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おはなし



急坂の途中にある俺のバイト先は、交通の便があまりよくない割に通う生徒が多い。塾なんてそれこそ近くにたくさんあるけど、山の上まで登って通うのはしんどい、もしくは山の下まで下ると帰りが面倒、などなどそれらしい理由は生徒から聞いたことがある。バスは出てるからそれに乗ればいい話なんだけど、みんな中学生かそこらなんだからそんなお金があるわけもなく、近隣の中学校三つからちらほらと生徒が集まっている状況だ。通う子の数が増えれば比例して先生の数も増やさなければならないはずなんだけど、募集をかけてもなかなか来てくれないらしく、正規の講師と大学生のバイトでなんとか回している。だから中間テストと期末テストの前は毎回てんてこ舞いなわけなんだけど、そのピークを一週間程前に乗り越えた塾はいつもより少し静かで、生徒も何となく気が抜けている。テストの点数が出終わるまでは普段より課題量も緩やかなので、致し方ないことなんだけど。
「こんにちは」
「ちわあ」
「……桐沢早いね」
「今日俺授業なかったから。家から来たし」
「とーや先生、ちょいとこっちへ」
「……なんですか」
「あさひ先生もこっち」
「え?」
俺より少し前に着いていたらしい桐沢と二人顔を見合わせて、奥のデスクへ行く。俺たちを呼んだのは桐沢や俺と同じくバイトの宮上さんで、コピーした答案用紙を二枚重ねてずいっと突き出された。確かこれ樫ノ木のテスト、中三の数学だったっけ。見てあげてくださいよ莉々ちゃんの頑張り、と顔を覆った宮上さんにつられて、二人で紙を覗き込む。一枚目は見覚えがある、前回のテストだ。六十点ちょっと、平均をぎりぎり超えるくらいで本人も不満そうだったのはよく覚えている。一枚めくって二枚目、この答案は多分見たことないけど、と目を点数欄に移して、思わず声を上げた。
「……これ、今回の答案ですか」
「昨日届けてくれたんです。あたしもう、とーや先生に早く見せたくて見せたくて」
「すげえな、二十点近く上がってる」
「がんばったんですね。課題も最近すごくよくやってくれてるのは知ってたけど」
「莉々ちゃんのことめっちゃ褒めたげてくださあい!」
「はい」
「トップ校狙ってるんだったか」
「榛原女子。厳しいって塾頭に言われてたけど、この調子なら行けるんじゃない」
「数学苦手だったのにな。掲示に載せてやるんだろ」
「はい、もうすっごいおっきく載せます、莉々ちゃんがんばったね!って」
「……普段のと同じように掲示は作った方がいいと思います」
「えええ……」
宮上さんはあからさまにしょんぼりしているけど、こないだも英語の点数が劇的な変化を遂げた生徒を褒め称える掲示作って、塾頭に懇々と諭されてたのはどこの誰だったっけ。確かにたくさん褒めてあげたいけどそれは個人的に口で言いなさい、なんて言葉が漏れ聞こえてきて、桐沢と深く頷いたのを俺は覚えてる。
荷物をロッカーに入れて、講師証を首から下げる。今日は確か個別授業が入ってなかったはずだから、自習室にいる子の採点と解説が俺の仕事、のはず。反対に中一の全体授業が入っている桐沢は、テキストを引っ張り出しながら眉根を寄せていた。なんでかは知らないけどあの学年変わった子多いから、気持ちは分からなくもない。真面目っちゃ真面目なんだけどあいつらどうでもいい雑談が多すぎるんだよな、いっぺん叱らないとダメかな、と険しい顔で言った桐沢に、曖昧な笑顔を向けておいた。俺はあんまり集団指導したことないから、最大でも二人か三人ずつしか相手しない中じゃ雑談って言ってもそんなに目立たないけど、それが大勢になったらそりゃ顔も険しくなるか。
