を絞め上げる手を、かりかりと引っ掻いてみたけれど、子犬が戯れてるくらいにしか受け取ってもらえなかった。バラエティでも見てるみたいに軽く笑い飛ばされて、はくはくと唇が震えた。自分の意思とは裏腹に、涎が垂れる。ぼんやりと、視界が暗くなる。意識が飛びかけた瞬間、暗い部屋の中に明かりがさした。
「大丈夫か!助けに来たぞ!」
ぱん、と弾けた音が響いて、俺の首を絞めていた手が離れた。傾いだ体越しに、拳銃を構えていたのは、警察官だった。走り寄って俺を助け起こした有馬の肩を借りて、部屋から逃げる。大丈夫ですか、怪我はありませんか、と問いかけられて頷く。金ラインの入った制服の上着を被せられて、ふわりと有馬の匂いがした。犠牲者が増えなくてよかった、と心底安心したように呟かれて、パトカーに乗り込む。事情聴取的なことをするのかな。事情聞かれても、なにがなんだかいまいち分かってないんだけど、どうしたらいいかな。でもこの警察官に嘘はつけないので、分かりませんと正直に言うしかないんだろうな。パトカーから降りて、がちゃんと手錠を掛けられて、厳重な鍵付きの牢屋に入れられて、えっ。
気づいたら捕まっていた。さっきまで隣にいてくれて、俺に上着をかけてくれた警察官はどこへ。俺いつの間に犯人になったの。上着もどっかに行ってしまった。取れない手錠をがちゃがちゃしながら、一応格子の近くまで行ってみたものの、真っ暗な廊下が広がるばかりで何にも見えなかった。こういう、ホラー的な雰囲気は、得意じゃない。途端、呻き声が響いて、ずりずりと下がる。壁際に座り込んだら、砂と埃まみれになった。どうしたら、と天井を見上げて、静かな部屋の中に嫌に反響した、かちりと鳴った音に顔を戻す。なに、今の。
「よっしゃー!作戦成功!逃げるぞ!」
どっかん、と景気よく爆発した背後の壁に、ごろごろ転がって格子に背中をぶつけた。くらくら回る視界の中で、舞い上がる土埃を切って現れたのは、汚れたミリタリージャケットを羽織ってごついゴーグルをした男だった。ゲームで見たことある、M65フィールドジャケット。ジャックナイフで手錠を叩き切られて、手を引かれる。突然の助けにたたらを踏むと、俺だよ馬鹿!早くしろってば!とゴーグルを上げた有馬が怒ったように怒鳴った。背負っていたフルオートライフルを構えて走り出した有馬に、ぺたぺたとついて走る。牢獄の外に出れば、銃声が鳴り響く野外戦の真っ只中だった。なんでいきなり。ぼけっとしている俺に、腰にさしてたコルトシングルアクションアーミーを放り投げた有馬が、お前が捕まったからこっちは大変だったんだぞ、反乱軍はちょろいとか言われて、悔しかったんだからな!と怒り心頭で吠えてトレッキングシューズを踏み鳴らした。半笑いでそれを聞きながら、間近で炸裂した爆発音に首をすくめた。普通に怖い。こういう殺伐とした世界とは仲良くできない。ぱんぱん、耳鳴りがするぐらいに響き渡る音。
「え?なんて?」
ぱん。数度目に弾けた花火の音に、浴衣姿の有馬がこっちを向いた。何にも言ってない、と首を振れば、そっかー、とまた花火を見上げる。破裂音が鳴り響く度に、頰や首筋に色鮮やかな花火の光が映って、そっちばっかり見てた。きらきら、ぱちぱち、音がする。涼やかな葵色の浴衣に濃紺の帯を締めて、緩いわけでも固すぎるわけでもなく、ちょうどよく似合ってる様ばかりを目に焼き付けて、一番大きく咲き誇った最後の大輪の花火すら見られなかった。ぱらぱらと誰からともなく拍手が始まって、綺麗だったな、と有馬がようやくこっちを向く。彼の姿ばかり見ていたことがばれないように、目が合う前に空を見た。名残の煙がふわふわと、まだ揺蕩っている。
お腹空いたから何か食べて帰ろう、と暗い道を歩き出す。駅へ向かう人混みの中を縫って、見慣れた細道へ。美味しいラーメン屋さんがあるとか言って連れて来られたっけ。煉瓦造りの小さな門構えがあるこぢんまりとしたカフェに入って、せっかくだからケーキセットを頼んだ。出て来た本日のケーキは、キルシュトルテだった。おいしい。
「まじで。じゃあ看板メニューにしよっと」
声を上げたパティシエが、ショーケース越しにへにゃりと笑った。白いコック帽とコックコート、黒字にラインの入ったカフェエプロン。磨き抜かれた靴をかつりと鳴らした有馬は、照れたように目を逸らした。その拍子に薄い色の前髪が目にかかって、顔を隠す。真っ向から美味しいって、言われ慣れていないのかな。ここのケーキはどれもおいしい。最近人気になって来たのが勿体無く思えるぐらいだ。人が来ないままでも、良かったのに。自分だけがこの味を知っている優越感に、もう少し浸っていたかったのに。上に乗った桜桃にフォークを刺して口に入れれば、もやもやした味がした。心境が分かりやすく表れている。なんとなく、あんまり話が弾む気もしなくて、店を出た。吹き抜けた冷たい風に、マフラーを巻きつける。ちらちらと降り始めた雪に、鼻を啜った。
「風邪引くぞ、細っこいんだから」
後ろから差し出された傘に振り向けば、持ち主は、心配と苦笑の間みたいな顔の有馬だった。仕事帰りらしく、緩んだネクタイのスーツにチェスターコートを羽織っている。こんなに寒いのにマフラーもしていないなんて、信じられない。そう告げれば、だって邪魔じゃんか、と当たり前のように言われた。雪で傘はさすのに、なにが邪魔なんだろう。家までの帰り道を辿る途中、マフラーは邪魔か邪魔じゃないかで侃侃諤諤の言い争うになった。どうでもいいことこの上ない。働き出してから染め直した暗い茶色の髪に、風で舞い上がった雪がふわふわとくっついては溶けた。ああ、体温高いから。
鍵を開ける手がかじかむほどの寒さの中、家に着いて、二人して暖房の取り合い。炬燵に入ることで事なきを得たけれど、今度はどっちがお茶を入れに行くかで揉めた。だって寒いんだから、行きたくないに決まってるだろ。結局、スーツから部屋着に着替える有馬が一緒にお茶を持って来てくれることになった。ぶつくさ文句を言いながら、それでもリビングを一旦出て言って、いつもの青いジャージが戻ってくる。明るい色の髪がふわふわ揺れて、マグカップを持った有馬が炬燵に入った。
「なあ、弁当」

いつまで夢見てんの?なんて、自分の声。
目の前にあるのは、ただの鏡だった。




14/68ページ