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おはなし



「うみちゃん、危ないよ」
「だっこ」
「おひざね、おひざ」
「や、だっこ、だっこお」
まるでさちえが母親のようだ。いや、俺の母親ではあるんだけどさ、海のじゃないじゃん。取られた気分とかそういうわけじゃないけど、不思議な感じ。ぐずぐずする海を膝の上に乗せて揺らしているさちえをぼんやり見ながらそう思った。
航介が熱出して寝込んだのが一昨日の夜。海と二人揃って家から追い出されたのが昨日の朝。しょうがないから実家に泊まることにして、その時は海も元気だった。その時までは、かもしれない。移ることを懸念して航介は先手を打ったのかもしれなかったけれど、少々遅かったようで、俺は兎も角としても海はがっつり発熱している。熱が出たのは恐らく今日の午前中だ、保育園からの電話で俺はそれを知った。いつになくぐずる海を保育園に送り届けて、半休取って昼には迎えに来ると先生に平謝りでお願いして、やだよおこーちゃん、こわいさびしい、って泣く海を、俺は置いていったのだ。俺の名前を呼ばないことに全くもって苛立ちを感じなかったと言ったら、嘘になる。簡単に言えば、俺は拗ねていた。風邪引いちゃったんだから仕方ないでしょ、こーちゃんばっかり呼ばないで、さくちゃんがいるでしょ。泣いて保育園を嫌がる海に懇々とそう語り掛けたのが、そもそもの間違いだ。海は有り体に言えば「よく分かってる子」で、そう表現されることも多いし、俺もそう思う。ぽやぽやしてるようで、ちゃんと全部見てるし、分かろうとしている。航介の風邪だって、心配そうにこそすれど、実家に泊まることを寂しがってはいなかった。そんな子どもが泣きじゃくる時点で、体調の異変を疑うべきだったのだ。子どもの免疫力なんてたかが知れてることも、俺より航介といる時間の方が海は長いってことも、分かってた、つもりだった。まあ大丈夫でしょ、で済ませた俺が悪い。そのせいで、どうしようもない体調の悪化と戦う小さい体は、辛そうにぽろぽろ泣いているのだ。俺のせいだ。
季節柄か、待合室は人でいっぱいだ。昼過ぎ、午後の診察が始まったばかりという時間の問題もあるかもしれない。待ち時間が長いせいもあって、ぐずる子どもだって何人もいる。おかあさん、と泣いている子を泣き疲れた目でぼおっと見た海が、ぐずぐずに詰まった鼻を啜って言った。
「……こーちゃん」
くすん、と鼻を鳴らした海が、さちえに縋り付くように顔を肩へ埋めて、動かなくなった。しばらくすると、寝息が聞こえた。
こういう時に、俺の名前は呼ばれないのだ。それに対して感じたのは、嫉妬でも不満でもなくて、後悔だった。俺は、海にとって、どの場所にいるんだろう。弱ってる時に助けを求められる存在ではないことは、今の様子を見る限り確かだ。海の中でその位置に存在するのは、こーちゃんとさちえの二人であって、俺じゃない。泣いている時に抱き上げて欲しいと思えるのだって、きっと俺じゃない。それは過ごした時間の長さとかそういう問題じゃなくて、海本人の気持ちがまっすぐ現れているだけなのだ。要するに、信用できるか、できないか。理屈が欠片もこもっていない、酷く感情的で子どもらしい判断基準に基づいて、俺はその輪の中に入れてもらえなかった。どうして?なんて理由、自分で分からなきゃ嘘だ。
鼻を鳴らして寝る海の髪を撫でるさちえが、こっちになんて目もくれずに口を開く。はたから見たら、彼女と彼が親子に見えるわけで、俺なんか関係ない路傍の石ころなわけで。顔が似てるとか本当の血縁とかそういうのは関係ない。ここで大切なのは、気持ちのつながりだ。
「……ねえ、朔太郎」
「はい」
「お母さんのこと、頼るのはいいのよ。貴方もこーちゃんも、まだまだ分からないことだらけでしょう」
