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聞き齧り



「大丈夫?」
「平気だって、駅までだし」
「でも、昨日の夜あった事件ってここのすぐ近くで」
「心配しすぎ!な!」
ぽんぽん、と弁当の頭を叩けば、複雑そうな顔でこっちを見る。試験の範囲を教えてもらうのに弁当の家に寄ったら案外時間がかかってしまって、もう辺りはすっかり真っ暗だ。薬もそろそろ切れる頃だし、早いとこ家に帰らないと。ばいばい、なんて手を振って別れてしばらく歩く。昨日の夜あったっていう喰種が人を喰い散らかした事件、そんな話久しぶりに聞いた。ここら一帯じゃ、大食いも共食いも、縄張り争いで喰種同士がぶつかり合うことも、滅多にないのに。
駅までの近道としていつも使ってる公園だから、本当に油断してた。俺はどうせ人じゃないからとか、反撃されるかもしれないリスクのある同族喰いをわざわざする奴は少ないって聞いたことがあるからとか、赫子を出せる喰種には喰種と人間の違いが匂いで分かるらしいから俺は狙われないだろうとか、そんな色んな細かい理由もいくらでもあった。昨日の今日じゃやっぱり人っ子一人いないんだな、なんて思いながら歩いていると、かさりと後ろで木が鳴った、ような気がして。何の気なしに振り向いて、呼吸が止まった。
「……………」
本当に驚くと、声なんて出ないものらしい。至近距離で振り上げられている見も知らぬ男の左腕には赫子が巻きついていて、喰種だ、とぼんやり思って、衝撃。まともに受け止めきれずに吹っ飛ばされて、頭ががんがんする。ごぽ、と自分の口から熱くてどろりとした液体が吐き出されたのが分かって、腹が裂けるように痛くて、というか裂けていて。よたよた近づいてくる男が、なんだお前、仲間かよ、と吐き捨てたのが聞こえた。
「……にしちゃあ、匂いも薄いわ治りも遅いわ、なり損ないか?だっせえ」
「っ、は、はぁ、っ……ぐ、う」
「はは、赫子も出せねえのか。同族の恥だな」
恥、か。その通りだと思う。焼けるように熱い腹はじわじわと治ってきていて、無理矢理立ち上がって男に背を向ける。ふらつきながら一歩、二歩、三歩目は許されなかった。無様な逃げざまを男にげらげらと笑われながら膝裏を突かれて、また地面に倒れ伏す。死ぬのかな、死にたくないな、まだもうちょっとだけ生きていたかったな。人を食うくらいなら死んでやるってあれだけ思っていたけど、あんなのやっぱり意地だったのかな。死にたくない。死ぬのは怖い。ここにいたい。なら今からでも食えばいい。目の前にいる相手、こいつでもいい、肉ならなんだっていい、食えば生きられる、肉を食えば、人でなくなれば。だめだ、人でいたい、肉なんか食いたくない。でも生きていたい、生きるには肉を、食べれば。
薬が切れかけで、酸素も足りなくて、頭がオーバーヒートしそうだった。首を絞められて目の前が暗くなっていく。爪を立てた腕には傷一つ付かなくて、指先の力がどんどん入らなくなって。死にたくない、嫌だ、怖い、誰か助けて、誰か、誰か。
「っ、!」
かつん、と俺の足元で何かが弾けた。
振り向いた男越しに見えたのは、さっき別れたはずの弁当で、どうしてここにいる、なんでお前が、誰か助けてとは思ったけど、違う、やめろ、巻き込むな。男が俺を放り出して、距離を詰めるのが見えて、身体中が痛い。地面に叩きつけられて、目が眩んだ。呼吸を詰まらせながら仰向けのまま、力の入らない体で必死に首を反らす。きっと俺は何か叫んでいたんだろうけれど、頭は真っ白で何も聞こえなくて。異様な程に静かな世界の中で、背を向けて逃げることもせずに男を通り越して俺を見た彼と、目があった。瞬間、さっき弾けた缶から白煙が吐き出される。まともに吸い込んでしまって咳き込む、それと同時に音が戻ってきた。
「っげほ、は、はあっ、はっ、ゔ、ぐ……っ」
「あ?なんだ、俺の鼻利かねえようにしてんのか。ははっ、頭いいなあ、お前!」
「ゃめ、っやめろ、っ」
