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おはなし



一番最初の印象は、薄すぎて覚えてない。家じゃ勉強しないあたしを見るに見兼ねたお母さんが、あたしを家から徒歩十分くらいの塾に入れて、あたしはそれが嫌で嫌でたまらなかった。だって、勉強ばっかりしたくない。それってすっごいつまんないでしょ。あたしは中学生になったわけで、部活とかだってしてみたいし、学校終わった後に友達と寄り道してみたいし。青春とかいう漫画で見たことあるみたいな、楽しそうなやつを、たくさんしてみたい。イライラしてもやもやして、時々お母さんに嘘を吐いて塾をサボってたこともあった。これが反抗期ってやつなんだろうなあとか他人事みたいに思った。
中一の冬頃に、お母さんに嘘吐いてたことがバレて、怒られて失望されて、その分期待されてたことにも気づいて、お母さんにすごく悪いことしてたんだなって、酷い裏切りだったんだなって、心に槍が刺さった。塾にはちゃんと行こうと思ったし、どうしても嫌ならやめてもいいよってお母さんが言うのには首を横に振った。その代わり、イライラの矛先はいくらやっても出来ない自分に向かった。やろうとしてるしやり方も分かってる、なのになんで間違うわけ。きちんと一発で解答が得られないもどかしさがあたしの頭の中をぐちゃぐちゃにして、ぐちゃぐちゃしてるから全く集中できなくて、塾の先生の話を聞く気はそぞろになってることが多かった。だって分かってるんだもん、そんなこと知ってるんだもん。でも出来ないの、合ってるはずなのにどうしようもないちっちゃいミスで間違いにされてるだけなんだから、その道端に落っこちてる石ころみたいなのをどうしたら退かせるのかをあたしは知りたいの。知ってることばっかり説明されるのが嫌で嫌でしょうがなくて、赤ペンのバツ印なんか大っ嫌いで、先生に答案を見せに行くのが憂鬱になって、それで。
「丸つけるの、やめよう」
「……、え」
「単純なミスが多いから、一度見直すだけで間違いが減るはずだよ」
もう一回ゆっくりやり直してごらん、と返された赤ペンの走っていないプリントを握り締めて先生の顔を見たら、本当はいけないから黙っておいてね、と小声で呟いて、眉を下げて困ったように笑った。ぼんやりした気持ちのまま、言われた通りにいつもより時間をかけてゆっくりやり直して、きちんと見直しもして、もう一回見せに行った。丁寧に丸をつけられて、はいどうぞ、と返されたプリントを受け取る手が、少し震えた。
落っこちるものだとか聞いてた恋心は、どちらかというと撃ち抜かれた感じだった。すとんとかころころとかじゃなくて、どっかんばっかん頭の中が爆発する。先生の一言で楽になって、目の前がぱあっと広くなって、もやもやはどこかに飛んで行った。急がなくていいんだって、振り返ってもいいんだって、思い出させてくれたのは先生だった。それがきっかけで、それが始まりで、それが全部。あたしが今もがんばれる、全部の根っこはたった一言でしかない。もっと上を目指したら、もっと頭が良くなったら、他の子よりも点が取れたら、もしかしたら先生はあたしを見てくれるかもしれない。今度は、たくさん褒めてくれるかもしれない。反対に、あたしの頭が悪かったら先生と二人っきりの個人授業だ、とかも思ったけど、それはちょっとかっこ悪いからやめた。先生は大学生で大人なの、お馬鹿ちゃんな女子中学生よりも頭のいい十四歳の方がまだ釣り合うでしょ。
「みなみ、例のセンセーに告った?」
「そんなわけないじゃんっ」
「言ってみればいいのに、大学生の彼氏とか超かっこいい」
「う……別に、そういうのになりたいわけじゃ」
「じゃあそのセンセーに彼女がいてもいいの?」
「それはやだけど……」
学校では先生のことを知ってる人が少ないから、相談できる。相談というよりも、聞いて欲しいだけだけど。先生の髪は真っ黒で、ふわふわしてて、癖っ毛なんだ。真っ黒な目を答案に落として、少し開いた薄い唇。目を伏せてる時に睫毛がそんなに長くないことに気づいた、知ってるのはきっとあたしだけだ。あと視力はあまり良くないみたいで、眼鏡をかけてる。割と痩せてて骨ばってる、けど背は高くて細っこくて、肌の色も白くて薄い。透けるような、って表現がよく似合うような人だと思う。
でもきっと先生は大人だから、大人の恋愛をしてるんだろうな。ドラマで言ったら月曜十時からとか、木曜十一時からとか、ちょっと遅めの時間にやる感じのやつ。あたしは見てるだけでいいや。先生はぱっと目を引く見た目をしてるわけじゃないけど、薄く膜を張っているようにぼやけた黒い瞳が綺麗なことを知っている人は、あたし以外にいるんだと思う。いなくちゃおかしい、だってあんなに素敵なのに。でももしも万が一あたししか知らないのなら、あたしがもうちょっと大人になったその時に先生をもらうことにしよう。今はまだだめ、勝てない戦いはしない方が得なのだ。義務教育の間はがきんちょの拙い恋愛ごっこだと思われてしまうってこないだお母さんが見てたドラマで言ってた。だから、あたしがもう少しだけ大人になったその時に先生が誰のものにもなっていなかったら、その時は。
でもちょっとだけなら、近づいてもいいかな。わざと一問目を間違えたプリントを先生に出せば、優しい手でそれを受け取って目を伏せて、すぐにあたしが作った間違いに気づいてペンの裏で指した。すぐに赤ペンで書いちゃわないとこ、大好き。
「宮藤さん、ここはまず」
「先生」
「ん?」
「あたしの名前知ってる?」
「……知ってるけど」
「呼んで」
「はあ」
「名前で呼んで」
「……美波さん」
「やり直してくる」
「え?あ、はい」
だめだ、だめだ、にやにやしちゃう。ぽかんとしている先生に見えないように、引ったくったプリントで顔を隠した。


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