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大奥


江戸城、大奥。かつては将軍の正室や奥女中が住んでいたそこは、今となっては数少ない男子を囲うように聳え立つ城となっていた。奇妙な伝染病で若い男が凄まじい勢いで減り、女が家業を受け継ぐことが普通となったのは、最早昔の話。婿を取ることは豊かな者の特権となり、貧しい家々に生まれた男はただの種として扱われることも安く身を売ることも、さして珍しくはなかった。荒んでいく田舎と打って変わって、男の並ぶ花街が栄えるのは一体何の皮肉か。
将軍に仕える男の城、なんて豪華絢爛な表面とは裏腹に、蓋を開けてみれば妬みや恨み、権力争いが犇いているのは、集まるのが男であっても女であっても変わらないようで。それでも大奥入りを目論む人間が多いことには、理由がある。その理由が複雑な者も単純な者もいるだろう、それぞれに抱えた腹の内を明かさないよう、必死なだけだ。
「……ふ、ぅ」
危ない、と欠伸を噛み殺して目線を落とす。この間も、話の間にうっかり漏れた欠伸に目敏く嫌味を捻じ込んできた心の狭い輩がいたんだ。お前の話が長ったらしくてつまらないからだろう、と噛みつきたかったのは山々だが、ここでの俺の立場は高くない。お目見え以上ではあるものの、それだってなんでこいつが、と思われているに決まってる。元々奇跡みたいな偶然の重なりでここにいられるんだから、敵は少ないに越したことはないだろう。
昔から細々と名を保ってきた、まあそれなりに裕福な部類に入るであろう我が家が一家離散の危機に追い込まれたのは、父の死がきっかけだった。赤面疱瘡とは関係ない、事故だった。優しかった父は苦しむ周りの民を助けるべく奔走した結果、いなくなってしまったのだ。家督を継ぐのは順当に言って俺だ、だが若い男のみを脅かす死の病のせいで男の価値は上がっている、そして家業は女でも継げるようになった。このまま俺が家を継いでもいずれは貧困に苦しむことになるだろう、ならば俺が婿に出るなりなんなりすればいいのだ、と母に打ち明ければ、彼女は泣いていた。貴方は物じゃない、私とあの人の子どもなの、と涙を流して訴える母に、なにも言うことが出来なかった。そして俺は家に留まったまま、他の家と同じように宝のように育てられて、時間だけが過ぎて行く。家を売って家族ばらばらになるか、俺を売ってせめて妹と母だけは安泰に暮らすか、その選択を迫られる瞬間が刻一刻と近づく中、突然現れたのが豪華な着物に身を包んだ旦那様だった。
なんでも、父は将軍家と関わりがあったらしい。それも、先代が心を許して話せる間柄だったようだと、旦那様は言った。そして俺も、覚えていないくらいに幼い頃、今の上様と言葉を交わしたことがある、らしい。突拍子もない話を聞かされて、思わずこいつは気でも狂っているのかと疑いもしたが、真摯に母に頭を下げる旦那様を見て、そんなわけはないと思うようになった。旦那様は、金だけを置いて俺を連れて行こうとするのではなく、俺を使用人にすることを母に直談判で何度も何度も頼みに来たのだ。絶対に悪いようにはしない、出来る限りの手を尽くしてこの家を守りたい、少しでいい、彼の力を貸してくれないだろうか。絞り出すような声で頭を下げてそう告げた旦那様に、母が笑顔を向けたのはそう日が経たないうちだった。
旦那様はとても優しい人だった。上様のお手つき、側室ではあるらしいが、何故か夜伽を迫られたことも迫ったこともないんだとか。不思議な関係に首を傾げたが、あの人とは単なる茶飲み友達でいたいんだけどな、と笑う旦那様を見て納得が行った。きっと恐らくは、上様がこの人を手放したくないのだ。しがらみに囚われずただ話をするための友達として隣にいて欲しいんだろう、とぼんやり思った。
「……眠いの?」
「いえ」
「疲れている時はきちんと休まなければ駄目だよ」
「旦那様はそう言って昨日の晩も俺のことをとっとと布団へ案内しました」
「なんだ、今日は反抗的だね」
「今朝起きたら、机に積んでおいた書き仕事が片付いていたんです」
「そうか、不思議だね。誰がやったのかな」
「旦那様でしょう」
「私が?お前の仕事を?とんでもないことを言うな」
しれっと言いやがって、後から確認した紙には旦那様の癖字がしっかり書かれていたんだ。本当、人がいいというかお節介というか。俺は特に仕事熱心というわけでも、ましてや仕事中毒というわけでもないので、机の上の山が無くなっていたのを見た時はまあ普通に順当に、幸運だと思った。けれど、任された身で言うのもなんだが、あれは俺の仕事だったわけだ。横取りされたと騒ぎたいわけでは勿論ない。だが、かといって旦那座の言うこと為すこと全てに尻尾を振って付いて行けるほど心酔しているのかと言われれば、全くそんなこともない。こちらとしても複雑なのだ、部下と上司の間柄。
旦那様も丁度一息吐ける間が空いたのか、京の美味しい菓子を分けてもらったんだ、朔にも一つあげようね、といそいそ襖を開けていた。全く、呑気なものだ。腹を下す薬でも入っていたらどうするんだと以前聞いたことがある。何せここは大奥、欲望と野望が渦巻く場所だ。流石の旦那様もそれを理解していないわけがなく、仮にもお中臈の立場を与えられているのに上様の望む時に立ち上がれないようでは困るからと、食べ物を受け取ることは基本的にしないことにしていると聞いた。ほぼ唯一と言っていい例外が、たった今出された物のような、上様から届く贈り物である。