「うん」
「でもね、頼るのと任せ切るのは違うの。それは信じてるとは言わない、責任を放棄してるって言うの」
「うん」
「うみちゃんのことで、こーちゃんに頼ってたことは、あった?」
「……なかった」
「そう」
頼ったことはなかった。任せて、責任を放棄して、海についてのことは彼に押し付けていた。それを一番近くで一番正確に感じていたのは、他ならぬ海自身だ。だから俺のことなんて信用ならなくて、助けなんて求められるわけがないのだろう。とても分かりやすくて、はっきりした事実だった。
海に今この場で一番頼られているのはさちえであって、俺じゃない。それがはっきりした時点で、俺にできることは一つだけだと思った。

鍵を忘れた。
「……ぁい……」
「ただいま」
「おかえい……」
ものすごい鼻声で、朦朧とした目のまま、それても平静を取り繕ったつもりで俺に応対する航介を奥へと押しやる。開けさせた俺も悪かったけれど、具合が悪いなら具合悪そうにしてくれたって怒らないし、なんなら態度も悪くしてもらっても構わないのに、普通通りにしようとするんだから、どうしてなんだろう。不思議に思うまでもなく、俺がそれを無意識に強いてたってことが分かったので、何も言えない。
ふらつく航介の背中を押して布団へ戻すと、いとも簡単に、されるがままなすがまま。なんだよ、とやっと弱々しく返ってきた抵抗を受け止めて、事のあらましを説明しようとした。
「さくたろ、なんかあったか」
「……ぇ」
「なんかあったろ」
なんの意味もなく、裏もなく、当たり前のようにそう零れ落ちた言葉が、すとんと刺さった。落ち着かせるように、大丈夫だと安心させるように、ぎゅうっと手を握られる。震えていたのは、航介ではなく、俺だった。なにがあった、ともう一度重ねて聞かれて、言葉に詰まった喉は凍り付く。頭のどこかで、お前だってまずは海の心配をするだろう、我が子はどうしたと俺に聞きたくなるだろう、と思っていた。それは聞かれたとしても不愉快なことではなくて、当然の帰結で、説明する義務が俺にはあった。なのに、どうして。
まず第一に突然帰ってきた俺の心配をするような、そんな馬鹿正直に目の前しか見えない真っ直ぐで優しい彼だから、俺は全てを投げ出して甘え切ってしまうのだ。それがいけないことと分かっても、縋りたくなってしまう。自分の足で支えるのを、少しだけさぼってもいいような気分になってしまう。そんなわけはないのに。そんなことをしているから、航介も海も辛い目に遭わせて、俺一人だけ無事に済む羽目になっている。不意に泣き出したくなって、また全部放ってしまいたくなって、頭の中がぐちゃぐちゃになった。泣いたらまた余計な心配をかけてしまう、弱いところを見せたら俺なんかより余程強い彼が全部肩代わりしてくれてしまう。君のために、俺は泣くわけにいかないのだ。
病院を出て、さちえに海を頼んで、朝までには必ず帰ると約束した。さちえは全てを分かったように頷いて、ただの風邪なんだから安心しなさい、お母さんをあんまり舐めるんじゃない、とにんまり笑っていた。海はその時初めて、さくちゃんいっちゃやだ、と泣いて嫌がって、さちえを振り解いてまで俺の手を離そうとしなかった。掴まれた手は酷く熱くて、小さくて、力なんて入っちゃいなかったけれど、それを適当に御座なりに扱うことは俺には出来なかった。さくちゃんはこーちゃんを見てくるから、海はさちえと待っていてほしい。そう告げれば、涙でぐしゃぐしゃになった顔をきゅっと真面目に引き締めて、海は頷いた。自分で目一杯になっていてもおかしくない年のこいつなりに、大切な誰かのことを大事にしようとしているのだ。俺なんかよりよっぽど大人だ。男らしくて誠実な、一人の人間だ。こーちゃんのこと、げんきにしてきてね。指が離れる寸前そう海に言われて、俺も頷きを返したのだ。もう嘘はつけないし、逃げちゃいけないし、放り出しちゃいけない。分かっていても止められなかったことを、止めなきゃいけない。そう息急き切って焦りながら我が家に帰り着いて、そこで初めて気づいたのだ。鍵がないことに。
