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おはなし



僕にももちろん名前はあるんだけど、ただよしくんは僕の名前を知らないままずっと『おじさん』と呼ぶので、僕の名前はおじさんでいい。あの甘ったるい声で名前なんて呼ばれたら、僕はもうどうしたらいいか分からなくなってしまいそうだから。
ただよしくんと初めて会ったのは、彼が高校一年生の時だった。今より二回りくらい小さかったっけ。確か高校の間に七センチくらい身長が伸びたんだよね、成長期ってすごいや。もふもふがついた帽子被って、周りの大人に埋れてしまいそうになって、きょろきょろしながら僕がいつも使ってる電車に乗ってきた、一番最初のただよしくんのことはきっと一生忘れない。あの時初めて一人で遠出したんだって後から聞いて、やっと納得したっけ。少し不安げで、でもどこか楽しそうで、かわいかった。まあ、だから僕みたいな大人に狙われちゃったわけだけど、それはそれでいいよね。
ちょうど目一杯に混雑してる時間帯だった。大人に囲まれて、知らない場所で目を輝かせてたただよしくんが、びくりと固まって動かなくなった瞬間の恍惚はきっと二度と味わえない。僕がしたのは俗に言う痴漢だけど、ただよしくん男の子だし、そんなこと考えもしなかったんだろう。振り向くのも怖いといった様子で、斜め後ろから見えた顔は真っ青で、ぎゅうって握り締めてた拳は真っ白で、震えてた。怖がらせたいわけじゃなかったから、電車の揺れに紛れて手の場所を変えれば、真っ青だった顔色が少しずつ変わって、よく思い出してみればあの時からどうしようもないド淫乱だったっけね。痴漢されてんのに涙目になりながら感じてちゃだめだよ、お馬鹿さん。
だんだん俯いて縮こまっていくただよしくんの背中が一際大きく震えた時、若いっていいなあ、と思った覚えがある。涙が零れそうな目をぐしぐし擦りながら、周りにばれないように必死で顔を隠して、鉄の棒に縋ってぎりぎりで立ってるただよしくんに向かって、一演技。周りの人に聞こえないように小声で、そっと肩を叩けば酷く怯えた顔で振り向かれた。
「きみ、大丈夫?顔色が悪いみたいだけど……」
「ぁ、だい、じょぶれす、大丈夫、っ」
「……今後ろに立ってた人なら、もう何処かに行っちゃったみたいだよ」
「っ」
「助けてあげられなくてごめんね」
ひくん、と喉を鳴らして息を飲んだただよしくんの泣き出しそうな顔がたまらなくて、そこで終わりにするつもりが僕までスイッチ入っちゃった。縋るような、救われたような、安心したような、糸が切れたような、そんなへにゃっとした笑顔を向けられて、おじさんありがと、なんて呟かれたらもう、もう。
タイミング良く駅に着いて開いた目の前の扉に向かってただよしくんを押して、駅員さんに言いに行こう、でもその前にきみは服の中をどうにかしないとね、と優しい振りした笑顔を浮かべる。痴漢さんはもう何処かに行ってしまったんだと安心し切っているただよしくんが僕のことを疑う余地もなく、ふらつきながら手を引かれるままについてくる。恐怖から解放された反動か、もしかしたら賢者タイムとかいうやつなのか、ただよしくんは僕に手を引かれてる間ちょっとぼーっとしてて。普通のより少し広い、多目的トイレに連れ込まれた時点で、ただよしくんは引きつったような半笑いを浮かべていた。
「だめだよ、ついてきちゃ。おじさんは悪い人なんだから」
「……ぇ、あ」
「男の子なのにこんなことされたなんて、他の人が知ったら恥ずかしいね」
「……っ……」
ずるずる、扉側に僕が立ってるせいで逃げ場のないただよしくんは足に力が入らなくなってしまったようで、へたり込んでいた。かわいい、怖いんだ、僕のこと。さっき見せてくれたのと同じようにまた真っ青になって、僕が目の前にしゃがみ込んだらぼろぼろ泣き出して、ごめんなさい、許してください、だって。なんにも悪いことしてないのに謝られたって困るよ。そう告げれば、ぱっと気づいたようにぐしゃぐしゃの顔を上げて、鞄から財布出したから、それも違うよ、と口を塞いだ。それからいっぱい、しつこく長ったらしく結構な時間をかけてただよしくんで遊んで、やっと離してあげた時にはどのくらい経っていたのかな。ぐずぐずになっちゃったただよしくんに、元通り服を着せてる間に鞄の中から高校の生徒証が滑り落ちて、そこで初めて名前を知ったんだ。
「つづき、ただよしくん。高校一年生だったんだね」
「……………」
「わあ、もうすぐ誕生日なんだ。おめでとう」
「……けーさつ、よんでやる……」
