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おはなし



わたしは、かみさまだ。
力はそんなに強くない、小さな社に住む弱いかみさまだ。お願いごとをされても、完璧に叶えることなんてできない。せめてほんの少し力を貸してあげられる程度だし、その力だってちょっと運が良かったくらいのものでしかない。春は社の周りに小さな花をいくつか咲かせて、夏は大きな木に葉を茂らせて日陰を作って、秋は辺りを赤や黄色に染めて木の実を落とし、冬は雪深く白銀に彩られる風景に触れて、ぼんやりと存在してきた。はっきりした名前だって、みんな知らない。わたしだって忘れてしまったくらいだ。神無月の集まりだって、かみさまである以上行きはするけれど、隅っこの方で同じく力の弱い者同士、今年も消えずに済みましたね、なんて安心しあっている。わたしのところにわざわざお参りに来る人間はいない。わたしを保っている信心やお供え物は、ごくごく僅かで、けれどそれでいて暖かい。長いことここに住まってきた、それだけがわたしの誇りだ。
そんな、弱くて小さいわたしに、たくさんのものをくれた一人の人間の話をしよう。

その人間は、始めて見た時はひどく小さかった。まだ歩けもせず、母親に抱かれていた。月日が経ち、何度か冬が巡った頃に、人間は一人で歩いてわたしのところへ来た。男の子だった。犬を連れて社の前に立ち、ぼうっとこっちを見上げた。勿論わたしもそれを見ていたけれど、彼にそれは分からなかっただろう。しばらくその場で立っていた彼は、自分の服に手を入れてなにやら取り出し、社の階段に置いた。それは、小さなチョコレートだった。彼が服の中にしまっていたせいで、包装が少しよれてしまっている。それに気づいて、幼い手で端を引っ張りなんとか曲がった包装を直した彼が、ぱちんと手を合わせた。何を祈るわけでもなく、ただ目を閉じて手を合わせて、わたしの前に立っていた。願いごとがあるのなら、それは否が応でもわたしに伝わる。このチョコレートだって、立派なお供え物だからだ。供物を渡したなら、願いを言う権利がある。しかし彼は、本当になにも願わずに背中を向けた。強いていうのなら彼の頭の中に一つ浮かんでいたのは、かみさまもお菓子食べるのかな、なんて素朴な疑問だった。彼が去った境内で、わたしは久しぶりに一人笑って、置いていかれたチョコレートをいただいた。
それからまたしばらくして、彼は同い年の男の子と一緒にわたしの元を訪れるようになった。木々や雑草が生い茂り、古びた社と石段に囲まれた静かなここを、彼らは秘密基地のように扱ってくれた。二人揃って来た割に、一人は石段に座って本を読み、もう一人は大木によじ登って境内を駆け回る。何故かちぐはぐに過ごす彼らはなんだかんだで仲の良いようで、ある時にはぼそぼそと、またある時にはきゃんきゃんと、言い合いながら帰っていく背中を何度見送ったことか。そして彼らは、わたしにいろいろな贈り物をくれた。お供え物、というよりは、お裾分け、だ。それは、お菓子を一欠片であったり、拾い集めた綺麗な木の実や葉であったり、様々だった。置いて行ってくれるのならまだしも、集めているらしいシールを社の柱にぺたりと貼られた時には流石に苦笑したけれど。かみさまがおこるよ、と言い出したのがどちらだったか、柱に我が物顔のシールを貼り付けたのがどちらだったか、そういった瑣末なことはもう忘れてしまったけれど、もしもわたしが彼らと自由に話せたのなら、どうぞ何処へでも貼りなさい、と笑ってやりたかった。
彼らの背中は月日が経つごとに大きくなり、何処か柔らかそうな印象の子どもたちは、力強く逞しい少年へと変わっていった。背が伸び、力が付き、足が速くなり、高く跳べるようになった。命を失うことなく、大きな怪我もなく、一歩ずつ確実に成長する二人の子どもを、まるで我が子のように思っていることに気づいたのは何時のことだったろう。
ある雨の日だった。大分夜も更けた時間、ばちゃばちゃと水溜りを跳ね散らかしながら走ってくる水音にわたしは酷く驚いたのを覚えている。見たこともないような顔をした、いつか小さなチョコレートをわたしにくれたあの少年が、傘もささずに社の前へ駆け込んできたからだ。足場の悪い地面の泥濘に疲れでふらつく足を取られながら、くしゃくしゃの顔をしてポケットからいくらかの小銭を出した彼は、それをぎゅうっと一度握りしめてから賽銭箱へと投げ入れた。涙の溢れそうな目を擦りながら、何度も何度も繰り返し、切に唱えられた祈り。
「ししまるを助けてください」
「ぼくの家族を、かみさまのところへ連れて行かないでください」
途中から泣きじゃくりながら、そう必死に願って、ようやくとぼとぼと帰って行った彼の背中はあまりにも小さくて、ただの子どもだった。わたしは、彼からたくさんのものをもらった。それを返す時が、今こそ来たのだと思った。
彼のあの願いは、叶えられるべきだ。犬の寿命は人より短い。それは、どうしたって変えようのない、仕方のないことだ。けれど、生きる術の残されている命を途中で終わらせる筋合いはない。この犬は、まだ天命を全うしていない。そんな我儘を、自分よりはるかに位の高い神に訴えるのは畏れ多くて恐ろしい話だったが、わたしにできることといったらその程度だった。病気か、怪我か、そんなことすらわたしには分からなかったけれど、彼といつも一緒にいたあの人懐こい犬を生かそうとわたしは必死だった。わたしはあまりに弱くて、脆くて、小さなかみさまだから、自分の力では彼の願いを叶えることができない。それは悔しく、歯痒く、辛いことだった。上位の神が、わたしの形振り構わぬ懇願を聞いて頷いたのを目にした時、わたしはまるで人間のように泣いて喜んだ。ただし己の力で理を書き換えること、と酷く骨の折れることを命じられても、苦ではないと思えるほどだった。
今日死ぬと決まっていた命を掬い上げたわたしは、疲れ果てて社の中で眠りについた。命の理を変えたことで、またわたしに捧げられた祈りと供物の対価として、わたしのかみさまとしての位が少し上がったと聞かされたが、そんなことはどうだって良かった。わたしはただ、雨の中泣きじゃくる彼に、もう二度とあんな顔をしてほしくなかっただけなのだから。眠るわたしに波長を合わせ静寂を守る境内に、目を赤く晴らした彼がやってくるまでは、そう時間を置かなかった。意識を浮かび上がらせたわたしに深々と頭を下げた彼は、口を開く。
「ありがとう、ございました」
わたしは、これでいい、とぼんやり思った。もう彼は、あの胸が締め付けられるような顔をここに見せることをしないだろう。それが何よりだ。笑って、前を向いて、まっすぐに生きてくれればいい。かみさまであるわたしからの願いは、それだけだ。