「二人も食えりゃあ今日は腹一杯になりそうだ、ありがとなぁ」
男の声しか聞こえない、白い煙が邪魔だ。必死で声を上げて、息を荒げて、瞬きも忘れて。弁当は逃げたのか、まだそこにいるのか、生きているのか死んでいるのか、それすらも分からない。前へ進むこともままならない中、体を反転させ這いずって近づく。ふわ、と一瞬お腹が空く匂いがした。酷く、甘ったるくて美味しそうな、血の匂いが。
「……ぇ……」
ぐちゃり、と。
音を立てて目の前に落ちてきたのは、左手だった。肘までない位で、ぶつんと引き千切られている左手。お腹が空いた、と思った。くるる、とお腹が鳴って、自分の意思とは関係なしに涎が出てきて、目の前が真っ赤に染まる。食べたい。舐めて齧って啜って、腹の足しにしたい。
「はっ、はぁ、ぁ、ゔ、ぅあ、は」
震える舌を伸ばせば、数秒にも数時間にも数万年にも思える間隔を空けて、涎まみれの湿った音。ぴちゃり、じゅる、なんて夢中になって断面を啜る。美味しい。なんて美味しいんだろう。血って甘いんだ。肉って柔らかいんだ。こんな美味しいもの、初めて食べた。必死になりながら、這いつくばって歯を立てる。肌を裂いて肉を割って、ぶちぶちと筋繊維の切れる音。恍惚とした気分に充ち満ちて、背筋を快感が走り抜ける。食欲を満たすことが、こんなに気持ちいいなんて、知らなかった。
自分と同じ位の大きさの手がみるみる内に小さくなって行く。ずるりと涎混じりの血液を啜りながら、少しずつ、少しずつ、脳が冷めて行った。
「……あ、れ……?」
白煙が薄まっているのが分かる。男の声はもう聞こえない。弁当の声も、聞こえない。違う、最初からあいつの声は一度も聞こえてきやしなかった。ふと、手元に目を落とした。この手、誰のだっけ。誰の、左手なんだっけ。
「っ、」
「はは!まだいやがった!オトモダチのために必死で時間稼いでたのになあ!」
男が赫子を大きく振って起こしたらしい風で、煙が晴れる。その反対側の手に、まるでぼろ切れみたいにぶら下げられているのは、ぱたぱたと地面に血を滴らせて微動だにしないのは、左手が無い、のは。
ああ、俺がさっき食べたのは、千切れ飛んだ弁当の腕だったんだ、って。そこでやっと分かって、がつんと現実に引き戻された。快感も、高揚も、まるで夢だったみたいに。
心底おかしそうに笑う男が、動かない体を俺に向かって投げた。細いとはいえ自分より少し背の高い男を上手く受け止められるわけもなく、一緒くたにごろごろと転がる。生温く滑った体を無理やりに抱き上げて、病院、警察、なんだか分からないけれどどこかここじゃないところへ逃げないと、弁当が死ぬ。嫌だ、俺のせいだ、怖い、いなくなるのは淋しい。歯ががたがた鳴ってるのが分かって、手が震えて、男が笑みを浮かべながらこっちに歩いてくるのから遠ざかろうと下がる。足が滑って上手く立ち上がれなくて、どうして、なんで、こんな目に合わなきゃいけないんだよ。ただ俺は、普通の人間みたいに、こいつと一緒に過ごして、幸せになりたかっただけなのに。
「……、……」
「ぁ……」
名前を呼ばれた気がした。呼吸なんか聞こえない位に浅くて、薄く開いた目の焦点はぼやけていて、抱えてる俺の手にどろどろと血を零しているくせして、残酷なくらいに優しい声。改めて彼の体を見て、まるで子どもが好き放題遊んで散らかしたおもちゃみたいだと思った。左腕はぶつりと肘の少し先から無くなっていて、血が足りないのかいつもより肌が真っ白で。日に焼けたら赤くなるって知ってる、一緒に海に行こうって誘ったら渋られた時に聞いたっけ。左足の靴が脱げていて、太腿辺りの皮膚が裂けているのか血が大量に染み出ている。右脚は変なとこでひしゃげていた。この服、もう着れないかな。シャツが似合う奴だなあって、何となく思ってた。背中の方を通している俺の手はもう弁当の血でぐしょぐしょで、きっと胴体も無事ではないんだろう。左手は捥ぎ取られていて、右手は傷だらけだった。ぼろぼろの爪先に、いつも綺麗な字でノートを取っている横顔がフラッシュバックする。
