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おはなし



明日行く弓道場は、いつもと違うところだ。今までの大会でよく見た顔ぶれもいないし、いつもと同じところに自販機はない。知らない学校名が飛び交う知らない場所で行われる、高校生活最後の公式試合。
「緊張する?流石の小野寺でも」
「んん……よくわかんないけど、多分してる」
「えっなに、そんな脳みそあるの」
「うるせえ西前」
伏見が一二年を集めて場所や時間の確認をしてくれている間に、最後のミーティングじゃないけど、三年だけの時間をほんの少しもらった。笑う崎原と西前をじとりと睨めば、六島がふと気付いたように目線を上げて。
「あっ、やべ。頭黒くしなきゃ駄目か」
「またあのきったねえ黒染めすんのかよ」
「受験もあんだからお前いっそちゃんと黒に戻して来れば?」
「……つーか逆に緊張しない方が化け物でしょ、本選なんだし」
「そうなんだけどさあ」
桐沢と崎原に、最後くらいきちんとしてくれ、学校名背負ってる上に部員みんな見に来る大舞台なんだから、なんて六島が説き伏せられているのをぼんやり見ながら、西前が呟く。お前が変だとみんな感染するからやめてよね、と零されてフラッシュバックしたのは、二年の五月だった。俺がごちゃごちゃと考えてたせいでみんなを引っ掻き回した、関東大会。あんな思いをするのはもうごめんだ。ごめんだけど、それでもどうしても、インターハイって言葉は重たくのし掛かる。
「ねえ、崎原。部長からなんか話ある?」
「えっ、あ、えっと、うん」
一二年への説明が終わったのか、伏見がこっちに寄ってくる。結局なんの話してたわけ、と呆れ声で問いかけられて特に答えられず苦笑いすれば、困り顔の崎原が唸っていた。部長からっていうより三年生からの、それよりむしろ俺個人からの話になっちゃうんだけどね、とそわそわ目を泳がせて、口を開く。
「えあー、んー?どうしよ、なに言おう?」
「部長」
「がんばれ部長」
「やめて!囃さないで!」
一呼吸、置いて。後輩の目が向くその中で真っ直ぐ前を向ける崎原は、すごいと思う。緊張、プレッシャー、そういったものを乗り越えたら崎原はきっと一番安定するって伏見が言ってたけれど、普段通りを意識的に徹底できる姿勢が本当に羨ましい。俺は、意識すればする程に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまうから。
インターハイって大きい舞台に行くことができたのは、一人の力ではないと思う。けれど結局のところ弓は一人で引くものだし、中った一本は間違いなく自分の力だ。崎原の話出しは、そこからだった。弓道じゃ、バスケとかサッカーみたいなチームプレイはできない。誰かのミスをとっさに他の誰かが埋めることは不可能だ、中らなかった一本は数字となって残る。けれどそれはきっと悪いことじゃなくて、一人一人の力を合わせれば自分だけじゃ見られなかった景色が見られるということで。
「それが、俺にとってのインターハイ本選、だから」
「……泣くのは早いぞ、部長」
「泣いてない」
「コンタクトがずれるよ、部長」
「お前明日試合終わったら干からびるんじゃねえの」
「うるせえな!黙ってろよ!必死で喋ってんだよこっちは!」
「部長、眠い」
「わあー!もうおしまい!終わり終わり!一二年は応援とカメラよろしく!以上!」
口々に三年から突っつかれてついにパンクした崎原をフォローするように、桐沢が部活終わりの号令をかける。一年にとってはたった半年も経たない期間しか一緒にやってきてない先輩だけど、二年には今の崎原の言葉は突き刺さったようで、ぶっち切り涙脆い矢巾がぐすぐす言ってた。来年俺らも絶対行きますから、常連校になってやりますから、と畳み掛けられる言葉に、なに勝手に終わった話にしてんだコラ、と六島が絡んで、それを桐沢が引き剥がして、西前が欠伸しながら靴突っかけて、崎原が手を振る。
「明日遅刻すんなよっ」
「うん」
「……いやお前も帰れよ」
「伏見と帰る」
「帰れ」
「俺がいなかったらシャッター閉めれないでしょ」
「死ね」
