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キャットファイト



航介がこの人のこと苦手だから俺も苦手っておかしな話かもしれないけど、七つも年上の温和そうなあの男だけはどうしてもなかなか好きになれない。あの人の周りを取り巻く空気はどこかゆったりしていて、大人の余裕みたいなものを感じさせる一方で、いまいち読み切れない衝動的な子どもっぽさが漏れ出していて、こちらとしても要所要所にそれを嗅ぎ取ってしまうというか、なんというか。要するに、何かがちぐはぐでばらばらで、アンバランスなのだ。厚い盾で自分を押し殺していることはなんとなく察することができるのに、なにをそんなに我慢しているのかは全く分からない。航介が無意識にあの人を避けている理由も、きっとそこにある。得体の知れなさ、といったら失礼かもしれないけれど。
「あ」
「ああ、おはようございます」
「おはよう、ございます」
「早いですね」
「……航介んとこ、泊まってるんで」
がたがたと階下から響いてきた生活音に意識が浮き上がったところ、二度寝不可なくらい完璧に目が覚めてしまったので、お茶でも飲もうと航介の部屋を出て台所へ行ったら、千代田さんがいた。朝早いっていうかまだ夜に近い時間だけど、きっと今から仕事なんだろうな。航介は今日休みなのに、まあ休みだから泊まりがけで遊びに来てるんだけど、俺も変則の半休だから午後から仕事あるし。起こしてしまいましたね、すみません、と苦笑されて、なんとなく居心地が悪くなった。別に謝られたいわけじゃない、というかそもそもこの人俺に謝るようなことしてないじゃん。そう思ったけどそのまま言うのも憚られて、はあ、まあ、とか曖昧な返事をした。
合鍵を持ってるんだか航介父に開けてもらったんだか知らないけど、とにかく台所で何かの準備をしていたらしい彼の邪魔をするのも心苦しいので、お茶は諦めようと踵を返す。無駄にうろうろしたから寒い、さっき出てきたばかりの布団ももう冷えてるんじゃないかと思う。体を縮こませながら、航介の布団に入れてもらうか否か、と寝起きの頭が迷っていたせいで、ほんの少し反応が遅れた。
「朔太郎さん」
「う、あ」
「ごめんなさい、髪に糸が」
「……あ、りがと、ございます……」
「ふふ、驚きました?」
珍しい声を上げるから、と笑われたけれど、不意に触られて驚いたと言うよりは、悪寒が走ったと言った方が正しい。心の底から、ぞっとした。手が冷たいからとか、いきなりだったからとか、そういう理由じゃない。毒を持った蛇がするりと巻きついたような、そんな漠然とした恐怖だった。
きっとこの人は、俺にとって良からぬものを持っている。得体の知れなさの中に、それを隠している。俺だって伊達にこれまで生きてきたわけじゃないし、さちえと二人だったこともあってか周りを見る目とか相手の考えを察する力とかは人より多少はあると思ってる。もっと簡潔に言うならば、自分の勘は信じるに値するものだと知っている。その勘が、この人に必要以上に近づくべきじゃないと告げているんだ。興味本位や親切心で深く立ち入るべきじゃない、と警鐘が鳴っている。近くで観察したいからって肉食獣の檻の中に飛び込む奴はいないし、空を飛びたいからって風船括り付けてビルの屋上からダイビングしたら死ぬこともみんな知ってるだろう。そういう常識的な危険と、同じ匂いがする。軽い気持ちで一歩ラインを踏み越えれば最後、もう帰っては来られない。
「ほら。枕についてたんでしょう」
「俺の髪にしちゃ白いし長いですね」
「白髪でもこうはなりませんよ」
まだ朝早いですから寝てたらどうです、と笑顔を向けられて、笑顔を返した。この人に対しては、当たり障りなく一定の距離を保って、触れずに生きて行くのが一番いい。幸いなことに航介もこの人を苦手としているから割と避け気味だし、近寄られた分だけ離れられる距離感は保っていられるはずだ。航介がこの人を苦手な理由は、この人が落ち着いてて大人で温和でゆったりしてるからなんだけど、それでいい。その理由、俺も使わせてもらおう。
「おやすみなさい、朔太郎さん」
「……はい」
「航介さんに、行ってきますを伝えてくださいね」
まるで近しい仲みたいな会話に、また背筋がぞっとした。


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