美味しそうだとも、勿論思った。けれど、それよりも喪うことが怖くて、血と砂で汚れた顔を拭った。安心したみたいに笑った弁当の目には、瞳の中が真っ黒に染まって中心だけ真っ赤になってる、どこからどう見ても化け物の俺が映っていたけれど。
それでも、笑った。いつも通りに、困ったみたいな顔で。
自分の腕を食った相手の俺を、喰種の俺を見て、自分だって今にも死にそうなくせに笑ってくれたこいつがもしも本当に死んだら、きっと世界が間違ってる。このままでいたい、なんて願いは叶えてくれなかったけど、それでもこの世界は今まで化け物の俺を人間の中に受け入れてくれたじゃないか。間違ってないはずなんだ。狂ってないはずなんだ。だから、死なせない。俺が、守らないと。
「……ああ?」
逃げない俺達を食料にするために赫子を振り上げた男が、動かなくなる。俺の腰元から伸びた鱗赫が、男の肩を貫いていた。隙だらけ、というか、今まで無抵抗だった相手から自らの弱点である攻撃をされるなんて思ってもみなかったんだろう。男が怒号を上げて俺の赫子を引き抜いた。触手のようにうねるそれは、たった今初めて自分の体から出てきたものだけど、まるで昔からあったみたいに自由だった。ぺたんと座り込んだまま、放心状態でただぼんやりと鱗赫を操っていると、小さな声で弁当が呟いた。
「きれい、だね」
「……うん」
がこん、と重い音を立てて、男の甲赫を弾く。半透明になったり月の光を受けて白銀にきらめいたり、薄く透けた淡い色をした俺の赫子は、確かに綺麗だった。初めて食べたのが、弁当だったからかな。食った量が少ないから、長時間は持たないかもしれない。どこか俯瞰から見ているようにそう思って、それなら早くしなくちゃって、男の喉に尖らせた赫子を。
「っうあ、ぐ」
「こら!またお前か!」
「……っち」
俺の赫子を意図も簡単に跳ね除けて、上から男が降ってきた。跳ね除けられた瞬間、限界だったのか俺の赫子がざあっと消え失せて、血が引く。もう対抗手段がない、こいつが敵だったらどうしようもない。そんなことを考えながら弁当の体をぎゅうっと抱え直した俺に何故か目もくれない男には、まるで犬のような尾が生えていて、こっちに気づいているのか気づかないふりをしているのか、舌打ちをした甲赫の男の方を向いている。こないだも派手にやらかしやがって、鳩が見回りに来たら困るのはここら一帯の喰種全員なんだ、と低く唸った尾赫の男を、甲赫の男が笑った。
「っせえな、犬が。鳩が来たからなんだ?弱え奴が死ぬだけだろ?」
「露払いが面倒なんだよ!お前は勝手にやり合うかもしれないけど、こっちは」
「女王様のお守りが忙しい、か?あいつはどんなクインケになるだろうなぁ!?」
「……誰のお守りが忙しいって?」
知らない声だった。直後、鈍い音がして、男の頭が吹き飛んだ。真っ正面からそれを見てしまって息を飲めば、頭を抱えて溜息をついた尾赫の男がこっちを向く。暗い中、微かな灯りにピアスが反射して、口元の出たハーフマスクのせいで顔は分からなかったけれど。白に赤い筆で描いた線が入ったような、犬と狐の合いの子みたいなマスクだ。そういえば、喰種は外で赫子を使う時は顔がばれないように隠すんだと聞いたことがある。尾を霧消させた男が、立ち上がれない俺に合わせてしゃがんだのとほぼ同時、星空みたいな羽をはためかせてもう一人が降りてきた。ふわふわの黒髪を緩く二つに結んでフードを深く被っている上に、ゴツいゴーグルと鼻上まであるファスナー付きのマスクのせいで、男女どちらなのか判別できない。さっき甲赫の男の頭をぶち抜いたのは、この人の赫子で間違いないようだった。
「うわー、ひでえ。これどうすんの」
「知らね。ぼろぼろの方は人間?」
「そうでしょ」
「で、お前は喰種だろ。鱗赫の、見たことねえ面だけど」