「ただよしくん、男の子なのにレイプされちゃいましたってお巡りさんに言うの?」
「っ、……」
「この先、いろんな男の人がただよしくんをそういう目で見るようになるんだね」
「……う、うあ」
怖がらせないように笑いかければ、絶望しきった顔で涙を零した。ただほっぽり出して置いて行くのも可哀想だったから、これで美味しいものでも食べて帰ったらいいよ、とお札を何枚か手渡せば、ぽいっと床に捨てられて悲しかったな。でもしょうがないから泣いてるただよしくんを残して、僕はトイレから出た。
それからどれくらい経った頃だろう。一ヶ月、ちょっと?ただよしくんのことを忘れたわけじゃなかったけど、僕は休日出勤なんか当たり前のさびしいおじさんだし、ただよしくんと会うことももちろんなかったし、素敵な思い出として風化しかけてる頃だった。だから、ほんとにほんとに驚いたんだ、きみが僕のことを後ろから引っ張った時には。
「お、おじさんっ」
「ん?えっ」
「……おれ、俺のこと、覚えてる」
「ちょっと、ちょっと待って」
「あの、忘れててもいいけど、俺この前おじさんに」
「ただよしくん!ただよしくんでしょ!?待って!ここはだめだ!」
「えっ」
久しぶりに大声を上げた。だってここ思いっきり駅構内だし、僕はまだ社会的に死にたくない。せっかくただよしくんはちゃんと黙っててくれたんだなって安心してたとこなのに、ただよしくん本人に起爆されちゃたまったもんじゃない。初めて会った時と同じ、もふもふがついた帽子をぴこぴこ揺らしながらおろおろしてるただよしくんを連れて、とにかく駅から出た。仕事なんて後回しだ、とにかく話ができる場所を見つけようと適当な店に入って飲み物を頼む。僕はコーヒーをお願いして、ただよしくんはなににするかなって思ったら、ちょっと恥ずかしそうにメロンソーダ指さした。そこでようやく僕の中に犯罪意識が生まれて、うわあ、こんな子にとんでもないことしちゃったんだ、とかってようやく思う。
「ただよしくん、どうしたの。僕になにか用?」
「……おじさんに、会おうと思って」
「うん」
「こないだから何回か同じ電車乗って探して、でも見つかんなくて」
「……うん」
「あの時と同じ曜日の、同じ時間に、同じ車両に乗ったらいるのかなって、思って」
「……………」
「そしたら、それが今日なんだけど、混んでて。この時間、いつもこんな感じ?」
「そうだね。それで、どうしたの?」
「そんで、見つけらんないで降りたらおじさんがいて、なんかもう我慢できなくて」
「うん」
「……つかまえちゃった」
悪戯が成功した子どもみたいな笑顔だった。あどけないそれを真っ直ぐ見てることは出来なくて、目を逸らす。急にびっくりさせてごめんなさい、と少ししょんぼりした声で言われて、それに怒ってるわけじゃないよ、なんてぼそぼそ呟いた。バイトだろうなって店員が雑に持ってきたコーヒーとメロンソーダにそれぞれ手を伸ばしながら、口を開く。
「……ただよしくんはどうして僕に会いたかったの。だって、僕だよ?」
「んん……」
「普通会いたくないでしょ。ただよしくんだって泣いてたじゃない、なにか忘れもの?」
「だってさあ」
じゅる、って緑の炭酸啜って目を伏せたただよしくんからは、噎せ返りそうなくらい濃い匂いが漂ってるみたいだった。細められた目の端から柔らかそうな頬にかけてが少し赤くて、潤んだ瞳が僕を捉える。かくりと首を傾げて小声で呟くその様子は、そこらの商売女がどれだけ真似しようとしたって到底不可能なくらいやらしくて、壮絶だった。
きっと、ただよしくんには元からそういう素質があったんだと思う。匂いで、仕草で、目線で、笑みで、言葉で、相手の欲を掻き立てる。あまりに周りを狂わせるから、重たい錠をかけられて封じ込められていたんだ。その錠をぶっ壊してしまった僕には、責任がある。鍵をかけたままでいたら真っ直ぐに明るい道を進むことが出来たはずの彼の一生を捻じ曲げてしまった罪を、背負わなければならないと思った。
「……あんなのされて、普通でいられるわけないじゃん」
俺もう、だめになっちゃったみたい。どうしよっか。そう呟いた唇につられた僕は、ほんの少ししか口を付けてないコーヒーと半分くらい無くなったメロンソーダだけを残して、その店を出た。

「おじさあん」
「ん?」
「どこ見てんだよ」
ぼおっと昔のただよしくんを思い返していた僕に腹が立ったのか、ぺしんと頬を叩かれた。ふわふわのバスローブ適当に引っ掛けただけの格好で、髪なんて生乾きで、ベッドに座ってる僕を跨いでるただよしくんの不満げな顔。ごめんね、なんて適当な謝罪と共に体を引き寄せれば、もごもごとなに言ってんだが分かんない不明瞭な言葉を吐いた。別にいい、もう知らない、おじさんのばか、どれだろう。
