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大奥



「明日の晩ですか」
「そうだよ」
「旦那様、ご自分が何を仰っているのかお分かりですか」
「お前のその明け透けに物を言うところを私は気に入っているけどね」
「でははっきり言います、嫌です。お断り致します」
「まあ待ちなさい、本当に子を成すために上様を抱けと言っているわけじゃない」
話がしてみたいと仰られたんだ、と困り顔の旦那様が言う。それにしたってなんで、俺が目に止まる理由が一体全体どこにあった。そう旦那様に聞いたところで分かるはずもなく、私にも彼の方の考えていることは分からないけれど、と俯かれてしまったので追求するのをやめた。
旦那様は、先程上様とお話した際、さっきいた使用人を今晩部屋に寄越せと言われたらしい。何故と理由を教えてくれるわけでもなく、それは夜伽の命かと問えばそうでもないようで。その命が一番理に叶うのなら周りにはその体面を繕ってもらって構わない、と頷かれた上様の意を尊重して、必要最低限の少人数にしか伝えていないと旦那様は仰った。つまり、上様を肉体的に満足させに行くのではなく、口先三寸丁々発止で切り抜けなければならないということだ。
話がしたいなんて、思い当たる節は全くない。唯一俺と上様を結びつけるに値するものは、父と先代様の不思議な関係性だけだ。それが関係するなら俺は恐らく殆ど力になれないだろう、俺は先代様と父が親しかったことなんてつい最近まで知りもしなかったのだから。
「とにかく、行っておいで。今晩の見張り番は私が引き受けたから、安心していいよ」
「……気乗りがしません」
「構わない。だから上様もお前を選ばれたのだと思うしね」
「は?」
「朔、上様から何を聞いたとしても、お前はいつも通りでいなさい」
にっこりと優しい笑顔を向けられて、混乱。旦那様が見張り番を代わってくださったということは理解できた、それはすごく心強い。夜伽の体を取るのなら簾の外に一人見張りがつく、そこに旦那様がいてくださるなら何があってもどうにかなるだろう。しかし、その後の言葉が理解できない。何を聞いたとしてもいつも通り、とはどういうことか。何か俺の根幹を揺るがす事実を上様が仰るということだろうか。掻き回された頭では其の後何も手に付かず、一呼吸の間に夜が来た。
髪を結ってもらって、控え目ながらも普段とは段違いに上質な襦袢を着せられて、入ったことのない廊下を歩く。こんな奥深くまで入ることなんて無いと思ってた、お目見え以上とは言え何処でも無条件でうろつけるわけではない。そんなことが出来るのは上様くらいだ。先に見張り番として付いてくださった旦那様の横を抜けて、膝をつく。失礼します、と声をかけても恐らく返事はないだろうということは先んじて聞いていたので、勝手に襖を開けさせてもらった。床の間には刀と掛軸、その手前に細やかな夕餉が用意されていて、敷かれた布団の上に足を投げ出した上様がぼんやり座っている。真っ白な襦袢の裾から覗く足がぱたぱたと暇そうに動いていて、特に気負うこともせず話しかけた。旦那様曰く、上様から呼びつけたのだから普段通りの横柄な態度で良し、とのことだったし。
「今晩は」
「……………」
「何用で御座いますか」
「……………」
「自分の所有物である旦那様が俺に目をかけることで貴女様が御気分を害したのならどうぞ、気軽に処分なさってください」
「ふ、っふ」
旦那様が吹き出したのが簾越しに聞こえた。ほらお前が黙っているから、と笑い交じりに零された小声に、上様がうんざりしたように顔を上げる。はああ、なんて溜息をつかれて、目線が絡んだ。
「……聞いた通り、本当に減らず口」
「申し訳ありません」
「誰に向かって口利いてるわけ」
「上様がお返事をなさらないので、独り言になるところでした」