口を開いて、ゴーグルを外した羽赫は、男だった。二つ結びはウィッグのようで、口元のファスナーを開く。ふわりと風に舞うガス状の赫子の中にちかちか星が瞬いているようで、先程綺麗だと言ってくれた言葉を思い出して、弁当の方を見る。人形みたいに力は抜けていたけれど、まだ生きていた。ぼうっと霞がかる頭じゃ深く考えられなくて、ああだこうだと話している羽赫の男と尾赫の男に向かって口を開いた。
「ぁ、の。病院、連れてってほし、んですけど」
「は?」
「平気だよ、肉食ってほっときゃ治るから」
「鱗赫だしな」
「ちが、こいつを、病院に」
「……え?」
訝しげな顔をされて、言葉が詰まる。二人が顔を見合わせて、尾赫の方がぺたりと弁当の頬に触れた。ハーフマスクを首元へ下げて、少し申し訳なさそうな声色で小さく呟かれた言葉は。
「この人、もう手遅れだよ」
「……ぇ……」
「てっきり食べたいから抱えてるんだと思った。ごめん、助けてあげたかったんだね」
「なんっ、な、手遅れって」
「っ……」
「そのまんまの意味。そんだけ真っ白くなっちゃってたらそりゃ死ぬだろ」
「な……」
「食わねえの?」
「……食うわけねえだろ……」
「なんで。死んだらまずくなるじゃん、そんなことも知らないの」
「友達なんだよ!俺はお前らみたいな、っ人殺しとは」
「喚くな、うるせえな」
黙ってしまった尾赫の男に変わって口を開いていた羽赫の男の琴線に触れてしまったのか、尖った水晶状に固められた赫子が喉元に突きつけられた。予備動作が全くなかった、さっき甲赫の男はまるでこいつらを知ってるみたいに話してた。きっとこの二人は、ここらじゃ有名な喰種なんだ。恐らくは、戦闘能力的な意味で。冷たい目でしばらくこっちを見下ろしていた羽赫の男が、喉元の切っ先を引かないまま口を開く。
「助ける方法、なくもないよ」
「っ、え」
「ただ、お前はこいつを一生背負うことになる」
「そ、れは!」
「今俺この馬鹿と話してんの、犬は黙ってて」
声を荒げた尾赫の男は、すぐに口を噤んだ。こいつ、と弁当を指した羽赫の男が言う助ける方法は、俺の体を繋ぎとして使うことだった。簡単に言えば臓器移植と言ったところか。千切れた左手は、俺の手を切ってくっつける。元々再生力の高い鱗赫だ、切ったところで肉を食って少しの間寝てればすぐに生えてくるだろうと男は言った。ただ、人間の弁当に喰種の俺の手は定着しない。その繋ぎとして俺の血を輸血し、上手くくっつくように最善は尽くす、と。もし他に取り替えなければならないパーツがあったらそこもお前からちょん切る、なんてプラモデルでも作ってるみたいな口振りで男が二本立てた指をちょきちょきと動かした。弁当は喰種の肉と血が混じった人間になってしまうが、食欲の衝動は喰種ほど強くないよう調整することが可能らしい。その手段は追い追い説明するにして、と言葉を切った男が俺に手を差し出した。
「どうする?これを実行すると、お前はこいつを背負って生きて行くことになる。厄介になってほっぽり出したが最後、この男は喰種の血と人間の血が反発しあって死ぬんだろうね。友達を助けたい、なんて大層で素敵な精神論、この際未来永劫掲げ続けられるわけ?」
「……………」
「それに、人間の匂いと喰種の匂いは違う。そのどちらにも属さないこいつは、きっと異常としてどちら側からも執拗に狙われることになる。周り全てが敵だ、けれどこいつは肉体的にはただの人間だから対抗手段を持たない。赫子で貫かれて食い散らかされるかもしれないし、クインケで嬲られて実験体にされるかもしれない。全てから、お前はこいつを守らなきゃいけない。それってどんなに大変か、ガキじゃねえんだから分かるよな」
「……分かる」
「それを踏まえて、もう一度聞こうか。どうしたい?」
「助けてくれ」
「……ふうん。即答か」
「こいつが死んじゃ、いけないんだ」
「おっけー。手術失敗したらお前のこともさっくり殺しとくわ」
なんか怖えもん、と花が咲くみたいに可愛らしい笑顔を見せた羽赫の男が、俺の頭を思い切り蹴飛ばした。そこで、意識は途切れて。

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