あーあ、みんながいなくなった途端にすぐこれだ。にこにこしながら可愛い後輩と話してた伏見はこの数分でどこに消え失せたのか、弦の確認をする目は冷めている。弓懸をするするとつけて、あと四本だけだから、なんてぼそりと呟いて矢を取った伏見に、じゃあ矢取り入るからね、と声をかければもう聞いちゃいなかった。四本だけだから、の後に一言、もうちょっとだけ待ってて、とでも付けられたら最高なのに。
ぷらぷらと草履引っ掛けて看的に向かいながら、ネット越しに見える綺麗な射形を目で追う。一本、二本と矢が的に突き刺さって、今日最後だし一番丁寧に引くと思うから皆中に一票、なんて頭の中で投票してる内に四本終わった。ほら見ろ、俺の勝ち。赤い旗を出して、どーぞ、なんて欠伸交じりに気の抜けた声で射場に入る。四本だけって言ってたし、的も抜いちゃおう。安土慣らしは伏見の矢を置いてきてからでいいか。てきぱきと支度をまとめる伏見に拭いた矢を渡せば、ぱっと見上げられて。
「……………」
「……え?あ、なに?」
「なんか話があるんじゃないの」
「はい?」
「話があるって顔してる」
「そうかな」
「手短に終わらせろ」
しれっと言われても困る。話したいこと、なんかあったっけ。きっとあったんだろうな、俺より伏見の方が余程頭も察しもいい。恐らく俺が無意識にぼんやり思ったことまで拾い上げて察する辺り、少し妖怪じみてるけど。支度の手を途中で止めて俺を見上げたまま固まってる伏見を見下ろして、口を開いた。
「俺ね、中学の時バレー部だったんだけど」
「知ってる」
「結構強かったんだよ、都大会は入賞して関東まで行ったんだから」
「全国じゃないんだ」
「……うるせ」
「で?お前の思い出話がどう俺に関係ある話になるわけ」
ぽん、と床を叩いて姿勢を崩した伏見の前に膝をつく。話を聞く体勢になってもらえたようでなによりだ。頬杖ついてこっちを見る憮然とした顔に向かって、いやお前が話があるだろって言ってきただけであってお前に関係ある話があるとは誰も言ってねえ、などと言えるはずもなく。
中学の時は、高校に入ってもきっとまたバレー部に入るもんだと思ってた。それに、高校にはインターハイっていうかっこいい大会があるってことは知ってたし、漫画とかでもその名前は見たことあって、強くてすごい学校がいっぱい集まる漠然としたイメージしかなかったけど、俺もそこに出るんだって決めてた。結局バレー部には入らなかったし今となっては懐かしい思い出でしかないんだけど、競技が違くても憧れだったその大会に出られることは嬉しくて、しかも本選だなんてそれこそ漫画の中の話みたいだと思う。
「で、その、んーと……なんの話したかったんだろな」
「知らねえよ」
「だって、俺より伏見の方がきっとすごく嬉しいはずだよ」
「俺の話はしてねえだろ馬鹿」
気持ちいいくらいにさらっとぶった切られてしまった。確かに伏見の言う通りなんだけど。俺ちゃんと話すのとか苦手だし、長い話だと整理して言葉にできないから、正直な話もうおしまいでもいい。ただもやもやした塊は残るだろうとは思う、伏見がそれを解消させてくれようとしてるってことも分かる。だから俺は拙くても話さなきゃならない、自分が言いたかったことすら分からないような有様でも。
この前、中学の時の友達に会った。バレー部で三年間一緒にやってきた友達だった。そいつは高校でもバレーを続けていて、この前引退試合があったんだって笑ってた。中学の時点でもそいつはすごく上手かったし、運動神経が良いってだけじゃなくて持ち前のセンスとかそういったものもあったように思うし、なによりバレーが好きだってことが周りによく伝わってた。ただ強豪校に行くには成績が足りなくて、中学三年の時悔しがってたっけ。もう少し試合してたかったな、と寂しそうに言われて、何の言葉もかけられなかった。だって、その気持ちは俺も知ってる。
