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聞き齧り



俺のしたことが、どれだけの傲慢だったのか。無知で考え無しな綺麗事と、残酷で吐き気を催す現実の違いが、理解できていなかったのか。今まで恵まれた環境にあったくせに不幸なふりをしている自分に、気づいていなかったのか。都合良く進む世の中に慣れ切って可哀想を気取っていた俺は、この時まだ知らなかった。あの時自分一人が死んでいれば彼を救うことが出来ていたことは、分かっている。それとも反対に、あのまま彼を見捨てていれば彼まで引き摺り込むことはなかったとも、分かっている。けれど、どちらが正解かは、分からないままだ。
それでも、俺はきっと不幸ではなかった。足先すら見えない程の真っ暗闇のような世界でも、彼が隣にいることがどれだけの救いになったか。人間でなくなった彼が暖かく目を細める、今までと変わらない笑顔を見る度に、罪悪感と偽善で押し潰されそうになりながら、俺も笑う。
俺の左手と血液を得た弁当が、薄ら目を開いた瞬間、酷く甘い幸せに突き落とされた。その幸せに名前を付けるなら、独占欲、だろう。

「鱗赫から移植したのは、左手と血と、治りが早いように皮膚も剥いで付けさせてもらったけど。そんなものかな、外見損傷の割にあんた綺麗だったよ」
「……ありがとう、ございました」
「んーん。ちょっと実験もさせてもらったから、おあいこね」
ふ、と笑った羽赫の男に、尾赫の男が何か言いたげな顔をする。わざと勿体つけるような言い方の、実験、に引っかかるものを感じたが、俺にはそこに食いつける程の知識もなければ、そんなことをする権利もない。意識を取り戻した俺は羽赫の男と尾赫の男の居住地であるらしい廃ビルの一室にいて、隣の部屋に寝かされていた弁当の体は欠けた部分が無くなっていて、俺の左手がなくなっていた。全ては俺が知らない内に終わっていたのだ。それから三日程だったか、異様な食欲と睡眠欲に襲われ動物のような生活を送る内に左手は戻り、未だ眠り続ける弁当の側で三日程過ごし、彼が目を覚ましてからまた一日。そして、今に至る。
理由は今度詳しく、とぼかされたものの、羽赫の男が再生治療に長けていることを聞いたのは、弁当が目を覚ます前、一昨日のことだった。ぎこちなく頭を下げた弁当に、同い歳なんだから敬語やめてよね、と手を振った羽赫の男が手に持っていた紙を捲る。カルテ、のようなものだろうか。
「経過安定、馴染んで良かったじゃん。どっかおかしいとこある?」
「……ない」
「じゃあいっか。ようこそ、喰種の世界へ!ってとこ?あはは」
「笑い事じゃないよ……」
からから笑った羽赫の男の頭を軽く叩いて溜息をついた尾赫の男が、一歩前へ出た。咄嗟に弁当を庇う位置に出た俺を見て目を丸くした彼が、信用ないなあ、助けてあげたのに、と肩を落としてはまた羽赫の男に笑われる。
「俺は、小野寺達紀。こっちの小さいのは伏見彰人。君たちがその体に慣れるまで、当分一緒に暮らすことになると思うから。よろしくね」
「小さいっつったか」
「あっごめ、痛い!ごめんって!」
「……有馬、はるか」
「俺は弁財天当也。助けてくれて、本当にありがとう」
「いやいやあ、こっちとしてはあんたは実験動物だから」
お礼を言われても、と口の端を釣り上げた伏見の背から、美しい煌めきを込めた羽赫が飛び出す。それを目を取られた一瞬後、ざくん、と重い音と共に弁当の体が傾いだ。振り向きざま、零れ落ちる血液に、喉が鳴る。
「ぇ、」
「っ……!」
「ばっ、なにしてんの!馬鹿!」
「うるせえな、実験結果の確認だよ」
喉元と腹に突き刺さった結晶が、ざあっと霞に変わる。同時に消え失せた羽赫を見て、衝動的に伏見へと手を伸ばした俺の体は、咳き込んだ弁当の声で固まった。ひくん、と身じろいだ体がゆっくりと起き上がって、目が合う。
「けふっ、ぁ、え……?」
「……べん、と」
「ん、術後良好。あの、えー、弁当って呼んでもいい?」
「え、うん……?」
「おめでとう!弁当は死なない体を手に入れました!」
ぱちぱち、と手を叩く音は一人分だ。目を丸くする俺と、唖然としている小野寺と、何が起きたか分かっていないらしい弁当を見回して、んもう、と息を吐いた伏見が口を開く。
鱗赫の俺の体は、再生力が他よりも格段に高く作られている。手の一本なら数日で生えるし、腹に穴が開いても致命傷にならない。伏見が行なった実験は、人間である弁当にその再生力を分け与える、もしくは何倍にもすることだった。勿論人間がベースであることから、弁当には赫子は出せないし、仲間を察知するための嗅覚も効かないし、人間を食べたいという感情も薄い。それによるいくつかのデメリット、例えば人間混じりである希少価値から喰種や鳩に狙われる危険性、から彼自身を守る為の、驚異的な再生能力の付与。死なない体、それが伏見の行なった実験だった。微かに残る血が皮膚内へと吸収されて消え失せ、服に染み込んだ血痕だけが受けた傷を語る様を見て、満足気に頷いた伏見が語り終える。
「頭が吹き飛んだくらいじゃ死なないよ。痛いかもしれないけどな」
「……なん、」
「なんでそんなことを?だから言ったろ、実験だって」
「……………」
「文句があるなら有馬に言えよな、生かしてくれって俺に頼んだのはこいつだ」
「っ」
「ううん」
緩く首を振った弁当が、左手を見下ろす。右手とは大きさが違う、俺の手だ。きゅ、と一度握られたそれから、伏見へと目を合わせた弁当が、眉を下げて笑った。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
さて、と手を打った小野寺が、気を取り直すようにこっちを見る。失礼な話だが未だに警戒心の抜けない俺がそれにびくりと身じろぐと、小野寺が困ったように笑った。お前はこっち、服と風呂と飯とその体の使い方の説明だ、と伏見に半ば強引に連れ去られた弁当を追おうとした俺の手を掴んで止めた小野寺が、鼻を寄せた。
「ぎゃ、っ」
「んん、やっぱ匂いが薄いね。今まで本当に薬だけで耐えてたの?」
「そうだよっ、人なんか食いたくなかったから」
「でもこの前食っただろ。これからは我慢できなくなる」
「……ぃ、いやだ」
「我儘言わないの、って言ってもここでは人間の肉を思いっきり食うやつはいないけどね」
「は……?」
「俺は伏見の肉しか食えないし、伏見は偏食だから美味しく整えられた肉しか食わないし」
「と、っ共食い?」
「そうなるね」
他の肉なんて不味くて食えたもんじゃない、と困ったように眉を下げた小野寺が、俺の手を引く。連れられるままに進む内に、これからは伏見の食ってるやつを少し分けて貰えばいいよ、あれならそんなに今まで見てきた人間の食事と変わらないはずだよ、と声を掛けられる。それに伏見なら薬も作れるし、必要最低限の肉とそれに代わる嗜好品と薬でなんとかなるんじゃないかな、と付け足されて、胸に痞えていたものが落ちたように思った。
「で、その先」
「まだなんかあんのかよ」
「その歳になって初めて赫子を出したお前に、戦い方を教えてあげようと思ってさ」
「……ぇ」
「殺せとは言わない。自分と弁当が逃げられるだけの隙を作る力くらいは、持たなくちゃね」
ドーム状の高い天井に、広々とした大広間。俺の手を離した小野寺が、瞳を黒く染めて首を傾げた。犬のような尾が、揺れる。
「俺、結構強いよ?」
「……よろしく、頼む」
見慣れない、薄く透けた鱗赫が自分の体から突き出す。戦い方を、生き方を、守り方を、知らなくちゃ。揺らめく鱗赫が、薄く笑う尾赫へと狙いを定めた。