「……俺が頂くわけにはいきません」
「私一人じゃ食べきれないよ」
「何を仰います、旦那様の好物は甘味でしょう」
それこそこのような、と綺麗な飴細工の乗った半透明に艶めく葛菓子を指せば、いいからお食べなさいとぐいぐい押されて、仕方なしに頂く。昨日の昼過ぎ頃ふらりと何処かへ行ったと思っていたが、今考えるとあの時間に上様と逢瀬していたのだろう。とっとと旦那様がお腹様になってくれたら俺の立場も上がるって言うのに、もだもだしてないで抱いちまえ、男だろうが。
などと考えながら頂いた菓子は、流石は上様への献上品と讃えたくなる味だった。こんなもの毎日食べてたら舌が肥えて馬鹿になりそうだ。
「あ、そうだ、朔。そろそろ稽古の時間だよ」
「剣術稽古は先生が体調を崩されたのでしばらく休みと聞きました」
「じゃあ弓を練習しておいで」
「え?は、はい」
ぱっと顔を上げたかと思うと嫌に焦り始めた旦那様に、来客の予定があったのかと察して腰を上げる。茶の支度くらい申し付けてから追い出してくださればもっと分かりやすいのに、と少し残念に思いながら菓子を片付けていると、襖の開く音がした。
「あ、っ」
「……………」
言葉も無しに全ての襖を開けることができる人物なんて、この大奥には一人しかいない。この城の主、将軍様そのものだ。長い髪は美しい簪が飾り、豪奢な着物の袖から指先がほんの少し覗く。淡い色の花が散る足元から無意識に視線を上らせれば、ばちりと上様と目があってしまって、瞬間呼吸が止まった。ぼんやりと見上げてしまった無礼に気づいて慌てて頭を下げれば、するすると衣擦れの音がして部屋に入って来たことを知る。ああ、旦那様に会いに来たのか。
「呼びに行くと申したではありませんか」
「……………」
「ん、えっと、朔。すまないね、下がってほしい」
「はい」
上様に目線を合わせないまま、そっと部屋を出て襖を閉じた。遠目から見たことは何度もあったが、なんて美しい方だろう。烏の濡れ羽色をした髪と目はまるで先程俺が呑み込んだ葛菓子のように潤んで艶めいていて、雪のように白い肌は触ると溶けてしまいそうだった。薄赤く染まった頬に、いつも伏せ気味の目元は何処か儚げで、まるで作り物のような印象を受ける。周りにいるのが男ばかりだからか、一回りか二回り小さな体は何と無く淋し気で、庇護欲に駆られた男の目が向く気持ちはよく分かる。
以前はもっと凛として強い方だったと聞いたこともあるが、俺が大奥入りしてからの印象は、風に吹かれて当て所もなく飛んでいく枯葉に近い。ふらりふらりと歩いている様をよくお見かけするから、というのもあるが、憂いを含んでどこか達観した目がそう感じさせてしまうようにも思う。聞いた話でしかないが、数年前から上様は一言も喋らず、誰とも口を利かなくなった、とか。しかし政は滞りなく行なわれており、そこに上様がただの飾り物となっている様子もない。単なる噂と言えば噂だが、そんな噂が流れるくらいだ。少なくとも上様にお声をかけられた人間自体が近年少ないということなのだろう。無口なのは良い事じゃないか、余計な言葉を付け足して相手に不快感を与えることがない。
噂と言えば、奇妙な話を聞いたことがある。上様が喋らなくなったという話が出回ったのと同じ頃から流れ出した、一種の怪談噺だ。なんでも、上様と肉体関係を結ぶと三日以内にその男は大奥から消える、と。要は夜伽を仰せつかった男が次々といなくなるという話なのだが、殺されるのでも居なくなるのでもなく、消える、と言ったところに重点が置かれている。しかも、この話は事実だ。どれ位前の事だったか、側室の一人が上様と一晩を共にするのだと張り切って周りの者にも自慢していたが、次の朝もその次の朝も帰って来なかった。もちろん大捜索が行われたが、死体が上がるわけでもなく情報が得られるわけでもなく、本当に忽然と消えてしまったのだ。その話が一番の下地となっているのだろうが、他の男もみんな大奥にはもういない。側室として名前を貰った物は、夜伽に呼ばれない旦那様を除いて、時間が経ち次第静かに消えて行く。死罪とされているのは破瓜によって上様の体に傷を付けるご内証の方だけだと言われているので、上様が手を下しているわけではないはずだ。だがだからこそ、上様の目に映ることを嫌がる男もいれば、側室になることを恐怖としている男もいる。では俺はどうなのかと言えば、その話が本当なのか偶然の重なりなのかの確証も持てない上に、話に尾鰭が存分に拵えられている可能性もあるため、話半分でしか信じていない。上様の寝室に踏み入った側室だ、秘密裏に殺されていたっておかしくはないのではないだろうか。ただ、全員が口を噤んでいるだけで。
まあ極論、旦那様に危害が及ばなければ他がどうなろうとどうだっていい。あの人に消えられることは、俺の唯一の後ろ盾が無くなることと同義だ。母と妹に貧しい思いをさせないためにも、あの人がいなくては困る。

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