彼は、自らの願いを他人のために掛ける人だった。わたしは、それを精一杯の力で叶えようと、努力し続けた。
「航介の熱が下がりますように」
わたしは、熱に魘される少年の自然治癒力をほんの少し後押しして、出来る限り早く快方に向かうよう少年の周りに明るい気を持つ人間を呼び集めた。指先一つで病気を治す、それこそ魔法のような力はわたしには無くとも、自らが元々持っている力を引き出すきっかけを作ることや、「お見舞いに行こうかな」なんてほんの些細なことを周りの人間にふと気づかせることならば、力の及ぶ範囲の中だった。
「朔太郎が元気になりますように」
わたしには、父を失い母と二人で生きてきた少年の前に重く大きく積み重なった、未来への蟠りを消し去ることは出来ない。それでも、迷い、戸惑い、崩れ落ちそうに不安定な心を支える、前向きに強い他人を寄り添わせることは出来た。また、少年の周りをふやふやと浮いていたなり損ないの浮遊霊の口車にうまく乗せられて、夢の中で彼と霊の取り次ぎもしてやった。本当は気軽に生者と死者を繋いではいけないのだけれど、夢で見たことを少年は全て忘れているようであったし、夢を見るまでまで何処と無くこの世ならぬところへ余所見をしていた少年が、あの霊と話す夢を見てから真っ直ぐに生きようとしていることは明らかだったので、今回ばかりは不問と処すしかないのが実際だ。あの浮遊霊、今度は白猫に取り憑いて茶髪の少年のことをこそこそと見ているようだけれど、夢の中での取り次ぎのせいでかみさまであるところのわたしの使い、いうなれば神使となったことを、いつ伝えればいいのやら考え物である。
「友梨音ちゃんの発表会が上手く行きますように」
幼い彼女の大人びた不安を解消する術は持たなくとも、壇上で強張る彼女の脳裏にふと親しい人を過ぎらせることで、押し潰されそうなくらいの緊張が少しでも解れればと、わたしは彼女の背中を押した。年若い内は、わたしたちのような身体を持たない者の姿が見えやすいとはよく言ったもので、俯瞰で発表を見ていたわたしに彼女は気がついたようだった。それまで浮かべていた影のある表情より、何倍も美しい満たされた笑顔を向けられて、わたしが恥ずかしさに目を逸らしてしまいたくなったほどだ。
彼がここを訪れる頻度は徐々に減り、わたしはまた静かな境内でゆっくり過ごすことが増えた。その中で時たまひょっこりと顔を出し、ちゃりんちゃりんとお賽銭を投げ入れては手を合わせる彼の願いごとは、みんな他人のためのものだった。自分がどうしたい、どうなりたいといったような願掛けを、わたしは彼から聞いたことがないように思う。
だから、彼がこの場所を去って行くことをわたしが知ったのも、彼が旅立つほんの少し前のことだった。まだまだ寒い冬の日、茶色い頭をした彼の友人がここへ来て、はっきりと声に出して唱えた願いごとがなければ、わたしは彼が去って行くことを知る由もなかったのだ。
「当也が東京でがんばれますように」
とうきょう。遠いところだ。私の力はきっと及ばなくなる。彼が子どもだった頃よりは、わたしの力は強くなったけれど、それでも程遠い。そもそもわたしの力や神位が少し上がったのも、彼からの小さなお供え物や定期的なお願いごとのおかげなのだ。
彼に、恩返しがしたいと思った。

