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おはなし



二人暮らしを始めるようになったきっかけも、航介が一度仕事を休むことになった理由も、俺がきっかり定時で帰りたがる原因も、みんなみんな引っくるめて、子どもができたからだ。海が産まれることが分かって、二人で住むことになって、まず家選びをして、家具を揃えて、引っ越しをして。家から持っていけるものは持って行っても構わないと言われて、もう使っていないものは有難く頂戴したけれど、新しく買い揃えたものも多かった。
航介が家から自分の持ち物として持ってきたものはほんとに少なくて、最低限の服だったり、本が数冊だったり、使ってた布団だったり、そんなもんだった。大好きなはずのゲーム類が一つもないことに疑問を覚えて聞けば、海が小さい内はやらないんだって言い切って、持ってくることすらしなかった。航介は変なとこで真面目だし、CEROC以上のFPSなんて教育に悪いってことだろうな。俺は車で新居と家を数回往復したけれど、航介に至っては全部積んで一回来たきりで揃ってしまうくらいだったんだから、よっぽどだ。まあ二人で共用できるものは必要ないわけだし、大きめの家具を持ってきた分俺の荷物が多かっただけかもしれない。
航介が持ってきた数少ない私物の中で最もお互い重宝したのが、コーヒーメーカーだった。これは実家から譲り受けたものらしい、航介以外は使わないから持って行けと言われたんだとか。二人だからそんなに豆の消費量が激しいわけでもない、けど俺も航介もコーヒーは割と飲むし、だったら美味いに越したことはない。ボタン一つでエスプレッソもカプチーノもレギュラーコーヒーも作れるそれに何度お世話になっただろうか。忙しい朝も眠たい夜も休日の昼も、本当にありがとうございました、お疲れさまでした、と言いたい。
「あれえ、さくちゃん、ぶしゅーのやつしないの?」
「……お亡くなりになられたよ……」
「ふうん」
きょと、と首を傾げている海は分かっていないようだった。壊れたんだよ、と言ってしまえば終わりな気がして、航介と二人でどんより俯く。寿命なのかなんなのか、今朝もいつもと同じように使おうとしたら動かなかった。あまりに静かに息を引き取ったので、俺のボタンの押し加減が悪いのかと思って連打してしまったくらいだ。
もちもちとパンを頬張っている海を苦い顔で見ている航介に、どうするよ、と声をかければ微妙そうな表情が返ってきた。うん、多分今その顔、俺もしてるからよく分かる。
「……高えんだよな」
「そうだねえ」
「あんなん買う余裕ねえぞ、最近立て込んでたから」
「じゃあしばらくインスタントで我慢する?」
「んん……」
それは嫌だ、と言いたげな顔。俺も嫌だよ、夏が近づいてるとはいえまだ夜は冷えたりもするんだ、おいしいコーヒーくらい飲みたい。かと言って新しく揃えるのは財布に大ダメージなわけであって、でもインスタントで耐えるのも長い目で見れば金銭的な圧迫度はそんなに変わらないような気もしてて。コーヒーなんて嗜好品の一部でしかないはずなのに、うちにとってはそれがないだけで割と大きな痛手だ。
どうしようかなあ。ぶしゅーってやるの、とか言って海も気に入ってたし、ボタン押すとぶしゃぶしゃ言いながら出来るの楽しいみたいだったし、この際少し値が張っても同じものを買い直すのもいいかもしれない。通販で上手くやれば少しくらいは安くなるだろうから、と航介に切り出そうとして、被った言葉を引っ込めた。
「こ」
「いいか。しばらく無くても」
「う、え?いいの?」
「暑くなってきたらあんまり飲まなくなるだろ。もったいねえよ」
「……お前がいいならいいけど」
「別にいい」
「なにがー」
「ぶしゅーのやつしばらくお休みするってよ」
そうなの、と特に興味もなさそうに頷いた海を見るふりして航介を視界の端に映す。うーん、多分ものすごく嫌だったと思うんだけどな、その決断。こいつ妙なところで我慢するから、コーヒーのやつ欲しいってくらい言ってくれても迷惑じゃないのに。
それから三日ほど経ったお休みの日、どうやら自分でやったらしくカップの淵ぎりぎりまで入った牛乳を、台所からリビングへとゆっくり運んでいた海が、あのねえさくちゃん、とこっちを見ずに話し始めた。いや、お前、話すのもうちょっと後でいいよ。先にそのなみなみ入った牛乳をどうにかしてからにしてよ、気が気じゃない。目はカップから離さないままふらふらとようやくテーブルに辿り着いた海が牛乳を一口飲んで、途端に出来た白いひげに気づかず話しかけてきた。ちょっと面白かったから拭いてやろう、話してる間に笑いかねない。
「こーちゃんがねえ、おやすみのぶしゅーってやるやつボタンおしててね」
「……間違えちゃったんじゃないの」
「かなしいおかおだったー」
「どんくらい悲しい顔してた?」
「いっぱい、こーんくらい」
海の中でどのくらいの量って言ったら大概の場合ちょっとかいっぱいの二択なんだけど、こんくらい、と指で示してくれるので大変分かりやすい。ちなみに今は、目一杯両腕を広げて仰け反るあまり椅子から転げ落ちそうになるくらい、だった。すごいなそれ、相当じゃないか。まあでも、海は航介のことよく見てるから、俺じゃ気づかなかったのかもしれないしな。