「ちょっと、お当。これどうにかならないの」
「ならないよ。お前が少しくらい口が悪くても頭が回る奴にしようって言ったんだ」
「仮にも将軍様に向かってこの態度、躾がなってないんじゃないの」
「性分だろ?お前のそれと一緒で」
「旦那様、お話中失礼しますが、上様はお風邪を召しているように聞こえます」
「ああ、いいんだよ。それで」
「……風邪、ね。地声だっての」
妙に声が低いと思ったからそう言葉をかけた、だけだったのに。立ち上がったかと思えばばさりと上半身を肌蹴た上様に、呆然。平らな胸は、女性にしては慎ましやかという問題ではない。旦那様の砕けた口調も始めて聞く、二人の関係が最早さっぱり分からない。ぽかんと見上げる俺をおかしそうに一笑した上様が、まあつまりこういうことだよ、と両手を開く。
「将軍様は俺の姉。俺は替え玉に使われてるだけの、生きてちゃいけない隠し子だ」
「……は、あ」
「この事を知ってるのは、大奥内でもお当とお前、総取締の航くらいのものかな」
「足疲れたから入ってもいい?」
「むしろいつまで部外者面して外にいるつもりなわけ?」
つっかれた、と不満そうに零しながら簾の下から行儀悪く入ってきた旦那様が、体を冷やすとまたあの不良に俺が怒られる、と上様の襦袢を正した。夕餉をつまみながら、それでお前に頼みたいことがあるんだけどね、とこっちを向きもせず話出した上様と、あまりの態度に苦笑している旦那様を見比べて、思わず声を上げた。少しでいい、時間と説明をくれ。流石に意味が分からない、上様は男だということはさっき見た実物で無理やり頭に叩き込まれたけれど、それ以外がさっぱりだ。
「理解力ないじゃん。斬っちゃえ」
「顔が他に割れてなくて頭が回る、適役だってお前も言ったろ」
「あの、あ、え?なにを」
「可哀想に、朔がこんなに動揺しているところなんて初めて見たよ」
「航はなんで今日来られないの、あいつにも見てもらいたい」
「上様がいる場所が分かったって裏付けを取りに行ってくれたんだって」
「はあ、そう」
「この子に全て話してあげてもいいかな」
「いいんじゃない。俺は一人手酌で飲んでるから」
「拗ねないでよ……」
ぷいっと後ろを向いた上様、ではない替え玉の誰かの背をちょいちょいと引っ張りながら、旦那様が話し始めた。上様が忽然といなくなったのは、数年前の話。それまで替え玉の弟は本当にひっそりと大奥の更に奥、広い庭の中に隠すように建てられた小さな離れで、旦那様とお付きのもう一人、今の大奥総取締と共に暮らしていた。生きていることが広まったら、男である弟が将軍家を継ぐことになるだろう。けれど赤面疱瘡の流行る今の世で、男の彼を大々的に将軍であると公表していいものか。種を残し家督を継ぐために彼には歴史から名を消してもらうべきではないのか、と上様と弟様が幼い頃先代様が俺の父と話して決めたらしい。何でも話せる仲、とはそこから来ているようだった。そして幼い彼は外の世界を知らないまま、豪華絢爛な小さな部屋と美しく狭い箱庭の中で、幼少期を過ごした。転機が訪れたのは数年前、上様が姿を消した時だ。
「駆け落ち、というか。上様は、町人と恋仲にあったんだ」
「姉様はなんにも考えてないんだ、尻軽の馬鹿女」
「そんなこと言うもんじゃないよ」
「将軍の名を継いで日も経ってなかったんだ、逃げ出したかったに決まってる」