そして、そこで俺はやっと気づいたわけだ。これで最後なんだって。もう少しやってたかったな、が本当に引き摺る後悔になる時が来てしまったんだって。高校を卒業したら高校総体には出られない、また次があるよって言葉が通用しない。勝ち残れたら次の大会に進めるわけじゃない、本選が終わってしまったらどう足掻こうが引退だ。当然のことだけど、俺はそれを分かっていなかった。今は当たり前みたいに弓道場に集まっているけれど、その当たり前がぱちんと消えてなくなってしまう。会えなくなるわけじゃないし来ようとすればいつでも来れる、そんなこと頭じゃ分かっているけど、人や場所が問題なわけじゃなくて。今ここで一緒に部活をしている事実が、これから先に続かないことが怖い。まだ俺は、その踏ん切りをつけられていない。
「分かった」
「わか、え?あ、それはよかったです……」
「よく分かった」
珍しく、伏見がこくこくと頷いた。もっとうまく喋れ馬鹿って舌打ちされるだろうと思ってたから逆に面食らってしまって固まっていると、伏見が立ち上がって俺の弓に弦を張った。おい待て、なにしてるんだ。もう的片付けちゃったのに。
「うん」
「なに?巻藁?」
「いや、このまま引いてみろ」
「は?」
「的なんかなくていいから」
いつもの場所にいつもみたいに立っていつもと同じ感覚で引け、と弓を渡されて、怪訝な顔を抑えられなかった。だってそもそも狙いがつけられないだろ、的がなかったら。そう思ったままに告げれば、じゃあ目も閉じろ、と無茶苦茶な返事を返される。なに言ってんだ、ついに流石の伏見も緊張で頭おかしくなったんじゃないのか。
弓を持ったままどうしたもんかとおろおろしている俺を黙って見ている目に負けて、弓懸をつける。なにをさせたいんだろう、的つけてくれる様子もないし、ほんとに何にもないとこに向かって放てって言うのか。もう矢筒にしまってある矢を一本取り出せば、ぺたぺたと寄ってくる足音が聞こえた。いつも立つ場所、みんなが足を擦るから床の色なんてとっくに変わってる。構えて一息ついたら、見慣れた光景に少し落ち着けた気がした。
左右並行になるように引き分けて、力が両方に均一にかかる意識。肩の力は抜くとか、頭のてっぺんから一本の糸で釣られてるような感覚を持つとか、何度も繰り返してきた。早く離しすぎるのは良くない、かといって会を持ちすぎるのも良くない、だから一番いいタイミングで離せるように神経を研ぎ澄ませて、あとは自分の勘に任せる。弓倒しして、後ろから見てたらしい伏見の方を振り向けば、特になにも言われなかった。じゃあ弓置いてこっち来い、なんて平然とした顔で先に出て行ってしまった伏見をぽかんと目で追って、慌てて追いかける。
「これが今お前がやったやつな」
「え、うん……」
「的枠つけてみるけど」
今からつけるのか、しかも枠。多分、今の俺の頭の上にはてなが百個くらい飛んでる。普段使ってる目印から真っ直ぐ下、安土慣らしてないからさっきまで使ってた的の場所が残ってる。そこに枠を差し込んだ伏見が、ほら見てみろ、と一歩引いた。
「中ってる」
「……ほんとだ」
「的が無くても体が覚えてるんだろ、どうしたら矢が中るのか」
「偶然だよ、こんな」
「お前自分の三年間をよく偶然だなんて言えたもんだな」
呆れ顔でそう言われて言葉に詰まる。別にそんなつもりはなかったけど、何かを蔑ろにしている気がして。この辺かな、なんて言いながら安土にぐりぐり指を突っ込んで穴を広げている伏見に何をしてるのか聞けば、多分この辺りが今日一年がやった矢が刺さってたとこ、と土まみれになった指を抜く。当たり前だけどそこは的とは全然関係ないところで、まだ一年は引き始めて少ししか経っていないから仕方ないんだけど。
「お前もここからここまで来たわけ」
「……うん」
「同じところにはいられないわけ」
「そう、だけど」
「だけど?」
「だから、なんていうか……終わっちゃったら、もうここには来ないんでしょ」
「はあ」
「今はまだ矢の場所が移動するけど、これからはここに俺たちの矢はなくなるから」
「何でお前馬鹿なのに変なとこで深く考えすぎるの?意味わかんない」
そもそもインハイを最後の大会として見ないでくれない、それならまだ崎原みたいに仲間がいたから行けた場所みたいなふわふわしたイメージの方が五億倍まし、と背伸びした伏見が俺の眉間を爪先でぶっ刺してきた。痛いし、背伸びしながら全体重かけてくるから普通によろけるし、お前その指でさっき穴掘ってたし、でも抵抗は出来ない俺は唸るしかない。憧れとか引退とかそういうこと考えて浸ろうとしてたらお前はすぐこっちに行くだろ、明日こんなとこに当てたら殺すとか殴るとかじゃなく一生口利かないから、なんて一年の穴を指さしながら脅されて怯えていれば、満足気に息を吐いた伏見が腕を組んで言う。