ただよしくんの体温がバスローブ越しに伝わってきて、あったかい。ほとんど体格なんて変わらない、どちらかと言うとただよしくんの方が男の子らしくてかっこいい体つきのくせに、彼は僕に寄っかかったり抱きついたりしな垂れかかったりするのが好きなようだった。たくさん優しくして可愛がって、甘ったるい空気でいっぱいになった部屋の中なら、きっとただよしくんは世界中の誰にも負けないくらい、やらしくてたまんない。甘やかしの第一歩として緩やかに背中を撫でていると、ぱっと彼が体を起こした。きらきらして、楽しいことを思いついたように輝く目が見える。
「おじさん、クイズ」
「なあに」
「今日は何の日でしょう」
「ええ?」
「当てられたら、いいことしたげる」
「……誕生日、はもう少し先だもんねえ」
「ヒント、記念日」
「記念日……」
がんばって考えてよ、とするする僕の体を降りたただよしくんがベルトに手を掛けたので、それされたらがんばって考えられないな、と思う。ちょっと待って、とただよしくんの髪を梳いて、頭の中のカレンダーを捲ってみた。納期期日が明日とか、いやいやそういうのただよしくんといる時に思い出したくない、忘れよう。記念日、っていうからには、僕にもただよしくんにも関係のある日なんだろう。僕の太腿に頬を当てて寝そべりながらこっちを見上げるただよしくんの爪先が、ぱたぱたとシーツを打つ。はやく、と急かされてふと思い出した。
「あ」
「わかった?」
「……思い当たった」
「言って」
「嫌だよ、ただよしくんのすけべ」
「あっ、そうやって俺のせいにするんだ。おじさんがいけないことした日なのに」
「う……」
ほんとにこの子は、とんでもない事を記念日扱いしたもんだ。処女喪失は記念日にしちゃだめだよ、とただよしくんに告げるのとほぼ同時、聞いているんだかいないんだか、僕を押し倒すように胸に飛び込んできた。それを受け止めきれずに後ろへ倒れれば、嬉しそうな笑顔。おめでとうございます、ちゅー、じゃないの。僕はだめだよって言ってるの。
「んう」
「こら」
「だって、今日ほんとはおじさんの友達においでって言われててさあ」
「悪い大人にはついてっちゃだめだって言ってるでしょ」
「おじさんが教えてくれた人だよ。3Pさせたがった、あの人」
「ああ、あいつか。ちゃんとお金もらってる?」
「んー。まあまあ」
「だめなんだよ、ちゃんとお金取らないと。誰彼構わず抱かれるのはだめ」
「俺そんなにお金はいらないっつってんのに」
口を尖らせて、ただよしくんは不満気な顔をした。でも、だめなもんはだめだ。ただよしくんとそういうことする人は、ちゃんと金銭を用いないといけない。そうしないと、ただよしくんがただの脳足りんになっちゃうでしょ。それは違うし、きみを頭の緩い馬鹿にしたくない。だから僕だって、僕が教えてあげた数少ない友達だって、みんなただよしくんのことを大事にするし、誠意を持ってお金を払ってる。それに対してただよしくんはずっと不満を持ってるみたいだけど、僕はこれだけは譲らない。例えなにがあろうと、ただよしくんに悪いいたずらをした後は、決まった額のお札を渡すことにしているんだ。今日もちゃんと払うよ、と告げれば拗ねてしまったけれど。
「で?あいつは断って、どうして僕のところに来てくれたの?」
「……おじさんとの大事な日だからって、断った」
「怒ってた?」
「ううん。ただよしくんは一途なんだね、って。おじさんとも他の人ともやってんのにね」
「……そうだねえ」
「今日はなにしてほしい?」
「どうしようかな」
「なんでも言うこと聞いてあげる、俺一途だから」
ぱちん、となにかのスイッチを押したみたいだ。さっきまでのきらきらした瞳は何処かに置いてきて、入れ替わるようにどろりと甘ったるい空気が雪崩れ込む。僕の言葉を従順に待つただよしくんの羽織る布を肩から滑り落として、照明を一つ落とした。

「友だち食ったらだめかなあ」
「……僕の友だちで良ければ紹介してあげるから、それで我慢しなよ」
「ほんと?楽しみにしとく」
「お友だちに手出したりしたら、ただよしくんのこと捨てるからね」
「えっ、しない!しない絶対しない」
「おじさんで我慢してよ」
「我慢するからもっかいしよう?」
「……しょうがないなあ」


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