実の姉である上様に生き写しである弟の彼の存在を知るのは、大奥の中でも本当に数人だけ。父親である先代様が秘密裏に手を回して、誰にも分からないようこっそりと、上様の座に弟様が据えられた。決して口を利かず、重く重ねた着物で体を隠して、髪が伸びるまでは他の女の切った髪を編んで自分の毛に結い付けていたのだと言う。静かに行われた上様の入れ替えと、ひっそりとお手つきの立場と部屋を与えられた旦那様。総取締も幼い頃から弟様を知っているお航様に変わり、少しずつ地盤を固めて今の現状に至った。体面上夜伽の番は誰かを呼ばなければならないため、怪しまれない一定の時間を置いて適当に声をかけていくようにしたんだとか。しかし最初の一人は喜び勇んで弟様の服を剥ぎ男だと知れてしまったため、布団の上で赤い花を散らすことになった。次の一人も、同じように弟様の体のことが分かってしまったから総取締に斬られた。しかし三人目は、襖から一歩入って弟様が無言で座っていても何一つ口を利かず、自分も黙って膝を立て一晩を過ごした。前二人とは違ってとても過ごしやすい夜だったと弟様は懐かしむ目をしていたし、旦那様も頷いていた。しかしながら三人目は、弟様も総取締も旦那様も何もしていないのにも関わらず、姿を消したらしい。恐らく前二人が二度と帰らなかったことを鑑みて三人目が邪魔だった誰かが殺したのだろう、と弟様はからから笑っていた。そこで笑える精神が怖い。
そして、上様の居場所が分かったのがつい先日の事らしい。なんでも将軍様にそっくりな女が山奥の小屋で男と暮らしていると噂になっているらしく、それを聞きつけた総取締が今その目で確認に馬を走らせている、ということだった。そこまで話し終えた旦那様が、ここからはきちんと自分で話をしなさい、と細い指先で貝をつまんでいた弟様を向き直らせる。不満気に眉を顰めた彼が、俺につまらなさそうな目を向けて言った。
「お前、姉様を連れ帰っておいで」
「は?」
「航が行ってもきっと相手にされない。子どもの頃から知った仲だし」
「……何故、俺に」
「減らず口、頭は悪くない、自分の利を考えられる。そういう奴のが信用できる」
「褒めたいならもっと素直に言ったらどう」
「褒めてない。適材適所だって言いたいんだ」
家族は大事だろう?と目を細められて旦那様を睨むと、視線を逸らされた。なんて狡い人だ、俺が逆らえない手札をこの我儘弟に与えやがった。とどのつまり、この話を他言したり断ったりしようものなら、城下に置いてきた家族に何かしらあると言いたいわけだ。俺より先に家族を人質にするなんて、性格の悪いことこの上ない。その代わり姉様を連れ帰って来られたなら何でもお前の思い通りにしてやろうね、と微笑まれて、今までは美しく見惚れる対象だった笑顔に小憎たらしさが混じったのを感じた。顔が綺麗だというだけで、有無を言わせない迫力がある。
「……俺は、どうしたらいいんですか」
「場所が知れたらすぐに出てほしい、出来る限り最大の援助はする」
「その減らず口で言い負かしておいでよ、ふふ」
「こら、もっと真剣に考えなさい」
「だって、姉様が帰ってきたら俺はどうなるの。お当なら分かるでしょう」
「……どう、って」
「はぐらかさなくても知ってるよ。良くて箱庭に逆戻り、悪くてこの世とさよならだ」
「えっ?」
「当たり前だろ?将軍は二人もいらない」
替え玉だなんて他の奴に決して知れてはいけないんだから、と目を伏せた弟様の髪を旦那様が梳く。辛そうに下げられた目に、息が漏れた。俺の働きは、一体何人の命を背負うことになるんだろう。俺が上様を説得できなかったら弟様はこの場で生きていける、けれど将軍家はおしまいだ。世継ぎがいない今、養子を迎えるしかない。ぞっとするほど重い責任に、言葉が出なくなった。
「……ねえ、お前さ」
「……は、い」
「俺が死ぬからって、姉様の説得を諦めようとか考えてるんじゃないだろうね」
「それは、」
「連れ帰れずに戻ってきてご覧、お前の居場所はこの世にはないよ」
「っ……」
「ふし、」
「ふざけないで。姉様じゃないとこの場所は埋まらない。俺じゃ駄目なんだ」
旦那様が呼ぼうとしたのは、弟様の名前だろうか。言葉を遮って、俺は男だからこの場にはいられない、このご時世そんなの当たり前だろうが、と俺を睨む目が痛ましくて、頷くしかなかった。

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