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おはなし



「衣草くん、衣草くん」
「なんすか」
「財部さんがなんかめっちゃ俺に切れてくるんだけど。怖い」
「謝ってきてください」
「あのおばさん謝れば謝る程に小言が増えるんだもん」
「おばさんとか言ってるとまた怒られますよ。まだ三十でしょう、あの人」
「まだね、まだ。ぷぷぷ」
「殺されたいんすか」
「衣草くんのデスクの下に匿ってよ。よっこらしょういち」
「出てけ馬鹿ください」
「あれっ今俺のこと馬鹿っつった?先輩ですけど?俺先輩なんですけど」
「財部さん、辻さんここにいます」
「ひっ、なんてことしやがる」
隣のデスクの先輩は、仕事も出来て顔もそれなりに良くて話した感じも好印象の、他人からしたら羨まれること間違いなしの人間なのに、頭の螺子が五本は抜けてて十本は緩んでる。今だって、さも自分が被害者みたいにぴゃっと逃げて行ったけど、どうせまた余計なことをぽろっと言ったんだろう。かつかつかつとヒールの音を響かせながら、走ってはいないはずなのに異様な速度で俺の背後をすり抜けて行った、もうすぐ三十一歳になる財部さんの逆鱗にどう触れたんだか俺には分からないけれど。綺麗な人ほど怒ると怖いとはよく言ったものだ、今だけは振り向きたくない。
辻さんは俺の一つ上だけど、勤続年数で言ったら五年は先輩になる。高卒で公務員試験を受けて働き始めたと話を聞いたのはいつのことだったか。俺はその時、あんな人でもあの難関と言われる試験に合格出来るのか、とうっかり思ってしまった。いや、あんな人というのは別に仕事ぶりを見て言えた話ではない。むしろ勤務態度は真面目だし、要領も良ければ融通も効く、雑談から会議まで会話力だって文句の付け所はない。ただ、なんかほんのちょっとどこかがおかしいだけだ。頭がおかしい、ずれている。仕事以外のところで顕著に表れるそれが、余計に目を引いてそう感じてしまうのかもしれないけれど。
例えば、絶対忘れない出勤一日目。緊張しながらデスクの間を進んで、説明された通りに辿り着いた先で、立ち止まった俺にすぐ気がついてぱっと上がった茶色い頭。丸っこい目と視線がぶつかって、慌てて頭を下げて挨拶した。
「い、っ衣草真治です。よろしくお願いします」
「新人さんだよね、始めまして。俺は辻朔太郎、衣草くんのお隣さんです」
「お世話になります」
「いえいえ。わかんないことあったら何でも聞いてねえ」
「はい、えっと、お願いします」
「ところで衣草くん、さっそく助けて欲しいんだけど」
「はあ」
「俺のパソコンのね、エンターキーがどっか行っちゃったんだ」
「……はあ?」
「これ直さないと仕事出来ないし、笹元さん今度は自腹ですっつってた、怖ええ」
「は、え?エンターキー?」
「あっ、笹元さんは事務の人だよ!俺が物無くしたり壊したりする度に怒るんだ!」
めっちゃ怖いから気をつけた方がいいよ、と真面目な顔で言う辻さんに、そういうことを聞きたかったんじゃねえよ、と漏れかけた言葉は我慢した。ちなみに後から分かったことだけど、笹元さんはそんなに怖い人じゃない。本人的には無意識でも、突拍子もない理由で妙なものを無くすわ壊すわで金銭面において迷惑かけまくってる辻さんに対して、否が応にも厳しい態度を取らざるを得ないだけだ。
その後俺は、エンターキーのすっぽ抜けたキーボードを証拠とばかりに見せられて、デスクの周りから部屋中、廊下に至るまでうろうろとエンターキーを探し回ったり、その道中で会う同じ部署の先輩や直属の上司を辻さんに紹介してもらって挨拶したり、そんなこんなしてる内にその日の勤務時間が終わるという壮絶な一日目を経験する羽目になる。初っ端だからチュートリアルってか、挨拶回りにしたってあんな腰屈めてうろうろしてるとこ見られたくなかった。おかげで俺は色んな人に会うことが出来たけれど「ああ、あのエンターキーの人」なんて覚えられ方不本意だ。しかも俺はエンターキーの人じゃねえから、エンターキーなくした人は辻さんだから。
「あれえ、衣草くん俺のマウス食べた?」
「なんでその狭いデスクの上で無くし物するんすか」
「いいや、見つかるまで指でやろっと。帰る頃には帰ってくるでしょ」
「今すぐ探したらどうですか」
「マウスも旅に出してやらんと」
可愛い子には云々、じゃないんだから。例に上げた、初対面にしちゃ濃すぎる会話で分かる通り、辻さんはちょっと変わってる。右手にペン、左手にゴミ持ってたら、迷わず一回まずは右手のペン捨てて、間違えちゃったって笑いながら左手でゴミ捨てて、きちんとペン拾おうとした結果バランス崩して最終的には自分がゴミ箱にダイブしそうな人だ。比喩じゃない、多分する。
それでも辻さんは俺にとっては頼らざるを得ない先輩なわけで、そもそも人が少ない仕事場で年齢も近くて部署も同じなんて言ったら一括りにされることも多くて。いや別に、嫌な人じゃないからいいけど。俺なんて愛想良く他人に接するのとかすごく苦手だし、そう思えば対人は抜群に上手い辻さんと一緒くたにされるのはラッキーだったとも言えなくもない。
「辻ー、時間あるか」
「あっ、ちょっと俺外すね。すぐ戻ってくるから、誰か来たら内線入れて」
「はい」
「そうだ、この書類二重確認だから、衣草くん見て。主に誤字を」
「分かりました」
「そんで、見たら判子押しといて。引き出しに入ってる」
「辻、それこないだ全体会議で駄目って言われたろ。ばれたらまためんどくせえよ」
「じゃあばれないように押しといて。そっとやれば平気」
「はい」
「……これの隣に座ってるだけあるな、衣草は」
どういう意味だろうか、あんまりいい気分じゃないことは確かだ。上司に見せなきゃならない割かし重要な書類と睨めっこしながら、他部署の先輩に呼ばれて一旦席を外した辻さんを見送る。細かい文字をつらつらと追いながら、辻さんが作った書類で誤字脱字が激しかったことなんか無いからな、とぼんやり思う。だから余計に分かりづらいんだけど。
無愛想だとか、何考えてるんだがよく分からないとか、表情が変わらなくて怖いとか。よくそう言われてしまう自分が嫌いなわけじゃないけど、新しい環境に踏み込むのはいつも割と恐怖を伴う。友達も元々そんなに多い方じゃない、口下手の部類に入るであろう自分が、人間関係を上手くやり繰りしないとならない職場できちんとやっていけるんだろうか、なんていう不安は確実に存在した。でも始まってしまえば案外なんとかなるもので、隣の席のおかしな先輩に引き摺られて結構楽しくやっている。綺麗だけど少し怖い財部さんはきっと辻さんにほんの少し好意を抱いているし、財布の紐が固い事務の笹元さんはこの前アイスをプレゼントしてくれた。ぽんぽん、と二つ判子を押しながら思う。
「……いいとこなのになあ」
お役所仕事を始めて改めて思う。俺はどうやら、地元が好きらしい。


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