「守られるだけじゃ、いやなんだ」
「喰種相手に人間が戦えるわけがないだろ、お前はちょっと他よりも治りが早いだけなの」
「……でも、俺を必要としてくれたのは、有馬だから」
力にならなくちゃ、と悲壮なまでの決意を口の端に登らせて笑う彼に、己が生きるためあの馬鹿へ何を求めなければならないかを、まだ俺は教えていない。基盤が人間なだけで、こいつだって人外に成り果ててしまったのだ。右手と左手を合わせて見比べている彼に、注射器を手渡した。薬の説明はもう既に終えている。一日一本、これを欠かせば拒絶反応で恐らくこいつは死ぬ。説明していないのは、喰種の体と人間の体の癒着を促すために定期的な食事が必要となることだ。命の恩人であり、力になりたいと願い、友人として隣に立ち続けてきたはずの、左手の持ち主の一部分を、彼は栄養としなければならない。
「……怖くないの?」
「怖くないよ。有馬だって、こうして今まで俺のこと食べるの我慢してきたんでしょう」
「あいつのそれは自分の我儘だ。お前のそれは押し付けられた命でしかない」
「じゃあ、俺は死ねば良かったの?」
「……有馬に頼まれてお前を生かした俺に、それを聞くの?」
「そうだね。……でも、俺、本当に、必要とされてることが嬉しいんだ」
自らの手で打ち込まれた注射器の中身を押し出して、痛みに息を荒げながら。こわくなんかないよ、と呟いた彼に目から雫が溢れた。
「だって、これで、ずっと一緒にいられるんだ」

例えば、この世界は並行的で、他の世界には平和に暮らす俺たちがいて、人を食って生きる化け物なんてものは存在しなかったとして。例えば、幸せに気づけず不幸で可哀想なふりをした結果、痛い目を見た癖に自分一人救われ、また幸せに浸かっていることに気づかない奴もいない世界。献身が恋慕へと変わり続け、最後にはいっそ隷属的なまでに尽くし切って人間でなくなった上で、尚も尽くすことをやめない奴もいない世界。幼い頃にいつまでも囚われて、もう二度と還らない人を探し続け、自分の命すら削る奴もいない世界。独り占めにしたい相手が悲願を成し遂げたら、それをぶち壊しにして二人死のうと決めている奴もいない世界。そこではせめて、幸せであってほしい。
不幸は、こっちで全て、請け負うから。


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