幸いなことに、少し遅れて台所から出て来た航介にはこっちの話が一切聞こえていなかったようで。カップなみなみの牛乳のお供にクッキーをもらって、楽しいおやつタイムに入った海をぼんやり見てる航介を盗み見る。悲しそうっちゃ悲しそうだけど、いつもと同じ顔にも見えるっていうか、目開いてないからわかんねえや。ふわふわと大きな欠伸をした航介の手元にあるマグカップの中には、海のものと同じく牛乳が入っていて、うっかり笑いそうになった。コーヒー飲めないから仕方ないんだけど、でも牛乳ってお前。眠いなら寝てくれば、と笑いを堪えながら告げれば、別に眠くねえけど、なんて返事。
「いいじゃん。休みなんだし、晩飯まで寝てきなさいよ」
「布団干してねえもん、やだよ」
「床で寝たらどうだろう」
「お前馬鹿なんじゃねえの」
「そうだねっ、こーちゃんはねむたいからおめめあいてないんだもんねっ」
「……そうだな」
若干話からはずれてるものの、自信満々で的確な言葉を放った海に下手に言い返すと永遠に堂々巡ってしまうので、航介はもごもごと言葉を飲み下すことにしたらしい。悲しそうかどうかは分からなかったけれど、今のは分かった。複雑な心境の時の顔だ。航介はなんだか知らないけど疲れてるみたいだし、気を引く意味も込めて三枚あったクッキーをようやく一枚食べ切った海に話しかけてみた。
「海、クッキーおいしい?」
「うん。さくちゃんみて、ここね、チョコがはいってる」
「ほんとだ」
「うみ、チョコすき」
「そっか。また買ってこような、それ安いし」
「ううん」
「う、ううん?え、なに。違うのがいいの?」
「あかいふくろのやつがいい、こうやって、ぺったんしてるやつ」
「なにそれ、なんていうやつ?」
「わかんない」
「んー、じゃあ、ぺったんってなにか教えてよ」
「ぺったんはねえ、とらないでたべるおやくそくなの」
でもね、まさきくんはぺったんとってしろいのたべちゃってね、それでぼくがだめよっておしえてあげたのにね、まさきくんがね、と話し出した海は全く頼りにならなかった。ぺったん、って手のひらと手のひらをくっつけてるから、二枚重なってる何かであることは確かだろうけど。
まさきくんの話はいいよ、もう分かったよ。まさきくんってあの子だろ、海の後ろを一生懸命ついて歩いてたのにそれに気づかなかったお前があまりにも突然振り返ったもんだから吹っ飛ばされて転んでた子だろ。こないだお迎え行った時に見た。海の話があんまり長いから、航介も頬杖ついてうとうとしてる。やっぱり疲れてるんだろうな、最近忙しかったみたいだし。しばらくしてふっと顔を上げたもののぼけっとしてる航介に、今日は俺が晩飯作るから、と告げれば、いまいち聞いていないようだった。航介はコーヒー切れ状態だとこんなに使い物にならなくなっちゃうのか、大変だな。
「海、ぺったんのやつはさくちゃんが今度探して買っといたげる」
「あかいやつだよ!ピンクのはちがうあじ!」
「分かった、赤いやつね」
「……多分それビスコ」
ぼそりと呟いた航介が、晩飯の支度、と立ち上がったので海を膝に乗せて、強制的に座ってもらった。疲れてる人は座ってなさい、俺今日お休みなんだから。舐めないで欲しい、晩飯くらい作れる。
「こーちゃっ、こーおちゃんっ」
「あー、ああもう……クッキーぼろっぼろじゃねえかよ、暴れんな」
「ぽきってなっちゃうんだもん」
「分かった分かった」
「海、こーちゃんをねんねさせてあげて」
「はあい」
「は?いやいい、いいってマジで、横にはならないからな、海こら、引っ張んな」
「ぼくがごほんよんであげる、きょうはうみがせんせいね!」
航介を椅子から引き摺り下ろそうとする海とそれに抵抗している航介はほっといて、自分は台所へ引っ込んだ。楽しそうに部屋の中をどたばたしながら薄い子ども用の掛け布団と絵本を持ってきた海に逆らえなかったのか、しばらく経ってから様子を見に行くと二人揃って寝ていて、ほら見ろ、と思う。よくよく見れば航介が床、海が掛け布団にそれぞれ転がっていて、きちんと海を柔らかい布団の上で寝かせている辺り、慣れたもんだというかなんというか。ほっぽり出された働く車の絵本を元の場所に片付けるついでに、パソコンを開いた。頼んでるのがばれたらまたお金がどうとかうんたらかんたらめんどくさそうだから、こっそりサプライズということで。
数日後、注文通りにきちんと届いたコーヒーメーカーに、航介は目を白黒させて驚いていた。これがなかった期間は一週間もないはずだけど、妙に懐かしいというか、おかえり気分というか。
「ぶしゅーのボタンはぼくがする!うみがやりますっ」
「はいはい」
「こーちゃんはすわってまってるひとね、うみせんせえがやるからね」
「お前最近先生ごっこ好きな」
「海、ビスコ買ってきたからご飯の後に食えば」
「くう!」
「食べる、だろ」
「たべるー」
「はい、海先生ボタン押して」
「ぶしゅーのやついっしょにのむー」
「……それはどうだろうな……」
「九割牛乳にすれば流石に苦くないんじゃない」


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