うちの塾は、基本的には個別指導か少人数でのグループ指導だ。週に一回ずつ学年ごとに一時間の授業を受ける日があって、それ以外は個人。自分の分として出てる課題を、次の週の授業までに自習室で片付けていく。その中で分からなかったり行き詰まってしまったところがあった時は、自習室にいる先生にそれぞれ教えてもらうなりなんなりして次の課題、という風に進んでいく。週一の授業は基本的に正規の先生がやるんだけど、桐沢は教え方が上手いから特別にお給料も少し多めにもらって授業を手伝っている。このままバイトが増えなかったら俺もいつかそっちを手伝わされるらしいけど、正直な話大人数相手の授業はあんまりしたくない。大きい声出せないし、みんなに分かる説明が出来るとも思えないし。桐沢も宮上さんも学校の先生になりたくてこのバイトしてるって言うけど、俺はそんなこと全然考えてなくて、確かに俺が教えた物事を分かってもらえるのは楽しいし嬉しいけど、教員免許取るためのカリキュラムだってそもそも組んでない。学校の、じゃなくても先生になるのはきっと楽しいだろうとは思うけど。
宮上さんは掲示をいつも作ってくれるので、今日もそれが終わってから自習室に来てくれるらしい。それまでは一人だけど、テスト明けだからそんなに忙しくないし大丈夫だろう。正規の先生に挨拶して、テキスト片手に自習室と教室の間の廊下で桐沢とだらだら喋っていると、ドアが開いた時のチャイムが鳴った。
「あっ、来た」
「こんにちわあ」
「げええ、今日桐沢先生の授業だ。こわーい」
「うるせえな、入れ入れ」
「こんちわ……あのさあ、弁財天せんせえ……」
「ん?」
「……小テストやばいことになっちゃった……」
「……見せてくれれば教えるから」
「理科」
「分かった、授業終わった後でね」
「御幸!理科がなんだって!」
「きっ、り、桐沢先生には関係ないから……」
「そうだね」
「せんせえこんちわー!俺のさあ!テキストどこ行ったか知らねえ!」
「えっ、知らないけど。なくなっちゃったの?」
「うん!だから今日授業出れねえや!ねっ、桐沢先生!」
「馬鹿言え。お前はこっちだ、一年坊主」
「ひええ」
早い時間から授業が入っている中一がぞろぞろやってきて、自習室の中にいてもまだすることがないので廊下で挨拶する。教室に引っ込んだ桐沢が中で、なんだそれほんとにおもちゃなんだろうな、やめろ俺にクモを近づけるな、なんて叫んでるのが聞こえた。ここに通ってる生徒は樫ノ木、南野第二、久慈川の三校の内どこかの子だけど、ふざけてはっちゃけるのは大体久慈川だ。確か有馬が久慈川出身だったと思う、それを踏まえると納得っちゃ納得なような。
十数分もすれば、次は受験間近の中三がやってくる。さっき通り過ぎた中一たちがきゃんきゃんしてたのに対し、高校受験がいよいよ迫ってきた三年生は静かなもんだ。自習室に入って机にテキストを揃えると、今回のテストで数学をとてもがんばった丸山さんが入ってきた。こっちを見てぱっと顔を輝かせるので、嫌な予感がしてぎしりと椅子を引けば、案の定デスクに思いっきり手をついて詰め寄られた。
「ねええ!あたしのこと褒めてくれるんでしょ!当也先生が褒めてくれるんでしょ!?」
「っちょ、ちょっと待って、丸山さん」
「莉々うるさあい」
「うるさくない!ねえ当也先生!?褒めて!塾頭にすごかったって言って!」
「言う、言うから、丸山さん、あの」
「桐沢先生はなんつってた!?」
「丸山うるせえぞ!一人で五人分はうるせえ!」
「きっりさわせんせええ!あたしを褒めて!」
「うるっせえっつってんだろ!授業中だボケ!」
授業始めてたはずの桐沢が自習室の扉をぶっ壊す勢いで突っ込んできて、すぐいなくなった。あーん褒めてよお莉々を褒めて、とぶすくれている丸山さんに、でもすごかったよ、このままキープできたら榛原女子も狙えると思う、と告げればにっこにこ嬉しそうに笑って机に向かっていた。苦手な数学であそこまで点を伸ばせたんだから、頑張りようによっては他の教科もどんどん上を目指せると思うんだ。同じく三年の鳴見さんが不満そうにその様子を見てたけど、二人は仲が良いので恐らくは邪魔になってるとか羨ましいとかそういうマイナスの視線じゃなくて、俺に褒められている一点に対しての不満顔だろう。褒めたことないわけじゃないんだけど、鳴見さん元々全体的に割とできるし志望校も現時点で余裕だから、声かけたことはあんまりなかったかもしれない。後で改めて話してみよう。
自習室に人が増えてきて、課題を解き終わった子が採点のためにテキストを持ってくる。分からなさそうなところは教えるし、ただの単純ミスならもう一度見直すように声をかけて。そんなことくらいしかしてないから俺と生徒の間にそこまで会話はないはずなんだけど、こっちが解答見ながら丸つけてる間ずっとぺちゃくちゃ話しかけてくる子もいるわけで。がたがたと椅子を鳴らして座った二年生の男の子が、テキストに赤ペンを走らせてる俺に向かって口を開く。