いっぱいいっぱいになってて携帯なんか見ちゃいなかったけど、俺が海を迎えに行ったのとちょうど同じ頃、航介からも連絡が入っていた。熱が下がってきた、とだけ短く書いてあるそのメールを確認したのは今しがただけれど、絶対嘘だ。下がってきた気になってきた、が正解だろう。だって、握られている手はこんなに熱いし、呼吸は浅いし、目線だってどこか朦朧としている。何年かに一回、溜めてきたものを一度に爆発させるみたいな規模の大風邪を引くことは勿論知っていた。正しく今がそれなのだからそう簡単に治癒するわけがないのだ。今までの経験からしてそうだ、三日は掛かると思っていい。
「……大丈夫。もう大丈夫だよ」
「うそだ」
「嘘じゃない。ご飯食べよう」
「嫌だ」
「航介、ねえ」
「海が熱出たって、さちえからメール来たんだ、大丈夫なお前がこんなとこ来るわけない」
「お願い」
「俺なんてどうだっていいから、」
「どうだってよくないんだよ!」
大事にすることを、大切に思うことを、許してくれ。俺の中の家族を海だけだと思うな。お前だってそうなんだ、俺の大切なお前を蔑ろに扱わないでくれよ。そう、言えていたかは分からない。多分伝わったのは声を荒げた最初の一言だけで、後は届いていなかったと思う。それでも、それで良かった。例えそれがどんなに小さな声だったとしても、口に出さないと伝え合えないのだ。言葉にしないと、自分だって分からないことがたくさんある。
「……さ、くたろ」
「……んだよ……もう寝ろよ……朝には俺実家帰るからな、海待ってるし、だから航介も早く熱下げ、」
「おなかすいた……」
「はあ!?」
「飯食ってない」
「薬は!?」
「飲んだ」
「どうして!」
「な、治したいから……」
「お前、この、お前は、もう……!」
「だって、ひとりじゃ、駄目なんだ」
「っ、」
「なんにも、やる気しなくなるんだよ」
だから帰ってきてくれて嬉しい。お腹が空いたことを思い出せた。朔太郎が居てくれて良かった。朝までに帰るってことは俺が寝るまではいてくれるんだ。そう心底安心したように続けられて、頭が沸騰しそうだった。だから、お前は俺がいなくちゃだめだとか、俺はお前がいなくちゃだめだとか、そういう無意識の依存は良くないって思い始めたばかりなのに、どうしてそういうことを言うんだよ。また頼ってしまうじゃないか、と頭を抱えかけて、ふと気づく。
そうか、頼ればいいんだ。責任転嫁じゃなく、任せるのでもなく、信頼して頼ればいい。俺には俺のできることがあるはずで、今まではそれすらやらなかったからいけないんだ。航介が抱え込まないよう、俺が背負えばいい。荷物の取り合いだ。俺のが多く背負えた時、航介は躍起になってそれを取り返そうとするかもしれないけれど、渡すものか。
「食べたいものは」
「……焼きおにぎり、ねぎのやつ」
「うどんね」
「冷食じゃないやつ」
「打てってか」
「焼きおにぎりだっつってんだろ」
「寝てて」
「寝れない」
「……海みたいなこと言うなよ」
「海が俺みたいなこと言うんだよ」
「そっか……」
「あいつなあ、最近朔太郎の真似すんだよ、風呂入る前のさ、今度見てみ」
ふにゃふにゃ笑いながら、船を漕ぎながら、一人ぼっちが相当寂しかったらしい航介はそれからしばらく喋り続けた。我慢も、させすぎたかな。


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