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おはなし



「かっゆ」
「……蚊?」
「んー。痒い、うう」
ぽりぽりと首筋を掻く伏見に、引っ掻くと酷くなるよ、と一応声を掛けたものの、全く聞いていないようだった。こっちも痒い、とズボンの裾を捲り上げる伏見につられて覗き込めば、ぷくんと膨れて赤くなっているのが良く分かる。黙ったままそっと寄ってきて爪で十文字付けようとした有馬が無言で張っ倒されてぶっ飛んでくのを見送って、また目を伏見の虫刺されに戻す。あっちもこっちも食われてもう最悪、なんて言葉に、見える場所には目立たないけど、と返せば仏頂面のまま指さされる。
「まずここじゃん。あと首じゃん」
「うん」
「この、膝の裏の上のとこと、腰の上のお腹の柔らかいとこと、あと」
「え、まだ?」
「うん。この脇から背中側にちょっと行ったとこと、二の腕の裏っかわと」
「……全裸で野外にでもいたわけ?」
「ちげーよ!食われやすいの、そんで暑いからって薄着で寝るとこうなる」
「伏見んちそんな蚊いっぱいいるの」
「うちじゃない」
「いってえ、俺首もげてない?ねえ」
「もげてたらもっと痛いよ」
「そっか」
何故か納得した有馬が、だって伏見美味そうだもんなあ、なんて蚊の気持ちに寄った意見を出した。なんでお前は蚊側に立ってるんだよ、と思うと同時に当の伏見も、まあ弁当の血よりは美味しそうである自信はあるよ、なんて言うから二度見した。どういうことだよ、ちょっと待てよ。思わずそれを全力で顔に出してしまった俺を見て、だってさあ、と二人して口を開く。
「なんか吸うことを躊躇うじゃん」
「別に血どろどろとかじゃないし、美味しいし」
「吸って欲しいの?痒いんだよ」
「でも伏見と弁当が並んでたら、俺だったら伏見から吸う」
「なんで」
「だから美味そうだからだよ」
「……………」
「そんな納得行かねえって顔されてもさ」
ほんとのことじゃんか、なあ、なんて珍しく意気投合してるのはいいけど、内容が納得いかない。伏見のが美味そうって、俺あいつより全然色んなもの食べてるし、健康的な生活してる自信はあるぞ。
子どもって体温高いから蚊に食われやすいって聞いたことあるよ、なんて余計な一言を頭にくっ付けて言った有馬がまた首を捻り切られそうになっているのを自業自得だとぼんやり見て、体温が高いっていうよりたくさん汗かくと刺されやすくなるって言うよね、とそっと助け舟を出す。子どもは動く分汗をかくから蚊に見つかりやすいんだとか、なにかで見た覚えがある。あとは、二酸化炭素を目印に蚊は寄ってくるから、酒を飲んだ後はいつもより刺されやすくなっているんだとか。たくさん汗をかく、に思い当たる節があったらしい伏見は有馬の頭から手を離してふむふむと頷いていた。暑いから薄着になるって言ってたもんな、暑ければ暑いほど汗かくのは道理だ。
「蚊取り線香みたいなの、やれば」
「電気のやつ?あれ消すの忘れるんだよね」
「置いとくだけでいいやつとかもなかったっけ」
「あるある、しばらくしたら交換すればいいやつ」
「ふうん。見てみよ」
「代謝がいいと食われやすくなるんじゃなかった?」
「そうだと思う。小野寺俺より酷いもん」
「そうなんだ」
「全然わかんねえな」
「痒いとかそういう繊細な感覚あいつ無いから」
でも、腕やら足やら腹やら良く見ると赤いぽちぽちがいろんなとこにあるらしい。足の裏食われた時には流石に気持ち悪がってた、と伏見は笑っていたけど、変なとこ食われるとほんと洒落になんない。ちょっとでも痒いとそっちにばっか意識行っちゃって他のことに集中できないんだ、その気持ちはよく分かる。引っ掻きすぎて傷になると痒み止めの薬も塗れなくて、じわじわ痛いわ地味に痒いわで地獄だった気がする。
そんでさ、と続けかけた伏見がいきなり机をぶっ叩いたので、割と大きめの音に驚き固まれば、有馬も続けざまに半分くらい腰を浮かせて宙を掻いた。なんだ、どうした、ついに狂ったか。虚空を見る二人に若干引いていると、伏見がぼそりと呟く。
「ころす」
「……なに……」
「ふらふらだったな」
「潰す」
「食われた?」
「そんな気がする」
「……蚊?」
「そう」
憎しみの篭った視線を空中に彷徨わせている伏見に、いやそんな顔しなくても、と思わなくもない。けど、散々やられている身としては一匹の存在も見逃せないんだろうか。すっかり見失ってしまったらしい有馬は、もう諦めたように口を尖らせていた。これだから夏はな、なんて当たり前みたいに言われても、蚊の被害に遭ったことがそんなにないので、俺の中での夏に蚊は含まれないというかなんというか。
「……今日帰りマツキヨ行こ」
「ムヒパッチ買えば。アンパンマンのやつ」
「は?馬鹿にしてんの?」
「ちげえよ!あれ結構効くんだって」
「……………」
「全く信用してねえ顔やめろ」
「あれ子ども用でしょ?効くんだ」
「蚊に食われた痕に子どもも大人もないだろ」
「小野寺に買わすから高い薬にしよっかな」
「あいつはお前の財布じゃねえんだぞ」
「だって小野寺んちにいると刺されるんだもん。慰謝料だよ」
「ああ……」
妙に納得させる伏見の口調に、溜め息混じりの同意。恐らく俺と同じような顔をしていた有馬が不意に手を伸ばして、ぐっと握った手の中に何やら捕まえたのか逃がさないよう叩き潰す。
「あ、赤い」
「潰したの?」
「誰の血だろう」
「伏見じゃね」
「もうほんと勘弁なんだけど……」

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