わたしは、初めて彼の夢枕に立った。一度目覚めれば忘れてしまう、あやふやで曖昧で、漂う霞のような世界。その中で彼はこちらに背を向けて、繊細な細工が施された重厚な木の椅子に腰掛けていた。彼の私的空間である夢の中にお邪魔している立場だ、かみさまと言えどわたしの方が立場は下なのは明白なこと。それに、彼からの返事を求めてはいけない。わたしとの繋がりを必要以上に作っては、あの浮遊霊のように彼とも何らかの契りを結ばなくてはならなくなってしまう。彼には人として幸せになって欲しい。かつて彼がわたしにくれた小さなチョコレートのように、ほんの些細な贈り物をわたしからもしてみたいだけなのだ。
「……ぁ、あなたに、伝えたいことがあって、来ました」
喉がつかえる。その時のわたしはまるで、人間の女の子のようだった。彼に恋い焦がれる、人間の女の子。何百年も何千年も重ねてきたわたしに今更そんな感情は芽生えやしないけれど、それでも確かにわたしは高揚していた。もしもわたしが、彼と同じように年月を重ねて同じように死に往けるいきものだったのなら、わたしは彼に恋をしていたのかもしれない、と思う。彼に想われる相手は、きっと幸せだ。わたしがそれを今から保証しよう。
「あなたが、大切に想う人は必ず幸せになります。それは、結果としてあなたにとっての幸せにはなり得ないかもしれませんが、相手にとっては確実に幸福です。あなたが大切に思い、愛し、未来を願う相手は、どんな道筋を辿ろうとも、幸せになります。」
「いつだって相手の幸せを願うあなたは、もしかしたら相手と一緒に幸せな未来を生きることはできないかもしれません。もしかしたら、相手を自分の幸せに付き合わせてしまっている罪悪感に押し潰されそうになりながら過ごして行くかもしれません。もしかしたら、相手の幸せを願うあまり歪んだ方法をとってしまうかもしれません。」
「それでも、あなたに思われる相手は幸せになります。幸せのかたちは人それぞれで、わたしにそのかたちを決めることは出来ないけれど。それでも、あなたがこの先愛する人は必ず幸せになることを、保証しましょう。」
これが、わたしからの最後の贈り物だ。彼との距離が遠くなることで、わたしから届けられる力は弱まるだろうことは分かっていた。それならばとわたしは、彼にわたしの一部分を預けることを決めた。切り落とした長い髪を一房、椅子に座る彼の背後で静かに捧げる。振り向いてくれなくていい。言葉をかけてもらわなくてもいい。ただ、わたしからの贈り物を受け取ってくれればそれで満足だ。彼が自分の幸せを願っているところを見たことがなかったからこその、相手の幸せを保証する強い願掛けだったのだけれど、喜んでくれるだろうか。想う相手が幸せに笑えているのなら、彼も笑えるのだろうか。どうか、そうでありますように。わたしにたくさんのものをくれた愛しい一人の人間が、ずっと笑えますように。薄らいで行く夢の世界の中で、彼がわたしを見てくれたように思えて、酷く甘い幸せを感じた。

春が来て、夏が来て、秋が来て冬が来て、また春が来て。何度繰り返しただろう、はたまた繰り返していないかもしれない。彼が去ってからどのくらいの月日が経ったのか正確には分からなくなってしまったけれど、あまりに唐突に彼が境内へと現れたものだから酷く驚いたのは覚えている。かみさまのくせに、気を抜きすぎであった。しっかりしなければ、と社の中から様子を伺うわたしには気づかない彼は、ポケットの中からお賽銭を出して、手を打って、ぽつりと一言。
「ありがとうございました」


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