「俺は、明日やっと目的地に到達って感じなんだから。足引っ張んないで」
「全国区の大会が目的地だったの」
「やっと帰ってきたなって言いたいくらいだ」
「行ったことないでしょ?」
「うるせえ馬鹿、あるわ。中学の時だけど」
「そっか、そうだった」
「三年越しのただいまだぞ、祝えよ」
「……伏見は中学の時もいろんな大会に出たことあるから、目標だったわけでさ」
俺が同じ目標を持っていたとしても、それは大会の名前に釣られただけであって本当の意味で目指しているわけではないんだと思った。それはただの憧れで、夢で、一人じゃ叶うはずのないもので。俯いた俺の顔を覗き込んだ伏見が、なんなのもう、と呆れた声。ごめんね、こんな時に変なことばっか考えてちゃ使い物にならないよね、俺のことなんかいらなくなっちゃうよね。それはすごく怖いけど、でも俺頭悪いから、普段からあんまり考えることをしないから、一回考え始めたらやめどころが分からなくなっちゃうんだ。ぐるぐる回る頭の中を持て余して何も言えずに黙っていると、はああ、なんてあからさまに溜息をつかれた。
「何も考えてなけりゃ勘でここに中てれる癖に」
「……ごめん」
「めんどくせえ奴」
「伏見にだけは言われたくない……」
「いーや、妙なとこで引っかかってる時のお前の方が絶対めんどくさいね」
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「しつけえ」
「だってそれだけはないもん、そこは俺譲れないよ」
「はいはい」
めんどくせえ小野寺にはもっと低俗な励まし方すりゃ良かったな、と心の底からめんどくさそうな顔をされて、なにその低俗な励まし方って、逆に気になるんだけど。そう聞けばまた変なとこ食いつきやがってって嫌がられたけど、外した的枠をぱしぱし振って土を落としながら教えてくれた。
「なんか、ご褒美みたいな感じの」
「はあ」
「忘れさせてやるよ的な。俺が」
「へえ」
「脳みそが下半身についてるお前が体良く全部忘れられるようなそれだよ」
「どうぞ」
「しねえよ」
「忘れさせてよ」
「自分でその辺に頭打って記憶失ってこい」
「ちぇっ」
「引退試合だろ、欲を切り捨てて清らかな気持ちでやれよ」
「引退とか考えてたらぐちゃぐちゃになっちゃうんだってば」
「生きづらいな、お前」
自分でも今そう思った。なんて可哀想な頭だろう、キャパシティが少なすぎる。じゃあ四本中七本中てられたらご褒美やってもいいぞ、と胸を張られて諦めた。なんだそれ、奇跡かよ。矢が折れまくりでもしない限り四分の七なんて中るわけないだろ。ぐちゃぐちゃの頭でがんばるしかないか、と出来るだけ無になる特訓をする覚悟を決めれば、名案を思いついたように手を打った伏見が口を開いた。
「じゃあこうしよう。ご褒美の先払いだ」
「先払い」
「当たり前だけど最低でも羽分するだろ、小野寺は」
「う……がんばるけど……」
「その分は今ご褒美やるよ」
だからとっとと余計なこと忘れて残りのご褒美獲得に脳を向けろ、なんて無茶苦茶。意味が分からず眉を顰めていれば、にたあと悪い笑い方をした伏見がぼそぼそと耳元で囁いてきた。吹き込まれるのはご褒美の内容、聞き取りづらいそれに耳を澄ませて、次の瞬間耳を疑った。
「……えっ」
「はいおしまい、続きは大会後」
「え、待って、だめだったら無しなの?それみんな無しなの?」
「今日は前二つだけな、早く着替えないと店閉まるぞ」
「待ってってば、ねえ!俺の質問に答えて!」
「そもそも弓持っててもクレープ屋さんって入れんのかな」
「そんなこと今聞いてないでしょ!」
伏見の先払いご褒美とぶら下げられた餌のおかげで俺がどれくらい頑張れたかは、また後日。ただ、ご褒美全没収だけは無かったということだけは教えておこうと思う。


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