「先生聞いてよ、俺こないだからモンハン再開したんだけど」
「んー」
「ラージャンとイビルジョーが両方出てくるクエスト、先生やった?」
「やった」
「勝った?」
「うん」
「ソロ?」
「……後でやり方教えてあげるから。こことここ、見直しておいで」
「マジで!よろしく!」
「先生こないだ俺のボスクエ手伝ってくれるって言った!渡部より俺が先だろ!」
「今週分の課題がみんな終わった人は、手伝ってあげるって言ったの」
「ふふん」
勝ち誇った顔をした渡部くんはあとプリント数枚で今週分の課題が終わるからその表情なんだろうけど、樫ノ木は宿題が多いからそれもきちんとやってもらうとするとゲームの手伝いはなかなか出来そうにない。本人は気づいていないみたいだから、今は突っ込まないであげよう。
お喋りばっかりしてるわけじゃないけど、一人ずつに丸つけして解説して、ってやってると、どうしても多少の時間はかかってしまって列が長くなって行く。並ぶ時間が長いとそこでふざけてしまう子とか話が盛り上がってしまう子とかがいて、こらこらって声をかけはするけど静かにはならなくて。困っていたら、新規入塾の子に話をしていたらしい正規の先生が、中二の授業までのほんの少しの間だけど、と加わってくれた。そこに並ぶ子も増えたことで採点のための列が少し解消されて、一安心だ。今日は確か全学年共に授業があったはずだから、正規の先生はそっちを担当しなくちゃいけないはずなのに、ちょっと申し訳ない。正規の先生が授業開始の時間で抜けた穴を埋めるように、中一の授業が終わった桐沢と掲示がある程度完成したらしい宮上さんが自習室を見にきてくれたので、ここからは俺一人で対応しなくても良くなった。長く列を作られるとどうしても待たせちゃいけないと思うから、一人ひとりにかける時間が短くなっちゃうんだ。
自習室は結構人の入れ替わりが激しくて、さっきまでいた中三が授業のために抜けたのに代わって授業終わりの中一が入ってきたかと思えば、中二も授業で一つ下の教室へ移動するし、宮上さんに個別指導を受ける子がテキストだけ持って出て行ったり。もう疲れたから五分だけソファー貸してよお、と入り口すぐの待合室に逃げようとした一年生が、桐沢に捕まってがっくりしていた。
「うああ、助けてえ」
「授業中寝腐ってた奴がどうやったら疲れるんだ!テキスト無い上に寝やがって!」
「テキストねえから寝てたんだ!することがなかったの!」
「話聞いてメモくらい取れや!しかも最前列でお前!」
「……せんせえ、理科……」
「ああ、御幸。教えるから、テスト持っておいで」
「……おい、なんでお前の方にばっか生徒が行くんだよ」
「桐沢先生怖いから当也先生にばっかりみんな並ぶんだろ」
「そうだそうだ」
「あ!?」
「怖えなあ、絶対昔やんちゃしてただろ、先生」
「寧も桐沢先生怖いよな」
「う、え、こ、こわくない、けど」
「ほら見ろ!御幸教えてやる、こっち来い」
「や、やだ。弁財天せんせえがいい」
「……………」
「……………」
「……申し訳なさそうな顔すんのやめろよ……」
御幸の小テストを見てやったり、自習室に戻ったり、そんなこんなしてる内にあっという間に時間は経って、生徒は帰る時間になった。最後まで残っていた生徒に、ばいばい、と手を振られて振り返せば、一気に塾内が静かになる。そろそろ全員のテストが返却されて、個人の点数まとめと平均点が出るはずだ。そしたらまた忙しくなる、三年生は受験シーズンだし。
「とーや先生、あさひ先生、はいどうぞ。お疲れさまです」
「あ、ありがとうございます」
「……もう俺、丸山褒め疲れた……」
「そういえばとーや先生、周助くんたちにゲームのなんか教えてあげたんですか?」
「まだ、ですけど」
「すっごい楽しみに待ってましたよお、あの子たち」
「……なあ、俺にもゲーム教えてよ」
「……桐沢は自分でやりなよ……」



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